2017年4月18日火曜日

信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)

信貴山城(しぎさんじょう)

●奈良県生駒郡平群町大字信貴山
●指定 平群町指定文化財
●別名 信貴城、磯城
●高さ 433m(比高250m)
●築城期 天文5年(1536)
●築城者 木沢長政
●城主 木沢長政・松永久秀
●遺構 郭・堀切・土塁・門跡・石積等
●備考 朝護孫子寺
●登城・参拝日 2007年5月29日、2015年12月1日

◆解説(参考文献『近畿の名城を歩く』仁木宏・福島克彦編等)
 前稿河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)から、生駒山系をおよそ15キロほど南下していくと、東隣に当たる奈良県側には、古刹朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)がある。当院の創建時期については詳細な記録はないものの、平安時代後期に創作されたという国宝『信貴山縁起絵巻』が残されている。
【写真左】信貴山城遠望
 南麓の朝護孫子寺側から見たもの。









 当院は信貴山真言宗総本山の寺院として、本尊は毘沙門天を祀る。そして信貴山は当院の北方に聳える標高433mの山で、おそらくこの山全体が当時の修行僧の場であったものと考えられている。戦国期に至ると、当山に城砦が築かれた。
 信貴山城を本格的に築いたのは、戦国時代前期、室町幕府の草創期その功によって管領の一人となった畠山氏の家臣であった木沢長政といわれている。
【写真左】信貴山観光案内図
 写真中央上部にある山が信貴山城で、朝護孫子側からは多宝塔の脇を通って登山口となる。






現地の説明板より

“信貴山城 
      平群町(へぐりちょう)指定文化財 
      平成5年4月12日指定 
    所在  平群町信貴山1308の1番地 
    所有・管理  信貴山歓喜院朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)

 標高433mの信貴山雄嶽(おだけ)を中心とする山城で、東西550m、南北700mにわたって120以上の郭を配し、奈良県下最大規模を有する中世城郭。
 空堀の切り通し堀、土塁、門等の城郭跡がよく残り、特に高櫓跡は著名で、中世末、織豊期直前の山城跡として保存状況の極めて良好な例で貴重な遺跡。

 信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要衝地として幾たびか築城が繰り返された地である。古くは天智期における高安城中心城域となり、中世には護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置にあった。
 その後、戦国時代に木沢長政、松永久秀が築城入城し、大和を抑える本格的な山城として整備される。
 天正5年(1577)、松永久秀が織田信長に背き、大軍の総攻撃を受け50日間籠城、10月10日に落城。
 その後、廃城となる。

   平群町教育委員会”

【写真左】信貴山城の縄張図
 下方に朝護孫子寺があり、ここから北の方向に向かう。なお、左図は現地に設置されていたモノクロの図に管理人が郭、及び池等を着色したもの。

 説明板にもあるように、規模は大きく、
(1)雄岳地区
(2)雌岳地区
(3)支尾根地区
で構成されている。






木沢長政

 長政の名が知れ渡ったのは天文5年(1536)9月、細川晴元が将軍足利義晴に出仕したときである。このとき、晴元を護衛同行したのが、三好仙熊(後の長慶)、波多野秀忠(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)、並びに木沢長政である(『麓宛日録(ろくおんにちろく)』)。

 長政は元々畠山氏の被官であったが、その後細川高国に、さらに晴元へと鞍替えしていった人物で、その後山城国守護代となり、さらには北河内に進出、河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)に入った。同じ年の6月、大和国守護職を担っていた興福寺が勢力を弱めると、その代役として大和国にも支配を広げ、信貴山城を築いた。この頃の長政の隆盛は目覚ましく、同国支配強化のために、5年後の天文10年7月になると、大和国北東部入口を抑えるため、笠置山城も支配下に置いた。
【写真左】登城口付近
 登城口は上記案内図にもあるように、朝護孫子寺境内を通過し、多宝塔のある脇から向かう。

 写真は、その多宝塔で、鳥居を潜って上に向かう。


 しかし、長政の終焉は早くも翌年に訪れることとなる。この年(天文10年・1541)9月、摂津多田の一庫城(かずくらじょう)(別名山下城)において塩川伯耆守国満による籠城事件が起こった。

 この事件に絡んで長政は細川晴元の命に逆らい、塩川方に与した。これをきっかけに翌年の3月、長政は飯盛山城及び信貴山城などの兵を糾合し、河内守護代・遊佐長教の籠る高屋城を攻めはじめた。同月17日、遊佐長教と三好政長の兵が木沢長政を太平寺(柏原市)で迎撃(「太平寺の戦い」)、この戦いで長政はじめ木沢一族は討死した。
【写真左】登城道
 信貴山城の主郭跡には空鉢護法堂が祀られ、参道でもある。この日も熱心な信者の方々が往来されていた。

