2016年7月28日木曜日

近江・長澤城(滋賀県米原市長沢)

近江・長澤城(おうみ・ながそじょう)

●所在地 滋賀県米原市長沢
●形態 平城(沼城)
●築城期 保元の乱後(1158年過ぎ)
●築城者 長澤太郎冠者土佐守義盛
●城主 累代長澤氏17代(300年)、浅井氏・若宮氏被官、六角氏(本陣)
●廃城 慶長2年(1597)秀吉古城取り壊し、慶長7年(1602)内藤四郎左衛門尉正成領地
●遺構 的場・内堀・土塁等
●備考 福田寺・長澤城併存(延元4年:1339~)、熊野神社、長澤御坊
●指定 福田寺公家奴振り(県指定無形民俗文化財)
●登城・参拝日 2016年6月28日

◆解説
 滋賀県の琵琶湖の東方米原市の西岸部には、東西凡そ2キロ余、南北1キロ前後の規模を持つ長沢という小字規模の集落がある。西端は琵琶湖に面し、北及び東側の境は長浜市と接している。
【写真左】長澤城 内堀跡・その1
 集落の南側には幅2mほどの排水路のようなものが残っているが、これが長澤城時代の堀跡とされている。




 当地には、前稿出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その2の後半で少し紹介したように、永禄12年(1569)尼子再興軍の頭首として東福寺の僧から還俗した尼子勝久に従い、戦ったとされる近江長澤氏の居城(居館)跡がある。

 集落に残る濠跡付近には地元「長澤郷つくり委員会」が作成した「長澤村と仲の川」というタイトルの説明板と、福田寺の前に設置された当院の由来を紹介したものが設置されている。二つとも長文になるが、これらを先ず紹介しておきたい。
(※註 ◇は判読不能、下線は管理人による。)
【写真左】長澤城 内堀跡・その2
 上の堀跡と同じ個所のもので、左側(北)に後ほど紹介する福田寺がある。
 また、この堀から手前(西)へ約400m程向かったところには、平安時代には「長澤池」という湿地帯があり、平安時代の歌人・藤原顕輔(1100年頃)が、池に群生したあやめを詠んだ古歌が残っている。


◎説明板・その1

“長澤村と仲の川

 長澤村の始まりは、人皇56代清和天皇第四王子、貞保親王八代皇斎長澤太郎冠者土佐守義盛保元の乱(1158)の賞により長澤領を受け、金子三千貫をかけ一町半四方の「長澤柵(構)」を築造、これが組頭以下侍250人、馬50頭を擁する「長澤城」となり、周囲を石積で二重堀にした。


【写真左】長澤地区の東側
 長澤城(福田寺)の東側には右側に見える県道556号線が走っている。この道をそのまま奥(南)へ進むと、坂田に繋がり、さらに米原市街地へと向かう。
 土地改良されたため、中世の様子は大幅に変わっているが、現在田圃になっている箇所なども長澤池または安土桃山時代によばれていた「あやめ池」だったと考えられる。



 「仲の川」を含め、当時は2間余りの幅を持つ内堀で四方を囲み、北国街道から内堀を反り橋(坂田神明宮に現存)で渡り惣門をくぐり、城や福田寺へ出入りした。

 こうした形で周辺を治めた長澤城主は、17代約300年間続いた。長澤城が出来て180年後、延元4年(1339)長浜の布施山から福田寺が移り、それから130年、長澤城と福田寺は共栄してきたが、何が因かは定かではないが、長澤城は閉城したと伝えられている。


【写真左】福田寺(長澤御坊)の西側
 下段で紹介する福田寺(左側)の裏側に当たり、集落の西端部である。
 この道は奥でL字に曲がっている。こうした痕跡は長澤城時代のものかもしれない。



 蓮如はこの前後、宝徳元年(1449)から延徳2年(1490)にかけていくたびか福田寺に滞在している。

 天文年中の長澤村の北国街道では、浅井氏や若宮氏の被官が在番し、通荷に関銭をかける関所となり茶屋が並んだ。同7年(1537)、浅井氏と六角氏の争いで六角氏の本陣が長澤村に置かれ、関と併せ江北の戦略上の要地となった。

【写真左】福田寺入口
 南側の堀跡側から北に向かう狭い道を進むと、左側に大きな広場が見える。
 右奥に進むと、後段で紹介する熊野神社の鳥居があり、その左には福田寺の山門が建っている。




