2017年9月3日日曜日

播磨・小谷城(兵庫県加西市北条町小谷字城山)

播磨・小谷城(はりま・こだにじょう)

●所在地 兵庫県加西市北条町小谷字城山
●高さ 218m(比高110m)
●築城期 不明
●築城者 赤松氏
●城主 赤松直操(竜門院直操)、赤松祐尚等
●遺構 郭・堀切・土塁・竪堀・横堀その他
●登城日 2015年9月23日

◆解説
 出雲から関西方面へ向かう際、管理人はときどき中国自動車道を利用するのだが、それまで何度も通っていながら気が付かなかった山城である。
 場所は加西SAと加西ICのほぼ中間点に当たり、秋口から初冬にかけて走っていると、瞬間だが北側に本丸に設置された「小谷城跡」と記された看板が見える。以下「播磨・小谷城」を「小谷城」とする。
【写真左】小谷城遠望
 南側から見たもので、主郭付近が綺麗に伐採されていることが分かる。




【左図】小谷城要図

 現地に掲示してあった図をもとに管理人によって主だった遺構個所を彩色したもの。

 なお、現在の登城コースは左側から進んで、虎口の手前あたりから入城できるようになっている。




現地の説明板

"小谷城主 赤松祐尚とその墓地

 嘉吉の乱(1441)後、小谷城は落城したが、応仁の乱(1467~77)によって赤松氏が再興すると、赤松祐尚(すけひさ)が城主となった。祐尚は、敬神、菩提心の厚い武将で寺社の修築、耕地の整理、市場の開設など領内の治世に尽力し、領民から慕われた。

 小谷城南山麓の禅寺は、天文元年(1532)祐尚が菩提寺として建立したもので、山門には三つ巴と丸に二引両の紋がすえられている。同寺は、祐尚の名をとって「祐尚山(ゆうしょうざん)」と山号を定め、小谷城の東側に朝夕陽光を受けて立っていた老松より「陽松寺(ようしょうじ)」と名付けたと伝えられる。

 しかし、天文11年(1542)に播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え撃ったが敗れて討死し、後にこの地に追善墓として祀られている。この墓の近くには小谷城の戦いで落命した武士たちを供養した五輪塔・一石五輪塔が林立しており、その一角に五輪墓塔の残欠が集められているなど、小谷城の戦いが激しかったことを今に伝えている。

 平成26年(2014)1月吉日

 祐尚山陽松寺  小谷城跡保存会”



(※下線管理人による)
【写真左】陽松禅寺
 小谷城南西麓に建立されている禅寺で、加西市準西国第32番札所でもある。
 なお、この日当院より西方に建立されている曹洞宗大安山 正楽寺の方と勘違いし、迷っていたら正楽寺のご住職さんにこちらの寺まで案内してもらった。改めてお礼申し上げたい。

 因みに、陽松寺は現在無住のため、件のご住職がこちらのお寺も兼務しておられるというということだった。


赤松祐尚

 説明板にもあるように、築城期は不明ながら嘉吉の乱以前にすでに築城されていたとしている。置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも紹介したように、赤松氏再興後当城の城主となった赤松祐尚は、嘉吉の乱の首謀者満祐の兄弟(おそらく弟)に当たる。

 因みに、現地に設置されていた城郭研究家・木内内則(ただのり)氏の資料によれば、嘉吉の乱の頃の城主は、赤松満祐の弟直操(なおみち)で、彼は竜門院直操(りゅうもんいん ちょくそう)とも呼ばれた僧侶であったという。将軍足利義教を謀殺した満祐は、その後地元播磨の木山城において山名宗全らによって攻められ自刃、赤松氏惣領家は没落することになる。このとき小谷城主であった直操も自害の道を選んだのだものと思われる。
【写真左】五輪塔・一石五輪塔の墓石群
 陽松寺の東側を抜けて山の方に向かうと、途中でご覧の墓石が並んでいる。