 このため、道は傾斜があるものの、整備されていて登りやすい。



松永久秀三好三人衆

 木沢長政が亡くなったあと、信貴山城の城主となったのが松永久秀である。久秀は戦国の三大梟雄の一人といわれている。彼については、既に上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)の稿でも紹介しているが、そもそも何故彼を梟雄と呼ぶようになったのだろうか。

 久秀の出自は不明である。このため誕生年も確定しておらず、一説では永正7年(1510)ともいわれているがはっきりしない。彼が戦国史に初めて登場するのは、三好長慶に仕えた頃で、天文11年(1542)ごろである。当時長慶の下で右筆や訴訟取次などを任されている。
【写真左】雌岳方面
 縄張図でも述べたように、3区域の一つ、雌岳地区に当たる個所で、登城コースから少し逸れるが、南側に伸びる尾根筋に凡そ60mほどの長さを持つ郭。
 残念ながらこの日は、踏査せず遠望のみとした。


 丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の稿でも述べたが、天文20年(1551)7月、三好長慶は京都相国寺の戦いで敵対する細川晴元を破り、その2年後再び晴元の逆襲を退けた。この戦いで久秀は功を挙げ弘治2年(1556)6月、摂津の滝山城(神戸市中央区)の城主となった。このころから久秀は一挙に頭角を現してくる。

 永禄2年(1559)に至って、久秀は大和国に進出、当時大和国は興福寺や筒井氏などが守護職として治めていたが、これを奪取し、この年信貴山城の城主となった。久秀による信貴山城入城は、前任者であった木沢長政を意識したものといわれている。それは、長政が大和国を支配する際、信貴山城を居城としたことが強烈なアピールになったことを知っており、久秀はその先例を意識していたとされる。
 信貴山城を基盤とした久永は、その後河内国にも侵攻し、翌永禄3年には大和国を完全に支配し、本丸には信長に先んじて四階建ての天守を築いた。また当城から北東18キロの位置に多聞城を築いた。
【写真左】雄岳区域の三の丸東端部
 上述したように、雄岳区域西端部が本丸といわれ、そこから東に向かって、二の丸・三の丸と続く。
 なお、写真の切崖から北東及び東へ二つの尾根が続き、それぞれ中小の郭段が連続している。


 この段階までは戦国の梟雄といわれるほどの動きを見せていないが、永禄7年(1564)に主君であった三好長慶が亡くなったころから久秀の動きは先鋭化してくる。長慶が亡くなった直後、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と久秀は三好政権を掌握するが、それも長続きせず、翌年13代将軍足利義輝を暗殺したころから、三人衆と久秀は対立した。
【写真左】空鉢護法堂
 この付近が三の丸から二の丸に向かう位置にあたり、信貴山奥の院すなわち空鉢護法堂の鳥居が建立されている。



 永禄9年(1566)、久秀は畠山高政及び安見宗房と連合し、三好三人衆・筒井順慶らと上芝に戦うが敗退、その後再起を図るものの、再び三人衆に駆逐され遂に大和国の領地を失った。しかし、三人衆が担いでいた長慶の継嗣・義継が彼らと袂を分かつと、久秀は義継と連携し、再び信貴山城を奪還、奈良東大寺に拠った三人衆を攻撃、この戦いで大仏殿が焼失した。永禄10年(1567)10月10日のことである。

 この2か月前、織田信長は美濃の斉藤龍興を稲葉山城に破り、当城に入城、名を岐阜城と改名した。久秀と三好三人衆による攻防が決着しないまま、信長の足音は次第に京の方へ響くようになった。
【写真左】「信貴山城」の幟
 二ノ丸の一画にはご覧の様な幟が数本建っていた。







織田信長上洛

 永禄11年(1568)9月26日、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。三好三人衆は信長の脅威に恐れをなし逃亡、利あらずとみた久永は抗することもなく信長の前にひれ伏し、大和一国と河内半国を安堵された。同年10月18日、足利義昭は室町幕府の第15代・征夷大将軍に任じられ、久秀は義昭の臣下となる。

 しかし、義昭と信長の良好な関係は長くは続かなかった。二人のこうした変化は久秀の目にも留まっていたのだろう、元亀2年(1571)久秀は密かに甲斐の武田信玄に通じ、信長に反旗を翻した。久秀の変質の背景には多分に義昭の意向も働いていたのだろう。
【写真左】二ノ丸から本丸に向かう。
 雄岳区域の尾根幅は10~15m程度と狭いが、総延長は100m近くになる。