【写真左】福田寺の山門
 堂々たる山門で、しかも優美である。
左に福田寺の由来を示す説明板があり、右側に昭和13年に建立された「明治天皇長澤御小休所」と刻銘された石碑が建つ。




 また、信長の寺社仏閣焼打ちに抗し、江北10か寺の先頭に立つ福田寺は、4500人の僧兵や民衆を組織して立ち向かうなど、僧兵や寺侍・念仏者などの民衆のエネルギーが集う場となるが、慶長2年(1597)秀吉の古城取り壊し布告により長澤城の残部も取り除かれ、慶長7年(1602)には、家康の旗頭、内藤四郎左衛門尉正成の領地となった。

 南・北・西茶屋や弓を射る的場、米◇◇蔵、城寺を結ぶ◇御成り道、陣屋跡の御陣屋、寺町・大門など、兵農分離が進んだ中世期の城下町や門前町等偲ばせる地名が今も残っている。
 「仲の川」は、長澤村80戸の内75戸まで焼けた天和(1618)の大火災、天明(1783)の飢餓や大洪水など長澤村のすべての歴史を見つめ、その都度適切な役割を果たすと共に、淡海への水路・長浜や水田への船便等通船川としての「仲の川」は長澤村の人々と切っても切れない深い仲となりいつとなく誰となく「仲の川」と呼ぶようになった。

【写真左】本堂・その1
 この本堂を中心として長澤城や長澤御坊と呼ばれたころには多くの門徒や、参拝者で賑わったのだろう。




 近世での稲の運搬・農業用水など村人の生活に関わり続けたが、昭和の後期から平成初期(1990年)の土地改良により水系が変わり、区民の生活排水のみとなり、1995年の改良工事に続き「郷つくり事業」で仲の川通りに修景事業が行われた。
 これを機に先人に感謝の気持ちと、ふるさと長澤村や仲の川の歴史を末長く伝えるために碑に記した。
   平成8年(1996)11月

     長澤郷つくり委員会”
【写真左】本堂・その2
 境内には「蓮如上人御手植えの松」と呼ばれる松が見事な枝ぶりを見せている。







◎説明板・その2

“福田寺ふくでんじ

 天武天皇の勅願によって、近江の名族息長宿祢王(おきながすくねおう)が施主となり白鳳12年(684)7月に建立したのが福田寺の起源と伝えられています。
 神功皇后、允恭(りんぎょ)天皇の皇后(大中姫(おおなかひめ))、敏達(びたつ)天王の皇后(広姫)や継体(けいたい)天皇ゆかりの息長家の菩提寺として、その由緒を今日に伝えてきたのです。 

 福田寺は、当初、その宗旨を三論(さんろん)、法相(ほっそう)宗、さらに天台宗と変えてきましたが、覚如上人が、この地を訪れられたの機会に、当時の住持覚乗(かくじょう)が浄土真宗に改宗されたのです。
 これは、真宗教団へ改宗した初めての寺院だといわれています。また、延徳年間には、3か年にわたって真宗中興の祖である蓮如上人が、滞在され、当時の住持になることを約束されているほどです(蓮如上人自筆の書が保存されています)。
【写真左】庫裡
 本堂の右側には庫裡が建っている。福田寺周囲には多くの寺坊があったと思われるが、御坊が繁栄したとき、この庫裡が大きな役割を果たしていたのだろう。



 元亀・天正の法難(織田信長との戦い)には、住職覚芸は、福田寺門徒4,500余人と湖国10か寺の総統領として、同志2万数千人を指揮して、愛山護法の戦いをくりひろげられたのです。境内にある『殉教万人塚』は、当時の遺徳を偲んだものです。

 また、開国通商の推進者として名高い井伊直弼公と当時の住職三乗(さんじょう)院摂専(いんせっせん)(本寛)連枝とは、従兄弟であり、同時に佛教信仰の上では師弟の関係にありました(直弼公より本寛師への80余通の書翰が伝えられています)。
【写真左】福田寺御殿
 通称「浅井御殿」と呼ばれているもので、浅井長政が寄進したものとされている。
 この奥には名勝庭園があるようだが、当日は中に入っていない。



 因みに、本寛師の後室は、摂政関白右大臣二条斉敬(なりゆき)公の妹鑈子(かねこ)姫(明治天皇の皇后の従姉妹)であり、直弼公の仲人によって入興(じゅよ)されたのです。
 明治11年、明治天皇は北陸行幸の途次、当寺に立ち寄られました。このとき、鑈子姫が彦根城の保存をお願いされたと伝えられています。

