2017年5月15日月曜日

長見山城(広島県安芸高田市甲田町下小原字内長見)

長見山城(ながみやまじょう)

●所在地 広島県安芸高田市甲田町下小原字内長見
●築城期 南北朝
●築城者 渡辺氏
●城主 渡辺次郎左衛門等
●指定 安芸高田市指定史跡
●高さ H:241m(比高46m)
●規模 500m×100m
●形態 山城
●遺構 郭・空堀等
●登城日 2014年11月14日

◆解説(参考文献『安芸高田お城拝見 山城60ベストガイド編者安芸高田市歴史民俗博物館、『日本城郭体系 第13巻』、『知将 毛利元就』池亨著等)
 中国地方最大の河川江の川は、別名中国太郎とも呼ばれ、多くの支流を持つが、そのうち広島県内に流れる主流を別名可愛川(えのかわ)とも呼んでいる。

 毛利氏居城の吉田郡山城の東麓を国道54号線と並行して流れている水系がそれに当たるが、この川はそこから少し下った位置となる甲田町下小原付近で、南側から流れてきた戸島川と合流する。この戸島川を2キロほど遡ると西岸に長い小丘陵の小山が見える。これが長見山城である。
【写真左】長見山城遠望
 長見山城の北東部内長見という地区から見たもの。
 北側から緩やかな棚田となって下がるが、この長見山城の小丘陵のみが独立して東西に伸びている。


現地碑文より

“長見山城址由緒
 延文2年中村澄晴築城、康暦元年孫元定高原庄に移る 後毛利家臣渡辺氏入城 大永四年城主次郎左衛門元就の意に逆い 郡山に於いて殺されその家族七人亦内長見山土居に於いて殺され 男太郎左衛門遁れて比婆山内氏に走り 後許されて飯城大いに軍功あり 其子飛騨守慶長五年毛利氏防長移封の際従い 之に移り余後廃墟と化す

昭和四十六年四月吉日
渡辺媛夫氏夫妻の特志により建立”

【写真左】北側の段
 正式な登城口が南側にあることを知らず、たまたま北側をウロウロしていたら登城できそうなコースが見つかったので、ここから向かった。

 少し広くなった段には墓地があった。近世のものだろう。
 小郭段のようだ。


渡辺氏

 吉田郡山城・その1(広島県安芸高田市吉田町吉田)でも述べたように、毛利氏が当地安芸高田に根を下ろしたのは建武3年(1336)、時親のときで、このとき随従してきたのが渡辺氏をはじめとする諸氏である(『高田郡史』)。
  1. 渡辺太郎左衛門勝
  2. 赤川美作守忠政
  3. 同筑前守義重
  4. 粟屋掃部親義
  5. 粟屋某
  6. 飯田左衛門佐師貞
  7. 市川源太兵衛武延
  8. 三戸孫三郎頼顕
  9. 三代久弥
  10. 児玉某
  11. 佐藤某
  12. 山縣某
  13. 多田中務大夫義政
  14. 高 右衛門尉師次
  15. 横見太郎右衛門某
 なお、これら随従者の家筋については諸説があり、市川系譜、反古袋巻末付紙には渡辺氏の名が見えるが、反古袋並びに江家秘録集には渡辺氏の名が見えない。
【写真左】郭段
 北側の斜面を歩きやすいコースをみつけながら登っていくと、ご覧の段差のついた郭群がでてきた。

 長見山城は尾根幅がせまいこともあって、郭の幅も殆ど尾根幅いっぱいに使われている箇所が多い。



 さて、戦国期に至り元就が毛利氏の家督を相続したのは、大永3年(1523)の8月である。幸松丸の死去に伴い、郡山城内において急きょ宿老間で次の後継者を決める合議が行われ、その間元就は多治比猿掛城で結果を待っていた。
【写真左】南側から回り込む。
 右上が本丸天端にあたり、南側の帯郭付近から上を目指しながら回り込む。






 ところで、この合議の前、元就を推薦し本人の同意を促す役目をしていたのが、長見山城を本拠としていた渡辺勝などである。

 最終的に元就が毛利氏の家督を相続し、吉田郡山城の城主となるが、元就は、これら宿老たちに対し、連署による要請状を書かせている。元就らしい慎重さである。この要請状に名を連ねた宿老の面々は次の15人である。