 東から西に向かって50m程度進むと、そこから少し高くなって本丸に繋がる。



二度にわたる久秀反旗

 久秀が最初に信長に対し反旗を翻したのは元亀3年(1572)である。この年の9月、信長は足利義昭に対し「異見十七箇条」を提出して失政を諌めている。これがきっかけとなって義昭は反信長へと態度を変えていくことになる。

 反信長の包囲網がさらに拡大したのは、翌天正元年・元亀4年(1573)の2月ごろである。主だった面々は、義昭はじめ、武田信玄、本願寺光佐(顕如)、朝倉義景、浅井長政らで、久秀自身は義昭の命を受け、その画策に動いていたものと思われる。しかし、その包囲網を画策した矢先、最も頼みとしていた武田信玄が西上途中の信濃国で病没した。このため、義昭らが計画した信長包囲網の策は実現できなくなった。ところで、皮肉にも反信長の態度を示した者の中には、久秀と対立していた三好三人衆もいた。
【写真左】「信貴山城址」の石碑
 二の丸付近に建つ石碑









 包囲された信長は直ちに、討伐に向かうべく上洛し、首謀者・足利義昭を二条城に囲み(4月4日)、7月には逃れた義昭が拠った宇治槙島城を攻略、義昭はついに京を離れ、河内若江城に逃亡し、ここに室町幕府が滅亡した。

 同年(1573)12月、久秀は信長に降伏した。信長の性格からいえばこの段階で久秀は誅滅されてもおかしくないが、どういうわけか信長は久秀を許している。信長には久秀を生かすことによる何らかの目論見があったのだろう。
【写真左】本丸
 旧本丸跡で、空鉢堂が建立されている。
 長径(東西)凡そ20m×短径(南北)10m前後と小規模な郭だが、現在多くの祠や鳥居が建立されている。

 この場所に天守が建てられていたというが、地形・地盤を考えると、基礎として石垣を積まず礎石を要所に配して建てた天守だったのだろう。


久秀、信貴山城にて爆死

 しかし、久秀がその後信長と良好な関係を持つことはなかった。具体的な理由は分からないが、天正3年(1575)、信長は久秀に対し大和国知行をはく奪、久秀のもう一つの居城であった多聞城も放棄せざるを得なくなった。このため、久秀は越後の上杉謙信に救いの手を伸べ、再び信長に敵対する構えを見せた。
【写真左】主郭から南方を俯瞰する。
 時期にもよるだろうが、天守跡(空鉢堂)から望む視界は思ったほどよくない。

 写真は登ってきた南方面で、遠くには紀伊山地の山並みが控える。


 天正5年(1577)8月、信長は家臣で茶人でもあった松井友閑を遣って久秀の真意を質そうとしたが、久秀は友閑の面談に応じなかったため、信長は同月10日、嫡男信忠を総大将とし、明智光秀・筒井順慶を中心とした軍勢を派遣、信貴山城を包囲した。

 もはやこれまでと悟った久秀は、信長が欲しがっていた名器「平蜘蛛茶釜」を叩き割り、信貴山城と共に爆死したという。天正5年(1577)10月10日のことである。なお、久秀の生誕年は確定していないが、永正7年(1510)頃といわれているので、亡くなった時は68歳だったと考えられる。
【写真左】主郭南側
 縄張図にもあるように、主郭周囲は険しく、特に南側は見ごたえのある天険の要害である。

 このあと、支尾根地区のひとつで、松永屋敷跡といわれている北側の郭群に降りていく。



 因みに、この2か月後の12月3日、播磨では秀吉が上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)を攻略し、その城番として尼子再興軍の尼子勝久及び、山中鹿助らが三木城(兵庫県三木市上の丸)から移ることになる。
【写真左】松永屋敷周辺部の縄張図
 支尾根地区の一つで、北側に伸びる尾根筋郭群をズームしたもので、登城したこの日、「立入殿屋敷」及び通称「松永屋敷」といわれる箇所が描かれている。

 なお、整備されている箇所はこの尾根筋のもののみで、他の郭群は今のところ整備されていないようだ。

【写真左】立入殿屋敷(たていり とのやしき)
 主郭のほぼ真北に伸びる尾根伝いに築かれた郭段の一つで、立入殿は、久秀家臣であった立入勘介のことを指すのであろうか(『『近畿の名城を歩く』)、としている。
 長径(南北)40m×短径(東西)20mの規模を持つ。
 写真は東側から見たもので、左側に急峻な切崖を持つ主郭が控える。
 このあと、さらに北の尾根筋に向かう。

