2016年11月28日月曜日

此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内)・その1

此隅山城(このすみやまじょう)・その1

●所在地 兵庫県豊岡市出石町宮内
●指定 国指定史跡
●別名 子盗城、子守城
●高さ 140m(比高120m)
●築城期 不明(文中年間か)
●築城者 不明(山名時義か)
●城主 山名到豊・誠豊・祐豊
●遺構 郭・堀切・土塁等
●登城日 2015年3月28日

◆解説
 此隅山城は、以前紹介した但馬の有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町)から北に4キロほど向かった位置に所在している。
 築城期及び築城者は確定していないが、伝承では南北朝動乱期の文中年間(1372~75)ごろとされ、山名氏が築いたといわれている。
【写真左】此隅山城遠望
 西側から見たもので、右側(南側)尾根に主郭が築かれている。
 なお、写真手前の集落付近が当時の御屋敷(守護所)といわれた場所に当たる。


現地説明板より

“山名氏此隅山城跡

 此隅山城は但馬守護山名氏の居城で、伝承では文中年間(1372~75)山名時義が築城したと言われていますが定かではありません。しかし、戦国期の到豊(おきとよ)・誠豊(のぶとよ)・祐豊(すけとよ)三代の居城であったことは確かである。
【写真左】縄張図
 上方が北を示す。
 中央に主郭を設け、3本の主尾根上に多数の郭や堀切・土塁などを配し、南西側の尾根先端部には宗鏡寺砦などを設けている。

 なお、此隅山城の北麓には袴狭川、南麓には入佐川という川が東から西に向かって流れ、出石川と合流している。

 なお、この合流する両川に挟まれた小丘(最高所78m)は、東の谷を介して此隅山城の西に伸びる尾根と繋がっていたものと思われ、記録にはないが、出丸のような役割があったものと推測される。


 文献的初見は、永正元年(1504)夏のことで、守護山名到豊と垣屋続成(つぐなり)(日高町・楽々前(さきのくま)城主)との抗争が再燃し、続成が到豊・田結庄豊朝(たいのしょうとよとも)の立て籠もる此隅山城を攻めている。このとき出石神社にも軍勢が乱入し、社壇・堂舎・経巻・末社諸神が焼失している。
【写真左】登城口
 登城口は上記縄張図にもあるように、北と南の2か所あるようだが、駐車場が確保されている北側の豊岡市いずし古代学習館の方から向かった。


 永禄12年(1569)8月には、織田信長の命を受けた木下藤吉郎(後の秀吉)らによって、此隅山城など但馬の18の城が落城させられている。その後、山名祐豊は天正2年(1574)頃、此隅山城に代わる新城として有子山に有子山城を築城した。

 此隅山城は守護大名の城らしく、城域は但馬最大規模で南北750m・東西1,200mあると考えられ、山裾の「御屋敷(守護所)」を両翼から山城がつつみこむような陣形である。
【写真左】古墳状の地形
 登城コースであるこの北側の尾根には古墳跡があるらしく、円墳と思われる地形が連続している。
 試掘したところ、小型の甕の破片が出てきたという。


 城は主郭を中心に、そこから派生するすべての尾根に階段状に曲輪が構築されている。縄張は大別して、低い段差をもつ小曲輪や、浅い堀切などが構築されている古い部分と、高い段差をもつ広い曲輪、深い堀切、折れをもつ土塁や竪堀などが構築されている新しい部分に分かれると考えられる。

 前者は、南北朝期から室町期にかけて造られたものと考えられ、後者は主郭周辺・竪堀・折れを持つ土塁・千畳敷・宗鏡寺砦(すきょうじとりで)などで、戦国期末期の有子山城築城期に改修されたものと考えられる。

 此隅山城は、守護大名山名氏の居城というだけでなく、南北朝期から戦国期の城郭遺構を良好に残している遺跡として、平成8年11月13日国指定文化財の史跡に指定された。

    平成20年3月  豊岡市教育委員会”
【写真左】最初の郭段
 北尾根から向かうコースは尾根筋を直登するようになっている。しばらくすると、緩やかな段となり、この付近で最初の小規模な郭が確認できる。
 このあと、この尾根は北西に伸びる尾根と合流するため西に折れていく。


山名時義・師義

 此隅山城に近接する鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)でも述べているが、当城の所在する但馬と山名氏が関わりだしたのは、時氏(山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)参照)のころからである。時氏は最盛期には、丹波・美作・因幡・伯耆の国を押さえている。

 さて、此隅山城の築城者は上掲した説明板では、伝承によると時義とされている。ただこの日登城した北側の説明板とは別に、南側にも登城口があるが、そこの説明板では師義と記されてる。
【写真左】堀切
 この尾根はまだ北西に延びる尾根附近ではないが、その手前に堀切が設置されている。
 この先から主要な遺構があることから、ここで一旦断ち切る必要があったのだろう。



