2017年11月11日土曜日

稲村山城(広島県三原市小坂町)

稲村山城(いなむらやまじょう)

●所在地 広島県三原市小坂町
●高さ 152m(比高127m)
●築城期 応永年間(1394~1428)
●築城者 田坂義忠か
●城主 田坂氏
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2015年9月30日

◆解説(参考文献『日本城郭体系』第13巻等)
 稲村山城は、前稿安芸・高木山城(広島県三原市本郷町下北方)から東北東へ4.7キロ、また高山城(広島県三原市高坂町)からは、東方約3キロ余り隔てた小坂町に築かれた城砦である。
【写真左】稲村山城遠望・その1
 南側から見たもので、手前の道路は南北に走る県道344号線。






現地の説明板より

“稲村城の由来

 田坂右馬允義忠公この地に築城5万石の城主となる。応永元年(1394)
 その後喜範 喜政 善親 善詮(善慶)と小早川家の執権職となる。

 5代 田坂摂津守善慶公高山城内に於て日名内玄心の奸計により討たれ非業の死を遂げる。天文16年正月16日(1547)
 5代150年余り続いた稲村城も落城す。
 歴代城主家臣を偲び鎮魂の祈りをこめてこの碑を建立す。
   稲村城址顕彰会   平成18年11月吉日”
【写真左】稲村山城遠望・その2
 北側からみたもので、手前の道路は同じく県道344号線。

 なお、当城の北西麓で344号線と東西に走る県道155号線(三原本郷線)が交差している。



田坂氏

 城主といわれる田坂氏は、『芸藩通志』によれば下野国から来住して小早川氏に属したと記されている。現地の説明板では始祖と思われる義忠が応永元年(1394)、当城を築城したとされている。
【写真左】登城口
 北麓を走る県道155号線側にあって、入口付近にはロープのようなもがかけてあるが、この手前に1台分の駐車スペースがある。





 応永元年の頃の沼田小早川氏は、仏通寺を創建した春平(米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)梨羽城(広島県三原市本郷町上北方)参照)の時代である。

 春平の父は、貞平である。長子が春平で、次男に土倉(はぐら)夏平がいたとされる。田坂氏はその土倉氏の分流と推察され、小早川惣領家の家政及び奉行人を統轄する政所を勤め、さらに高山在城奉行をも勤めた重要な一族であったといわれる。

 土倉氏については、雲雀城(広島県尾道市御調町市)でも少し触れているが、雲雀城にあった土倉氏はその後当城周辺の支配が長く続かなかったとされている。
【写真左】登城道
 後段で紹介する若宮神社が本丸跡に設置された際、作業道が併せて施工されたらしく、この道は新たに設置されたもの。

 重機などで幅員も広げられ、歩きやすくなっている。ただ、遺構部分も一分消滅した可能性もある。



沼田小早川家継嗣竹原小早川家との合一

 さて、安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その2で既に述べているが、毛利元就が三男・徳寿丸(のちの隆景)を最初に養子縁組させたのは、惣領家沼田から分かれた竹原小早川家(木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)参照)である。ときに、天文13年(1544)、徳寿丸11歳の頃である。もっともこの縁組は、元就自身はあまり乗り気でなく、当時元就の主君であった大内家(義隆)が推し進めたものであった。
【写真左】尾根にたどり着く。
 登城した時期が早すぎたため、周辺の樹木に覆われて視界は良くない。







 これと相前後して、惣領家沼田の小早川家第14代正平は、天文12年(1543)出雲の月山富田城攻めにおいて、殿(しんがり)をつとめ討死した(小早川正平の墓(島根県出雲市美談町)参照)。このため、正平の子又鶴丸が家督を継ぎ、繁平と名乗った。しかし、彼は3歳の時眼病を患い失明していた。

 盲目の当主が小早川惣領家を受け継ぐという異例な処置に対し、当然ながら家臣達には不安と動揺が走った。おそらく大内氏は当初からそれを想定していたのと思われ、結局繁平は高山城から下城させ隔離する処置をとった。そして、竹原小早川家の養子となっていた隆景を繁平の妹と結婚させ、併せて沼田小早川家と竹原小早川家の両家合一を計ることにした。
【写真左】本丸が近くなってきた。
 作業道として改修されたようで、右側の方も大分削られたようだ。ただ、登城する分には楽になるが…