(1)一族
  1. 志道広良
  2. 福原広俊
  3. 桂 元澄
  4. 坂 広秀 ⇒ のちに殺害される
(2)譜代家臣
  1. 渡辺 勝  ⇒ のちに郡山城にて殺害される
  2. 粟屋元秀
  3. 赤川元助
  4. 赤川就秀
  5. 飯田元親
(3)国人領主
  1. 中村元明
  2. 井上就在
  3. 井上元盛 元就の多治比・猿掛城時代、領地を奪い取っている。
  4. 井上元貞
  5. 井上元吉
  6. 井上元兼
※ 井上一族は後の天文19年(1550)元就によって誅滅される(阿賀城(広島県安芸高田市八千代町下根)参照)。
【写真左】本丸・その1
 この箇所のみ綺麗に維持されている。中央部には観音堂が祀られている。
 なお本丸は東西へ凡そ30m程伸びた部分と、西側で尾根の形状に合わせ少し南側に折れた部分とで構成されている。


渡辺・坂一派の誅滅

 元就が毛利氏の家督を相続して間もなく、連署状に名を連ねていた渡辺勝・坂広秀らが実は、元就とは別に元就の異母弟・相合元綱を擁立しようと画策していたことが判明した。その裏では尼子氏の重臣亀井秀綱と二人が気脈を通じていたといわれる。これを知った元就は二人を含む一派の誅滅を断行した。
 このことについては、現地長見山城の麓にある「渡邊(わたなべ)七人塚」にその経緯が掲示されている。
【写真左】長見山城の石碑
 観音堂の前には石碑が建立されている。

 寄付者(寄贈者)名として、5人の渡辺氏の名が筆耕されている。末孫の方々のものだろう。
 昭和43年とあるから半世紀近く前に建立されている。


“渡邊七人塚

 毛利元就の本家相続後、元就の弟の相合元綱を擁立しようとした坂・渡邊一派は、密かに尼子の老臣亀井秀綱などと通じて機をみて元就を除こうとした。元就は早くもこの陰謀を探知し、元綱を殺すとともに、その一味を自殺させ、渡邊長門守勝については、郡山城において殺害。内長見に居住していた渡邊氏一門7人を殺害させた。
 七人塚は、その一門を葬ったといい、石塔4基、桜1本、榎2本を植えて墓標とした。
【写真左】「渡邊七人塚」の標識
 この写真は、10年前の2007年7月に探訪したもので、現在もこの標識があるのか分からないが、件の塚は私有地にあるため、所有者の方に許可を得て参拝した。


 このとき、渡邊勝の長男虎市は、家臣に守られ備後山内家に保護され、成人の後許されて毛利家に帰参し、渡邊太郎左衛門通(とおる)と名乗り家名を再興した。
 現在は石塔1基が移設され、5基となっている。それぞれの墓標の詳細については不明。また、桜・榎は現在枯死している。
    甲田町教育委員会”
【写真左】「渡邊七人塚」
 説明板にもあるように、現在は2基無くなり、5基となっている。いずれも小さな五輪塔形式のもの。

 武功を挙げた武将なら立派な墓なのだろうが、元就を裏切った者たちなので、誅殺されたあと、地元内長屋の民が慮ってあえて目立たない墓石として建立したのだろう。


遺構等

 比高40m余りの丘城であることもあって、特筆されるめぼしい遺構はあまりない。長見山城は中央部に最高所の本丸(長見山観音堂を祀る)を置き、ここから少し離れた尾根伝いの西側に3,4段の郭が構成され、東側は本丸東端部に小規模な堀切を介して、細長い郭状の平坦地を構成している。

 礎石の有無は不明だが、形態を考えると尾根筋上に何棟かの建物が建つ館があったものと推察される。
【写真左】本丸・その2
 本丸部分は綺麗に保持されている。定期的に清掃作業がされているのだろう。
【写真左】帯郭
 本丸の東西には小規模な腰郭や帯郭などが付随している。