 時義、師義の二人は時氏の子である。師義が長子で、時義は5男とされている。

 師義は応安5年(1372)、すなわち父時氏が亡くなった翌年になるが、この年但馬守護職に補任されている。従って、当地に下向したその年から此隅山城の築城に取り掛かったと思われる。
 なお、時義の名が残るのは、師義が築城後間もない永和2年(1376)に亡くなっているので、おそらくその跡を時義が引継ぎ順次整備していったためと思われる。
【写真左】堀切と竪堀
 先ほどの堀切を超えると更に尾根の傾斜は険しくなり、登りきったところで大きな堀切が構えている。この堀切の東斜面には二条の竪堀が配されている。


戦国期

 この時期の城主としては、山名到豊(おきとよ)・誠豊(のぶとよ)・祐豊(すけとよ)の三代の名が残るとされている。このうち到豊と誠豊は兄弟で、祐豊は到豊の実子で誠豊に養子となっている。到豊・誠豊の父は、政豊(瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)参照)といわれている。

 到豊が生まれたのは、応仁2年(1468)すなわち丁度応仁の乱が勃発した翌年となるので、争乱の最中に誕生したことになる。
【写真左】西に伸びる郭
 西に伸びる尾根には上下併せて、総延長100mほどの郭段がある。写真は上段の郭で、高さ50cm程度の土塁が囲繞している。




 此隅山城における主だった争いの一つが、永正元年〈1504)の楽々前城主・垣屋続成との抗争とされている。楽々前城(さきのくま)とは、此隅山城から西に13キロ余り向かった円山川支流の稲葉川南岸(同市日高町佐田)に築かれた山城である。

 垣屋氏については、鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)でも述べたように、山名氏を支えた「山名四天王」の一人であるが、このころは下剋上の時代で、主君である山名氏に反旗を翻している。垣屋氏は山名氏の筆頭家老であるが、同氏領有地と隣接する田結庄氏と度々軋轢を生み対立していた。

 ことのことから、此隅山城に山名氏と田結庄氏が籠城し、垣屋氏がこれを攻めている永正年間の戦いも、もとは垣屋氏と田結庄氏との争いから生じたものだろう。
【写真左】下の段に向かう
 上段の先端部まで行くと、そこから5,6m程度下がった切崖がある。これを降って下の段に向かう。





尼子再興軍祐豊

 出雲の月山富田城が落城したのは永禄9年(1566)11月のことである。富田城を追われた山中鹿助らはその後尼子氏再興を図るべく、四散した旧臣らを集め、さらには元就に敵対する領主たちにも協力を求めていった。その一人が但馬の山名祐豊である。
【写真左】再び登る。
 上段の郭から降りたものの、再び登り勾配となっている。結局この間の鞍部は堀切の役目をしているかもしれない。




 尼子経久・晴久の代には、山名氏の領国であった伯耆・因幡を奪われ、敵対してきた両氏であったが、その後尼子氏に代わって両国を手中に収めようとしてきた毛利氏は、山名氏総帥であった祐豊にとって看過できないものとなっていった。このため、祐豊としては鹿助を始めとする尼子再興軍と手を結ぶことは、むしろ時宜を得たことだったのかもしれない。
【写真左】下の段先端部が見えてきた。
 下の段としては、この位置までに2か所の郭が尾根上に構成され、さらにその先で一旦低くなり、この尾根先端部で途切れる。



 これに対し、元就は織田信長に対し、但馬の山名氏を背後から突くよう依頼した。信長はこれを受けて秀吉に大軍2万を付けさせ、但馬へ侵攻した。永禄12年(1569)8月のことである。

 このとき、山名氏の居城・此隅山城及びその支城を併せた18城が、わずか10日間で落城したという。因みに、この段階では尼子再興軍(鹿助・勝久ら)は未だ信長と接触していない。
【写真左】先端部から西方を見る。
 先端部には説明板が設置され、麓には出石川が左から右に流れ日本海にそそいでいる。
【写真左】有子山城
 この位置から南に目を向けると、後に山名氏が築くことになる有子山城の上部が確認できる。

 このあと本丸に向かう。




 さて、秀吉らによる但馬侵攻が始まる前の6月(永禄12年)、鹿助は尼子勝久を擁して隠岐国から出雲の忠山城(島根県松江市美保関町森山)に上陸することになるが、隠岐に入る前にいたのが但馬である。

 但馬の海岸から隠岐島に向けて、鹿助らを渡海させたのが以前にも紹介したように、地元の海賊・奈佐日本助(なさやまとのすけ)(津居山城(兵庫県豊岡市津居山)参照)である。おそらく日本助らの協力は山名祐豊の全面的な支援によるものだろう。
【写真左】途中の段
 先ほどの位置から再び戻り、本丸に繋がる北西方向の尾根を登っていくが、途中で長さ50m程度の郭が配置されている。
 また、この辺りから大きな岩が目立ってくる。(下の写真参照)
【写真左】この岩塊をよじ登る
 距離は短いものの、この岩塊だけでも要害性を担保するだろう。