 これに対し、沼田惣領家の家臣の間に争論が生じた。両家合一に異を唱えていた者の一人が稲村山城主・田坂摂津守善慶である。

 彼はこの縁組が小早川惣領家としての威信にかかわるとし、またそれまで対立していた竹原小早川家に対する反駁があり、さらには大内・毛利氏らによる干渉にも同意できないものがあったとされる。

 “高山城内に於て日名内玄心の奸計により討たれ…と説明板に書かれているが、この縁組を強力に推し進めていたのは、当事者の一人である毛利氏は勿論だが、小早川両家合一をさらに後押していた大内氏の力もあったのだろう。そして、具体的に動いたのは、沼田小早川家一族であった乃美隆興である。
【写真左】本丸にたどり着く。
 右側が登ってきた道で、右下に見えるのは簡易便所。








 ところで、これに先立つ天文14年(1545)11月、元就の正室妙玖が47歳で亡くなった。そして後妻として入ったのが、この乃美隆興の娘である。

 隆興の置かれた立場を考えると、彼がもっとも両家合一を推進する役目を担ったものだろう。従って「日名内某の奸計」は、隆興による指示が背景にあったものと思われる。
【写真左】稲村城址の石碑
 本丸跡にはご覧の石碑が建立されている。
【写真左】稲村城址顕彰会会員名簿
 石碑の脇に設置されているもので、この中には「田坂」姓の方が、4名見える。田坂氏の末裔と思われる。
【写真左】若宮社
 本丸の奥には平成15年から18年にかけて再建された若宮社拝殿が建立されている。

 おそらく以前からあったものが朽ち果てたため再建されたものだろう。
【写真左】拝殿側から石碑方向を見る。
 当城の遺構としてはめぼしいものはあまり残っていない。主郭と思われる最高所が、北側にあり、ここから南にかけて少し下がった位置にも2段の郭が残る。

 これらを合わせた長軸は70m程で、この場所から東方200mの位置にもピーク(H:140m)もあり、物見櫓的な遺構もあったものと思われる。
【写真左】2段目の郭
 奥に主郭(本丸)が見える。
【写真左】3段目の郭
 雑木などがあって分かりにくいが、3m前後低くなった段である。
【写真左】高山城遠望
 西方には小早川氏の居城高山城が見える。

 なお、後に移ることになる新高山城は高山城の裏側にあたるが、この位置からでは高山城に隠れて見えない。

2017年11月8日水曜日

安芸・高木山城(広島県三原市本郷町下北方)

安芸・高木山城(あき・たかぎやまじょう)

●所在地 広島県三原市本郷町下北方
●別名 沼田城
●築城期 不明(平安時代後期か)
●築城者 不明(沼田氏か)
●城主 沼田次郎、内藤実豊
●高さ 30m
●形態 丘城
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2015年9月30日

◆解説(参考文献 『中世武士団』石井進著、HP 「城郭放浪記」等)
 安芸・高木山城(以下「高木山城」とする)は、広島県三原市本郷町下北にあって、沼田川の支流梨和川の北岸に築かれた城館である。別名沼田城ともいわれる。

 元暦年間に伊予国の河野通信が、母方の伯父沼田次郎を頼り、安芸国に渡りこの城に籠って平教経の攻撃に防戦したが破れたという。
【写真左】高木山城遠望・その1
 西側から見たもので、北側から伸びる細尾根先端部に遺構が残る。

 右側に少し見える道路が旧山陽道だが、平安末期のころは道路などはなく、沼地の景観だったと推測される。



沼田荘

 南北朝期、九州を席巻し始めた南朝方菊池武光(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)を制圧するため、幕府は九州探題に今川了俊(多良倉城(福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山)参照)を任命西下させた。このころ、都から九州方面に向かう際、瀬戸内を使った船旅はすでに定番になっていた。そして瀬戸内航路の途中には、鞆の浦をはじめとする潮待ち湊などが多くできた。
【写真左】高木山城配置図
 現地に設置してあった案内板をもとに、管理人によって当城の位置を追加したもので、左図の沼田川本流を北に登ると、小早川氏の高山城(広島県三原市高坂町)新高山城(広島県三原市本郷町本郷)などがあり、支流の梨和川を西に向かうと、梨羽城(広島県三原市本郷町上北方)に繋がる。