 このあと、尾根伝いに西側に向かう。
【写真左】薬研堀か
 本丸の西側へ尾根伝いに凡そ70m程向かうと、底面がフラットになった小規模な薬研堀のような堀切がある。

 この左側には切崖状の段が控えている。
【写真左】切崖
 高低差は5,6m程度のものだが、人為的に手が加えられた切崖がある。ここを先ず登ってみる。
【写真左】土塁
 登ると、東端部側には幅1m、長さ10mほどの土塁が設置されている。
【写真左】郭段
 土塁が設置されている郭(約20m四方)を頂部とし、さらに西に向かって3,4段の郭が連続する。
【写真左】石碑
 変わった書体で書かれている。読めない。
  このあと、再び本丸方向へ戻り、東側の尾根に向かう。
【写真左】竪堀か
 本丸側郭群の東端部北側斜面に見えたもので、かなり崩れているため残存度はいま一つだが、深さは十分にある。
【写真左】東郭群
 東に進むと次第に尾根は狭まり、先端部は突起形状となる。

 写真はその尾根北側を見たもので、たまたまこの面のみが伐採されていて、見晴らしはすこぶる良かった。
【写真左】長見山城登山口
 探索していたら、南側にご覧の標柱がみつかった。本来はここから登城すべきだったが、この場所が分かりにくい。
【写真左】山田川
 長見山城の南麓を流れる川で、戸島川と合流している。右側が長見山城。

 なお、北側にも小川が流れており、両川とも濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】遠望
 今度は南側から東端部方面を見たもの。南麓部には数軒の民家が建っている。

2017年5月10日水曜日

多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比)

多治比・猿掛城(たじひ・さるかけじょう)

●所在地 広島県安芸高田市吉田町多治比
●指定 国指定史跡
●別名 猿掛城・多治比城
●高さ 432m(物見櫓)(186m)
●築城期 不明(明応年間か)
●築城主 毛利弘元か
●城主 毛利弘元
●遺構 郭、堀切、土塁等
●登城日 2014年11月14日

◆解説(参考資料 『知将 毛利元就』池亨著、HP『城郭放浪記』等)
 多治比・猿掛城(以下「猿掛城」とする)は、毛利元就が居城とした吉田郡山城から、多治比川沿いに西へ徒歩でおよそ5キロほど向かった多治比に所在する。
【写真左】猿掛城遠望
 西側から見たもので、出丸の左(北)麓は多治比川が流れている。
 また、本丸の西麓には現在教善寺という寺院が建っている。


 
現地説明板
“多治比 猿掛城跡

  名称 毛利氏城跡多治比猿掛城跡
  指定年月日 昭和63年2月16日

 多治比猿掛城は、郡山城跡から多治比川に沿って、北西4km上流にある。石州路に通じる交通の要衝で、郡山城の北方を守る重要な位置にあった。築城から廃城までの歴史的な経過は明らかでないが、毛利元就が青少年期を過ごした城として知られている。

 元就は4歳のとき、明応9年(1500)家督を長子興元い譲り、隠居した父弘元に連れられ、郡山城からこの城に移り住んで以来、大永3年(1523)27歳の時に、甥の幸松丸夭折のあとをうけて、毛利家の家督を継承し郡山城に入城するまで、この城に居た。

 遺構は、標高376m、比高120mの急峻な山上に長大な平坦面と櫓台、土塁などを持った本丸、二の丸、三の丸などからなる。中心部曲輪群を置き、その背後には深い堀切、尾根続きに物見丸、中心部から北下方に寺屋敷曲輪群があり、竪堀も見られ、谷をはさんで出丸がある。
 山麓には悦叟院(えそういん)の寺跡があって、そこに毛利弘元・同夫人の墓所がある。

 城跡は、良好に保存されており、戦国期の毛利氏の城のあり方をよく示す貴重な城跡である。

    平成元年3月
     吉田町教育委員会”
【写真左】登城口付近
 当城の西麓付近で、左側に「猿掛城」、右側には麓に創建されている「猿掛山 教善寺」の石碑が建っている。




元就の青少年期

 説明板にもあるように、多治比・猿掛城は元就が青少年期を過ごした城である。筆まめであった元就が晩年、嫡子隆元へ送った手紙の中でこの猿掛城時代のことを記している。

 この手紙を送った動機は、当時弱音を吐く、愚痴っぽい嫡男隆元へ叱咤激励の意味も込めたもので、父である元就が自らの経験を踏まえて書いたものといわれている。そういう経緯から書かれた父子間の手紙であるので、少し誇張も混じっているが、当時の元就が置かれた立場が理解できる。
【写真左】毛利弘元の墓所に向かう。
 登城口正面の奥には元就の父・弘元と母の墓が建立されている。
 なお、この周辺部は元々弘元の菩提寺であった悦叟院(えそういん)跡でもある。