 天文年間、播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え撃ったものの、破れ討死した部将たちの供養塔といわれている。なお、尼子氏による当城攻めの時期については、後段で考察している。



 さて、赤松氏の滅亡の後、当地を治めたのは但馬守護であった山名氏であるが、文明元年(1469)、赤松政則は応仁の乱が始まる頃、再び同家を再興し再び播磨を治めていくことになる。

 そして、説明板にもあるように、天文元年(1532)祐尚が菩提寺として小谷城南山麓に禅寺を建てた。これが写真で紹介している「加西市準西国 第三十二番札所 陽松禅寺」である。

 また、小谷城の再建についても、木内氏の資料によれば、天文10年(1542とあるが、1541年)赤松祐尚が行い、住吉神社改築、酒見寺講堂の寄進などもおこなったとある。このように祐尚の事績を辿ってみると、彼は当時としてははかなり長命であったと推測される。
【写真左】赤松祐尚の墓
 上掲した墓石群とは別に、登城口付近に建立されているもので、赤松祐尚の墓と刻銘されている。
 墓の形式を見る限り、当時の墓ではなく、後に改修された墓石のようだ。
【写真左】登城口
 墓石群を通り抜けるとやがて前方に登城口の案内標識が設置してある。「小谷城跡遊歩道登山口」並びに「ようこそ小谷城跡ふれあいの森へ」と書かれた看板がある。


 ゲートは鳥獣対策として施錠式の門扉となっており、入城後施錠しておく。


尼子氏播磨侵攻
 
 ところで、冒頭の説明板に天文11年(1542)尼子氏が播磨に侵攻してきた、と記されているが、天文11年は、山口の大内義隆を筆頭に、毛利元就などの大軍が月山富田城攻略のため出雲国に進入してきた年で、尼子氏を中心とする主力部隊は殆ど他国に出陣などできる状況ではなかった。

 従って、尼子氏が当城(播磨・小谷城)を攻めたのは、この年(天文11年)ではなく、天文6年(1537)当時詮久(あきひさ)と名乗っていた尼子晴久が、播磨国に入り、翌7年赤松政村(晴政)を淡路に放逐、さらに同8年(1539)晴政を破ったときと思われる(三石城(岡山県備前市三石)参照)。

 従って、赤松祐尚が当城を改築して間もなく、尼子氏によって攻略されたものと思われる。
【写真左】登城道
 保存会の皆さんによって整備されているのだろう、特に険しい箇所もなく、歩きやすい道である。
【写真左】眼下に中国自動車道
 登城途中に見えたもので、右(西)に行けば福崎IC、左(東)に向かうと加西ICに繋がる。
【写真左】視界が開けてきた。
 途中までは木立に遮られ、やや暗い道を進むが、この辺りから一挙に明るくなる。
【写真左】南側の入口
 上に「小谷城跡」の看板が見える。
【写真左】空堀
 横堀ともいえるかもしれないが、南側に東西にわたって長く伸びている。当時はもう少し深く、さらに右側の土塁はもっと高くなっていたのだろう。
【写真左】尾根西側頂部
 先ず尾根伝いに西に進んで、頂部と思われる箇所に向かう。
 この付近での最高所と思われる箇所で、櫓などがあったかもしれない。
【写真左】改めて本丸方向に向かう。
 途中に橋のようなものが見えるが、これが堀切(下の写真参照)。
【写真左】堀切
 橋の上から見たもので、北側の斜面。
【写真左】竪堀
 小谷城には多くの竪堀が残るが、これはそのうち第5郭の西側にあるもの。
【写真左】第5郭
【写真左】虎口
 大分埋まっているようだが、虎口の形状を残している。
【写真左】L字状の空堀
【写真左】西小丸
【写真左】西小丸から東に本丸方面を見る
 西小丸から東の郭段に向かうにつれ次第に高くなっていく。
【写真左】堀切
 この箇所の堀切は当城の中でも最大のもの。
【写真左】第五郭
 さらに東に進んで主郭を目指す。
【写真左】第三郭
【写真左】「ひめじ 官兵衛」の幟
 この場所にも官兵衛(黒田)の幟が建っていたのには驚いた。
【写真左】手前第二郭、奥に第一郭(主郭・本丸)
【写真左】本丸跡に建つ看板
 本丸から北方を見たもので、奥に見える山並みとの間には谷が広がる。
【写真左】本丸北東端から南西麓を見る。
 展望台のような建物がある附近が本丸の位置になるが、そこからさらに高くなった箇所があり、この位置からはさらに視界が広がる。
【写真左】空堀
 先ほどの位置から更に北東方向に進むと、尾根は下り、本丸(第一郭)を包むように空堀が囲繞している。この空堀の北東部では一条の竪堀と繋がり、そのまま下に向かっている。
【写真左】本丸から南に中道子山城を遠望する。
 小谷城から南におよそ12キロ余り隔てた位置に以前取り上げた、同じく赤松氏の中道子山城(兵庫県加古川市志方町岡)が見える。