 現在の三原市沼田町から本郷町にかけて流れる沼田川の下流部にもその当時船を停泊する湊があった。了俊の頃は沼田川が上流部から土砂を運んだため、すでに下流部は湿地帯となっていたが、平安後期の頃はまだ遠浅の海だった。それからおよそ100年後、了俊は西下の途中沼田にしばらく留まり、紀行文『道ゆきぶり』を綴った。

“……このあたりは寿永の昔までは海の底だったというが、なるほど岩石のかたわらにかきの殻等のついたものが見える。

……甑天神の山のならび、道の脇のちょっとした岡に松や竹が繁り、草葺の堂がひとつ建っている。平家の時代に沼田の某が立て籠もった城を、平教経朝臣が攻め落とした場所だそうだ。……”


寿永というのは、元暦元年(1184)の前年のころで、後白河法皇が東海・東山両道の支配権を源頼朝に委任した宣旨を出し、源氏が本格的に平氏打倒の動きを見せる年である。
【写真左】高木山城遠望・その2
 南側から見たもので、高木山城は中央の小丘部。手前が梨和川で、右に下ると沼田川に注ぐ。




沼田氏(ぬたし)

 この沼田荘はそれまで京都の三十三間堂で知られる蓮華王院の所領となっていた。そして、そのこの荘(荘園)の管理監視を司るいわゆる下司としてその職を担っていたのが、地元豪族沼田氏である。

 源平争乱が勃発した際、瀬戸内でもっとも早く反平氏の旗幟を挙げたのが伊予河野氏(高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)参照)である。この河野氏の挙兵に応じたのが縁戚関係を結んでいた沼田氏で、その中心人物が沼田次郎である。
 これに対し、平家方の平教経が沼田次郎の拠る沼田城を攻め落としたという。平教経の父は清盛の異母弟で、清盛の甥にあたる。
【写真左】登城口付近
 左奥の段丘から城域となるが、その手前に旧山陽道が東西に走る。
 写真の中央右には「梨羽城跡←」の看板が設置されている。



 亡びた一族の記録は多くの場合ほとんど残されていないことが多い。高木山城(沼田城)及び平家に滅ぼされた沼田氏は、後の土肥(小早川氏)氏(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)参照)の支配に及ぶと、さらにその痕跡さえも留めなくなった。

 平安時代中期に作成された「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に、律令時代、沼田本郷・船木郷・安直郷・真良郷・梨子羽(梨葉)郷の名があり、その後ほとんどが沼田荘に変わっているが、この段階で沼田の郡司として荘園の寄進などを行っていたのが沼田氏ではないかと思われ、源平合戦の際、生口島の公文や下司たちが、沼田氏(のちに平家に帰順した沼田五郎など)に召集されて門司関まで従軍参戦したといわれる。
【写真左】この階段から登城する。
 南麓部には寺院があり、その裏山である高木山城跡の南側には墓地が点在している。
 登城道は従って墓地に向かう道を使う。
【写真左】墓地
 階段を上がると、直ぐにこの墓地が見える。

 10mにも満たない尾根幅全体を削平し、奥行もさほどない状況だが、おそらく当時高木山城の最先端部に設置された郭だったのだろう。
【写真左】尖端部から南を眺望
 手前の樹木下を旧山陽道が走り、その奥を梨和川が流れている。

