2016年12月21日水曜日

船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)

船岡山城(ふなおかやまじょう)

●所在地 京都府京都市北区紫野北舟岡町
●指定 国指定史跡
●高さ 112m
●形態 丘城
●築城期 応仁元年(1467)
●築城者 山名宗全
●遺構 空堀
●備考 船岡山公園
●登城日 2015年4月18日

◆解説
 船岡山城は、京都市北区紫野にある独立小丘で、南東から北西に凡そ450mの長軸をとり、北西側の最大幅は220m余りの規模を持つ。因みに、船岡山城の北西端の延長線上1.3キロの位置には京都五山送り火の一つ、左大文字(衣笠大北山)が控える。
【写真左】「史跡 船岡山」の石碑
 現在の船岡山は、南東部が後段で紹介する建勲神社の敷地で、北西部が船岡山公園の領域となっている。
 写真は、建勲神社の南麓部に設置された石碑。



現地説明板・その1

“史跡 船岡山(昭和43年2月15日 文部省指定)

 舟岡山は標高112m、面積25,000坪の優美な小山である。今より千二百年の昔、京都に都が定められる際、船岡山が北の基点となり、この山の真南が、大極殿だいごくでん、朱雀大路すじゃくおおじとなった。これは、陰陽五行いんようごぎょう思想・風水思想に基づいて、船岡山は大地の気が溢れ出る玄武の小山であるとされたためである。
 平安期の昔には、清少納言が枕草子で「丘は船岡……」と讃え、又、清原元輔・藤原俊成等、多くの和歌が残されている。船岡山は平安京の人々が若菜摘み、わらび採りに興じるまさに、清遊の地であった。
【写真左】建勲神社参道付近
 なお、柵が設けられている中のエリアは神域のため、禁足地となっている。







 戦国時代の応仁の乱の際、この船岡山が西軍の陣地になり、船岡山周辺一帯はその後、西陣の名で呼ばれている。この戦国の世を統一して、太平の世を開いた織田信長が、本能寺の変で没すると、豊臣秀吉は時の正親町(おおぎまち)天皇の勅許を得て、主君信長公の御魂(みたま)を、この船岡山に祀ろうとした。

 以来船岡山は、信長公の大切な地として伝えられ、明治2年、明治天皇がここに建勲神社を創建された。文部省は、日本の歴史の重要な舞台に、しばしば登場した船岡山の全体を指定基準に基づいて、「国の史跡」に指定し、地形や現状の変更をしない様、保護を計っている。
 又、京都府は平成7年3月27日、新たに制定した「京都の自然二百選」歴史環境部門第1号に選定した。なお、京都市は、昭和6年7月14日付にて、制定直後の「風致地区」に船岡山を指定した。
           建勲神社”
【写真左】宝篋印塔
 参道の階段脇に建立されているもので、おそらく応仁・文明の乱か、または永正の船岡山合戦の際討死した名のある武将のものだろう。




現地説明板・その2

“船岡山は標高112mの優美な小山です。平安京の造営時、玄武の山とされ、都の中心となる朱雀大路はこの舟岡山の真南に造られました。

 1467年からの応仁の乱においては、西軍の陣地が置かれ、戦いが行われた古戦場であることから、昭和43年に国の史跡に指定されました。また、この付近が「西陣」の名で呼ばれることの由来ともなっています。
 この周辺の岩が露出する一帯は、公園東側の林中の横堀跡や削平面(展望広場部分)と共に、古戦場の雰囲気を色濃く伝える景観を形成しています。

 園路を通行するにあたっては、張り出した岩肌に注意して頂きますよう、お願いいたします。
     北部みどり管理事務所”
【写真左】建勲神社境内
 桜の木などが多くみられたので、春には多くの人が訪れるのだろう。








