2017年3月31日金曜日

河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)

河内・飯盛山城(かわち・いいもりやまじょう)

●所在地 大阪府四条畷市南野・大東市大字北条
●別名 飯盛城
●高さ H:314m(比高300m)
●築城期 建武年間(1334~38)
●築城者 佐々目憲法又は木沢長政
●城主 木沢長政、安見宗房、三好長慶、三好義継等
●廃城年 天正4年(1576)
●遺構 石垣・竪堀・畝状竪堀群・堀切・井戸等
●登城日 2015年6月7日

◆解説(参考文献 『日本の山城 100名城』洋泉社発行、【週刊】ビジュアル戦国王[029]㈱ハーパーコリンズ・ジャパン等)

 飯盛山城は生駒山系の北西端尾根筋にある飯盛山山頂に築かれ、特筆されるのは南北におよそ1キロ余り(明確な遺構区域は650m前後)の規模を持ち、安土城に先行する総石垣の可能性が高い山城とされていることである。
【写真左】飯盛城の石碑
 本丸高櫓郭付近に設置された石碑









現地の説明板より

“飯盛城

 飯盛城は、生駒山地の北部にそびえる標高314mの飯盛山に築かれた中世の山城です。
 飯盛山は、東側に深い谷を有し、北と西側は非常に険しく、また河内平野や遠くは京都まで一望できることから、軍事的に重要な場所とされていました。そのため、南北朝時代には城が築かれたと推定され、本格的に整ったのは畠山の家臣・木沢長政(きざわながまさ)が居城とした享禄4年(1531)の頃とされています。
【写真上】飯盛山城の案内マップ
 左方向が北を示す。尾根を境に上(東)が四条畷市で、下(西)が大東市の区域になる。

 主だった遺構は、尾根筋上に南側から南丸・本丸千畳敷郭・本丸高櫓郭・本丸展望台郭・本丸倉屋敷郭・本丸三本松郭・二の丸御体塚郭・二の丸史蹟碑郭があり、本丸千畳敷郭の東方には現在楠公寺が建っている馬場がある。
 また、石垣が確認されているのは、本丸東斜面と、二の丸御体塚郭の東斜面である。


 その後、交野(かたの)の土豪であった安見直政(やすみなおまさ)が城主の時期もありましたが、永禄3年(1560)には、室町幕府の実力者であった三好長慶が畿内平定の本拠地として入城し、政治・文化の中心地となりました。また、長慶はキリスト教にも寛容で、城下での布教を許可し、多くの家臣がこの城で洗礼を受けています(河内キリシタン)。
 
 長慶が城主であった全盛期には、南北約1,200m、東西500mの城域に、大小約70の郭(防御するための場所)が築かれていたとされ、全国でも有数の山城といえます。
 しかし、長慶も入城の4年後には亡くなり、天正4年(1576)頃には、織田信長の勢力によって廃城になりました。
       平成22年2月  大東市教育委員会”
【写真左】楠公寺
 飯盛山城の東南麓に建立された寺院で、馬場跡だったところ。

 その名称から分かるように、南北朝期南朝方として戦った楠木正成を顕彰する目的で、楠公寺と命名された。それまでは、妙法寺という名前であったが、昭和23年、後の総理大臣となる池田勇人氏が名付け親となって、この寺名にしたという。


戦国期初の天下人

 戦国期に最初の天下人となった武将といえば、織田信長とされている。しかし、兵を率いて京へ上洛し、その名を天下に知らしめたという点でいえば、信長に先立つ8年前の三好長慶による行動もそれに近いものがあった。

 もっとも、長慶の絶頂期は、弘治4年(1558)から永禄6年(1563)頃までの5年間という短い期間であった。主君であった細川政権にとってかわった長慶は、その後室町幕府将軍足利義輝を京から放逐したが、永禄元年(1558)11月、六角義賢(よしたか)佐和山城(滋賀県彦根市佐和山町)参照)の仲介によって、義輝と和睦、これにより義輝は5年ぶりに京へ戻ることができた。
【写真左】上に向かう。
 楠公寺の脇を通り抜け、北に進むと、やがて階段があり、この階段を登ると、本丸千畳敷郭と、本丸高櫓郭の境にあたる尾根に到達する。