 奥に見える山並みを超えると、沼田氏が隆盛の時代、水軍領主でもあったことから当地(沼田荘)以外に支配下に治めていた竹原荘(現竹原市)に繋がる。
【写真左】地蔵及び五輪塔の部位
 墓所の片隅には石仏などが集められているが、中には五輪塔の部位も見える。沼田氏一族のものもこの中にあるのかもしれない。
【写真左】北側から南を見る。
 墓地奥から振り返ってみたもので、奥行は20m弱ほどか。
 このあと、さらに奥に向かう。
【写真左】堀切・その1
 当城の遺構として残るのは、この郭跡に残る墓地のみと思っていたが、さらに奥に進むと、墓地は無くなり、尾根を遮断するような切り込みが見える。堀切である。
【写真左】堀切・その2
 下りてみると、予想以上に堀切としての良好な遺構を残す。

 瀬戸内に力を誇示した沼田氏は水軍領主として船戦に長けていたこともあり、本格的な城砦(海城)は残さなかったかもしれないが、この堀切だけは貴重なものと思われる。
 


横見廃寺跡

 ところで、上掲した高木山城配置図にも記しているが、当城の周辺には多くの史跡が点在している。特に当城西麓には白鳳時代に建立されたといわれる横見廃寺跡がある。
【写真左】横見廃寺跡
 高木山城の西麓に残るもので、現在畑地などになっている。









現地説明板より

“国指定史跡
 横見廃寺跡
     昭和53年5月22日 指定

 横見廃寺跡は、いわゆる火炎文軒丸瓦を出土する広島県最古の寺跡として知られている。昭和48年以降、広島県教育委員会が行った発掘調査によって、北側に山を背負った南面する微高地に講堂、塔、築地などの遺構が残存していることが明らかになった。建物の数が未調査であるため不明な部分も多いが、寺域は東西約100m、南北80m前後と考えられる。
【写真左】横見廃寺跡平面図
 高木山城はこの図の右側に当たる。
左側は本郷中学校。







 講堂跡は寺跡の東寄りに位置し西面する。基壇は、南北28.8m、東西19.1mの規模で、建物は桁行7間メ梁行4間と推定されている。
 基壇は平瓦をたてならべて化粧し、この基壇の南側には回廊がとりつく。講堂の西北方には塔(または北金堂か)の遺構が検出され、西向きの特異な伽藍配置となる。

 瓦類は山田寺式単弁蓮華文軒丸瓦(火炎文瓦)や、忍冬唐草文軒丸瓦をはじめとし、優美な白鳳時代のものが多数出土しており、特に火炎文瓦は飛鳥地方との直接的な交流を物語るものとして注目されている。
【写真左】瓦類発掘調査状況











 なお、本寺跡の西約200mには、県内最大の横穴式石室をもつ梅木平古墳(県史跡)があり、さらに西約2kmには、切石積の石室で知られる御年代古墳(国史跡)がある。
 いずれも畿内政権との交流を示すものであり、当時のこの地域が畿内と密接に関係していたことがわかる。
          三原市教育委員会”


楽音寺

 上掲した高木山城配置図にも記されているが、梨和川を挟んで南側には古刹・楽音寺がある。

 承平・天慶の乱(935~941年)で流罪されていた藤原倫実(ともざね)は、藤原純友を追討する大将に任命され、髻(もとどり)に込めた一寸二分の薬師像のお蔭で窮地を脱し、純友を滅亡させた。この功によって沼田七郷を賜り、感謝をこめて建立したのが薬師如来を祀る楽音寺である。
【写真左】楽音寺・その1
 現在は真言宗だが、かつては天台宗の古寺で、盛時は仁王門から内側の谷いっぱいに多くの坊が建ち並んでいたという。
 
参拝日 2014年5月8日


 歴史学者・石井進は、その著書『中世武士団』の中で、倫実が中央からの流人であったというのは、家系を飾るための虚構であって、おそらく本来の在地豪族か、あるいは国衙の在庁官人が土着して開発領主となっていったのではないか、と記している。
【写真左】楽音寺・その2
 写真の階段を登ったところが現在の本堂で、この位置まで長い坂が続く。おそらくその間に段があり多くの坊が建っていたものと思われる。