 境内には、室町末期の作である枯山水の名勝庭園があり、その石組は広く知られています。また石造美術として鎌倉時代に作られた後鳥羽天皇の供養塔や、石灯籠が風格を見せています。建築物としては、鐘楼と名将浅井長政公が寄進された浅井御殿(県文化財)が室町末期から徳川初期の特徴を今日に伝えています。 

(『福田寺由緒記』より)”
【写真左】本堂前に設置された家紋入の石造物
 寺院なので、家紋というより寺紋というべきなのだろうが、「下がり藤」模様であることから、西本願寺系統である。




長澤城・長澤柵(構)

 これを読むと、長澤城、福田寺並びに長澤村の歴史がおおよそ把握できる。ただ、長澤城の築城期は、保元の乱(1158)の賞、とあるが、この乱そのものは、保元元年、すなわち1156年に起った乱であり、恩賞地である長澤領を長澤義盛が拝領したのは、その3年後の1158年、すなわち保元3年ということだろう。

 そして、一町半四方の「長澤柵(構)」を築造、したとある。現代風に換算すれば、凡そ164m四方というところか。後段で紹介するように、福田寺及び熊野神社を含め、その周りに隣接する集落の主だった箇所がすっぽりとこの中に入る。
【写真左】五輪塔
 境内南西端にひっそりと祀られているもので、五輪塔と宝篋印塔それぞれの部位が混在したものである。

 これとは別に、近くに「殉教万人塚」という供養塔が建立されているが、これも信長との戦いで亡くなった門徒・寺内衆たちのものだろう。



福田寺・寺内町

 上掲した二つの説明板からいえることは、一つには長澤城が築城されたのは、平安期の保元3年ごろで、それから180年後の延元4年(1339)長浜の布施山から福田寺が移り、この長澤城と併存したとあるから、この段階で「寺院城郭」の形態をとりながら、次第に「寺内町」の形を形成していったものと思われる。

 それから130年後、長澤城は理由は不明だが「閉城」したとある。130年後とは、1469年すなわち、文明元年ごろである。閉城した直接の理由は分からないが、この時期は「応仁・文明の乱」と重なるので、この乱が当城の閉城に絡んだことは間違いないだろう。

京極・浅井氏六角氏

 また「閉城」と書かれているので、おそらく直後に遺構が破壊されることはなかったと思われ、天文年中には浅井氏と六角氏の戦いで、六角氏の陣所としても使われ、元亀・天正年間の信長による寺社仏閣焼打ちに抗して、福田寺(長澤城)はその中心となって戦ったとされている。

浅井氏福田寺

 ところで、以前取り上げた小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)でも述べたように、浅井氏は、三代の長政のころより、越前の朝倉氏(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)や、本願寺と極めて緊密な関係を持つようになった。最盛期には坂田・浅井・伊香の湖北3郡、さらには犬上・愛知(えち)・高島までを領有していた。
 写真にもあるように、福田寺境内に残る書院は、長政時代の小谷城から移したものとされ、通称「浅井御殿」とも呼ばれている。
【写真左】熊野神社・その1
 福田寺境内の北東部には熊野神社が祀られている。








長澤氏

  さて、先述したように長澤城が閉城となった文明年間、時の城主長澤氏については触れられていないが、その後福田寺の「住職覚芸は、福田寺門徒4,500余人と湖国10か寺の総統領として、同志2万数千人を指揮した」とあるので、この中にあって長澤一族は、寺侍(てらざむらい)的な立場だったのかもしれない。そして、彼らを全面的に支えていたのが浅井氏であったと考えられる。
【写真左】熊野神社・その2
 「熊野神社」と筆耕された石柱












  ところで、黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)の稿でも述べたが、熊野氏の主君であった尼子経久は、天文5年(1536)12月、浅井亮政に対して備中・美作の戦況を報告している(「江北記」)。

 出雲守護であった京極氏がその後内紛により凋落していった際、家臣であった浅井亮政が頭角を現し、北近江を支配下に抑えていったころである。一時的にせよ、この時期尼子氏にとって、浅井氏は京極氏に代わる出雲守護職立場であったのかもしれない。そして、福田寺が浅井氏の庇護を受けていたことを考えると、このころから長澤氏もまた浅井氏と深い結びつきを得ていたと思われる。
【写真左】熊野神社・その3
 中央奥に拝殿が祀られている。