 そして長慶が最も晴れがましい表舞台に立ったのは、その2年後(永禄3年)の正月、正親町天皇の即位式で、警固役を務めたときである。このとき、長慶はその費用に100貫文を進上している。そしてその年(永禄3年)の11月、長慶はそれまでの居城であった芥川山城(大阪府高槻市大字原)を息子の義興に譲り、河内の飯盛山城へ移り居城とした。

 長慶が飯盛山城へ移った理由は様々に考えられるが、それまでの芥川山城よりも、地の利があったということだろう。この場所は河内国の東端部に当たり、大和(奈良)にも近く、京からは少し離れるが、当時の大坂湾に近く、本国阿波にもアクセスが容易である。また、当時飯盛山城の西麓には深野池という大きな湖があり、ここから西に向かって大阪湾に注ぐ河があったことが知られており、その川を下ると途中で、大坂本願寺に接岸できた。

【写真左】本丸高櫓郭の東面
 おそらく右側斜面に石垣の一部があったのだろうが、ご覧の様に草が生い茂っていたため、見過ごした。




 さらに戦略的に見ると、のちに敵対する畠山高政の居城がある高屋城(安閑天皇陵:大阪府羽曳野市古市)を、長慶の弟・十河一存の守る岸和田城と挟む位置にあったことも理由の一つだったと思われる。従って、長慶をはじめとした三好一族は、本国阿波を除いて概ね畿内では河内・和泉両国を基盤としてシフトしていくことになる。

 因みにこの頃、三好氏が畿内を統治していたときの各国の拠点は、時期に多少の誤差はあるものの、次のような配置になっていた(福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』)。
  • 山城国 淀城 ― 細川氏綱
  • 摂津国 芥川山城 ― 三好義興
  • 大和国 多聞城・信貴山城 ― 松永久秀
  • 和泉国 岸和田城 ― 十河一存
  • 丹波国 八木城 ― 松永(内藤)宗勝。 八上城 ― 松永孫六
  • 淡路国 炬口城 ― 安宅冬康
  • 阿波国 勝瑞城 ― 篠原長房
  • 讃岐国 十河城 ― 十河一存
  • 河内国(北部) 飯盛山城 ― 三好長慶
  • 河内国(南部) 高屋城 ― 三好実休
【写真左】西方に大東市や大阪市街地を俯瞰する。
 登城したのが、午後4時を回っていたことから少し薄暗く、視界は良くなかったが、それでも大阪市内の高層ビル群や、遠く淡路島の影が確認できた。


三好一族の崩壊

 河内・飯山城に移った長慶であったが、その後は彼にとって不運が続き、三好一族の崩壊が始まることになる。永禄4年(1561)、長慶の弟で、岸和田城主であった十河一存が病没した(十河城(香川県高松市十川東町)虎丸城(香川県東かがわ市与田山)勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)参照)。
【左図】三好氏略系
 以前にも述べたように、阿波三好氏は小笠原長清を始祖とし、義長の代に三好氏を名乗り(異説あり)、以後、長秀の代に長子・元長が継ぎ、弟康長は岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)となった。
 


 明くる永禄5年(1562)、今度は長慶のすぐ下の弟・実休が畠山高政及び根来寺らとの戦いで、和泉久米田に討死した。そしてさらに追い打ちをかけるように、翌6年8月には長慶の嫡男・義興が芥川山城において病死する。