【写真左】松永屋敷・その1
 左側の切崖上部に「立入殿屋敷」があり、そこからかなりの高低差をもって「松永屋敷」の郭群が連続する。

 なお、現地縄張図では上段から下段までおよそ6段の郭が連続し、それらを総称して「松永屋敷」の郭群としているが、史料によればこのうち、上段半分までは木沢氏時代の「古屋敷」ともいわれ、残りの下段のものが「松永屋敷」とされている。
 また、「松永屋敷」の松永は別名「弾正郭」すなわち、久秀の郭とされているが、別説では一族の秀長ともいわれている。
【写真左】土塁
【写真左】上の段と下の段
【写真左】土塁
【写真左】土塁と簡易タラップ。
 タラップの位置は虎口か
【写真左】振り返ってみる。
 さらに下の段に向かう。
【写真左】綺麗な郭
 上部から何段目の郭だったのか覚えていないが、このあたりから後期(松永久秀時代)の郭かもしれない。
【写真左】東側斜面
 右上が松永屋敷関係の郭段がある個所で、下の道になっている箇所から見たもの。
なお、この左側にも郭群があるようだが、雑木などで覆われていて確認できない。

2017年3月31日金曜日

河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)

河内・飯盛山城(かわち・いいもりやまじょう)

●所在地 大阪府四条畷市南野・大東市大字北条
●別名 飯盛城
●高さ H:314m(比高300m)
●築城期 建武年間(1334~38)
●築城者 佐々目憲法又は木沢長政
●城主 木沢長政、安見宗房、三好長慶、三好義継等
●廃城年 天正4年(1576)
●遺構 石垣・竪堀・畝状竪堀群・堀切・井戸等
●登城日 2015年6月7日

◆解説(参考文献 『日本の山城 100名城』洋泉社発行、【週刊】ビジュアル戦国王[029]㈱ハーパーコリンズ・ジャパン等)

 飯盛山城は生駒山系の北西端尾根筋にある飯盛山山頂に築かれ、特筆されるのは南北におよそ1キロ余り(明確な遺構区域は650m前後)の規模を持ち、安土城に先行する総石垣の可能性が高い山城とされていることである。
【写真左】飯盛城の石碑
 本丸高櫓郭付近に設置された石碑









現地の説明板より

“飯盛城

 飯盛城は、生駒山地の北部にそびえる標高314mの飯盛山に築かれた中世の山城です。
 飯盛山は、東側に深い谷を有し、北と西側は非常に険しく、また河内平野や遠くは京都まで一望できることから、軍事的に重要な場所とされていました。そのため、南北朝時代には城が築かれたと推定され、本格的に整ったのは畠山の家臣・木沢長政(きざわながまさ)が居城とした享禄4年(1531)の頃とされています。
【写真上】飯盛山城の案内マップ
 左方向が北を示す。尾根を境に上(東)が四条畷市で、下(西)が大東市の区域になる。

 主だった遺構は、尾根筋上に南側から南丸・本丸千畳敷郭・本丸高櫓郭・本丸展望台郭・本丸倉屋敷郭・本丸三本松郭・二の丸御体塚郭・二の丸史蹟碑郭があり、本丸千畳敷郭の東方には現在楠公寺が建っている馬場がある。
 また、石垣が確認されているのは、本丸東斜面と、二の丸御体塚郭の東斜面である。


 その後、交野(かたの)の土豪であった安見直政(やすみなおまさ)が城主の時期もありましたが、永禄3年(1560)には、室町幕府の実力者であった三好長慶が畿内平定の本拠地として入城し、政治・文化の中心地となりました。また、長慶はキリスト教にも寛容で、城下での布教を許可し、多くの家臣がこの城で洗礼を受けています(河内キリシタン)。
 
 長慶が城主であった全盛期には、南北約1,200m、東西500mの城域に、大小約70の郭(防御するための場所)が築かれていたとされ、全国でも有数の山城といえます。
 しかし、長慶も入城の4年後には亡くなり、天正4年(1576)頃には、織田信長の勢力によって廃城になりました。
       平成22年2月  大東市教育委員会”
【写真左】楠公寺
 飯盛山城の東南麓に建立された寺院で、馬場跡だったところ。

 その名称から分かるように、南北朝期南朝方として戦った楠木正成を顕彰する目的で、楠公寺と命名された。それまでは、妙法寺という名前であったが、昭和23年、後の総理大臣となる池田勇人氏が名付け親となって、この寺名にしたという。