 では、前稿出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その2で述べた長澤氏が、いつごろ如何なる経緯で出雲に向かったのだろうか。既述したように、尼子勝久が尼子再興の旗印を掲げたのは、永禄12年(1569)である。この前年近江の浅井長政は、織田信長の妹お市の方を室に迎えた。つまり、信長と浅井氏の蜜月期である。

 こうした状況下で、京都東福寺にあった尼子勝久が還俗したとき、長澤一族の者が彼の下に向かった背景を考えるとき、やはり何某かの人物が、勝久と長澤氏を引き合わせたと考えるのが至当だろう。となると、前稿でも述べたように、その人物は熊野久忠本人もしくは、京極・多賀氏に極めて近い者だったと考えざるを得ない。
【写真左】熊野神社・その4
 本殿。
 全体に社殿の規模は大きくはないが、意匠的には立派な建物が多い。






熊野神社

 さて、当城(福田寺)の境内の東側には、熊野神社が祀られている。由来などを示すものがないため、創建期などは分からないが、出雲熊野城が廃城になったあと、長澤氏はその後当地で帰農しているので、おそらく江戸期に入ってから子孫が祀ったものと思われる。
【写真左】池
 熊野神社と福田寺の間には長方形の池が掘られている。
 いつ頃造られたものか分からないが、清涼感を味わえる池である。

2016年7月19日火曜日

出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その2

出雲・熊野城(いずも・くまのじょう)・その2

●所在地 島根県松江市八雲町熊野
●登城日 2015年2月6日

◆解説(参考文献「出雲の山城」高屋茂男編、「出雲尼子氏一族」米原正義著、『八雲村誌』等)
 熊野城に関する資料はあまり多くないが、本稿では熊野大社をはじめ、当城周辺部に残る史跡並びに、尼子再興軍の一員として戦った長澤氏などについてとりあげたい。
【写真左】熊野城遠望
 北側の熊野大社駐車場側から見たもの。

 熊野城の東麓を走る県道53号線を南下し、峠を越えると大東町に至る。




熊野大社

  前稿でも少し紹介したように、熊野城の北方2キロには熊野大社が所在している。
【写真左】熊野大社・その1












現地の説明板より

“熊野大社「上の宮」跡のご案内

 この意宇川の川上500m 御笠山の麓に熊野大社の「上の宮」跡があります。
 熊野大社は古代、意宇川の源流である熊野山(現在の天狗山)にありましたが、中世より里に下り「上の宮」「下の宮」(現在の当社)として近世末まで二社祭祀の形態をとりました。
 「上の宮」には紀伊国の熊野信仰の影響をうけ伊弉冉尊(いざなみのみこと)・事解男神(ことさかおのかみ)・速玉男神(はやたまおのかみ)等を祀る神社が、また「下の宮」には天照大御神(あまてらすおおみかみ)・須戔嗚尊(すさのおのみこと)等を祀る神社が造営されておりました。
【写真左】熊野大社・その2










 明治時代に至り「上の宮」の神社は、政府による神社制度の改正を機に「下の宮」であった現在の熊野大社へ奉遷合祀されました。
 「上の宮」跡背後の御笠山の頂上付近からは、熊野大社の元宮があった熊野山が拝され、遥拝所が設けられています。
 また登山道途中には、洗眼すると眼病に効き、あるいは産婦がこの水を服すと母乳が満ち足りるという御神水「明見水」が巨岩から滴り落ちています。
   熊野大社”
【写真左】熊野大社参道に掛かる橋から、南方に「上の宮」方面を見る。
 写真に見える川は意宇川で、中海に合流する。





 現地には当社の創建期は明示されていないが、「日本書紀」の斉明天皇5年(659)に「出雲国造を厳神の宮をつくらしむ」との記載があり、おそらく時期はこのころ、すなわち白鳳時代と思われる。
 そして、『出雲風土記』によれば、8世紀頃に「出雲国造(いずものくにのみやつこ)」が、熊野神社も含めたこの意宇地方を治政していたことから、当社神官も国造に関わる人物(出雲臣氏)だったのだろう。
 時代が下った仁寿元年(851)9月16日には、
「出雲国の熊野・杵築両大社に従三位を叙し…以下略」(『文徳』)とあるので、このころには杵築大社(出雲大社)と同格の扱いを受けていたものと思われる。
【写真左】熊野神社 境内案内図
 随神門をくぐると、正面に本殿・拝殿が祀られ、右側には舞殿がある。