 ところで、鹿助らが隠岐にむけて渡海する前、但馬には尼子再興を宿願とする面々とは別の一族が居たのではないかと推測される節がある。それが正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)で紹介した藤井皓玄を始めとする一族である。
 藤井皓玄の主君は神辺城主であった備後山名氏で、此隅山城主であった時義の代から備後山名氏と深いつながりを持っていた。

 鹿助が隠岐の島から島根半島に上陸し、忠山城に陣を構えたのは6月23日である。これに対し、皓玄らが備後神辺城神辺城に攻め入ったのが、5日前の6月18日である。
【写真左】本丸が見えてきた。
 岩塊を登りきると、ご覧のように本丸が見えてくる。手前の段は北西側から続く郭で、本丸の西側の郭とは、北側の犬走りが連絡している。



 藤井皓玄が備後で旗を挙げると、北九州で交戦中の毛利氏(立花山城(福岡県新宮町・久山町・福岡市東区)参照)はその対応に追われた。そして、その5日後、今度は出雲で鹿助らが瞬く前に旧臣らを糾合した。

 当然、毛利氏はそちらにも救援を送らざるを得なくなった。この5日間という時間は、まさに絶妙のタイミングである。備後(神辺城)救援に向けて行軍(航海)した矢先である。このいわば時間差攻撃ともいうべき陽動作戦は、毛利氏の動揺を誘い、大いに混乱したことだろう。
【写真左】本丸・その1
 北側から見たもので、南北を軸線とする尾根上に築かれた最高所で、長径50m×短径15m規模のもの。





 毛利氏にとって、北九州(筑前等)、出雲、備後の3か所で同時に抗戦することはさすがに不可能である。このため、毛利氏が一旦九州から兵を引き挙げたことは周知の通りである。

 こうした綿密な計画が遂行されるためには、三者(鹿助・藤井皓玄)が直近まで帯同していなければできないことである。こうしたことからこの但馬において、山名祐豊・鹿助・藤井皓玄の三者が密議を交わしていたのではないかと推測されるのである。
【写真左】本丸・その2
 本丸の西端部から見たもので、説明板のある西側淵も少し高くなっている雰囲気があり、土塁があったかもしれない。
 写真奥に見えるのが、登ってきた時の途中の郭。
【写真左】本丸から西方に「コウノトリ但馬空港」を遠望する。
 但馬空港は此隅山城から豊岡盆地を介し西へ約8キロ余り隔てた標高170m余りの山に造られている。

 このあと、さらに本丸の南側にある次の郭に向かう。



此隅山城から有子山城を築く

 さて、秀吉により落城した此隅山城であったが、その後祐豊は回復を図るべくより堅固な有子山城を築くことになる。此隅山城が落城してから5年後の天正2年(1574)のことである。その後の経緯については、有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町)をご覧いただきたい。
【写真左】本丸から南に隣接する郭
 この郭も当城の中では規模の大きい部類に入る。
 このあと、この先の尾根は傾斜を持ちながら下がっていき、最下段では上述した宗鏡寺砦が配備されている。




《次稿に続く》
 本稿はここまでとし、次稿では紹介しきれなかった遺構や、当城南麓部に鎮座する出石神社付近も併せてアップしたいと思う。

2016年11月24日木曜日

讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)

讃岐守護所跡(さぬきしゅごしょあと)

●所在地 香川県綾歌郡宇多津町大門
●築城期 南北朝後期~室町初期
●築城者 細川頼之
●形態 城館(平城)
●備考 多聞寺・円通寺
●登城日 2016年10月30日

◆解説
 聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山)、及び白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)でも少し触れているが、足利義詮死後およそ12年間にわたって義満初期の室町幕府内権力を手中に収めた管領・細川頼之の居館跡といわれている讃岐守護所跡を紹介したい。

 所在地は、聖通寺城のある宇多津町の西方青ノ山東麓部で、多くの寺院が建ち並ぶ大門地区にあったとされ、特に現在の多聞寺・円通寺をエリアとした区域に居館として築かれていたといわれている。

多聞寺


【写真左】讃岐守護所跡
 多聞寺山門前で、門の右側に下記説明板が設置されている。








多聞寺山門前に設置されている説明板より

“史跡 讃岐守護所跡

 この多聞寺の寺域一帯は、隣接する円通寺周辺とともに、室町幕府の管領細川頼之公の館跡である。
 公はこの館を守護所と定め、自ら讃岐及び土佐両国の守護としての領国経営を行うとともに、四国管領として一族を統轄し、阿波・淡路・伊予(二郡)の経営も併せて行っている。
 当時の宇多津町は、多くの寺院が建ち並び、宗教や文化の町、さらに港町・商工業の町としても急速に発展しており、公の卓越した経綸のほどが偲ばれる。
   平成4年3月2日
       細川頼之公顕彰委員会”
【写真左】多聞寺境内
 奥が本堂で、左側に下段で紹介する「槙柏の木」が見える。
【写真左】槙柏の木
 説明板より