戦国期初の天下人

 戦国期に最初の天下人となった武将といえば、織田信長とされている。しかし、兵を率いて京へ上洛し、その名を天下に知らしめたという点でいえば、信長に先立つ8年前の三好長慶による行動もそれに近いものがあった。

 もっとも、長慶の絶頂期は、弘治4年(1558)から永禄6年(1563)頃までの5年間という短い期間であった。主君であった細川政権にとってかわった長慶は、その後室町幕府将軍足利義輝を京から放逐したが、永禄元年(1558)11月、六角義賢(よしたか)佐和山城(滋賀県彦根市佐和山町)参照)の仲介によって、義輝と和睦、これにより義輝は5年ぶりに京へ戻ることができた。
【写真左】上に向かう。
 楠公寺の脇を通り抜け、北に進むと、やがて階段があり、この階段を登ると、本丸千畳敷郭と、本丸高櫓郭の境にあたる尾根に到達する。



 そして長慶が最も晴れがましい表舞台に立ったのは、その2年後(永禄3年)の正月、正親町天皇の即位式で、警固役を務めたときである。このとき、長慶はその費用に100貫文を進上している。そしてその年(永禄3年)の11月、長慶はそれまでの居城であった芥川山城(大阪府高槻市大字原)を息子の義興に譲り、河内の飯盛山城へ移り居城とした。

 長慶が飯盛山城へ移った理由は様々に考えられるが、それまでの芥川山城よりも、地の利があったということだろう。この場所は河内国の東端部に当たり、大和(奈良)にも近く、京からは少し離れるが、当時の大坂湾に近く、本国阿波にもアクセスが容易である。また、当時飯盛山城の西麓には深野池という大きな湖があり、ここから西に向かって大阪湾に注ぐ河があったことが知られており、その川を下ると途中で、大坂本願寺に接岸できた。

【写真左】本丸高櫓郭の東面
 おそらく右側斜面に石垣の一部があったのだろうが、ご覧の様に草が生い茂っていたため、見過ごした。




 さらに戦略的に見ると、のちに敵対する畠山高政の居城がある高屋城(安閑天皇陵:大阪府羽曳野市古市)を、長慶の弟・十河一存の守る岸和田城と挟む位置にあったことも理由の一つだったと思われる。従って、長慶をはじめとした三好一族は、本国阿波を除いて概ね畿内では河内・和泉両国を基盤としてシフトしていくことになる。

 因みにこの頃、三好氏が畿内を統治していたときの各国の拠点は、時期に多少の誤差はあるものの、次のような配置になっていた(福島克彦『畿内・近国の戦国合戦』)。
  • 山城国 淀城 ― 細川氏綱
  • 摂津国 芥川山城 ― 三好義興
  • 大和国 多聞城・信貴山城 ― 松永久秀
  • 和泉国 岸和田城 ― 十河一存
  • 丹波国 八木城 ― 松永(内藤)宗勝。 八上城 ― 松永孫六
  • 淡路国 炬口城 ― 安宅冬康
  • 阿波国 勝瑞城 ― 篠原長房
  • 讃岐国 十河城 ― 十河一存
  • 河内国(北部) 飯盛山城 ― 三好長慶
  • 河内国(南部) 高屋城 ― 三好実休
【写真左】西方に大東市や大阪市街地を俯瞰する。
 登城したのが、午後4時を回っていたことから少し薄暗く、視界は良くなかったが、それでも大阪市内の高層ビル群や、遠く淡路島の影が確認できた。


三好一族の崩壊

 河内・飯山城に移った長慶であったが、その後は彼にとって不運が続き、三好一族の崩壊が始まることになる。永禄4年(1561)、長慶の弟で、岸和田城主であった十河一存が病没した(十河城(香川県高松市十川東町)虎丸城(香川県東かがわ市与田山)勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)参照)。
【左図】三好氏略系
 以前にも述べたように、阿波三好氏は小笠原長清を始祖とし、義長の代に三好氏を名乗り(異説あり)、以後、長秀の代に長子・元長が継ぎ、弟康長は岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)となった。
 


 明くる永禄5年(1562)、今度は長慶のすぐ下の弟・実休が畠山高政及び根来寺らとの戦いで、和泉久米田に討死した。そしてさらに追い打ちをかけるように、翌6年8月には長慶の嫡男・義興が芥川山城において病死する。