 これによると、元就は5歳で母(福原広俊娘)を亡くし、10歳で父(弘元)にも死に別れ、翌年には兄興元が京都に出陣(永正4年:1507年・明応の政変)し、孤児同然になった。その姿を不憫に思った父の側室・大方(おおかた)殿が、多治比に残って自分を育ててくれた。

 その間、父から譲り受けた多治比の土地を後見人であった井上元盛が奪い取ってしまったが、幸い元盛が亡くなったあと、同族の井上俊久・俊秀らが尽力してくれたおかげで取り戻してくれた。しかし、京から帰ってきた兄・興元は、自分が19歳のとき早逝してしまった。それ以後、自分は親・兄弟・伯父・甥を一人も持たず一人で頑張ってきた。それに比べ、お前は頼りになる親・兄弟がいるではないか等と書いている。

 しかし、実際には弘元と正室(福原家)の間にできた男子は、興元と元就の二人だが、これとは別の異母弟として相合(あいおう)元綱がおり、女子では、長女・宮姫が武田某室、次女が御調郡八幡城主渋川兵部義正室、三女が井上右衛門大夫元光室、以下四女、五女等々がいた。

 ところで、愚痴っぽい性格だったとされ嫡男隆元は、ある面では父元就の性格の一面を受け継いでいたのかもしれない。元就の別の手紙の中では「当家のことをよかれと思うものは、他国はもちろん、自国にも誰もいない」と記している。猿掛城時代に培った経験、すなわち簡単に他人を信用しないこと、常に状況を冷静に見定め警戒するすることなどは、こうした被害妄想や愚痴をこぼす性癖から生じた結果かもしれない。元就が少年期に猿掛城ですごした経験は、後に戦国大名として飛躍する上で重要なものとなったといえるだろう。
【写真左】毛利弘元と夫人の墓
 弘元は応仁2年(1468)に生まれ、9歳で毛利家を相続し郡山城主となった。明応9年(1500)長男興元に家督を譲り、当時4歳だった次男元就を連れ多治比猿掛城に隠居した。その6年後の永正3年(1506)39歳で急逝する。

 夫人は鈴尾城主福原広俊の娘で、弘元が亡くなる5年前の文亀元年(1501)、福原城内で34歳の若さで亡くなった。夫人の墓がこの地に移葬されたのは近世のことで、大正10年(1921)とされている。


概要

 猿掛城は、元就の居城であった吉田郡山城に比べれば、コンパクトなものだが、山城としての要件をすべて具備したものといえるだろう。
 下図にも示すように、
  1. 出丸
  2. 寺屋敷郭群
  3. 本丸
  4. 物見丸
の4区分に分けられる。
【左図】猿掛城配置図
 現地に設置されていた図で、色が大分劣化していたため、管理人によって修正したもの。

 猿掛城の北麓から奈良谷川沿いに石見に繋がる県道6号線があり、この道を北に進むと、以前紹介した高橋氏の居城の一つ生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)に繋がる。この居城から元就の兄・興元へ正室として雪の方が嫁いでいる。

 さらに、北に進むと、同じく高橋氏の居城であった松尾城(未投稿)があり、天下墓(広島県美土里町)を超えると、石見国(島根県)に入る。
【左図】出丸跡
 上図配置図にも示されているが、北西端には出丸が設けられている。
【写真左】出丸に向かう。
 

【写真左】出丸
 猿掛城の主郭部分から完全に離れた位置に配置されているもので、2から3段の郭で構成されている。
 なお、出丸頂部は標高292m(比高40m)で、主郭に比べればかなり低いが、東・北・西方面の様子がよく分かる位置である。


【写真左】寺屋敷曲輪群
 寺屋敷曲輪群は上図で示したように、主郭に至るまでの中間地点に設けられたもので、麓側に建立されている教善寺も含めた範囲が曲輪群の区域に当初から入っていたとされる。