2017年8月19日土曜日

片島城(岡山県倉敷市片島町)

片島城(かたしまじょう)

●所在地 岡山県倉敷市片島町
●形態 平城(海城)
●高さ H:26m
●築城期 室町時代
●築城者 二階堂政行
●城主 細川下野守等
●遺構 郭等
●備考 片島神社・妙任寺等
●登城日 2015年9月11日

◆解説
 片島城は現在の倉敷市片島町に所在していた平城(平山城又は海城)で、往古この付近は海域であったが、当時から片島山という小丘陵を持つ島であった。その後、高梁川から流れてくる土砂が堆積し、干潮時には干潟が広がるようになったという。
【写真左】妙見宮及び番神宮の鳥居
 片島の最高所で当時この場所が主郭であったと考えられる。






 片島城が築かれたのは南北朝期といわれ、地元の豪族二階堂氏の手によるもという。その後室町期に至ると、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)の城主細川下野守の居城となったと伝えられている。
【写真左】法厳寺
 片島城跡には城跡としての遺構はほとんど残っておらず、従って城跡を示す標柱などは全くない。

 現在は、左の写真にある法厳寺が南麓に建立されているが、当院は江戸時代初期、真如大徳上人(~1660)の創建とされており、おそらくこの辺りが船着場であったと考えられる。

 そして、そこから階段を上がって北に進むと、片島神社があり、さらにそこから上に向かうとまとまった墓地が東半分を占め、その南側の最高所に冒頭で紹介した妙見宮が祀られている。

 また、この墓地は西側に妙任寺という寺があるので、当院の檀家寺と思われる。
 

細川下野守

 鴨山城の稿でも述べているが、片島城主として名の残る細川下野守とはおそらく、細川道董(みちただ)と思われる。もともと道董は四国伊予の川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)にあったが、叔父通政の名跡を継承、旧領の備中に移っている。道董が伊予から備中に移るきっかけとなったのが、毛利氏と盟約を結んだことからである。その後、次のような経緯を経て鴨山城に入城した。
  1. 永禄2年(1559)~同9年(1566) = 笠岡大島青佐山(H:249.4m)(笠岡と浅口両市の市境で南に水島灘を望む)に最初に入る。
  2. 永禄9年(1566)~天正3年(1575) = 鴨方六条院竜王山(H:289m)
  3. 天正3年(1575) = 鴨山城入城  
片島城は冒頭でも述べたように、現在では倉敷市の中に入っているが、当時の状況を考えると、最初に入った笠岡青佐山在城時代に、水島灘の海域が片島城周囲まで広がり、高梁川河口は片島城から北へ凡そ4キロほど上った船穂町水江(倉敷市)当たりではなかったかと推察される。