 これだけ短期間に身内の不幸が続いたため、長慶にはよほど心身ともに堪えたのだろう。次第に冷静な判断ができなくなり、翌7年5月、部下の松永久秀の讒言を信じた長慶は、最後に残っていた弟・安宅冬康までも飯盛山城内で誘殺してしまった。そしてその2か月後長慶は波乱にとんだ生涯を終えた。享年43歳であった。
【写真左】本丸高櫓郭に向かう。
 本来は先に南端部の千畳敷郭(本丸)から踏査すべきだったが、この段階では位置関係が分からず、この郭から踏み込んだ。
【写真左】本丸高櫓郭
 写真にはないが、この郭東面がすべて石垣が構築されていることが近年の調査で判明している。
【写真左】楠木正行の銅像
 昭和12年6月建立された楠木正行(まさつら)の像
 正行は楠木正成の嫡男で、父・正成が通称「大楠公」、正行は「小楠公」と呼ばれている。
 父正成とともに南朝方の忠臣として北朝方の高師直らと戦ったが、正平3年・貞和4年(1348)1月5日、同国北條(現 四条畷市)で敗北し、弟正時らと自害した。

 この正行の子が池田教正で、冒頭の楠公寺の命名者が池田勇人となっているのはその末孫であったからとされている。
 なお、正行の墓は四条畷市雁屋南町に「小楠公御墓所」として祀られ、飯盛山城の北麓には正行を主祭神とした四条畷神社が建立されている。
【写真左】本丸高櫓郭の西側斜面
 草木が生い茂っているため明瞭でないが、極めて急峻な崖となっている。
【写真左】西方を望む
 飯盛山城は南北に伸びる尾根筋に築城されているが、東側にはかなり深い谷があり、結果的にこれが東からの侵入を防いでいる。
【写真左】北隣の本丸蔵屋敷郭に向かう。
 上掲した図面以上に段差があり、階段を使って降りていく。
【写真左】本丸蔵屋敷郭
【写真左】本丸三本松郭方面
 更に北に進もうとしたら、中央に看板があり、「ハイカーのみなさまへ 旧飯盛山登山道は、法面崩壊の恐れがあり、危険です。新道へお回りください。」との看板が立っている。
 このため、この付近で一旦東側の脇道に降りる。
【写真左】本丸三本松郭
 このあたりからどの郭だったのか、はっきりしない。各郭に標記されたものがないため断定はできないが、おそらく三本松郭だと思われる。
【写真左】二ノ丸御体塚郭
 奥には「登山参百回記念」の石碑が建つ。
【写真左】石垣
 二ノ丸御体塚郭の東斜面に残るもので、3か所に分散している。
 石垣は上述したように、本丸側にもあるということだが、時節柄草木が生い茂り、その箇所は確認していない。
 この辺りでUターンし、南側郭群に向かう。
【写真左】土橋
 途中で通過した箇所。登城した時期が良いともう少し明瞭に確認できると思われる。
【写真左】本丸千畳敷郭
 冒頭で紹介した本丸高櫓郭の南側にある郭で、中心部には現在、NHK・FM大阪送信所などの建物が建っている。
【写真左】南丸
 当城最南端にある郭で、本丸千畳敷から見たもの。なお、その境には虎口が設けられている。

2017年3月17日金曜日

芥川山城(大阪府高槻市大字原)

芥川山城(あくたがわさんじょう)

●所在地 大阪府高槻市大字原城山(三好山) 
●高さ 180m(比高70m)
●築城期 永正12年(1515)
●築城者 能勢頼則(細川高国)
●城主 能勢氏、細川晴元、三好長慶、和田惟政、高山友照等
●廃城年 元亀4年(1573)
●遺構 郭、堀切、竪堀等
●備考 三好山
●登城日 2015年6月7日

◆解説(参考文献 『日本の山城 100名城』洋泉社発行、HP『城郭放浪記』、高槻市HP等)

 芥川山城は旧摂津国にあって、淀川に注ぐ支流芥川の河口から凡そ9キロほど遡った三好山に築かれた山城である。
 三好山の西から北にかけて芥川が囲むように流れ、特に西側は摂津峡という切り立つ溪谷があり、天然の要害を持つ場所である。
【写真左】芥川山城遠望
 登城途中に東麓から見たもの。
当方から見ると、なだらかな山にみえるが、西側には摂津峡があり、急峻となっている。



当城については、地元高槻市のHPに次のように紹介されている。

“芥川山城
 夫婦岩・八丈畳などと称される奇岩や断崖が続く摂津峡は、摂津の耶馬溪ともいわれ、大阪府の名勝にも指定されている景勝地。そのすぐ東側の三好山に天然の要害をもつ芥川山城跡があります。三方を芥川に囲まれ、残る一方は断崖となっており、山そのものが難攻不落の砦となっています。