 上段の曲輪(寺屋敷)は860㎡を中心に北方に4段、帯曲輪が8段、上方に3段、計15段から構成されている。
【写真左】本丸を目指す。
 寺屋敷曲輪群付近の傾斜はさほどないが、途中から急坂道となる。特に本丸直下の付近ではかなり足元をすくわれる。雨天直後は先ず無理だろう。
【写真左】本丸・その1
 南北に長軸を取り、長さ40m×幅10m前後の規模を持つ削平地を中心に、東・北西・南西端にそれぞれ小規模な腰郭を備える。
【写真左】本丸・その2 土壇
 北端部には人工的に盛り上げた土壇がある。北方を中心とした物見櫓として利用されたものだろう。

 なお、本丸から更に尾根を南に上がっていくと、「物見丸」という当城の最高所(H:432m)にあたる郭群があるが、この日は連合い共々ここまでで疲れ切ってしまい、登るのを断念した。
【写真左】本丸から吉田郡山城を遠望する。
 本丸から東方に元就が後に居城する吉田郡山城が見える。
【写真左】堀切
 本丸から物見丸に向かう途中の尾根には大きな堀切が50mほどの間隔をあけて2か所設置され、その間には小規模な連続堀切・竪堀などが配置されている。
【写真左】連続堀切
【写真左】教善寺
 先ほどの寺屋敷曲輪群の最下段曲輪の位置とされる箇所に建てられている。
 出丸側から見たもので、樹齢400年の見事な銀杏が色を添える。

 本堂峰瓦に「四ツ目結」の寺紋が見えたので驚いた。尼子氏との関わりがあったのだろうか。
 天文5年(1536)天台宗より浄土真宗に改宗され、永禄7年(1564)本願寺より寺號許可されたという。

 天文5年といえば、本願寺の光教が尼子氏(経久)らと極めて強い関係を持ったころだが、これより先立つ享禄4年(1531)に、尼子詮久(のち晴久)が元就の希望を受け入れ「兄弟」の契を結んでいるので、このとき建てられたものかもしれない。

2017年4月18日火曜日

信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)

信貴山城(しぎさんじょう)

●奈良県生駒郡平群町大字信貴山
●指定 平群町指定文化財
●別名 信貴城、磯城
●高さ 433m(比高250m)
●築城期 天文5年(1536)
●築城者 木沢長政
●城主 木沢長政・松永久秀
●遺構 郭・堀切・土塁・門跡・石積等
●備考 朝護孫子寺
●登城・参拝日 2007年5月29日、2015年12月1日

◆解説(参考文献『近畿の名城を歩く』仁木宏・福島克彦編等)
 前稿河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)から、生駒山系をおよそ15キロほど南下していくと、東隣に当たる奈良県側には、古刹朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)がある。当院の創建時期については詳細な記録はないものの、平安時代後期に創作されたという国宝『信貴山縁起絵巻』が残されている。
【写真左】信貴山城遠望
 南麓の朝護孫子寺側から見たもの。









 当院は信貴山真言宗総本山の寺院として、本尊は毘沙門天を祀る。そして信貴山は当院の北方に聳える標高433mの山で、おそらくこの山全体が当時の修行僧の場であったものと考えられている。戦国期に至ると、当山に城砦が築かれた。
 信貴山城を本格的に築いたのは、戦国時代前期、室町幕府の草創期その功によって管領の一人となった畠山氏の家臣であった木沢長政といわれている。
【写真左】信貴山観光案内図
 写真中央上部にある山が信貴山城で、朝護孫子側からは多宝塔の脇を通って登山口となる。






現地の説明板より

“信貴山城 
      平群町(へぐりちょう)指定文化財 
      平成5年4月12日指定 
    所在  平群町信貴山1308の1番地 
    所有・管理  信貴山歓喜院朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)

 標高433mの信貴山雄嶽(おだけ)を中心とする山城で、東西550m、南北700mにわたって120以上の郭を配し、奈良県下最大規模を有する中世城郭。
 空堀の切り通し堀、土塁、門等の城郭跡がよく残り、特に高櫓跡は著名で、中世末、織豊期直前の山城跡として保存状況の極めて良好な例で貴重な遺跡。

