2017年2月4日土曜日

勝栄寺(山口県周南市中央町)

勝栄寺(しょうえいじ)

●所在地 山口県周南市中央町
●指定 県指定史跡
●高さ 海抜2.7m
●形態 平城・寺院城郭
●築城期 南北朝期(1350年代)
●築城者・開基 陶弘政
●開山 其阿(ごあ)
●遺構 土塁
●登城日 2017年1月21日

◆解説
  前稿・陶氏居館(山口県周南市大字下上字武井)から南におよそ2キロほど下った現在のJR新南陽駅の西に、同じく陶弘政が築いたといわれる寺院城郭・勝栄寺がある。
【写真左】勝栄寺の土塁
 北側から見たもので、右側の道路も当時は濠の一部だったものと思われる。





現地説明板・その1

“錦城山 寶樹院
 勝榮寺

 勝榮寺は南北朝時代、1350年代頃に建立された寺院で、開山は其阿(ごあ)上人、開基は大内弘世の重臣陶弘政といわれています。
 勝榮寺の旧境内は、寺院でありながら同時に土塁と環濠を廻らせる城館的な施設であったと考えられており、現在も土塁の一部が残存しています。
【写真左】勝栄寺本堂
 南側から見たもので、土塁はこの写真の左側に残る。








 毛利元就が一揆を鎮圧した際には、当地を本陣としたとされており、元就が三子に宛てた教訓状は当寺で書き残したと伝えられています。また、豊臣秀吉が九州進発の際、当寺に宿泊したとも伝えられています。
 勝榮寺土塁及び旧境内は、昭和62年に山口県指定文化財(史跡)に指定されました。
 このほか、境内の勝榮寺板碑は、阿弥陀如来種子で、かつ紀年銘がある板碑として貴重であり、平成4年に市指定文化財(建造物)に指定されました。”
【写真左】想像図と濠・土塁複式図
 この図にもあるように、当時は土塁は全周囲を囲繞し、その周囲には田圃が広がり、北側には街道が走り、南側には富田の湊がすぐ近くにあったものだろう。
 土塁の見取図については、下段のものを添付しておく。


現地説明板・その2

“山口県指定史跡
 勝栄寺土塁及び旧境内

繁栄した中世の富田

 中世(鎌倉~戦国時代)富田は富田保(とんだのほ)と呼ばれ、周防国国衙領の一部で東大寺が知行していました。南北朝時代になると、陶弘政が地頭として入ってきました。富田は山陽道上の交通の要地であるだけでなく、「富田津」は瀬戸内海の主要な港のひとつで、富田保や周辺の物資を積み出し、兵庫に運んでいました。また、ここには対明貿易のため渡海する大船も停泊していました。

 戦国時代になると、陶氏の城下町富田には訪れる人も多く、町には市が開かれて各種の店が並び、周防国屈指の都市として繁栄しました。
【写真左】土塁見取図
 元文5年(1740)の寺社由来に「寺廻り大土手有り、外側は堀なり」と書かれ、土塁と環濠があったことが分かる。









勝栄寺土塁

 勝栄寺は、もとは大内氏の重臣陶氏によって創建された時宗の寺院で陶氏の菩提寺でもありました。要港・富田津に位置していたので、戦乱の続く南北朝時代、寺院としてだけでなく、合戦時には防御のとりでとなることもありました。そこで、陶氏は当寺に土塁や堀を構築したと考えられます。現在は、当時の施設の一部を残すに過ぎませんが、中世の城郭的寺院の例として貴重な遺構です。
【写真左】北西側曲り付近

 歩道と土塁の間が広くなっている箇所は濠であったことを示す。






土塁の調査の経緯について

■昭和47年、関連資料および遺跡の調査の結果、土塁が中世の城郭的寺院の遺構であることがわかる。(三坂圭治・小野忠煕両教授)
■昭和56年度・58年度、都市計画道路の建設にともない、外濠の跡・および寺院内西側の発掘調査で濠の形態・犬走りの部分および境内内部に古墳時代の墓があったことなどがわかる。(市教育委員会と県埋蔵文化財センター)
■昭和62年3月27日、山口県指定史跡となる。
■平成元年度・2年度 保存整備に先立ち、土塁の内部構造および土塁上部を発掘調査し、土塁上に建てられていた囲柵の柱穴跡などを確認する。
【写真左】土塁・東端部
 勝栄寺の北側入口付近に当たるが、当時はこの土塁はこのまま東まで回り込んでいたものと思われる。
 高さ2.5m×幅8.4mの規模