“槙柏の木
   町指定天然記念物
   昭和53年3月31日指定

 この槙柏は幹囲4.6m、樹高18mで地上7mから、5つの支幹に分かれている。
 細川頼之公の御手植えの柏と伝えられ、一名神柏とも言い、正月には拝む人も多かったと伝えられる。
  宇多津町教育委員会”

このあと、円通寺に向かう。


円通寺


円通寺境内にある説明板より

“円通寺由緒
 当山は今より約700年前、宥弘法印が観世音菩薩の夢告げにより、青の山の東麓観音山に七間四面の本堂並びに伽藍を建立し、聖如意輪観世音菩薩を本尊としてまつられ、青松山観音院円通寺と称した。
【写真左】多聞寺から円通寺を遠望する。
 周辺の道があまりに狭いので、車を多聞寺に置いたまま、歩いて円通寺に向かう。
【写真左】円通寺山門
 円通寺は多聞寺の南西50mほどの位置に隣接している。
 因みにこの付近の道は狭い路地のような道なので、地元の人は慣れているかもしれないが、運転には大分神経を使う。



 「全讃史」には「昔は巨刹なりし」とあるが、やがて戦国の兵火に焼亡し、延宝3年中興良意法印によって細川頼之公の居館跡と目される現在地に再興され、今日に至っている。昔の本堂跡は「観音堂」の地名として今に残り、当山の飛地境内となっている。ここには、三ツ岩と呼ばれる大きな岩があり、細川頼貞(義阿(ぎあ))の墓と言われている。

 義阿は頼之公の父頼春の叔父に当たり、足利尊氏に仕え功績の高い武将であった。又本堂前方左方にある五輪塔は、南北朝時代のもので、細川家の供養塔であり、境内中央の大松は、樹齢約650年の純粋の黒松で、葉が短くその枝葉の拡がりは、東西31メートル、南北20メートルあり、細川頼之公の手植えの松と伝えられている。”
【写真左】円通寺境内
 この日当院で座禅の催しものがあったようで、入口付近の受付担当者に参加者と間違えられた。







細川頼之

 頼之は以前にも述べたように細川頼春の子として、元徳元年(1329)細川氏の本拠地であった三河国額田郡細川(現:岡崎市細川町)で生れている(生誕年には異説あり)。
 頼之が歴史の表舞台に出てくるのは、足利直義が尊氏の袂を分かち南朝に降り、尊氏の落胤・直冬がさらに別の倒幕の旗幟を挙げたいわゆる「観応の擾乱」のころである。
【写真左】円通寺由緒の説明版













 この年(正平5年・観応元年:1352)、四国阿波の小笠原頼清(白地・大西城・その2(徳島県三好市池田町白地)田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)参照)が、同国南朝方の先鋒として兵を挙げた。この動きを知った幕府は、細川頼春に討伐を命じ、その任を嫡男頼之に指名した。頼之22,3歳の頃である。彼にとっては軍を率いた大将として初めての戦いであったと思われる。

 その後、頼之は上京し畿内など各地で南朝方と戦うが、その間、阿波国で再び南軍の動きが活発となると、すでに亡くなっていた頼春の分国(阿波)へ帰還し、父の跡を継承し、阿波を中心とした領国経営に暫く集中することになる。
【写真左】五輪塔
 現地の説明版より

“この五輪塔は南北朝時代のものであり、細川家の供養塔と思われる。
 町文化財に指定されており、香川県内に現存するものの中では最も整ったものの一つと言われている。”



 正平9年・文和3年(1354)5月、長門・石見に潜伏していた足利直冬(足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町)参照)が南朝に帰服、それに併せて反尊氏派となっていた斯波高経、桃井直常、山名時氏、大内弘世らがこれを後援し、直冬派は大軍を率いて上洛を開始した。そして、翌年の1月16日、畿内にあった南朝軍と合体し、京都から尊氏を放逐した。

 同年3月12日、逃れた尊氏軍は、体勢を立て直し再び京都奪還を図り、南朝・直冬軍を打ち破り、翌日義詮は入京した。この時頼之及び従兄の清氏も幕府軍の一員として、主に摂津神南合戦で奮闘した。

 この後、頼之は西国へ奔った直冬軍を追討すべく、備後守護に補任されるが、それまでの戦いで生じた土地の闕所処分について、尊氏からその裁量権を認めてもらえず、これを不満として守護職就任を固持し、阿波国へ帰還しようとしている。それを見た従兄の清氏が頼之を説得したことにより、京に留まったという。
【写真左】円通寺の参道入り口
 この地区は斜面に長屋のように軒が並び、傾斜があるため段差を持たせた石積みの家が多い。