 信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要衝地として幾たびか築城が繰り返された地である。古くは天智期における高安城中心城域となり、中世には護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置にあった。
 その後、戦国時代に木沢長政、松永久秀が築城入城し、大和を抑える本格的な山城として整備される。
 天正5年(1577)、松永久秀が織田信長に背き、大軍の総攻撃を受け50日間籠城、10月10日に落城。
 その後、廃城となる。

   平群町教育委員会”

【写真左】信貴山城の縄張図
 下方に朝護孫子寺があり、ここから北の方向に向かう。なお、左図は現地に設置されていたモノクロの図に管理人が郭、及び池等を着色したもの。

 説明板にもあるように、規模は大きく、
(1)雄岳地区
(2)雌岳地区
(3)支尾根地区
で構成されている。






木沢長政

 長政の名が知れ渡ったのは天文5年(1536)9月、細川晴元が将軍足利義晴に出仕したときである。このとき、晴元を護衛同行したのが、三好仙熊(後の長慶)、波多野秀忠(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)、並びに木沢長政である(『麓宛日録(ろくおんにちろく)』)。

 長政は元々畠山氏の被官であったが、その後細川高国に、さらに晴元へと鞍替えしていった人物で、その後山城国守護代となり、さらには北河内に進出、河内・飯盛山城(大阪府四条畷市南野・大東市)に入った。同じ年の6月、大和国守護職を担っていた興福寺が勢力を弱めると、その代役として大和国にも支配を広げ、信貴山城を築いた。この頃の長政の隆盛は目覚ましく、同国支配強化のために、5年後の天文10年7月になると、大和国北東部入口を抑えるため、笠置山城も支配下に置いた。
【写真左】登城口付近
 登城口は上記案内図にもあるように、朝護孫子寺境内を通過し、多宝塔のある脇から向かう。

 写真は、その多宝塔で、鳥居を潜って上に向かう。


 しかし、長政の終焉は早くも翌年に訪れることとなる。この年(天文10年・1541)9月、摂津多田の一庫城(かずくらじょう)(別名山下城)において塩川伯耆守国満による籠城事件が起こった。

 この事件に絡んで長政は細川晴元の命に逆らい、塩川方に与した。これをきっかけに翌年の3月、長政は飯盛山城及び信貴山城などの兵を糾合し、河内守護代・遊佐長教の籠る高屋城を攻めはじめた。同月17日、遊佐長教と三好政長の兵が木沢長政を太平寺(柏原市)で迎撃(「太平寺の戦い」)、この戦いで長政はじめ木沢一族は討死した。
【写真左】登城道
 信貴山城の主郭跡には空鉢護法堂が祀られ、参道でもある。この日も熱心な信者の方々が往来されていた。

 このため、道は傾斜があるものの、整備されていて登りやすい。



松永久秀三好三人衆

 木沢長政が亡くなったあと、信貴山城の城主となったのが松永久秀である。久秀は戦国の三大梟雄の一人といわれている。彼については、既に上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)の稿でも紹介しているが、そもそも何故彼を梟雄と呼ぶようになったのだろうか。

 久秀の出自は不明である。このため誕生年も確定しておらず、一説では永正7年(1510)ともいわれているがはっきりしない。彼が戦国史に初めて登場するのは、三好長慶に仕えた頃で、天文11年(1542)ごろである。当時長慶の下で右筆や訴訟取次などを任されている。
【写真左】雌岳方面
 縄張図でも述べたように、3区域の一つ、雌岳地区に当たる個所で、登城コースから少し逸れるが、南側に伸びる尾根筋に凡そ60mほどの長さを持つ郭。
 残念ながらこの日は、踏査せず遠望のみとした。


 丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の稿でも述べたが、天文20年(1551)7月、三好長慶は京都相国寺の戦いで敵対する細川晴元を破り、その2年後再び晴元の逆襲を退けた。この戦いで久秀は功を挙げ弘治2年(1556)6月、摂津の滝山城(神戸市中央区)の城主となった。このころから久秀は一挙に頭角を現してくる。