 これだけ短期間に身内の不幸が続いたため、長慶にはよほど心身ともに堪えたのだろう。次第に冷静な判断ができなくなり、翌7年5月、部下の松永久秀の讒言を信じた長慶は、最後に残っていた弟・安宅冬康までも飯盛山城内で誘殺してしまった。そしてその2か月後長慶は波乱にとんだ生涯を終えた。享年43歳であった。
【写真左】本丸高櫓郭に向かう。
 本来は先に南端部の千畳敷郭(本丸)から踏査すべきだったが、この段階では位置関係が分からず、この郭から踏み込んだ。
【写真左】本丸高櫓郭
 写真にはないが、この郭東面がすべて石垣が構築されていることが近年の調査で判明している。
【写真左】楠木正行の銅像
 昭和12年6月建立された楠木正行(まさつら)の像
 正行は楠木正成の嫡男で、父・正成が通称「大楠公」、正行は「小楠公」と呼ばれている。
 父正成とともに南朝方の忠臣として北朝方の高師直らと戦ったが、正平3年・貞和4年(1348)1月5日、同国北條(現 四条畷市)で敗北し、弟正時らと自害した。

 この正行の子が池田教正で、冒頭の楠公寺の命名者が池田勇人となっているのはその末孫であったからとされている。
 なお、正行の墓は四条畷市雁屋南町に「小楠公御墓所」として祀られ、飯盛山城の北麓には正行を主祭神とした四条畷神社が建立されている。
【写真左】本丸高櫓郭の西側斜面
 草木が生い茂っているため明瞭でないが、極めて急峻な崖となっている。
【写真左】西方を望む
 飯盛山城は南北に伸びる尾根筋に築城されているが、東側にはかなり深い谷があり、結果的にこれが東からの侵入を防いでいる。
【写真左】北隣の本丸蔵屋敷郭に向かう。
 上掲した図面以上に段差があり、階段を使って降りていく。
【写真左】本丸蔵屋敷郭
【写真左】本丸三本松郭方面
 更に北に進もうとしたら、中央に看板があり、「ハイカーのみなさまへ 旧飯盛山登山道は、法面崩壊の恐れがあり、危険です。新道へお回りください。」との看板が立っている。
 このため、この付近で一旦東側の脇道に降りる。
【写真左】本丸三本松郭
 このあたりからどの郭だったのか、はっきりしない。各郭に標記されたものがないため断定はできないが、おそらく三本松郭だと思われる。
【写真左】二ノ丸御体塚郭
 奥には「登山参百回記念」の石碑が建つ。
【写真左】石垣
 二ノ丸御体塚郭の東斜面に残るもので、3か所に分散している。
 石垣は上述したように、本丸側にもあるということだが、時節柄草木が生い茂り、その箇所は確認していない。
 この辺りでUターンし、南側郭群に向かう。
【写真左】土橋
 途中で通過した箇所。登城した時期が良いともう少し明瞭に確認できると思われる。
【写真左】本丸千畳敷郭
 冒頭で紹介した本丸高櫓郭の南側にある郭で、中心部には現在、NHK・FM大阪送信所などの建物が建っている。
【写真左】南丸
 当城最南端にある郭で、本丸千畳敷から見たもの。なお、その境には虎口が設けられている。

2017年3月17日金曜日

芥川山城(大阪府高槻市大字原)

芥川山城(あくたがわさんじょう)

●所在地 大阪府高槻市大字原城山(三好山) 
●高さ 180m(比高70m)
●築城期 永正12年(1515)
●築城者 能勢頼則(細川高国)
●城主 能勢氏、細川晴元、三好長慶、和田惟政、高山友照等
●廃城年 元亀4年(1573)
●遺構 郭、堀切、竪堀等
●備考 三好山
●登城日 2015年6月7日

◆解説(参考文献 『日本の山城 100名城』洋泉社発行、HP『城郭放浪記』、高槻市HP等)

 芥川山城は旧摂津国にあって、淀川に注ぐ支流芥川の河口から凡そ9キロほど遡った三好山に築かれた山城である。
 三好山の西から北にかけて芥川が囲むように流れ、特に西側は摂津峡という切り立つ溪谷があり、天然の要害を持つ場所である。
【写真左】芥川山城遠望
 登城途中に東麓から見たもの。
当方から見ると、なだらかな山にみえるが、西側には摂津峡があり、急峻となっている。