 いまでもこの付近には寺が多いが、散策しながらその通りの石垣を見ていると、頼之時代の石がそのまま再使用されていたのではないかとも思えてくる。




 その後、頼之は阿波に守護代として被官であった新開氏を置き、南軍対策の足固めとして備前・備中・備後・安芸・伊予など西国の主だった要所を統括、のちに「中国大将」とも呼ばれているので、このころは尊氏より前述した闕所処分権も含めた諸権限も認知されていたものと思われる。

 頼之が四国・讃岐に再び重点を置いたのは、従兄の清氏との戦い(白峰合戦)後、中国地方に一定の安定が図られた正平20年(1365)ごろからで、この頃既に中国管領(中国大将)を解かれ、讃岐・土佐の守護職を兼務した四国管領に任じられる。
 その2年後の正平22年(1367)の11月には足利義詮は政務を義満に譲り、頼之を義満の執事に任じているので、本稿の讃岐守護所が設置されたのも四国管領に任じられたころだろう。

 ただ、これまで紹介したように、頼之の置かれた環境は文字通り常在戦場であり、一か所に長く留まることがなかったため、当該守護所を居館とした期間は極めて短いものだったと思われる。

 なお、頼之が後に失脚することになる「康暦の政変」については、機会があれば取り上げたいと思う。

2016年11月21日月曜日

白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)

白峰合戦古戦場(しらみねかっせん こせんじょう)

●所在地 香川県坂出市林田町
●別名 史跡三十六
●指定 坂出市指定史跡
●遺構 なし
●備考 石碑等
●探訪日 2016年11月12日

◆解説(参考資料 HP坂出市等)
 今月投稿の聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山)で少し紹介しているが、南北朝期讃岐国で行われた細川頼之と細川清氏の戦いが行われた場所といわれている。
 所在地は、以前紹介した崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)のある第81番札所綾松山洞林院白峯寺から西に降りて、雄山を右手にした林田町の田圃の脇にある。
【写真左】史跡三十六
 白峰合戦古戦場の石碑











現地の説明板・その1

“史跡三十六(白峯合戦古戦場)

 この地を三十六と云い、細川清氏と従士36人憤死の地と伝える。
 貞治元年、南朝の将細川清氏、四国平定の命を受けて軍を興し東讃より進んで、白峯山麓に陣し、北朝の将細川頼之が鵜足津の陣に対した。
 7月頼之策を以て急襲、清氏寡兵を以てよく奮戦するも及ばず、遂にこの地に死すことは「太平記」その他の史書に著すところである。
【写真左】「史跡三十六(白峯合戦古戦場)の看板









 当時の遺構は未だ詳らかでないが先考よく地を按じて、ここ三十六を清氏戦死の地と定めて碑を建て累世その保存に意を用いたところである。

 いにしえを こふれば悲し 血潮もて
     草木染めしか 綾の広野は
                   信雄

 その名三十六は、また民間信仰、あるいは条里制の遺跡ともいわれるが、ともに後世に残すべき所として、昭和34年11月3日坂出市史跡として指定されている。”
【写真左】白峰陵(白峯寺)より白峰合戦地を眺望する。
 手前に見える山は雄山で、さらに西方には細川頼之・奈良氏が拠った聖通寺城が見える。


 これとは別に、同合戦城に関する石碑が建っている。
 
碑文より
“三十六古戦場記念碑

 建武中興の偉業破れ足利氏天下統一の実権を掌握するや南北両朝立って全国に其勢を競ふ
 足利氏の武将細川清氏至誠豪勇の士夙に二代将軍義詮を補佐し屡々武功ありて重用せらる 然るに故ありて南朝に降り 後村上天皇の勅令を奉じ四国に勤王の義軍を興し一族と共に讃岐に入る

 阿讃の兵忽ち数千其麾下に屈し 諸城を固め白峰山麓高屋城に陣す 綾北の郷士里人等多数馳せ参し北朝方の武将細川頼之の宇多津城に対峙す
【写真左】「三十六古戦場記念碑」の石碑
 碑文にもあるように、敗れた清氏及び従士を供養したものである。






 頼之知謀の将一挙に四国制覇の雌雄を決せんと奇策を以て高屋城を急襲す 清氏陣頭指揮すれとも寡兵及ばず遂に敵将伊賀高光に刺殺せられ多くの将兵里人戦死す 真に痛惜に堪えず時貞治元年7月24日と太平記に録す 爾来幾百星霜清氏以下忠臣将兵等多数の霊此地に眠る

 松籟颯々として邑人の袖を潤す 文久2年正月北庄司冨家惣次郎の発起により五百年祭執行せられ以後毎年7月部落民奉仕供養し来る
 大正2年9月薬師院前住職小田耕岳僧正奔走乃木将軍遠祖戦没地として碑石建立す 今や六百年を迎へ坂出市文化財に指定せらるるを機とし冨家友太郎等有志相議し林田町民多数の賛同を得て奉賛会を結成 懇に慰霊祭を厳修し此碑を建て後世に伝へむとす
      
