2016年12月18日日曜日

勝龍寺城(京都府長岡京市勝竜寺)

勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)

●所在地 京都府長岡京市勝竜寺
●別名 青龍寺城、小龍寺城
●形態 平城
●築城期 延元4年・暦応2年(1339)
●築城者 細川頼春か
●城主 今村慶満、石成友通、細川藤孝等
●遺構 土塁、濠等
●登城日 2015年4月18日

◆解説(参考文献「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」編者 二木宏・福島克彦、等)
 勝龍寺城は京都府長岡京市の南東部に築かれた平城で、桂川の支流小畑川の西岸に築かれた。
【写真左】勝龍寺城
 南側の濠附近。4月に訪れたこともあって、色鮮やかなツツジが咲いていた。







現地説明板

“勝龍寺城跡
    所在地 勝竜寺・東神足二丁目地内
    時代  南北朝時代~安土桃山時代

 勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応2年(1339)に築いたといわれる。

 城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷を同時に押さえうる交通の要所に築かれている。
 応仁・文明の乱(1467~77)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。

 戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が、元亀2年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正10年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。
【写真左】北側の濠
 南側に比べてこちらの濠の幅が少し大きい。
 なお、この写真の北(左)側には、松井屋敷及び米山屋敷があり、手前の西側には沼田屋敷があったとされる。



 ところで、この城は明智光秀の娘玉(たま)(細川ガラシャ夫人)が16歳で藤孝の子忠興(16歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。

 城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社(こうたりじんじゃ)付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されている。

 この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成4年春に市民の憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど、数多くの成果が得られた。その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭史上でも貴重なものであることが明らかにされた。
   平成4年3月    長岡京市”
【写真左】南側の入口付近
 左側には「明智光秀公三女玉お輿入れの城」と刻まれた石碑が建つ。







築城期・築城者

 上掲した説明板では、下線で引いたように、細川頼春(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)が暦応2年(1339)に築城したとあるが、近年の研究ではこの説は覆されつつある。
 さらに、これとは別に『細川家文書』に基づき、明応6年(1479)に和泉守護家の細川元有が築いていたと考えられていたが、結論からいってこれも創作であるとしている。
【写真左】北門跡・その1
 北側から見たもの。左右に土塁が囲む。









 現地説明板より

“北門跡
 本丸の北西隅から北の出入口が見つかった。この出入口を囲む土塁は高さ2m以上の石垣があり、立派な門が建てられていた。
 城内に入るには、堀を渡って第一の門をくぐり四角い形の広場に出る。突き当りを左に折れ、第二の門を通り、やっと城内に入れる。これは攻め入る敵を土塁上から攻撃し、簡単に城内に入れない構造になっていた。
 この門から山崎合戦に敗れた明智光秀が逃げ出したといわれる。
    平成4年3月 長岡京市”


 では、誰が築いたかということになるが、「近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編」(二木宏・福島克彦編)によれば、本格的な城郭として成立したのは、天文15年(1546)細川国慶の家臣であった今村慶満が居城としていたころではないかとしている。また、永禄8年(1565)6月17日に起った永禄の変に絡み、耶蘇会宣教師ガスパル・ビレラとルイス・フロイスが京都から追放されるが、このとき今村慶満はこの二人を居城であった勝龍寺城に留まるよう勧めたりしている。
【写真左】北門跡・その2
 東側から見たもので、奥が第一の門跡で、L字に曲がったあと、説明板があった辺りに第二の門があったと思われる。




細川藤孝(幽斎)

 細川藤孝というより、細川幽斎という名の方がよく知られた人物である。丹後・田辺城跡(京都府舞鶴市南田辺)でも少し紹介しているが、はじめ室町幕府第13代将軍足利義輝の近臣として仕えたが、上述した永禄の変により義輝が自害すると、その後義輝の弟で第15代将軍となった義昭に仕えることになる。

 その後、明智光秀らと共に織田信長の支援を受けて、義昭は入京することになるが、そのころ三好三人衆らが反信長方として蟠踞して居たため、京都の西南部を押さえるため、藤孝はこの勝龍寺城に入り、信長よりこの城の強化を命じられ本格的な普請に努めたという。現在残る主だった遺構はこのときのものといわれている。
【写真左】墓石・地蔵群
 北門の東側にまとめられていたもので、五輪塔や宝篋印塔及び、地蔵などが陳列してある。おそらく発掘調査の時出土してきたものだろう。
【写真左】多聞櫓と階段
 両隅に狭い幅の階段が設置されている。










現地説明板より

“多聞櫓への階段
 本丸の北東隅から石垣で築かれた高さ4mの土塁が見つかった。この土塁に登る斜面には大きな自然の石を使った階段が7段造られている。
 土塁の上は一辺が10m四方の広い平坦な面があり、城の外を監視、攻撃するための建物があったことを裏付けた。この建物は東辺の土塁上にのびる多聞櫓という長屋風の建物と思われる。”
【写真左】東辺土塁と多聞櫓













 現地説明板

“東辺土塁と多聞櫓
 本丸の東辺に築かれた土塁上の平坦面で、二列の石垣が見つかった。この幅4mの間に北東隅の建物(隅櫓)とつながった長屋風の建物(櫓)があったと考えられる。
 このような構造の建物は多聞櫓と呼ばれ、中に弓矢や槍、鉄砲、火薬などの武器が納められ、城外の敵を攻撃できるようになっていた。
 また、土塁の斜面にはテラス状の平坦面をつくり、井戸を設けていた。”
【写真左】多聞櫓から中央部を見る。
 南側には模擬天守風の管理棟が建っている。
【写真左】細川忠興とガラシャ夫人の像
 二人が結ばれたのは、永禄6年(1563)で信長の勧めとされる。
【写真左】井戸跡
 直径90cm、深さ2m、で発掘調査中でも水が涌いていたという。なお井戸に積み上げた石には石仏や五輪塔などが含まれていたという。
【写真左】沼田丸跡
 本丸の西にある郭












現地説明板

“沼田丸跡
 本丸の南西に接する沼田丸は、東西50m、南北65mの長方形で、周囲に土塁が築かれていた。さらに堀が外側をとりまいていた。
 堀は、昭和30年代まで水を湛えていた西南部のものに加えて、発掘調査によって北辺と東辺にも堀があることが明らかにされた。新たに確認された堀は、いずれも幅約5mのもので、石垣のない素堀りのものだった。北辺の堀内からは大きな石が2か所でまとまって発見された。これらはこの堀の北側にあったと想定される沼田屋敷などに通じる橋などの施設に使われていたと思われる。

 本丸と沼田丸の間には、両側を堀に挟まれた幅約5mの南北に細長い区画(帯曲輪)が見つかった。これは本丸を守るための施設であろう。
 また、沼田丸内の発掘調査では、本丸と同じ構造をもつ井戸が見つかった。ところで、「沼田丸」の名は、細川藤孝の妻麝香(じゃこう)の旧姓にちなんだもので、沼田氏に与えた屋敷があったところといわれる。
   平成4年3月”

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