2017年1月27日金曜日

陶氏館(山口県山口市陶・正護寺)

陶氏館(すえしやかた)

●所在地 山口県山口市陶・正護寺
●高さ 標高26m
●形態 平城
●築城期 延文年中(1356~60年)頃
●築城者 陶弘政か
●城主 陶氏
●遺構 土塁等
●備考 正護寺
●登城日 2015年8月16日

◆解説(参考文献『日本城郭体系 第14巻』等)
  陶氏館は山口県の旧吉敷郡陶村にあって、現在の山口市陶に建立されている正護寺がその跡地である。因みに、ここから600m程北西の方に進むと、平安時代初期に操業されていたという須恵器を焼いた窯跡である陶陶釜跡がある。
【写真左】陶氏館
 正面に見えるのが正護寺で、当院を含めその前方にある田圃や周囲の墓地などを含めたエリアが陶氏館跡といわれている。

 多少の段差はあるものの、いわゆる山城形態のものでなく、城館として築城されたようだ。


現地の説明板より

“臨済宗東福寺派 萬松山
 正護寺

 山号を萬松山といい禅宗で本尊は釈迦牟尼佛、脇佛文殊菩薩、普賢菩薩の三尊佛である。
 防長風土注進案によれば、「北朝後光厳院延文年中陶越前守弘政建立」とあるので、創建は今から610余年前になる。
【写真左】正護寺本堂
 この日参拝したとき、数人の方々が本堂内におられた。どうやら施餓鬼嚴修のようだった。





 陶氏が居城を構えた頃、城内に祈願所としてこの寺を建立し、寺門も栄えたが、大内氏滅亡とともに廃寺同様の悲運に見舞われた。毛利氏により再興されたが、大内輝弘の乱で兵火にかかり、今の地「陶の館」の跡に移転建立された。
 本尊三尊佛と、開山傑山寂雄大和尚木像は、創建当時のものである。

 寺内にある薬師如来坐像は、山口県指定有形文化財で、平安初期、今から千年前の作品である。本堂正面の門は、小郡代官所の正門を北側清助代官の配慮により移設されたものである。
 
 陶弘政、晴賢の墓、富永有隣の先祖の墓、代官北川清助の墓などあり、大内氏、陶氏とのかかわりや、村の歴史を実証する数々の史跡がある。”
【写真左】司家跡に向かう。
 正護寺の東側には「司家跡」と表示された案内板があったので、そちらに向かう。






陶弘政

 陶氏については、これまで同氏の代表的な山城周防・若山城(山口県周防市福川)で触れているが、今稿の陶氏館は同氏初期の城館跡である。
 陶氏は大内氏の分流右田氏から分かれたとされる。すなわち、大内盛房の弟・盛長が平安時代後期、佐波郡右田(現 防府市)を領し右田氏を名乗り、その子孫弘賢が冒頭で紹介した吉敷郡陶村を根拠地とし、陶氏を名乗ったといわれている。
【写真左】土塁・その1
 司家方面に向かったものの、そレらしき個所を表示するものがなかったが、途中で土塁跡が出てきた。

 おそらく、陶氏館時代のものと思われ、南北に長く構築されていたものだろう。


 上掲した正護寺の説明板に下線で引いた「陶越前守弘政」は、弘賢の子で、北朝後光厳院延文年中とあることから、1356~60年頃、当地に陶氏館並びに正護寺が建立されたことになる。

 なお、弘政はその後当地から東方32キロの周南市大字下上字武井の館(陶氏館)に移った。
【写真左】土塁・その2
 横から見たもので、現在は高さ1.5m程度だが、当時は2m以上はあったものだろう。
【写真左】東側から見る。
 中央の白い屋根が正護寺で、その南側は現在田圃や畑地となっている。

 おそらく館があったのはこの田圃・畑地付近であったものと思われる。
【写真左】中側から東を見る
 ご覧の通り田圃と畔があるが、その奥が先ほどの土塁が残る個所で、屋敷そのものはおそらくこの田圃側に多く建っていたのだろう。
【写真左】陶晴賢分骨塔及び正護寺ゆかりの墓