 こうしたことから、細川道董は伊予の川之江城時代から培ってきた水軍領主としての顔を持っており、毛利氏も水島灘(瀬戸内)の押さえとしての役割を期待していた可能性が高い。
【写真左】片島神社の参道を登る。
 法厳寺の境内の東側に階段があり、この階段を登っていくと、片島神社に繋がる。
【写真左】片島神社境内
 左側が片島神社本殿で、その奥には急傾斜にともなう法枠工の斜面が見える。

 想像だが、片島神社境内が中段部の腰郭の一つで、その上が主郭(本丸)だったように思われる。
【写真左】さらに上の傾斜地
 片島神社の脇を一旦左にまわり、坂道を登っていくと、もう一段上にも土木工事された傾斜面が見える。

 なお、途中には天満宮、祇園宮、先霊宮などと刻銘された石碑や祠が祀られている。
【写真左】途中に見えた墓地
 墓石そのものは新しいが、この場所も元は小規模な郭があったのではないかと思われる箇所。
【写真左】墓地から上を見上げる。
 この箇所も急傾斜地である。
【写真左】頂上部にある墓地
 登りきると、東端部側にある墓地に出た。

 墓地は東半分の殆どを占め、左奥には妙見宮などの本殿が祀られ、墓の間から妙任寺本堂の屋根が見える。
【写真左】番神宮・妙見宮の鳥居
 
【写真左】五輪塔
 妙見宮本殿の脇に建立されているもので、その脇には「當山歴代寺族之墓」と刻まれた墓石などが建立されている。
【写真左】妙任寺
 妙見宮などのある最高所より少し下がった北西端に建立されている寺院で、この辺りは当時北側を監視する郭などがあったのかもしれない。

【写真左】墓地側から南を俯瞰する。
 手前の屋根は片島神社の拝殿や本殿が見え、奥には片島城と同じく、中世には島嶼の姿をしていた大平山を中心とする丘陵地が遠望できる。 
【写真左】片島城から高梁川を見る。
 片島城のすぐ西隣りには高梁川の築堤が南北に走り、高梁川が流れている。

 奥に見える橋は国道2号線の玉島バイパス。

2017年8月13日日曜日

備後・泉山城(広島県神石郡神石高原町福永)

備後・泉山城(びんご・いずみやまじょう)

●所在地 広島県神石郡神石高原町福永
●高さ 547m(比高70m)
●築城期 享禄元年(1528)
●築城者 岡伯耆守信平入道真禅(尼子氏家臣)
●城主 岡氏
●形態 連郭式山城
●遺構 郭等
●登城日 2015年9月7日

◆解説
 備後・泉山城(以下「泉山城」とする)は、広島県神石高原町に所在し、以前取り上げた八尾城(広島県神石高原町福永)の南西500mの位置にある。
【写真左】泉山城遠望
 南麓には禅宗系の寺院・恩定寺があり、その境内奥に進と坂道があり、そこから向かうようになっている。




現地の説明板より

“泉山城址(いずみやま じょうし)

 戦国時代、当地方は対立する出雲の尼子と吉田の毛利との接触地となり、城郭の必要を生じ各地に山城が構築された。

 泉山城は、尼子の家来岡伯耆守信平入道真禅(おかほうきのかみのぶひら にゅうどうしんぜん)が、享禄元年(1528)に築城したといわれている。
 続いて岡伯耆守景信・同孫三郎・同泉守・同左衛門尉景経が城主となる。

 天文21年(1552)と、天文23年(1554)に尼子・毛利の激戦がこの地で繰り広げられた。
 弘治3年(1557)には、この城をはじめ神石町内の各城は、毛利元就に従属するようになった。
 元就の三男小早川隆景が、この城を巡視して「難攻不落の名城である。」と賞賛したということである。