なお、当院は境内及び本堂等の写真撮影は禁止されているため、周辺部のみのものとなった。


 当寺に伝えられた鎌倉中期の文書(「楽音寺文書」3〔『広島県史』古代中世資料編4〕に、この寺は天慶年中(938~947)に沼田氏が建立した氏寺である、と書きつけられ、鎌倉末期に至るまで楽音寺の院務職は、代々倫実の子孫が連綿として相伝してきたとされている。このため、この倫実こそが沼田氏の祖と仰がれてきた人物であったという。
【写真左】楽音寺下の景観
 この写真でいえば、左側に梨和川や高木山城がある。

2017年10月19日木曜日

安芸・藤山城(広島県三原市和木)

安芸・藤山城(あき・ふじやまじょう)

●所在地 広島県三原市和木
●別名 さつき藤城・藤城
●高さ 291m(比高15m)
●形態 丘城
●指定 三原市指定史跡
●築城期 鎌倉期
●築城者 和木氏
●規模 200m×50m
●遺構 郭・土塁・井戸・空堀等
●登城日 2015年9月30日

◆解説(参考文献『日本城郭体系 第13巻』等)
 安芸・藤山城(以下『藤山城』とする)は、広島県の旧賀茂郡大和町和木にあった城館で、比高15m前後の丘城である。築城期は明確ではないが、鎌倉期とされ、築城者は和木氏といわれている。
【写真左】藤山城遠望
 西方にある道の駅『よがんす白竜』から見たもの。










和木氏

 和木氏については、以前紹介した同市大和町椋梨の椋梨城の稿で既に述べているように、小早川氏の庶流の一つ椋梨氏の系譜に繋がる。
 椋梨氏二代国平の子定平の実弟・為平が和木氏の祖といわれている。
 従って、国平が寛元4年(1246)からこの地に居住し、小早川から椋梨氏を名乗っているので、和木氏はそれより2,30年後の文永年間(1264~74)頃に和木氏を称したと推察される。
【写真左】藤山城の配置図
 道の駅「よがんす白竜」に設置されている「椋梨ダム周辺MAP」を元に管理人が加筆修正したもので、実際のものは、下方が北を示していたため、それを上方に変えて描いた。



藤山城の概要

 藤山城は椋梨氏居城の所在する椋梨地区の東隣に位置する和木にあって、椋梨川と徳良川が合流したあと、椋梨ダム湖となった白竜湖に注ぎ込むが、その手前でもう一つの支流が東から合流する。この支流が大草川で、この川の南岸に築かれた丘陵地に築かれている。

 丘城であることもあって、比高は10m余程だが、本丸と思われる箇所(東西60m×南北50m)の中に郭を3段構成し、北側には土塁が残り、西側には30m×30mの規模の二ノ丸があり、さらには以前には三の丸もあったとされるが、現在宅地や水田などに改変されている。

 なお、和木氏の居城としてはこのほかに、藤山城から東北方向約1キロの位置に船山城がある。『日本城郭体系』では藤山城より後に築かれたとされ、よく整っていると記されているが、現在はご覧のような状態なので、踏査していない。
【写真左】道路側から向かう。
 南西麓に農道が走り、そこからなだらかな傾斜となっている。
 手前の田圃などは当時の三の丸だったと考えられる。
【写真左】二の丸付近か
 現在西側には墓地があり、改変された部分もあるが、段の高さは当時と変わらないだろう。
【写真左】二の丸付近の郭
 この付近は綺麗に整備され、平滑な面が残る。おそらく屋敷などがあったものだろう。
【写真左】空堀・その1
 奥に進んで行くと、途中で右側に浅くなった空堀が見える。

 当時はもう少し深かったものと思われる。
【写真左】空堀・その2
 これは上記のものとは反対側の北側にあるもので、左側が郭で、右側は土塁が残る。

 なお、土塁の外側は切崖になっている。
 さらに先に向かう。
【写真左】本丸の土塁
 なだらかな坂道を登っていくと、直ぐに本丸にたどり着く。

 この写真は西側に見えていた土塁で、大分劣化しているが、周囲を囲繞していたことが分かる。
【写真左】本丸・その1
 冒頭で紹介したように、北側を最高所として南に向かって3段の郭が構成されている。

 幸運なことに、この日探訪したとき本丸の箇所だけはこのように伐採されていて、分かりやすい。
【写真左】本丸・その2
 最下段の郭付近で、最高所のとの比高は3m前後。