    昭和35年9月 建立
           岡崎 敬 撰
          ◇◇◇  ”
(※下線 管理人による)
【写真左】「細川将軍戦跡碑」
 この石造も清氏を供養したもので、右隣りのものは、大正2年頃、乃木大将を顕彰した際のもの。







細川頼之細川清氏

 南北朝の後半期室町幕府が樹立されていくが、このころ幕府将軍となる尊氏・義詮・義満らを支えていた一族の代表格が細川氏である。細川氏も足利氏の流れで、南北朝動乱期が始まる前は三河に本拠をもっていた。因みに、その場所は、現在の愛知県岡崎市細川町附近に当たる。

 細川氏が飛躍的に歴史の表舞台に出始めたのは、以前にも紹介したように細川頼春の頃である(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)。
 頼春はこのころ阿波を本拠に備後守護も得て瀬戸内方面に力を誇示していた。さらに頼春の従兄弟・顕氏も畿内・四国方面を任され、4か国もの守護職を得ている。
【写真左】入口付近
 史跡として祀られている場所は、三方は田圃などに囲まれているが、西側(写真左)には工場が建っており、目立たないところに設置されている。

 なお、この位置まで幅員は狭いものの、簡易舗装の農道が設置されているので、普通車でも辿りつける。


 ところで頼春には兄の和氏がいた。彼もまた顕氏らとともに四国方面で活躍し、尊氏が室町幕府を開いた際には、その功が認められ引付頭人・侍所に任じられた。阿波・秋月城(徳島県阿波市土成町秋月)でも述べたように、晩年は阿波・秋月城に骨を埋めることになるが、そのあとを引き継いだのが弟の頼春である。

 頼春は文和元年(1352)京都に乱入した南朝軍と戦い、洛中で戦死すると、同年顕氏もまた急逝した。これによって細川氏の勢いもここで途絶えるかに見えたが、それを再興したのが頼春の子・頼之である。

 一方、和氏亡き後父の跡を継いだのが嫡男清氏である。聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山)でも述べたように、貞治元年(1362)7月24日、讃岐白峰山麓において幕府から清氏追討の命を受けた従兄弟頼之と戦い討死した。
【写真左】文久2年の銘が入った経塚
 上掲した碑文にも書かれているように、江戸末期の文久2年(1862)に「北庄司冨家惣次郎の発起により五百年祭執行」した際の経塚。

 冨家惣次郎は、この古戦場跡(史跡三十六)とは別に供養塔を建てている。それが下段の写真である。



清氏と佐々木道誉

 ところで、清氏はなぜ幕府から追討の命を受けたのだろうか。延文3年(1358)4月、足利幕府を開いた尊氏が没すると、同年12月嫡男義詮が父の跡を継いで第2代征夷大将軍に任じられた。それに先立つ10月、義詮は細川清氏を執事に据えている。おそらくこのころから既に次の幕府内における人事を見据えていたのだろう。
【写真左】「惣次郎建(立)」と刻銘された石碑
 史跡三十六から北西方向に200mほど畦道を進んだところに建っている。自然石に筆耕された文字で表に「惣次郎建」とあり、裏には「南無阿弥陀仏」の文字が読み取れる。
 おそらく、文久年間に惣次郎がこの場所を最初に古戦場跡として比定し、石碑を建立したものだろう。

 また、手前の四角い石柱の横面には冨家友太郎の銘がある。惣次郎の孫に当たる人物かもしれない。
 


 そして義詮にとってもう一人信任の厚い人物を傍らに置いていた。佐々木道誉である。勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)でも述べているが、清氏が執事に任じられたとき、道誉は義詮からその内示を伝える役を行っている。

 道誉は以前にも述べたように、尊氏の代から長らく重鎮として幕府の屋台骨を支えてきた人物で、このとき(延文3年)彼は63歳であった。清氏が執事に任じられたときの年齢ははっきりしないが、父和氏の生誕年から考えて40歳前後だったと思われる。

 義詮にとって、清氏の執事補任はおそらく初代将軍・尊氏を支えていた道誉と同じような役割を期待してのことだったと思われる。そして経験の浅い清氏には道誉が補佐するという形を取りたかったのだろう。

 しかし、新執事清氏は着任早々道誉と衝突してしまった。『太平記』によれば、加賀守護職の人選に当たって道誉が婿の斯波氏頼を推薦しようとしたら、清氏がこれを拒否して富樫氏に与え、さらには摂津守護職に道誉の孫を宛行うとしたら、清氏が元の赤松氏に返そうとしたりするなど、両者の行動は度々相容れぬものとなり、二人の争いは収拾がつかなくなってしまった。

 そして、ついには清氏が義詮の調伏祈祷を行ない、叛逆の意思があると道誉が義詮に讒言し、それを信じた義詮は清氏追討の命を出した。
【写真左】「惣次郎建立」碑から「史跡三十六」を遠望する。
 後方の左側には白峰の山並みが続く。