 この城には、軍資金の財宝を埋めかくし、その目印に白南天を植えたとか、天狗が高い松に登って敵情を偵察したという天狗松の口伝が残っている。

    神石町教育委員会
    神石町文化財保護委員会”
【写真左】恩定寺
 当院の縁起等は不明だが、この近くに城主岡氏らの屋敷があったものと思われる。








岡氏

 上掲した説明板では、泉山城の築城者は、尼子の家臣・岡信平とされている。管理人の手元には同氏に関する資料がないため詳細は不明だが、唯一尼子分限帳の中で、惣侍衆として因幡に岡左兵衛なる人物が記録として残っている。もちろん、左兵衛と泉山城主の岡氏との繋がりがあるのか不明である。ただ、元々この地は室町時代から続く宮氏が治めていた場所で、岡氏の泉山城入城に当たっては、おそらく宮氏が尼子氏に属した背景もあったものと思われる。
 
 さて、泉山城の築城期は享禄元年(1528)とされているので、丁度同国(備後国)の蔀山城(広島県庄原市高野町新市)を尼子経久が攻略した年に当たる。

 経久が備後国に侵攻し始めるきっかけとなったのは、山口の大内義興が石見守護国守護職に任じられた永正14年(1517)ごろからである。具体的な動きが始まるのは、義興が京から本国山口に帰国した翌年(永正15年)からであるが、経久もこのころは細川高国などに京極高清の援護を求められたりするなど、直接大内氏と戦火を交えていない。しかし、大永4年(1524)の7月から8月にかけて、当時大内方であった安芸の銀山城(広島市安佐南区祇園町)を尼子経久が、毛利元就と連合して攻撃し出したころから大きく動いた。

 このころ、大内方の主力として奮闘していたのは、陶興房(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)であったが、それまで尼子氏に協力していた毛利元就は、興房の巧みな勧誘もあって、尼子氏を離れ大内氏につくようになった。

 この間の詳細については省くが、泉山城を含めた備後国に限定した記録を辿ると、大永7年(1527)8月、経久は陶興房と細沢山に戦い(蔀山城(広島県庄原市高野町新市)・その1参照)、同年11月27日、両者は再び三吉で戦った。そして、冒頭でものべたように、泉山城の築城期となる翌享禄元年(1528)、経久は蔀山城を攻略した。ちなみに、この年の暮(12月20日)、大内義興は没し、嫡男義隆が家督を継いでいる。
【写真左】説明板
 登城口付近に設置されている説明板。大分色あせているが、文字はしっかりと読める。








天文20年以後

 説明板にもあるように、天文21年及び同23年、泉山城地域で尼子と毛利の激戦が繰り広げられた。その前年となる天文20年(1551)9月、大内義隆は重臣陶晴賢の謀反によって、長門国大寧寺で自害、翌21年3月、晴賢は豊前の大友宗麟の弟晴英を大内氏の後継者とした。

 その1ヶ月後の4月2日、尼子晴久は将軍足利義輝より、本国出雲をはじめ、隠岐・因幡・伯耆・備前・備中・備後・美作の8か国の守護職に補任され、事実上大内氏に代わる中国地方の雄としてその名を誇示することになる。
【写真左】登城道
 登り始めてしばらくは簡易舗装となっていたが、途中から無くなり、歩きにくくなる。

 写真右側は墓地で、泉山城へは左側の道を進む。



 しかし、この年の尼子晴久の8か国守護職補任や、朝廷から授かった従五位下修理大夫といった官位は、敵対し出した毛利元就にとっては脅威となるものでもなく、翌天文22年(1553)元就は尼子方であった江田隆通を攻めた(備後・旗返山城(広島県三次市三若町)参照)のはじめ、次第に備後国の進出を企てていった。
 
 そして、説明板にもあるように、「弘治3年(1557)には、この城をはじめ神石町内の各城は、毛利元就に従属するようになった。」と記されている。勿論この理由は元就が次第に尼子氏を圧迫していった結果でもあるが、これとは別にこの年(弘治3年)の4月、曲がりなりにも長門国を治めていた大内義長を同国・勝山城を攻略し、義長を自害に追い込んだことも大きな要素ともいえる。
【写真左】八尾城
 北側は神石小学校のグランドなどがあり、その南側が八尾城址となっているが、当時は小学校も含めたエリアが城域だったと思われる。