当城については、地元高槻市のHPに次のように紹介されている。

“芥川山城
 夫婦岩・八丈畳などと称される奇岩や断崖が続く摂津峡は、摂津の耶馬溪ともいわれ、大阪府の名勝にも指定されている景勝地。そのすぐ東側の三好山に天然の要害をもつ芥川山城跡があります。三方を芥川に囲まれ、残る一方は断崖となっており、山そのものが難攻不落の砦となっています。

 ここは、三島平野、遠くは生駒山系を臨み、眼下には、西国街道や芥川宿を見通すことができる位置にあり、かつ、亀岡へと続く間道がありました。また、芥川を下ると水上交通の要、淀川に至る立地など、政治上・戦略上において重要な場所でもありました。
芥川山城の遺構は主郭・副郭・土塁・堀切という中世山城の要素を備えており、その様子が今も残っています。
【写真左】登城口
 この辺りは道が狭く、駐車スペースもほとんどないため苦労した。確実なのは南麓にある摂津峡公園の駐車場に停めていくのがいいだろう。
 因みにここから「三好山へ40分 (三好長慶 1553年入城) 三好芥川城の会」という看板が設置されている。



   芥川山城は、永正13年(1516)連歌師柴屋軒宗長が芥川の能勢因幡守頼則の築いた新城に祝いの気持ちを込めてつくった冒頭の句から、この時期に完成したものと考えられています。

 天文2年(1533)には、細川晴元が入城し、京に移った後、芥川氏が入り、幾度かの城主の入れ替わりののち、天文16年(1547)三好長慶(ながよし)が城を支配。家臣、芥川孫十郎が城主となります。
 天文22年(1553)長慶は入京を果たしました。しかし、孫十郎が謀反したため、三好山に隣接する帯仕山に陣を構え、開城させて、孫十郎を阿波へ追放して長慶が入りました。
【写真左】本丸まで25分の位置
 芥川山城は①東方曲輪群、②出丸曲輪群、③主郭曲輪群で構成されている。
 写真はそのうち、最初に見えてくる①東方曲輪群で、このあたりから中小の郭群が確認できる。


 以後、7年間、長慶は山城に在城し、その間、真上・郡家の水争いや、芥川流域の灌漑用水を整備するなど、領地支配にも力を注いだほか、著名な歌人らを招いて連歌の宴を催すなど、文芸を愛した様子もうかがえます。この頃がこの山城の最も華やかで生き生きとした時代であったといえるでしょう。
 永禄3年(1560)長慶は、飯盛城(四條畷市)に移り、息子義興が城主となりますが、永禄6年(1563)22歳の若さで没します。讃岐石の墓石が建つその墓は、霊松寺(天神町二丁目)にあって「三好のカンカン石」とよばれています。
【写真左】石垣・その1
 これも①の東曲輪群で、孟宗竹が繁茂しているが、石垣が残る。







 その後、永禄11年(1568)織田信長の側近、和田惟政(これまさ)が入城、翌年惟政は高槻城も与えられ、2城の主となりました。惟政自身は高槻城へ入り、家臣の高山飛騨守が城主として芥川山城に入ります。以後、政治の拠点はしだいに高槻城へと移っていきます。

 多くの武将が入城し、単に北摂の一山城であるということに留まらず、時に最高権力者の拠るところとなり、一時は近畿一円を勢力下とした芥川山城。 やがて、高槻城の発展とともに、歴史の表舞台から姿を消していきました。” 
【写真左】石垣・その2
 前記のものと同じく石積が施されている。おそらくこの郭にも建物があったのだろう。


 




 
三好長慶

 芥川山城の城主は上掲したように、目まぐるしく変わっていくが、その中でも三好長慶が深くかかわっている。彼については、これまで勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)の稿などで述べてきているが、長慶も含めた三好一族がもっとも活躍していった地域は芥川山城を含めた畿内であった。
【写真左】上ノ口と三好山方面との分岐点
 東方曲輪群の西端部だったと記憶しているが、この位置で北に向かう道(上ノ口)と分岐する。