 この田圃付近の海抜は2m余りなので、白峰合戦が行われたこの付近は、当時遠浅の海ではなかったかと考えられる。
 従って戦(いくさ)の形態は「船戦」が主で、潮が引いた時のみ陸上戦となっていたのかもしれない。




追われた清氏

 幕府から追われる立場となった清氏が最初に向かったのが当初領有していた若狭国である。その後和泉堺に向かい、南朝方となって一時京都に迫ったが敗れて、最後の領有地四国讃岐に逃れた。

 讃岐に奔った清氏に対し、義詮は頼之にその討伐を命じた。上述したように清氏と頼之は同じ細川氏一門で従兄弟の間柄である。命を受けた頼之のこの時の心情はどういうものであったか分からないが、複雑な想いも多少生じたのではないかと推察される。

 しかし、頼之がこれを拒否すれば、父頼春が興した細川吉兆家は、2代目の頼之で廃絶される可能性がある。対する清氏は同氏本宗家の嫡流である。そして、下手をすれば細川両家が武家として表舞台から消えることにもなりかねない。このため頼之には、吉兆家としての立場を優先させた判断があったかもしれない。

 またもう一つには、後に将軍を補佐する役職として執事から管領職が敷かれることになるが、そのライバルでもあった斯波氏や畠山氏らとの競争意識も手伝い、頼之は清氏討伐を受諾したともいえる。


高屋城

 ところで、この戦いで清氏が陣を構えた城砦について、上掲の碑文に「高屋城」(下線)と記されている。別名「白峰城」とも言い伝えられているが、その所在地についてはいまのところ比定地が確定していない。この碑文に「白峰山麓 高屋城」と書かれていることを考えると、少なくとも白峰山より低い場所にあったと推察される。
【写真左】雄山おんやま
 左側が古戦場跡で、東山はこの写真にはないが、この雄山の後ろに控えている。(後段の写真参照)




 探訪したこの日、古戦場跡から周囲を見渡すと、東に二つの小規模な小山が見えた。南側にある山が雄山(おんやま)(H:140m)といい、これが高屋城かとも思ったが、調べたところ城砦としての遺構らしきものもなく、この山が高屋城であった可能性は少ない。
【写真左】白峰から高屋の町並みを俯瞰する。
 白峰の尾根北端部には東山があり、雄山・雌山との間にある町が高屋町である。
 この高屋町内にある市立松山小学校付近が上屋敷西・東と呼ばれている。



 そこで注目したのが、雄山の東麓にある坂出市立松山小学校付近の地名である。ここには、「上屋敷西」「上屋敷東」及び「中屋敷」という地名が残っている。

 「上屋敷」が東側にあって、「中屋敷」は西側の雄山側に位置している。このことから「高屋城」は現在の崇徳天皇白峯陵及び81番札所白峯寺側の尾根続きで北に位置する東山(H:168m)付近ではないかと思われるが、もちろん推測の域を出るものではない。

2016年11月15日火曜日

財田城(香川県三豊市財田町財田中)

財田城(さいたじょう)

●所在地 香川県三豊市財田町財田中
●別名 本篠城(もとしのじょう)、奥野城
●指定 三豊市指定史跡
●高さ 200m(比高80m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 財田氏
●遺構 郭・土塁・馬返し・空堀・のろし台等
●登城日 3月14日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』等)
 香川県から南下して徳島県に入る道は何本かあるが、そのうち最も西側を走る道路としては国道32号線がある。別名阿波別街道とも呼ばれ、猪ノ鼻峠を境としてJR土讃線とほぼ並行して走り、近世に至ってから讃岐と阿波を結ぶ街道の一つとなった。

 そして、讃岐側から阿波越えをする北麓には財田町(現三豊市)があり、32号線からおよそ1キロ余り隔てた本篠の谷に聳えているのが財田城、別名本篠城である。
【写真左】財田城遠望
 北側から見たもの。












現地説明板より

“本篠城址
 ~本篠城の歴史~

 本篠城は南北朝時代(延元年間)に財田左兵衛頭義宗が所領していたと言われています。かつて阿波・讃岐の交通の要路にある要害堅固の地を生かした天然の山城でした。
 しかし、天正6年(1578)に、長宗我部元親が率いる土佐軍5,000の兵の侵攻を受けました。わずか200の兵の財田軍は城を中心に激しく抵抗し善戦しましたが、落城してしまいました。

 山頂には、土塁・馬返し・空堀・のろし台など戦いの遺構も残っています。またふもとには財田和泉守常久の墓と伝えられる五輪塔も現存しています。
【写真左】「本篠城址」の看板
 左上の隅には「地元の中学生が作った 魅力大発見!
 財田の案内看板」
と書かれている。





伯母淵(おばぶち)