祭神は
「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」を祀る。



 当社神官としては、前記したように出雲国造が初期に務め、その後国造の西遷(杵築)にともない意宇の政治的支配が弱まり、さらににはそこへ紀伊の国の熊野信仰が当地にも及び、おそらく同国の神職であった鈴木氏が暫く任じていたのではないかと思われる(二曲城(石川県白山市出合町)参照)。
 ただ、この鈴木氏も当地に赴いてからは、その姓を熊野氏に変えていたのではないかと推察されるがはっきりしない。

熊野氏多賀氏

 前稿でも紹介したように、熊野氏の名前としては戦国期に、熊野入道世阿・熊野兵庫介久忠・熊野和泉守、そして熊野弥七郎などが記録されている。彼らの出自については不明な点が多いことは既に述べたが、この時期における熊野氏については、それ以前の鈴木氏系熊野氏とは連続性がないように思われる。
【写真左】熊野城・本丸跡
 登城したこの日(2015年2月6日)、本丸登城後、北にのびる尾根まで足を延ばしたので、下段で紹介しておきたい。


 出雲国に限ったことではないが、応仁・文明の乱において地方各国には大きな変化が生まれている。室町期出雲国の守護職であった京極氏では、このころいわゆるお家騒動(京極騒乱)が勃発、京極氏の分裂は、同氏家老格であった多賀氏の分裂まで招いた。
【写真左】北にのびる尾根
 本丸から北に降りて行き、途中で右側の尾根を北に向かうと、その先に標高240m前後の頂部が見える。
 なお、写真の尾根の幅は20m前後あり、そのまま約150m程続く。本丸付近が急峻な箇所が多いことから、この箇所はまとまった平坦地(郭)としての機能をもっていたのかもしれない。



 その多賀氏については、すでに平田城(島根県出雲市平田町極楽寺山)でも述べたように、同氏が出雲国に下向したのが明徳・応永年間とされている。

 その後、中央における応仁・文明の乱により、近江では京極氏は被官人であった浅井氏に奪い取られていくことになる。この騒乱の中で、奮闘していたのが多賀豊後守高忠である。文明17年(1485)4月、幕府から所司代に再任されたが、翌18年61歳で近江の陣中で没した。
【写真左】頂部
 上述した尾根先端部の頂部に当たるが、現在ここにはご覧の様な高圧電線の鉄塔が立っている。
 位置的に考えると、本丸の北方にあたり、出丸もしくは物見台があった可能性が高い。



 ところで、最後の熊野城主であった熊野兵庫介久忠の名前から想像するに、久忠の「久」はおそらく尼子経久から偏諱を受けたものだろうが、「忠」はこの多賀高忠の忠を受け継いだものではないだろうか。

 また、これまで紹介しなかったが、天文9年(1540)の尼子晴久による毛利氏の居城安芸郡山城攻めにおいて、熊野備前守久家、及びその弟次郎の名が見えている。
【写真左】北尾根頂部から熊野城を見る。
 頂部から見ると、本丸は真南の方向になる。







 さらに、興味深いことは、先述した多賀豊後守高忠には、「高家」という嫡男があり、状況を考えると、この高家が父高忠亡き後、出雲国に尼子氏を頼って下向した可能性もある。つまり、高家の子が久家で、その子が久忠であったという流れが考えられる。
【写真左】多賀大社・「太閤橋」
 2007年10月17日参拝
 所在地:滋賀県犬上郡多賀町多賀604番地

写真:天正16年(1588)、豊臣秀吉病に伏していた母の治癒を祈願し、成就したお礼に社殿改修と併せ、この橋を造る。



 以上熊野氏の出自について傍証となるような史料がほとんどないまま、熊野氏と多賀氏をいささか強引な推論で結びつけてきたが、最後につけ加えるなら、多賀氏はもともと近江多賀大社の神官を祖としていたことから、熊野城の城主となった際、衰退していた出雲熊野大社の神官を兼ねた可能性も充分考えられる。
【写真左】南東麓から土居成跡を遠望する。
 熊野城の東麓には、「土居成」という地名がああるが、この場所が熊野氏の居館跡と比定されている。
 現在はこの場所に民家が建っている。
【写真左】天野八幡跡
 登城口手前の公園から少し行くと、意宇川に架かる橋の対岸に八幡跡がある。

