2016年10月29日土曜日

虎丸城(香川県東かがわ市与田山)

虎丸城(とらまるじょう)

●所在地 香川県東かがわ市与田山
●高さ 417m(比高395m)
●形態 連郭式山城
●築城期 不明
●築城者 寒川氏
●城主 寒川氏、安富氏、十河存保
●遺構 郭、堀切等
●登城日 2015年3月13日

◆解説(参考資料 サイト『城郭放浪記』等)
 虎丸城は、香川県の東部東かがわ市の虎丸山に築かれた連郭氏山城である。当城は最高所を中心として東西南北に伸びる尾根筋に中小の郭段を配し、特に西と南に延びる尾根筋にはそれぞれ規模の大きな堀切を介し、当山の持つ険阻な特徴を巧みに利用した城砦である。
【写真左】虎丸城遠望
 北麓を走る県道129号線から見たもの。











 当城の築城期についてははっきりしていないが、この場所から西へ12キロほど向かった昼寝城(香川県さぬき市多和) の城主と同じ寒川(さんがわ)氏が城主であったことから、昼寝城築城期とほぼ同じころの嘉吉年間(1441~44)と思われるが、定かでない。なお、同氏はこれら2城とは別に、引田城跡(香川県東かがわ市 引田)の城主にもなっている。
【写真左】四国のみち(四国自然歩道)杜のみちコース 案内板
 この案内板は北西麓に鎮座する水主(みずし)神社(最下段の写真参照)に設置されているもので、中央上段に虎丸城(虎丸山)が表示されている。

【写真左】登城口付近
 県道129号線と並行に流れる与田川を渡り、虎丸山のほぼ真北に当たる谷を進むと、新宮石風呂跡という史蹟が左手に見える。
 狭いこの道を更に南に進んで行くと、小さな橋が架かかり、その上には砂防ダムが設置されている。橋の脇に車1台分のスペースがあったので、ここに停める。


三好氏十河氏

 虎丸城に絡む大きな出来事の一つとして挙げられるのが、天文22年(1553)の阿波三好氏による讃岐侵攻である。

 この頃、信濃では川中島を挟んで武田信玄と上杉謙信が初めて戦いを行い(「川中島の戦い」)、中国地方では備後・旗返山城(広島県三次市三若町)でも述べたように、大内義隆が陶晴賢のクーデータも絡んで、毛利氏と尼子氏による本格的な戦い(「旗返城の戦い」)を始めるなど、時代は大きなうねりを見せていた。
【写真左】登城道
 登城開始後しばらくは整備された道が続くが、その後しだいに道は狭くなり、ご覧の様な谷間を超える箇所などが多くなる。



 四国においては、阿波を強固な地盤とし細川氏を巧みに利用しながら大きくのし上がってきたのが三好氏である。

 勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)でも述べたように、三好氏は畿内では長慶を中心に、また阿波ではいわゆる阿波三兄弟が、阿波、淡路の両国を押さえ、さらには讃岐へは、三好元長(長慶及び阿波三兄弟の父)の四男又四郎が十河氏の養子となって十河一存(かずまさ)を名乗り、同国支配に向けて活発な動きを示した。
【写真左】細尾根の道
 虎丸城の登城道は非常に変化に富んでいて、途中で砂地の続くところもあれば、岩塊状の歩きにくい個所や、幅も度々変化する。
 そして、傾斜も起伏に富み予想以上に体力を消耗する。
【写真左】本丸が見えてきた。
 登り始めて約40分ぐらい経ったころ、やや長い尾根にたどり着く。すると前方に本丸が見えてきた。



 
 ところで、虎丸城も含めた東讃地域には、寒川氏のほか、細川四天王の一人で、讃岐・雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中)の安富氏や、植田郡を根拠とする植田氏などが割拠していた。

 詳細は省くが、三好氏は十河一存を使って安富氏並びに、虎丸城主寒川氏をも服属させていくことになる。天文22年(1553)ごろのことである。
【写真左】三等三角点・その1
 途中で、道は尾根筋から逸れて右側の斜面を通ることになるが、その左側には三角点があり、373mの表示が立っている。
【写真左】三等三角点・その2
 おそらく北を扼する物見台(櫓)があったのかもしれない。

 最高所(本丸)が417mなので、あとは44mの高度を稼ぐ必要があるが、ここから先が予想以上の難所だった。
【写真左】星ヶ城を遠望する。
 この位置からは瀬戸内に浮かぶ星ヶ城(香川県小豆島町大字安田字険阻山)を見ることができる。




  こうした三好氏による阿讃制圧もやがて土佐の長宗我部元親(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)による四国制覇の波に襲われ、、天正10年(1582)の中富川の戦い(勝瑞城参照)に敗れた十河存保(まさやす)(三好実休次男で、一存の跡を継いだ)は、虎丸城に逃れた。