応仁・文明

 船岡山が絡む大きな戦いで最初に起ったのが、鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)でも述べたように、応仁・文明の乱である。応仁元年(1467)1月7日、将軍足利義政から管領職を罷免された畠山政長は自邸に火をかけ、京都の上御霊神社に陣を構えた。
 同月18日、畠山義就(よしひろ)、政長を上御霊神社に攻めこれを破った。このクーデータをきっかけに応仁の乱が始まることになる。
【写真左】船岡山公園
 建勲神社から南側にある小道を北西方向に進むと、公園が設置されている。おそらく、この辺りも郭としての遺構があったものだろう。




 同年5月26日、細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍が激突。洛中における戦火はあっという間に全国に飛散した。

 管理人の地元山陰では、出雲・隠岐守護職であった京極持清は東軍方細川勝元へ、石見守護職であった山名政清は西軍山名宗全へ味方することとなった。翌応仁2年、足利義視は西軍へ投じ、義政は東軍へと分かれ、幕府内も両派に分かれた。

 この乱で西軍方として山名宗全が陣を張ったのが、船岡山である。これに対し、勝元は自邸近くの花の御所を陣として構え、将軍義政、義視、義尚を押さえた。

 因みに同乱が始まった応仁元年の対立構図は次のようになる。

《東軍》 
 足利義政、義視、義尚(幕府)
 細川勝元、畠山政長、斯波義敏

《西軍》
 山名持豊(宗全)、畠山義就、斯波義廉
 大内政弘

 ところが、翌年になると義視は西軍に走った。この後混迷の極みに達し、大義なき戦いとなっていく。その後、文明5年(1473)に東西それぞれのリーダーであった持豊と勝元が亡くなり、あとを受けた山名政豊と細川政元が講和し、文明9年(1477)漸く終結した。
【写真左】船岡山の三等三角点
 船岡山の最高所で、正確には標高111.89m、北緯35度2分8秒756、東経135度44分40秒417の地点となる。

 応仁・文明の乱の際、山名氏の本丸として使われた箇所と思われる。

 


永正船岡山合戦

 永正8年(1511)8月23~24日、細川高国・大内義興ら、室町幕府将軍足利義稙を擁立する軍と、前将軍足利義澄を擁立する細川澄元・政賢(まさかた)の軍が船岡山で激突、高国・義興らが勝利し、澄元は摂津に逃れた。これを永正の船岡山合戦という。

 益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)でも紹介しているが、この戦いで、出雲・石見から大内義興を援護すべく参陣した主な面々は次の通りである。
  • 出雲国 尼子経久、尼子国久他
  • 石見国 益田宗兼、尹兼父子・高橋治部少輔・周布興兼・久利清兵衛・小笠原長隆他
【写真左】岩塊が露出する箇所・その1
 上掲の三角点から少し南に降りていくと、ご覧のような岩塊が顔をのぞかせる。
 この辺りも郭としての利用があったものと思われる。
【写真左】岩塊が露出する箇所・その2
 先ほどの箇所から南側に降りたところで、どの程度までが当時の遺構なのか分からないが、この付近の傾斜は予想以上に角度があるので、切崖の機能も有していたのだろう。
 このあと、北西端に向かう。
【写真左】横堀・その1
 当城の中でもっとも遺構として良好に残っているもので、本丸から少し下がった北西側にある。
【写真左】横堀・その2
 奥に見える歩道とさほど比高差はないが、当時はもっと深かったものと思われる。
【写真左】横堀・その3
【写真左】横堀・その4
 北西側の斜面はなだらかになって、外周部は歩道や公園などが設置されたため、当時の遺構状況は不明だが、これらの横堀などは単条ではなく、防御性から考えて、外周部に同心円状に何条もの横堀が巡らされていたように思われる。
【写真左】船岡山から比叡山を遠望する。
 船岡山から東方に比叡山の山々が見える。
【写真左】大徳寺を遠望する。
 船岡山の北側を通る北大路通を挟んで、北東には大徳寺が見える。当寺も応仁・文明の乱において、一時焼土と化し荒廃したが、一休和尚が復興、桃山時代には秀吉が信長の菩提を弔うため総見院を建立するなど、再興に尽くした。



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