 永禄2年(1559)に至って、久秀は大和国に進出、当時大和国は興福寺や筒井氏などが守護職として治めていたが、これを奪取し、この年信貴山城の城主となった。久秀による信貴山城入城は、前任者であった木沢長政を意識したものといわれている。それは、長政が大和国を支配する際、信貴山城を居城としたことが強烈なアピールになったことを知っており、久秀はその先例を意識していたとされる。
 信貴山城を基盤とした久永は、その後河内国にも侵攻し、翌永禄3年には大和国を完全に支配し、本丸には信長に先んじて四階建ての天守を築いた。また当城から北東18キロの位置に多聞城を築いた。
【写真左】雄岳区域の三の丸東端部
 上述したように、雄岳区域西端部が本丸といわれ、そこから東に向かって、二の丸・三の丸と続く。
 なお、写真の切崖から北東及び東へ二つの尾根が続き、それぞれ中小の郭段が連続している。


 この段階までは戦国の梟雄といわれるほどの動きを見せていないが、永禄7年(1564)に主君であった三好長慶が亡くなったころから久秀の動きは先鋭化してくる。長慶が亡くなった直後、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と久秀は三好政権を掌握するが、それも長続きせず、翌年13代将軍足利義輝を暗殺したころから、三人衆と久秀は対立した。
【写真左】空鉢護法堂
 この付近が三の丸から二の丸に向かう位置にあたり、信貴山奥の院すなわち空鉢護法堂の鳥居が建立されている。



 永禄9年(1566)、久秀は畠山高政及び安見宗房と連合し、三好三人衆・筒井順慶らと上芝に戦うが敗退、その後再起を図るものの、再び三人衆に駆逐され遂に大和国の領地を失った。しかし、三人衆が担いでいた長慶の継嗣・義継が彼らと袂を分かつと、久秀は義継と連携し、再び信貴山城を奪還、奈良東大寺に拠った三人衆を攻撃、この戦いで大仏殿が焼失した。永禄10年(1567)10月10日のことである。

 この2か月前、織田信長は美濃の斉藤龍興を稲葉山城に破り、当城に入城、名を岐阜城と改名した。久秀と三好三人衆による攻防が決着しないまま、信長の足音は次第に京の方へ響くようになった。
【写真左】「信貴山城」の幟
 二ノ丸の一画にはご覧の様な幟が数本建っていた。







織田信長上洛

 永禄11年(1568)9月26日、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。三好三人衆は信長の脅威に恐れをなし逃亡、利あらずとみた久永は抗することもなく信長の前にひれ伏し、大和一国と河内半国を安堵された。同年10月18日、足利義昭は室町幕府の第15代・征夷大将軍に任じられ、久秀は義昭の臣下となる。

 しかし、義昭と信長の良好な関係は長くは続かなかった。二人のこうした変化は久秀の目にも留まっていたのだろう、元亀2年(1571)久秀は密かに甲斐の武田信玄に通じ、信長に反旗を翻した。久秀の変質の背景には多分に義昭の意向も働いていたのだろう。
【写真左】二ノ丸から本丸に向かう。
 雄岳区域の尾根幅は10~15m程度と狭いが、総延長は100m近くになる。

 東から西に向かって50m程度進むと、そこから少し高くなって本丸に繋がる。



二度にわたる久秀反旗

 久秀が最初に信長に対し反旗を翻したのは元亀3年(1572)である。この年の9月、信長は足利義昭に対し「異見十七箇条」を提出して失政を諌めている。これがきっかけとなって義昭は反信長へと態度を変えていくことになる。

 反信長の包囲網がさらに拡大したのは、翌天正元年・元亀4年(1573)の2月ごろである。主だった面々は、義昭はじめ、武田信玄、本願寺光佐(顕如)、朝倉義景、浅井長政らで、久秀自身は義昭の命を受け、その画策に動いていたものと思われる。しかし、その包囲網を画策した矢先、最も頼みとしていた武田信玄が西上途中の信濃国で病没した。このため、義昭らが計画した信長包囲網の策は実現できなくなった。ところで、皮肉にも反信長の態度を示した者の中には、久秀と対立していた三好三人衆もいた。
【写真左】「信貴山城址」の石碑
 二の丸付近に建つ石碑









 包囲された信長は直ちに、討伐に向かうべく上洛し、首謀者・足利義昭を二条城に囲み(4月4日)、7月には逃れた義昭が拠った宇治槙島城を攻略、義昭はついに京を離れ、河内若江城に逃亡し、ここに室町幕府が滅亡した。