保存整備事業について

 今回の事業は、勝栄寺土塁及び旧境内の保存を目的とし、あわせて周辺の本市文化ゾーンにふさわしい環境整備を行い、市民の憩いの場となるよう取り組みました。
■土塁は、約30cm程度の盛り土を施し、もとの姿に復元(高さ2.5m、幅8.4m)するとともに、内側に残されていた土塁本体をそのまま保存してあります。また土塁上部に発見された14個の柱穴は、上部構造物の具体的な姿を復元するまでにはいたらなかったため、今回は柱の位置に擬木を埋め込むにとどめています。
■濠の部分は、水面を表す日本古来の「観世水」文様を、伊勢砂利を使って表現しました。

    周南市教育委員会”
【写真左】土塁・南端部
 土塁は東側から西に伸び、そこから南まで伸ばして復元されている。
 左側の建物が勝栄寺の本堂。






富田・政所・古市

 勝栄寺の縁起・由来などは上掲した説明板のとおりだが、当院が所在する周辺の地名を見てみると、西方には「古市」があり、北東方向には「政所」という地名が残っている。「古市」などは、当地富田保が湊と旧山陽道の要所であったことから、同国で最大の商工業が営まれた場所であったと思われる。

 「政所」については、陶氏が当地に入る前から国衙であったことや、平安期まで東大寺の寺領であったこと、つまり荘園の経営を管理する役所、政所であったことからきたものだろう。

 戦国期には、この場所から北西方向に直線距離で4キロほど向かったところに以前紹介した周防・若山城(山口県周防市福川)がある。若山城は文明2年(1470)、すなわち応仁の乱の最中(さなか)に築城している。従って、当地は南北朝期から始まって戦国期にいたるまで、陶氏の本拠地として隆盛を誇った商業都市であったと思われる。
【写真左】海抜2.7mの標識
 南側に設置されているもので、この付近は湊と接近していたことを示す。
【写真左】南側から東西に伸びる土塁を見る。
 土塁の内部には現在東に墓地があり、西側はご覧の様な更地となっている。
【写真左】毛利元就の「教訓状発祥の地」と刻銘された石碑

 勝栄寺の南側入口付近に設置されているもので、有名な教訓状「三矢の訓」が以下のように記されている。



“「教訓状発祥の地碑」由来

 毛利元就は、弘治元年(1555年)10月、厳島合戦において陶の大軍を壊滅させ、陶晴賢を自刃せしめました。
 その後、防長二国(長門・周防)の各地で、大内氏の残党の蜂起が相次いでいるとの報に、事態を重視した元就は、弘治3年(1557)11月、長男隆元を伴って再びこの地、富田に進駐し、ここ勝栄寺を本陣として一揆を鎮定した。

 元就は、老躯を顧みずして毛利家の為に精励するの範を自ら示すと同時に、在陣中に自ら筆を執り、長男「隆元」、次男「元春」、三男「隆景」にあて、各自毛利家の為に一致協力して努力すべきことを懇々と諭した14ケ条にわたる教訓状(三矢の訓)を認めたと言われている。

 現在、この教訓状は国の重要文化財に指定されており、毛利博物館(防府市)に所蔵されている。”


太閤松

 ところで、上記「教訓状」の石碑の脇には、文禄元年(1592)に秀吉が朝鮮出兵した際、当院を一時的に陣営としているが、そのとき二本の松を植えたといわれ、現在はその切り株が残っている。
【写真左】太閤松
 昭和55年の台風で倒木し、現在切り株のみが残っている。

 秀吉が朝鮮出兵の拠点とした名護屋城(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)に向かったのは、文禄元年(1592)の5月7日(旧暦3月26日)といわれている。
 京都聚楽第から船に乗り瀬戸内海を西進し、6月5日に名護屋城に着いている。従って、当地(富田保・勝栄寺)に停泊したのは5月の中旬ごろだったと考えられる。

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