 そして、以前紹介した泉山城に隣接している八尾城(広島県神石高原町福永)の稿でも示されているように、天文21年から翌年にかけて尼子氏と毛利氏の激戦が繰り広げられ、毛利氏が尼子氏を撃退したとある。

 従って、泉山城をはじめ、八尾城及び、泉山城の北西1.5キロの位置にある宮氏の協力者高尾氏居城の宮尾城(城主高尾氏)もこの段階で毛利氏に属したものと思われる。
【写真左】途中の斜面
 簡易舗装が無くなったころから途端に道が歩きにくくなる。
【写真左】藪化した道
 次第に草丈は高くなり、おまけに雨が降り出してしまった。

 9月初旬の気候である。蒸し暑くなり、おまけにやたらと蚊に食われる。本丸まで遠くない距離とは思うが、今回は無理と判断し断念。

2017年8月6日日曜日

花見山城(愛媛県松山市堀江町)

花見山城(はなみやまじょう)

●所在地 愛媛県松山市堀江町
●形態 平山城
●高さ 23.9m(比高15m)
●築城期 正平23・応安元年(1368)
●築城者 河野通堯(村上大蔵大夫)
●城主 久枝四郎左衛門与利、河野通直、河野通孝(西氏か)、西氏
●遺構 郭その他
●登城日 2015年6月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系 第16巻』等)
 花見山城は松山市の北方堀江町に築かれた平山城である。現在は内陸部に所在する位置となっているが、後段の図でも紹介するように、築城期とされる南北朝期には北方の燧灘が南側まで来ていたと思われ、見方によっては海城であった可能性も高い。
【写真左】花見山城遠望
 西側から見たもので、小丘陵を利用して築城された小規模な城址である。
 手前は、後段でも紹介するように、江戸後期に築堤工事された新池。



現地説明板より

“花見山城城主

 1368年(室町時代前期)、河野通堯(みちたか)は、葛籠屑(つづらくず)城主・村上大蔵大夫に命じて、花見山に出城を築かせた。当時、守護や寺侍の勢力争いが絶えず、領地を守るために出城を造り敵に備えていた。築城後、通堯は、この地方から他郷の細川勢や仁木勢を退け、政治を安定させた。
【写真左】花見山城想像図
 この図は、管理人が築城当時の南北朝期、周辺部の様子を想像して描いたもの。

 北側を流れる権現川は濠の役目でもあり、さらには海城としての船溜まりを兼ねたものであったかもしれない。
 特に現在の権現川は燧灘河口まで凡そ1キロ弱あるが、当時はそこまで陸地は伸びておらず、花見山城の直近まで灘が迫っていた可能性が高く、以前紹介した西条市の鷺ノ森城とよく似た環境であったと考えられる。
 従って、形態としては海城であり、各郭には館などが建っていたと推測される。


 1379年、通堯は、将軍・足利義満に味方し伊予国の守護に任ぜられた。その後、城代・西通孝から引き継いだ西山氏(西の改姓)が代々城主となる。城主・西山氏の墓は、この花見山の麓にある。

 第4代城主・西山肥後守通倫(みちとも)、第6代城主・西山五右衛門通周(みちちか)は、この地方の開発や村人の救済に尽くした功績で、正八幡神社本殿左側の周敷(しゅうしき)神社に祀られている。
    松山市堀江公民館”
【写真左】城主・西山氏の墓
 道路脇の麓には西山氏の墓が祀られている。
 文字から見て、4代城主・西山肥後守通倫のもののようだ。
 裏には昭和43年建立と刻まれている。



河野通堯(こうのみちたか)