 ここは、三島平野、遠くは生駒山系を臨み、眼下には、西国街道や芥川宿を見通すことができる位置にあり、かつ、亀岡へと続く間道がありました。また、芥川を下ると水上交通の要、淀川に至る立地など、政治上・戦略上において重要な場所でもありました。
芥川山城の遺構は主郭・副郭・土塁・堀切という中世山城の要素を備えており、その様子が今も残っています。
【写真左】登城口
 この辺りは道が狭く、駐車スペースもほとんどないため苦労した。確実なのは南麓にある摂津峡公園の駐車場に停めていくのがいいだろう。
 因みにここから「三好山へ40分 (三好長慶 1553年入城) 三好芥川城の会」という看板が設置されている。



   芥川山城は、永正13年(1516)連歌師柴屋軒宗長が芥川の能勢因幡守頼則の築いた新城に祝いの気持ちを込めてつくった冒頭の句から、この時期に完成したものと考えられています。

 天文2年(1533)には、細川晴元が入城し、京に移った後、芥川氏が入り、幾度かの城主の入れ替わりののち、天文16年(1547)三好長慶(ながよし)が城を支配。家臣、芥川孫十郎が城主となります。
 天文22年(1553)長慶は入京を果たしました。しかし、孫十郎が謀反したため、三好山に隣接する帯仕山に陣を構え、開城させて、孫十郎を阿波へ追放して長慶が入りました。
【写真左】本丸まで25分の位置
 芥川山城は①東方曲輪群、②出丸曲輪群、③主郭曲輪群で構成されている。
 写真はそのうち、最初に見えてくる①東方曲輪群で、このあたりから中小の郭群が確認できる。


 以後、7年間、長慶は山城に在城し、その間、真上・郡家の水争いや、芥川流域の灌漑用水を整備するなど、領地支配にも力を注いだほか、著名な歌人らを招いて連歌の宴を催すなど、文芸を愛した様子もうかがえます。この頃がこの山城の最も華やかで生き生きとした時代であったといえるでしょう。
 永禄3年(1560)長慶は、飯盛城(四條畷市)に移り、息子義興が城主となりますが、永禄6年(1563)22歳の若さで没します。讃岐石の墓石が建つその墓は、霊松寺(天神町二丁目)にあって「三好のカンカン石」とよばれています。
【写真左】石垣・その1
 これも①の東曲輪群で、孟宗竹が繁茂しているが、石垣が残る。







 その後、永禄11年(1568)織田信長の側近、和田惟政(これまさ)が入城、翌年惟政は高槻城も与えられ、2城の主となりました。惟政自身は高槻城へ入り、家臣の高山飛騨守が城主として芥川山城に入ります。以後、政治の拠点はしだいに高槻城へと移っていきます。

 多くの武将が入城し、単に北摂の一山城であるということに留まらず、時に最高権力者の拠るところとなり、一時は近畿一円を勢力下とした芥川山城。 やがて、高槻城の発展とともに、歴史の表舞台から姿を消していきました。” 
【写真左】石垣・その2
 前記のものと同じく石積が施されている。おそらくこの郭にも建物があったのだろう。


 




 
三好長慶

 芥川山城の城主は上掲したように、目まぐるしく変わっていくが、その中でも三好長慶が深くかかわっている。彼については、これまで勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)の稿などで述べてきているが、長慶も含めた三好一族がもっとも活躍していった地域は芥川山城を含めた畿内であった。
【写真左】上ノ口と三好山方面との分岐点
 東方曲輪群の西端部だったと記憶しているが、この位置で北に向かう道(上ノ口)と分岐する。

 なお、写真の平坦部も郭と思われる。



 因みに、長慶が畿内で活躍した際、関わった城砦としては、時系列で列記すると次のようになる。
  • 天文8年(1539)   ~  越水城(西宮市)
  • 天文22年(1553) ~  芥川山城(高槻市)
  • 永禄3年(1560)   ~  河内・飯盛山城(四条畷市)
勝瑞館の稿でも少し述べているが、長慶が畿内をほぼ手中に収めていた時期は、この芥川山城時代である。彼はこの時期、本来ならば在京して、将軍を補佐するいわゆる管領職になってもおかしくないが、このころ京都は極めて不安定な政情であったため、あえて主君であった細川氏のような在京志向を持たず、なおかつ自ら管領職を望まず、むしろ京から少し距離をおいた摂津の山中に居城を営み、いわば政庁機能を当城に置き、政務を執り行ったとされている。
【写真左】土塁
 ①の東曲輪群を過ぎて少し西進すると②の出丸曲輪群に至る。