 熊野城落城後、山中鹿助再興軍と激しく戦った毛利方の天野隆重(毛利元秋墓所・宗松寺跡(島根県安来市広瀬町広瀬富田)参照)が当城を管轄している。
 この八幡は天野隆重が勧請したものといわれ、現在宮は熊野大社に合祀されている。

 なお、隆重の館も近くにあり、「おしろ屋敷」という屋号を持つ家が隆重館跡といわれている。



長澤儀太郎翁近江長澤氏

 ところで、熊野城の東麓には前述したように「土居成」という熊野氏の居館跡があったと述べた。この土居からさらに北に500m程下ったところには市場という地区がある。この市場の県道53号線脇に、市場地区農村公園という小さな公園があるが、この中に「長澤儀太郎翁之碑」という石碑が建立されている。
【写真左】市場地区農村公園
 県道53号線の脇にあり、写真奥に石碑があり、その向背は熊野城の北側に当たる。







 この石碑の裏に以下の碑文が刻まれているが、大分劣化しているため判読できない箇所もあるものの抄出して置く。

元熊野村村長長澤儀太郎翁◇は貞義驥斎と号す
 其の祖信通は近江源氏に出で同国長澤を本貫す
 初め尼子勝久に従い出雲に来り熊野城を守る
◇城北の北台に帰農す
【写真左】長澤儀太郎翁之碑












 家信、家貞、貞勝、貞督、貞継、貞則、貞秋、貞虎、貞孝、貞顕、相継ぎ家道を興し村治に于る。

 翁は即ち貞顕の家督にして慶應貮年8月21日を以て生る。母房は貞孝の女なり 翁資姓超卓清廉少くして熊野大社宮司中村守手大人に学び敬神愛国忠孝道義に篤し年甫めて拾八歳村政に興り 幾許もなく村長に推され七拾五歳に至るまで概ね其の職に在り励精治を謀り業績大に擧る


 明治44年模範村に指定せられ村名連りに聞ゆ 爾来来りて村治を見教を乞ふ◇日に衆きを加ふ昭和21年1月6日没す。齢81 時方に戦後日浅く舊制既に亡ひて新儀未だ起らず人その方郷に迷ひ趨舎を誤るもの往々にしてこれあり而も今や風潮良く定り闔郷愈業を楽しむを得るに格れるは蓋し翁の流風余韻の青山白水の間に揺曳し千古人心を廓清するによるもの多しといふべし磋偉なる哉今茲村民厥の凓を仰ぎ相議りて碑后を建て 以て後昆に傳ふと云ふ。

昭和貮拾七(27)年 ◇春  佐太神社宮司従五位 朝山晧 撰”


※註 ◇:判読不能の文字、下線は管理人による。
【写真左】石碑裏の碑文
 碑文の撰者が、佐太神社宮司 朝山某とある点も多賀氏との関係が窺える。







 この碑文の内容を見ると、長澤氏の始祖は近江国(滋賀県)の長澤を本貫した一族で、尼子勝久に従い出雲熊野城を守る、とある。

 勝久は永禄12年(1569)に尼子復興軍の総帥として戦うが、永禄8年に一旦毛利氏に降った熊野久忠が、このとき再び尼子方として熊野城に拠っている。このことから、近江にあった長澤氏(家信か)が尼子勝久に仕えた経緯を考えると、勝久が京都東福寺の僧であったとき、近江長澤氏と何らかの接点があったはずである。
【写真左】「ながさわまえ橋」
 市場地区を流れる意宇川には、「ながさわまえ橋」という橋が架かっている。
 おそらく、長澤氏が当地に入ってからつけられた名前だろう。



 実は熊野久忠が一旦毛利氏に降った後、再び尼子氏に帰順するまでの3年余の動向ははっきりしていない。このことから、久忠もしくはその配下のものが、近江に上った可能性が考えられ、その場所は、先述した熊野氏の出自と密接に絡む近江多賀氏の元の所領地である犬上郡や坂田郡などであり、長澤氏の本貫地もまた坂田郡に所在している。

 次稿では、その長澤氏が本貫地としていた近江・長澤城を中心に取り上げたい。

2016年7月9日土曜日

出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)・その1

出雲・熊野城(いずも・くまのじょう)・その1

●所在地 島根県松江市八雲町熊野
●高さ 280m(比高180m)
●築城期 不明(室町期か)
●築城者 不明(熊野氏か)
●城主 熊野久忠、天野隆重
●遺構 郭・腰郭・井戸等
●備考 尼子十旗
●登城日 2015年2月6日