 なお、写真の平坦部も郭と思われる。



 因みに、長慶が畿内で活躍した際、関わった城砦としては、時系列で列記すると次のようになる。
  • 天文8年(1539)   ~  越水城(西宮市)
  • 天文22年(1553) ~  芥川山城(高槻市)
  • 永禄3年(1560)   ~  河内・飯盛山城(四条畷市)
勝瑞館の稿でも少し述べているが、長慶が畿内をほぼ手中に収めていた時期は、この芥川山城時代である。彼はこの時期、本来ならば在京して、将軍を補佐するいわゆる管領職になってもおかしくないが、このころ京都は極めて不安定な政情であったため、あえて主君であった細川氏のような在京志向を持たず、なおかつ自ら管領職を望まず、むしろ京から少し距離をおいた摂津の山中に居城を営み、いわば政庁機能を当城に置き、政務を執り行ったとされている。
【写真左】土塁
 ①の東曲輪群を過ぎて少し西進すると②の出丸曲輪群に至る。

 このエリアは、①東曲輪群と③主郭曲輪群の間に介在するところで、中心部に出丸を設け、そこから南に凡そ50m程降った尾根筋に曲輪群を配置している。
 当時はこの出丸側の西方に大手道が設けられていた。


 室町幕府の体制が次第に瓦解し、代わって専制体制をとりつつあった細川氏の下にあって、幕政を支えていく立場であった長慶である。しかし、管領職の細川氏自体が将軍家と同じく一族内において対立が深まっていった。
 こうしたことから、在京することはむしろリスクが高まると予想したのだろう。芥川山城にこだわった長慶の思惑がみてとれる。
【写真左】虎口
 出丸の西隣にある土塁上に設けられているもので、ここを下りると先ほどの大手道に繋がる。




【写真左】主郭曲輪群に向かう。
 出丸曲輪群を過ぎると、5m前後の切崖を構えて低くなるが、そこから西に向かう道が付けられている。また、途中には土橋が介在している。

 この写真では左側(南)に大手道があったものと思われる。
【写真左】堀切
 しばらく歩いていくと堀切が見える。
 写真では高低差が感じられないが、出丸曲輪群と主郭曲輪群の境にあたることから設けられたものと思われる。
【写真左】石碑
 このあたりから主郭曲輪群の区域に入っているが、中小の細長い郭が繋がり、両端部の切崖も傾斜が険しくなっていく。

 写真は「史蹟 城山城跡」と筆耕された石碑。
【写真左】主郭曲輪群を見上げる。
 このあたりから中心部に当たる主郭を取り巻く郭段が西側上方に見え始める。
【写真左】主郭曲輪群
 次第に登り坂となり、左右に郭段が見え始める。右側の坂を進む。
【写真左】高槻市街地を望む。
 登城途中は殆ど孟宗竹などに覆われ、城下の町並みは見ることは出来ないが、主郭南側のこの位置に来ると、木立の間から南に高槻の市街地が視界に入る。
【写真左】主郭南直下の郭付近
 登城したこの日、この付近だけは伐採作業されていたため、明るくなっていた。

 写真中央の坂を上ると主郭に繋がる。
【写真左】主郭に向かう。
 主郭の手前には南北に長い2段の郭が控え、その入り口には虎口のような遺構が見える。
【写真左】やっと主郭が見えてきた。
 手前の郭段の右側に道があり、この道を北に向かうと主郭に繋がる。
【写真左】主郭へ向かう。
 南端部に登り口があり、そこから向かう。
【写真左】主郭南端部
 登りきると、予想以上の広さの郭となっている。
 写真は南側を見たもの。
【写真左】主郭・その1
 主郭の手前の郭から凡そ1m程度高くなった段が中央部の郭で、幅20m×奥行50m前後の規模。
【写真左】帯郭
 主郭の西側下には南側から回り込んで帯郭が付随している。現在その箇所には果樹が植えてある。
 右奥の山には摂津峡公園がある。
【写真左】祠「水の神」
 長慶は芥川山城にあったとき、地元芥川にかかわる水利権問題を適切に処理していた(「裁許状」)ことから、後に彼を「水の神」として祀ったとしている。