 このあと、北東方面に向かう。
【写真左】竪堀?
 周辺の状況や丘城であることから防御性には限界があるが、当城の東側は湿地帯のような個所があり、比高は10m程度である。

 おそらく、当時はこの北東麓は北側を流れる大草川から水を引込み、濠を設けていたと推察される。
【写真左】和木氏八幡神社
 上記した配置図にも記したように、藤山城の西に隣接して当社が祀られている。

 縁起などは不明だが、和木氏を祀る神社と推察される。
【写真左】拝殿
 境内には樹齢不明だが、県内で58番目に大きな杉(三原市天然記念物・和木八幡のスギ)がある。
【写真左】境内西側の崖
 この付近は切崖状の景観をなし、その下には狭い道路を挟んで大草川が流れている。
 
 藤山城から和木氏八幡神社に繋がる高低差はほとんどないが、神社境内の北西端はほどんどこのような切崖状となっている。

 当時はこの神社も北方を扼する出丸もしくは物見櫓的な機能を有していたのかもしれない。
【写真左】船山城遠望
 藤山城から北東方向へ約1キロほど向かった位置にあり、北側を大草川が流れている。
【写真左】船山城
 独立した小丘で、現在はあまり整備されていないようだ。

2017年10月5日木曜日

播磨・河内城(兵庫県加西市河内町西谷)

播磨・河内城(はりま・こうちじょう)

●所在地 兵庫県加西市河内町西谷
●別名 別所城・佐谷城
●高さ 280m(比高150m)
●築城期 永暦元年(1160)か
●築城者 別所刑部六輔頼清又は在田則盛
●城主 別所氏
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2015年9月23日

◆解説
 播磨・河内城(以下「河内城」とする)は、前稿の播磨・小谷城(兵庫県加西市北条町小谷字城山)から北東方向へ凡そ4キロ余り向かった河内町西谷に築かれた山城である。
【写真左】播磨・河内城遠望
 南東麓から遠望したもので、右側の峰は後段で紹介する展望台が設置された箇所。






現地説明板より

“河内城跡

 河内城は室町時代(1400年代)に赤松氏の一族別所頼清によって築城されました。
 敷地面積は約300坪。
 ここより南方に高い山はなく、晴れた日には遠く淡路島を望むことができます。”


※下線、管理人による。
【写真左】概要図
 現地に設置されたもので、中央部の郭を挟んで、東西に堀切を介して、中規模の郭を配置し、これらを帯郭が囲繞した形態となっている。





別所氏(赤松氏)在田氏

 築城期及び築城者については諸説あり、確定していないようだ。築城期については、冒頭でも記しているように、永暦元年(1160)としている。因みに、この前年(平治元年)源義朝及び、藤原信頼らが院の御所を襲い、上皇を内裏に移して天皇とともに幽閉した「平治の乱」が起こり、これを鎮圧した平清盛は、翌永暦元年義朝の嫡男頼朝を伊豆に、実弟希義を土佐にそれぞれ配流している。
【写真左】六処神社
 南麓に鎮座する社で、創建期等不明であるが、『播磨國大小明神記』に「鎌倉明神」と記されているのが当社といわれ、元々河内城の峰から北へ2キロほど上った鎌倉山に鎮座していた鎌倉明神を基としている。天正年間に兵火に罹り、後に池田輝政が再建したとされる。


 上掲した現地の説明板に、「河内城は室町時代(1400年代)に赤松氏の一族別所頼清によって築城された」とある。しかし、この別所頼清は室町時代の武将ではなく、この平治の乱時代、即ち平安末期の人物で、村上源氏赤松季則次男といわれ、この年(永暦元年)、当地加西郡在田荘別所村に下向し、当地名から別所氏を名乗り、河内城(別名:別所城)を築いたとされる。