◆解説(参考文献「出雲の山城」高屋茂男編、「出雲尼子氏一族」米原正義著等)
 地元出雲にありながら、なかなか登城できなかった山城である。というのも、これまで何度も麓まで来てはいたが、登城道は整備されておらず、しかもその先は年々増大する竹害のため、ほとんど登城は諦めていた。
【写真左】熊野城遠望
 南側の大東町(雲南市)小河内に向かう峠付近から見たもの。

撮影日:2016年6月17日




 しかし、地元山陰中央新報・2015年2月4日版に、「尼子氏の拠点「十旗」の一つ 熊野城跡PRへ決起」という見出しをみつけた。そこには、「地元(八雲町)住民による保存会が、毛利氏との激戦の舞台だった城の歴史を広めようと荒れた登山道の整備や、案内看板の設置に汗を流している」と書かれている。
 この朗報に刺激され、その2日後の6日、はやる気持ちを押さえながら熊野城に向かった。
【写真左】熊野城の記事
 山陰中央新報・2015年2月4日版




現地の説明板

“熊野城跡
   ◆所在地/松江市八雲町熊野 ◆標高/280m ◆比高/180m ◆主な遺構/曲輪、腰郭

 熊野城は尼子十旗の一つとして富田城防衛の重要拠点であった。
 城主熊野氏。永禄6年(1563)9月、白鹿城を包囲していた毛利元就は、後方から牽制する熊野久忠を討つため、熊野城を攻撃したが撃退された。元亀元年(1570)布部合戦の後、牛尾城の落城をみて開城した。
 かわって富田城の城督だった天野隆重が入城。”
【写真左】熊野城の北方に鎮座する熊野神社に設置された案内板
 次稿で紹介する予定だが、熊野城から意宇川沿いに北に約2キロほど下ると、熊野神社(大社)がある。その境内駐車場にこの案内板が設置されている。
 また、熊野神社の近くには、以前紹介した尼子経久の長男・政久の墓が祀られている常栄寺がある。


【写真左】熊野城と麓にある看板
【写真左】熊野城の見取図
 上記説明板に挿図されているもので、本丸をはじめ、八幡丸・馬場・井戸・立石などといった伝承の残る場所も図示されている。




尼子十旗熊野氏

 ところで、満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)でも少し触れているが、尼子氏の居城月山富田城を守るべく、出雲国内に配置した主要な支城10か所を「尼子十旗」と呼んでいる。「雲陽軍実記」によれば、熊野城はその中で8番目の城として位置づけされ、城主は熊野氏といわれている。この順番の意味は重要度から決められたものだろうが、別説では各城の石高の多寡から決められたという説もある。
【写真左】登城口
 上図の見取図にもあるように、登城口は西側の谷付近にあり、看板のあるところから少し奥に進むと、右側に「熊野城跡登山口」という標柱が立っているので、ここから登る。


 当城の城主は熊野氏といわれている。築城期とも関連するが、この熊野氏の出自ついてははっきりせず、従って当城が築かれた時期についても不明な点が多い。ただ、熊野城東麓を流れる意宇川(いうがわ)を2キロほど下ったところには出雲国一宮の一つ熊野大社があり、当社神官を出自とする可能性もあるといわれている。
【写真左】石積跡
 登城口から少し進んで行くと、やがて左手に石積跡が見えてくる。

 この辺りには谷間を利用した段が残っているが、伝承によれば、熊野城が陥れられたあと、熊野久忠に代わって、毛利方の天野隆重が暫く当城に在城しており、隆重墓地跡とされる箇所でもある。次の写真でも紹介するが、さらに奥の谷に向かうと「寺床」という平坦地が残っているので、これら寺院関係の遺構かもしれない。


 また、尼子分限帳には、尼子氏の主だった家臣団が載せられているが、どういうわけか熊野氏の名はこの中では見いだせない。他の資料で確認できる人物としては、後段で示すもの以外としては、尼子・毛利氏の戦いの中で、熊野入道世阿・熊野兵庫介久忠・熊野和泉守と、永禄12年頃美作・高田城(岡山県真庭市勝山)に山中鹿助の姉婿佐伯七郎次郎と一緒にいた熊野弥七郎などである。
【写真左】登城途中の竹林
 冒頭でも述べたように、現状はご覧の様な竹林で覆われ、登城道付近のみが整備されている。
 この付近はまだ傾斜がきつくなる前の場所で、写真では分かりづらいが、谷の中央部から湧水が道と暫く並行して流れている。
 本丸頂部付近に「馬場跡」が残されていることを考えると、数壇の平坦地を構成するこの場所が、馬の調練場としていた可能性もある。