 境内一角の墓地には、厳島で自刃した陶晴賢の分骨塔や、当院歴代の住職等の墓が建立されている。

 右側の宝篋印塔が陶晴賢の分骨塔


現地説明板より

“正護寺ゆかりの墓

 参道右手のこれより並ぶ墓は、正護寺歴代の住職等の墓である。
 一番手前の宝篋印塔は、陶晴賢の分骨塔であり、中ほどに並ぶ宝篋印塔手前の「開山塔」とあるのは、正護寺の開山である長府功山寺開山と同人である傑山寂雄(けっさんじゃくゆう)大和尚のものである。

 その横に『正護寺殿』とあるのは、正護寺を建立した陶氏二代目弘政の墓である。そしていま一つ『当山中興二世大円恵満禅師』とあるは、大内輝弘の乱で兵火にかかり焼失した寺を嘆き、これを再建したいわば中興の祖である大円恵満禅師の墓である。
【写真左】陶弘政の墓
 二つ並んだ宝篋印塔のうち、左側のものが弘政の墓。









 参道左手に『三界万霊』と刻し塔石の上に安置地蔵を載せた塚は、陶晴賢250年忌に際して陶の住民が奉って供養のため建立した供養塔といわれている。
 その奥の『ぼう(虫片に方の文字)虫墳(ぼうちゅうふん)』と刻された塚は、多くの虫の死を悼みこれを供養したときの供養塚と伝えられている。”


幕末期から明治初期にかけての史跡

 正護寺には、陶氏関連の史跡のほか、江戸時代最後の郡役所で代官を務めた北川代官墓所や、維新の志士といわれた富永有隣の墓もある。
【写真左】北川清助の墓












現地説明板より

“北川代官墓所

 小郡宰判(さいばん)(江戸時代の郡役所)の最後の代官、北川清助の墓がこの後にある。北川代官の屋敷跡は西陶にある。
 当時の代官の家は、三階建の桧造りのりっぱな建物で、長い石垣をめぐらして、見晴らしもよかったと伝えられている。
 今ではただ石垣と井戸だけが残っている。

 北川清助は、文政9年(1862)に大島郡で生まれ、天保9年に陶の士族の北川半右衛門の養子になった。
 幼児から学問や、武芸に励み、当時は珍しかった西洋の砲術にもすぐれていた。慶応元年(1865)から明治2年までの5年間、小郡宰判の代官として、幕末から明治維新にかけての動乱の時代に大変りっぱな政治をして、人々のために働いた。
 その功績により、毛利公から陣羽織や、おほめの沙汰書をたまわった。陣羽織や沙汰書は正護寺に保存されている。”
【写真左】富永家の墓

 富永家の墓は正護寺のほぼ真南に独立して建立されている。








現地説明板より

“維新の志士
 富永有隣

 文政4年(1821)毛利藩士富永七郎右衛門の嫡男として陶に生まれ、名を徳、字を有隣、号を履斎・陶峯といい、9歳で萩の明倫館に学び、自他ともに許す国学者で、漢学・易学にも長じていた。

 嘉永2年罪なくして見島に流され、野山嶽に囚われた。獄中で吉田松陰と巡り会い、後に松下村塾で松陰と共に幾多の俊才を育てた。
 安政6年、松下村塾を去り、秋穂二島の戒定院(かいじょういん)に定基塾を開き、四境の役では鋭部隊を率いて幕軍の心胆を寒からしめ、戊辰の役では「長州の富永東海道を上る」と幕府軍に恐れられた。
【写真左】富永家墓地から西方を見る。
 正護寺の西側から南にかけて墓地が集まっているが、陶氏館があった南北朝期ごろは、この付近も土塁が構築されていた雰囲気が感じられる。




 明治2年の兵制改革にさいしては、脱退騒動の陣頭に立ち、敗れて土佐に渡り、8年間土佐の勤王の同志の間を往来して国事を画策したが、捕えられて東京石川島監獄に投じられたが、のち許されて田布施で塾を開き、名声が高く、文豪国木田独歩も有隣の人物に心を引かれ、小説「富岡先生」は、当時の有隣を主人公として書いたものである。
 有隣は、勤王と学問追求の志が固く「我が道を行く」隠遁と牢獄と波乱の生涯を明治33年12月20日終えた。享年80歳。
 正護寺は、富永家の菩提寺であって、有隣は同寺に般若心経の大幅を奉納している。”

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