 「日本城郭体系第16巻」には、当城の築城年代や築城者が誰であったかは明らかでないとしているが、現地の説明板では築城期を1368年、すなわち南朝方の元号では正平23年、北朝方(室町幕府)では応安元年としている。因みにこの年の後半(11月~12月)、室町幕府は足利義詮が政務を嫡男義満に譲り、12月30日に義満が征夷大将軍となっている。
【写真左】登城口付近
 西側を南北に走る道路と並行して緩やかな坂道の登城口がある。
 登城したのが大分暑くなった6月の後半だったため、連合いは日笠をさして登る。



 花見山城築城を命じた河野通堯については、以前取り上げた土居構(愛媛県西条市中野日明)や、鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)でも紹介しているが、築城期頃(正平23年)の段階では通堯は南朝方に属し、北朝方の四国管領であった細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照)の伊予侵攻に抵抗している。

 正平20年(1365)4月、河野氏の本拠の一つであった高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)を頼之が包囲したとき、通堯は一旦伊予から逃れ、能美島を経由して南朝方の得能氏(由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘)参照)の斡旋で、九州大宰府の征西大将軍懐良親王(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)の下に赴き、拝謁している。そしてその後南朝方の後村上天皇から本領・惣領職を安堵され、名を通堯から「通直」と改名している。
【写真左】三の丸付近・その1
 登城道を登っていくと、最初に現われるのが三の丸跡で、一部は藪化し、残りは果樹園や畑地となっていた。
【写真左】三の丸付近・その2
 三の丸が一番低い郭段で、上掲した想像図ではあまり大きなものでないように描いているが、当時はこの付近も含めさらに南側の低くなった箇所にも中小の郭段があり、船着き場としての施設などがあったのかもしれない。
【写真左】二の丸に向かう。
 手前の畑が三の丸で、奥に2m程高くなった段が二ノ丸に当たる。
 適当にクサムラをかき分けて登る。
【写真左】二の丸から本丸へ
 上掲した想像図では二の丸と本丸に若干の段差を設け区画したように描いているが、現地は時節柄かなり伸びた雑草のためその境ははっきりしない。ただ、手前(二の丸)より少し昇り傾斜となって本丸に繋がっている。
【写真左】本丸跡に建つ祇園神社
 本丸跡の一画には祇園神社が祀られている。
 この日、壁には「例大祭は7月4日(土)午後4時斎行いたします。皆さん、参拝下さい。」と書かれた張り紙があった。
【写真左】三角点
 本丸の西方の少し高いところには「三角点」が設置してあった。海抜24m程度の小丘陵に三角点が設置してあるのもめずらしい。

 このあと一旦降りて外周部に廻る。
【写真左】本丸北側の切崖
 右側が本丸にあたるが、その北側には犬走りのような小さな道がついている。
【写真左】西側から見る。
 雑草などが繁茂していていま一つ明瞭でないが、この辺りの切崖も傾斜がありそうだ。
【写真左】堀江新池
 花見山城の西側には道路を隔てた溜池がある。全国ため池百選の一つで、平成22年3月に農林水産省の選定になっている。



現地説明板より

“新池
 昔、堀江村の田畑へは郷谷川、権現川、大川などの水を引いていたが、その水だけではいつも不足がちで、そのうえ数年に一度は干害にあっていた。これを解決するために庄屋・門屋一郎次が大規模な「溜め池」の築造を考え、村人や松山藩にはたらきかけた。松山藩は、工事費の補助と人夫が食べる米をあたえた。
 村人は一丸となって作業に励み、3年の歳月をかけて1835年(江戸時代後期)、ついに藩内最大の溜め池が完成した。
 めずらしい光景となっている池の中ほどの土手(中土手)は、池があまり大きいため、大風の時にできる波立ちによって堤防が壊されるのを防ぐためのもので、先人のすばらしい知恵をみることができる。
    松山市堀江公民館”
【写真左】権現川と新池
 西側からみたもので、右の小丘が花見山城