 同氏の記録が初見されるのは、文明4年(1472)3月に書かれた「室町幕府奉行人連署奉書」(『日御碕神社文書』)の中で、日御碕社と杵築大社の領地境界争いに関わり、幕府から守護代尼子氏をはじめ、牛尾・佐世・湯・馬来・塩冶・村井氏らと並んで熊野氏の名前も記され、その措置に協力するように命じられている。

 熊野城の最後の城主と言われているのが、前述した兵庫介久忠である。毛利氏が尼子氏を滅ぼす過程で、尼子氏の支城を次々と陥れていくが、中でも白鹿城(島根県松江市法吉町)での戦いがもっともその節目となった。
【写真左】途中から東の斜面に向かう。
 西側の谷を進んで行くと、途中から熊野城の中心から北側に伸びる尾根筋に取り付いた道が見えてくる。
 なお、この写真では分かりずらいが、要所には竹に赤いテープが巻きつけてあり、これを目印にして向かう。
【写真左】本丸までおよそ150mの地点
 このあたりから、尾根に沿って登るには傾斜がきついため、九十九折れになっていく。
 また最近設置されたのだろうプラスティック製の階段が所々つけてある。
【写真左】大岩
 この辺りから中小の郭段が確認できるが、残念ながらその場所も竹に覆われていて、踏込む事が出来ない。

 写真は次第に傾斜が付き始めた辺りに見えた大岩で、おそらくこの付近が「立石」と呼ばれた郭の箇所だろう。
【写真左】中規模の郭
 左側斜面は岩塊となっており、その右側には奥行5m前後の郭が構成されている。
【写真左】「八幡成」か
 今回登城したルートは本丸から北西に伸びる尾根筋を辿るもので、この尾根には郭の数は多くない。
 写真はそのうち本丸直近に構築されている郭で、おそらくこれが「八幡成」という郭だろう。奥行20m前後、最大幅15m前後の規模を持つ。
 なお、白いものは麓では全く見られなかった残雪である。
 このあと、いよいよ本丸を目指す。
【写真左】「八幡成」から本丸へ向かう道
 八幡成と本丸の比高差は7,8m前後だが急勾配のためここにも仮設階段が設置されている。
【写真左】本丸・その1
 少し息を切らせて登りきると、途端に視界が開けた。本丸である。

 本丸は、一辺がおよそ30m前後の三角形の形をなし、登ってきた尾根とは別に、東に伸びる尾根にも10か所前後の郭段が続き、また南に伸びる尾根には南北20m×東西10m程度の郭が3段程連続している。



城の構造

 ところで、麓の案内板にも熊野城の構造については、次のように記されている。
【城の構造】
  当城の置かれた要害山は円錐形の山容をなしている。その頂部を削平して主郭とし、その北側と、南西と北西の稜線に曲輪を配置している。主郭は不定形ながらていねいに削平され、東西2か所に虎口を設けている。いずれも坂虎口で特別の技巧はないが、北東側の腰郭をへて東南下方の郭群へと続いている。”
【写真左】本丸・その2
 東側の箇所で、この下に繋がる尾根にも郭段があるが、現状の整備はここまでのため向かっていない。
 この箇所は坂虎口となる入口だろう。
【写真左】本丸から北方の中海方面を俯瞰する。
 東麓を流れる意宇川は北に向かって中海に注ぐが、その西方には松江・茶臼山城が位置している。
 また、さらにその先には大橋川・中海を挟んで、和久羅山城跡(島根県松江市朝酌町)及び、忠山城(島根県松江市美保関町森山)がかすかに見える。
【写真左】長い石
 本丸跡には整然と並んだような礎石は見えないが、写真のような割と大きな石が数点散在している。
 毛利氏とかなり激しい戦いを繰り広げているので、こうした石も戰の際何かの用途につかわれたのかもしれない。
【写真左】本丸から八雲山を見る。
 熊野城の北西には『出雲風土記』に記された別名「須賀山(須我山)」が見える。

 標高426mのこの山はその西麓に鎮座する須賀神社の奥宮でもあるが、戦国期(永禄6年頃)毛利軍が熊野城を攻める際、陣所として使った山でもある。


 次稿では、月山富田城落城後尼子再興軍として当城に関わった長澤氏、並びに周辺の史跡などを取り上げたいと思う。