 同年(1573)12月、久秀は信長に降伏した。信長の性格からいえばこの段階で久秀は誅滅されてもおかしくないが、どういうわけか信長は久秀を許している。信長には久秀を生かすことによる何らかの目論見があったのだろう。
【写真左】本丸
 旧本丸跡で、空鉢堂が建立されている。
 長径(東西)凡そ20m×短径(南北)10m前後と小規模な郭だが、現在多くの祠や鳥居が建立されている。

 この場所に天守が建てられていたというが、地形・地盤を考えると、基礎として石垣を積まず礎石を要所に配して建てた天守だったのだろう。


久秀、信貴山城にて爆死

 しかし、久秀がその後信長と良好な関係を持つことはなかった。具体的な理由は分からないが、天正3年(1575)、信長は久秀に対し大和国知行をはく奪、久秀のもう一つの居城であった多聞城も放棄せざるを得なくなった。このため、久秀は越後の上杉謙信に救いの手を伸べ、再び信長に敵対する構えを見せた。
【写真左】主郭から南方を俯瞰する。
 時期にもよるだろうが、天守跡(空鉢堂)から望む視界は思ったほどよくない。

 写真は登ってきた南方面で、遠くには紀伊山地の山並みが控える。


 天正5年(1577)8月、信長は家臣で茶人でもあった松井友閑を遣って久秀の真意を質そうとしたが、久秀は友閑の面談に応じなかったため、信長は同月10日、嫡男信忠を総大将とし、明智光秀・筒井順慶を中心とした軍勢を派遣、信貴山城を包囲した。

 もはやこれまでと悟った久秀は、信長が欲しがっていた名器「平蜘蛛茶釜」を叩き割り、信貴山城と共に爆死したという。天正5年(1577)10月10日のことである。なお、久秀の生誕年は確定していないが、永正7年(1510)頃といわれているので、亡くなった時は68歳だったと考えられる。
【写真左】主郭南側
 縄張図にもあるように、主郭周囲は険しく、特に南側は見ごたえのある天険の要害である。

 このあと、支尾根地区のひとつで、松永屋敷跡といわれている北側の郭群に降りていく。



 因みに、この2か月後の12月3日、播磨では秀吉が上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)を攻略し、その城番として尼子再興軍の尼子勝久及び、山中鹿助らが三木城(兵庫県三木市上の丸)から移ることになる。
【写真左】松永屋敷周辺部の縄張図
 支尾根地区の一つで、北側に伸びる尾根筋郭群をズームしたもので、登城したこの日、「立入殿屋敷」及び通称「松永屋敷」といわれる箇所が描かれている。

 なお、整備されている箇所はこの尾根筋のもののみで、他の郭群は今のところ整備されていないようだ。

【写真左】立入殿屋敷(たていり とのやしき)
 主郭のほぼ真北に伸びる尾根伝いに築かれた郭段の一つで、立入殿は、久秀家臣であった立入勘介のことを指すのであろうか(『『近畿の名城を歩く』)、としている。
 長径(南北)40m×短径(東西)20mの規模を持つ。
 写真は東側から見たもので、左側に急峻な切崖を持つ主郭が控える。
 このあと、さらに北の尾根筋に向かう。

【写真左】松永屋敷・その1
 左側の切崖上部に「立入殿屋敷」があり、そこからかなりの高低差をもって「松永屋敷」の郭群が連続する。

 なお、現地縄張図では上段から下段までおよそ6段の郭が連続し、それらを総称して「松永屋敷」の郭群としているが、史料によればこのうち、上段半分までは木沢氏時代の「古屋敷」ともいわれ、残りの下段のものが「松永屋敷」とされている。
 また、「松永屋敷」の松永は別名「弾正郭」すなわち、久秀の郭とされているが、別説では一族の秀長ともいわれている。
【写真左】土塁
【写真左】上の段と下の段
【写真左】土塁
【写真左】土塁と簡易タラップ。
 タラップの位置は虎口か
【写真左】振り返ってみる。
 さらに下の段に向かう。
【写真左】綺麗な郭
 上部から何段目の郭だったのか覚えていないが、このあたりから後期(松永久秀時代)の郭かもしれない。
【写真左】東側斜面
 右上が松永屋敷関係の郭段がある個所で、下の道になっている箇所から見たもの。
なお、この左側にも郭群があるようだが、雑木などで覆われていて確認できない。