 このエリアは、①東曲輪群と③主郭曲輪群の間に介在するところで、中心部に出丸を設け、そこから南に凡そ50m程降った尾根筋に曲輪群を配置している。
 当時はこの出丸側の西方に大手道が設けられていた。


 室町幕府の体制が次第に瓦解し、代わって専制体制をとりつつあった細川氏の下にあって、幕政を支えていく立場であった長慶である。しかし、管領職の細川氏自体が将軍家と同じく一族内において対立が深まっていった。
 こうしたことから、在京することはむしろリスクが高まると予想したのだろう。芥川山城にこだわった長慶の思惑がみてとれる。
【写真左】虎口
 出丸の西隣にある土塁上に設けられているもので、ここを下りると先ほどの大手道に繋がる。




【写真左】主郭曲輪群に向かう。
 出丸曲輪群を過ぎると、5m前後の切崖を構えて低くなるが、そこから西に向かう道が付けられている。また、途中には土橋が介在している。

 この写真では左側(南)に大手道があったものと思われる。
【写真左】堀切
 しばらく歩いていくと堀切が見える。
 写真では高低差が感じられないが、出丸曲輪群と主郭曲輪群の境にあたることから設けられたものと思われる。
【写真左】石碑
 このあたりから主郭曲輪群の区域に入っているが、中小の細長い郭が繋がり、両端部の切崖も傾斜が険しくなっていく。

 写真は「史蹟 城山城跡」と筆耕された石碑。
【写真左】主郭曲輪群を見上げる。
 このあたりから中心部に当たる主郭を取り巻く郭段が西側上方に見え始める。
【写真左】主郭曲輪群
 次第に登り坂となり、左右に郭段が見え始める。右側の坂を進む。
【写真左】高槻市街地を望む。
 登城途中は殆ど孟宗竹などに覆われ、城下の町並みは見ることは出来ないが、主郭南側のこの位置に来ると、木立の間から南に高槻の市街地が視界に入る。
【写真左】主郭南直下の郭付近
 登城したこの日、この付近だけは伐採作業されていたため、明るくなっていた。

 写真中央の坂を上ると主郭に繋がる。
【写真左】主郭に向かう。
 主郭の手前には南北に長い2段の郭が控え、その入り口には虎口のような遺構が見える。
【写真左】やっと主郭が見えてきた。
 手前の郭段の右側に道があり、この道を北に向かうと主郭に繋がる。
【写真左】主郭へ向かう。
 南端部に登り口があり、そこから向かう。
【写真左】主郭南端部
 登りきると、予想以上の広さの郭となっている。
 写真は南側を見たもの。
【写真左】主郭・その1
 主郭の手前の郭から凡そ1m程度高くなった段が中央部の郭で、幅20m×奥行50m前後の規模。
【写真左】帯郭
 主郭の西側下には南側から回り込んで帯郭が付随している。現在その箇所には果樹が植えてある。
 右奥の山には摂津峡公園がある。
【写真左】祠「水の神」
 長慶は芥川山城にあったとき、地元芥川にかかわる水利権問題を適切に処理していた(「裁許状」)ことから、後に彼を「水の神」として祀ったとしている。

 戦国時代といえば、武士による戦さのみが強調されがちだが、室町期から戦国初期にかけて、地元の領主たちは食糧確保のため、積極的に水の管理をしていた。特に、新たに堰を設ける際、どの位置に設定し、どのように配水していくか、地元名主たちの意見を聞き入れながら、管理運営していた。
【写真左】本丸中央部の石碑
 現在は草木で埋もれているが、近年発掘調査が行われた際、多くの礎石建物跡が発見されている。

 往時、京都の公家や僧侶が度々当城に赴き、歓待を受け宿泊もしたというから、主だった郭には相当数の建物があったと思われる。
 特に初期の細川高国のころは、彼の趣味であった庭園なども造成されていたのかもしれない。
【写真左】主郭北東部の郭
 主郭の東面から北西に伸びる尾根筋上にもかなり大きな郭が配置されているが、これらの郭は主郭から5~10m程度の高低差を持つ。
【写真左】芥川山城から南方を俯瞰する。
 本丸跡から南を見ると、生駒山系から北東に延びる稜線が見える。

 手前の雑木などがないと、長慶が後に移ることになる河内・飯盛山城が見えると思われる。