 戦国時代といえば、武士による戦さのみが強調されがちだが、室町期から戦国初期にかけて、地元の領主たちは食糧確保のため、積極的に水の管理をしていた。特に、新たに堰を設ける際、どの位置に設定し、どのように配水していくか、地元名主たちの意見を聞き入れながら、管理運営していた。
【写真左】本丸中央部の石碑
 現在は草木で埋もれているが、近年発掘調査が行われた際、多くの礎石建物跡が発見されている。

 往時、京都の公家や僧侶が度々当城に赴き、歓待を受け宿泊もしたというから、主だった郭には相当数の建物があったと思われる。
 特に初期の細川高国のころは、彼の趣味であった庭園なども造成されていたのかもしれない。
【写真左】主郭北東部の郭
 主郭の東面から北西に伸びる尾根筋上にもかなり大きな郭が配置されているが、これらの郭は主郭から5~10m程度の高低差を持つ。
【写真左】芥川山城から南方を俯瞰する。
 本丸跡から南を見ると、生駒山系から北東に延びる稜線が見える。

 手前の雑木などがないと、長慶が後に移ることになる河内・飯盛山城が見えると思われる。

2017年3月9日木曜日

美作・河原山城(岡山県津山市市場)

美作・河原山城(みまさか・かわはらやまじょう)

●所在地 岡山県津山市市場
●指定 津山市指定史跡
●築城期 不明
●築城者 広戸氏
●形態 平城(居館)
●高さ 標高263m(比高10m)
●遺構 郭・空堀等
●備考 本丸城・国司尾館
●登城日 2015年6月1日

◆解説(参考資料 HP 『城郭放浪記』、『日本城郭体系』等)
 河原山城は、美作と因幡をつなぐ因幡街道の北方にあって、大別当城(岡山県勝田郡奈義町高円)の城主・有元満佐の次男佐友が広戸氏を名乗り、居館を本丸城とし、詰城を矢櫃山城とした。その際、支城として築城されたと思われるのが、この河原山城である。

 因みに、河原城の南に既述した本丸城があり、東には国司尾館などがあり、おそらく当時はこれら三城は一体の城郭としてあったものだろう(HP『城郭放浪記』参照)。
【写真左】河原山城遠望
 北側からみたもので、左側は国司尾館。
【写真左】墓地
 当城には案内板のようなものはいっさいない。

 このため、登城口を探していた所、南側に墓地が見えたので、ここから向かった。
【写真左】慰霊塔か
 筆耕された文字が少し劣化しているため、判読が困難だが、「大各霊政◇塔」という文字が確認できる。
【写真左】五輪塔
 他の墓石に混じって五輪塔が一基祀られている。
【写真左】このあたりから登城する。
 道らしきものがなかったため、歩きやすいこのあたりから上に向かう。
【写真左】空堀・その1
 登り始めた途端、西側に見えたもので、深さは1m前後。

 このまま、空堀を奥に進む。
【写真左】空堀・その2
 奥に従って、明瞭になってきた。
【写真左】腰郭か
 更に進むと、次第に左側の土塁状の高まりは無くなり、腰郭のような状況となっている。
【写真左】北側に回り込む。
 熊笹などに覆われてはっきりしないが、堀切のようにも見える。
 このような状況なので、この中まで踏み込むのは断念した。
【写真左】南東麓
 再び南側に降りて、東側を撮ったもの。奥に見えるのが、国司尾館だが、この日は時間もあまりなく、向かうのを断念した。

 このあと、本城側北端に少し向かう。
【写真左】墓地
 本城側の城域に入っていると思われるが、ここにも小規模な墓地がある。

 墓石の中で、「塘院…」とか「臨院…」などという戒名が筆耕されたものが点在している。菅氏との繋がりがあるのかもしれない。
【写真左】南側から遠望する。
【写真左】北側から遠望する。