 ところで、河内城の所在する地は河内町だが、その南隣には別所町があり、その西には現在上野町と呼ばれる地区が接している。この町の東端部には養老元年(717)に建立されたといわれる石部(いそべ)神社があり、この辺りは当時『播磨国風土記』に記された賀茂郡(加茂郡)の鴨里という地区(里)でもあった。
【写真左】石部神社
所在地 加西市上野町
 当社裏山には6世紀前半に築造された皇塚古墳があるが、伝承ではこの社(石部神社)創建と同じ養老元年ごろに、元正天皇皇女の墓として語り継がれている。


 そして、この中心部を流れるのが加古川の支流万願寺川である。北から南下するこの川を現在中国自動車道が横断しているが、この道路を境とする北のエリアには、殿原町・上野町などといった町名が見える。詳細な年代は不明だが、中世にはこの付近は「在田(ありた)」と呼んでいた。

 在田氏は、赤松円心の長男で、同氏5代・美作守範資(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1参照)の次男朝範(朝則)がこの地に下向し、在田氏の祖といわれている。このことから、在田氏(朝則)が別所頼清の時代から凡そ100年後の南北朝期、当城の城主となったと考えられる。

 在田氏は嘉吉の乱(鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)参照)後、赤松政則を支援し、赤松氏再興の立役者の一人となったが、その後政則と確執を生じ、文明12年両者は激突し、同氏は敗れたという。
【写真左】河内ふれあいの森 散策マップ
 六処神社の奥に向かうと、ご覧の看板が設置してある。ハイキングコースとして整備されたもので、左図の左上に「城跡展望広場」と図示された箇所が河内城跡である。
 なお、「一日コース」を選択すれば、前述した鎌倉山へも向かうことができる。

 先ずあずまや展望広場をめざし進む。
【写真左】満久城遠望
 獣除けゲートから登城道を登っていき、しばらくすると視界が開け、南側にはタカガワオーセントゴルフ場が見えてくる。このゴルフ場内には満久城(まくじょう)が見える。
 文明4年(1472)内藤左京進盛次築城といわれ、のちに在田氏に従軍したとされる。
【写真左】あずまや展望広場
 満久城を展望できる位置に設けられた展望台で、登城コースの最初のピークに当たる。
 目立った遺構はないものの、当時この場所は物見櫓として利用された可能性もある。
【写真左】河内城を遠望する。
 上記展望広場からみたもので、ここから河内城までは凡そ490m。
【写真左】削平地
 展望広場を抜けると、一旦鞍部となった箇所が出てくる。かなり広い削平地があり、この場所に屋敷跡があったとしても不思議でない。なお、この箇所には分岐点があり、もう一つの谷に向かう道もある。
 ここを過ぎて再び登り勾配の道となり、本丸までは凡そ340m。
【写真左】あずまや展望広場遠望
 登っていき、途中で振り返ると先ほど立寄った展望広場の東屋が中央に見える。
【写真左】分岐点
 尾根にたどり着くと、分岐点の標識がある。
 右に行くと、鎌倉山。既に河内城の城域に入っていると思われるが、左方向へ50mで本丸に辿りつく。
【写真左】本丸へ向かう急な階段
 距離は短いものの、結構きつい。
【写真左】腰郭と上段の郭
 この日の登城コースは、北側の東郭側から向かっているので、最初に見えてくるのは、「東1.2,3,4,5」の各郭となる。
【写真左】奥に向かう。
 東郭群から中央部に向かうが、現地は冒頭で紹介した概要図のような整然とした状況ではなく、大分劣化した遺構が多いようだ。
【写真左】堀切
 中央部の郭を挟んで東西にそれぞれ堀切が配列されているが、この堀切はそのうち西側のもの。
【写真左】西郭から中央郭を見る。
 堀切底部から見上げたもので、この箇所の堀切深さは大分ある。
【写真左】再び堀切
 西郭群側のもの。
【写真左】さらに西の尾根に向かう。
 この付近も数段の郭があるが、進むにつれて明瞭でなくなる。
【写真左】奥に竪堀
 西郭群の西方に向かう尾根の北斜面に見えたもので、当時はもう少し深く、また長かったものと思われる。
【写真左】中道子山城を遠望する。
 河内城は前稿の小谷城とさほど離れていないこともあり、ここからも中道子山城(兵庫県加古川市志方町岡)が見える。