 長宗我部軍の攻撃で落城したとき、伯母や女房たちが身を投げたといわれています。

作製:三豊市立和光中学校
     3年 (5名)
協力:まちづくり推進隊財田 文化財保護協会
    財田町写真同好会 関係自治会
設置:平成25年12月吉日”
【写真左】縄張図
 これを見ると、長径(南北)×300m、短径(東西)100mの規模で、堀切や竪堀など5個所があり、中心部に主郭を置き、南側にも大きな郭(吐出部)を構えている。







 この看板は北麓に設置されているもので、地元の中学生5名の名前が入っている。子供たちが主体となってこうした地元の歴史に興味を持ち、活動をしていることは頼もしい限りである。
【写真左】看板附近から遠望する
 左側の山が財田城になるが、途中で右側には鮮やかな花が咲いていた。








財田義宗小笠原義盛

 財田城の城主は財田義宗といわれている。おそらく築城期も義宗が活躍した南北朝期と思われ、建武年間前後と考えられる。
【写真左】迷走する。
 財田城の左側(東)の山道を車で進んだが、登城口にあるという石碑などが見つからず、また時間的にも余裕がなく、結局登城を断念した。

 どうやら、途中で分岐する地点で右に行くべきところを左に進んでしまったようだ。
 このあと、一旦谷間の集落に降り、財田和泉守常久の墓に向かう。


 財田城から南に凡そ20キロ向かった阿波の田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)でも述べたが、建武4年・延元2年(1337)、池田・大西城(徳島県三好市池田町上野)にあった小笠原阿波守義盛は、南朝に属して挙兵、北朝方の細川頼春と戦ったが利あらずとして和睦した。
 この戦いで、当初義盛は大西城にあったが、その後讃岐山脈を越えてこの財田城に拠っている。同年6月のことである。

 しかし、当城に拠ってから一か月後、北朝方の軍門に下っている。おそらく、義盛が大西城から財田城に移る際、財田義宗が手引きをしていたと思われる。因みに、義宗の名は阿波守義盛から偏諱を受けたものだろう。
【写真左】財田和泉守常久の墓・その1
 財田城に向かう道から逸れる集落側の道を進むと、民家の奥にある段々畑の隅に祀られている。



財田城での攻防

 天正年間における長宗我部軍進攻前の永禄6年(1563)ごろ、阿波三好氏による讃岐制圧の動きがあった。
 当時阿波にあった三好氏の中でも特に実休のもとで頭角を現してきたのが篠原長房(中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その1参照)である。
 このころ、三好氏の主流であった三好実休(義賢)や十河一存らは畿内に出陣していたが、永禄4年、5年に一存や実休が相次いで亡くなると、長治が跡を継いだものの、実権は長房が握ることになった。
【写真左】財田和泉守常久の墓・その2
五輪塔形式のもので、「相伝 財田和泉守常久之墓 本篠城主也 天正六年長宗我部元親軍と戦い討死す
 昭和62年4月建立 財田町教育委員会 川上老人会」と刻銘されている。



 永禄6年、長房らは当初香川之景の拠る天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)に攻撃をしかけ、香川氏らは籠城の末同城を退城し、閏12月財田において大西衆(阿波大西頼武配下)と再び抗戦している。
 
 因みに、三好氏の実力者であった長房は後の元亀3年(1572)、同族の篠原自頓の讒言によって主君長治から追われ、居城の上桜城(吉野川市)において、長子とともに自害することになる。

 天正6年(1578)、長宗我部元親による讃岐侵攻が当地にも及んだ。説明板にもあるようにこの戦いは兵力の差は如何ともし難く、衆寡敵せず落城することになる。またこの戦いで、財田城の支城といわれる藤目城(観音寺市)もほぼ同時期に落城している。

塔重山

 ところで、財田城から東方の谷を隔てて、直線距離で600m余の位置には塔重山という標高268mの山がある。現在、その頂部には「たからだの里」という名の公園が造られている。

 この山には元々青蓮寺という古寺があり、いまでは公園化されたためほとんど消滅しているが、南北朝期には二段の薬研堀などがあったといわれ、当山でも財田城の攻防に絡んだ戦が行われたと伝えられている。
【写真左】塔重山
 最高所には展望台が設置されている。
【写真左】西側の段
 公園化された際に加工された段なのか、当時のものか分からないが、当山も財田城と同じく東西両斜面は険阻である。

 なお、薬研堀といわれる箇所を探索したが見つからなかった。
【写真左】北東方向を俯瞰する。
 財田上といわれる区域である。
【写真左】北西方向を俯瞰する。
 財田中といわれる地区で、残念ながらこの場所からは財田城は確認できない。左側の山があるため見えない。
【写真左】東方を俯瞰する。
【写真左】徳島方面を見る。
 この山を越えると阿波(徳島)に至る。
【写真左】展望台から公園を見る。
 北方を見たものだが、北側の峰先端部から先の植林された箇所に遺構があったのかもしれない。