 その後、長宗我部氏は天正12年、十河城を攻略していくが、このとき存保は虎丸城を死守し続けたといわれているが、定かでない。
【写真左】一番目の堀切
 大分埋まっていて浅いものだが、最初の堀切が見えてきた。
【写真左】二番目の堀切
 最初の堀切からしばらく進むと、二番目の堀切がある。
 この辺りの傾斜は緩やかなため、設置されたものだろう。ただ、現状は一番目と同じく大分埋まっているようだ。
【写真左】最後の難所
 ここから急坂を直登。小さな九十九折れとなっているものの、傾斜があるため、度々足元が滑る。
 周りに生えている木の根が露出していたので、この根に捕まり、這うような恰好で上を目指す。ヒーヒー言いながら息が荒くなる。

 こういう時は、アイゼンのような滑り止めが必要かもしれない。
【写真左】頂部が見えてきた。
【写真左】二の丸
 方形のもので、20~25m四方の規模。
【写真左】本丸
 二の丸の東側は更に高く土壇状となっており、本丸と思われる。
速玉大社が祀られている。
【写真左】速玉大社・その1
 祠が祀られている。
【写真左】速玉大社・その2
 裏から見たもので、7~8m四方の規模。


【写真左】虎丸山の標柱
 速玉大社の脇には「虎丸山 417m」の表示が建っている。
【写真左】切崖
 本丸外周部は集合する4ヵ所の尾根筋も含め全体に急傾斜で、要害性は高い。
【写真左】本丸から北東方面を俯瞰する
 本丸からの眺望が効くのは、東から北方面だけだが、この日は靄もあまりかからず、瀬戸内方面も見ることができた。
【写真左】本丸から東方を見る
 左側の山の頂部は鳴嶽で、その奥の谷を一つ越えた山を過ぎると徳島県に入る。
【写真左】西に伸びる尾根
 この先にも堀切や郭段があるようだが、この傾斜を見て断念。

 この日の虎丸城登城はこの段階で、管理人(連れ合いも)にとって体力的にも限界だった。
【写真左】新宮石風呂跡
 応永年間(1400年頃)増吽僧正が水主三山に熊野三社を勧進。新宮、本宮、那智の3か所の石風呂があり、特にこの新宮石風呂が繁昌し、江戸時代には数軒の宿屋があったという。
 大正時代にこの風呂は廃止され、石碑が建てられた。
【写真左】水主神社みずしじんじゃ)

 当社縁起より

“水主神社

  弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹々日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめのみこと)は、この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられています。

 姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。
 境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められています。社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残っています。

 與田寺(よだじ)へ向かう途中の弘海寺(こうかいじ)付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え「チンチン同どうしに髪結うて、水主のお寺へ参らんか」と、こどもたちが歌ったほどにぎやかな土地でありました。
   昭和61年3月 香川県”

◎関連投稿
昼寝城(香川県さぬき市多和)

2016年10月25日火曜日

備後・旗返山城(広島県三次市三若町)・その2

備後・旗返山城(びんご・はたがえしやまじょう)・その2

●所在地 広島県三次市三若町
●別名 三若城、江田城、昌通城
●高さ 434m(比高200m)
●築城期 不明(南北朝後期から室町初期か)
●築城者 江田氏
●形態 山城
●遺構 郭・堀切・土塁・井戸等
●登城日 2015年3月6日

◆解説(参考文献「知将・毛利元就」池享著、HP「城郭放浪記」等)
 前稿に引き続いて旗返山城をとりあげるが、前述したように、元就にとってこの旗返山城での戦いは大きな節目となった。
【写真左】旗返城主郭付近遠望
 登城したこの日(2015年3月)、下山したあと東麓の375号線側から撮影。
 この時期以外では新緑に覆われてしまい、露出した主郭の岩肌は見えないだろう。



元就たな体制づくり

 江田氏を滅ぼす2年前の天文20年、山口の大内義隆は陶晴賢のクーデータによって滅びていくが、以前にも述べたように、この計画は晴賢より元就に事前に知らされており、元就も晴賢を支援すべく、自らは障害となっていた井上一族の誅伐も終えていた。
【写真左】土塁か
 前稿の略測図には載っていないが、下山に使った大回りコースの途中で左手に見えたもので、城域からは北西方向の尾根伝いに約400m程向かった位置だったと記憶している。

 これは西谷に当たる白糸滝側からの侵入を防ぐために築いたものかもしれない。


 義隆の死によって、特に安芸国ではそれまで大内氏に属していた主だった国人は尼子氏に走る者も出た。というのも、晴賢自身は足元の防長の安定をはかるため、安芸国に介入する余裕はなく、さらには備後国はこれ以前の天文18年(1549)、尼子方であった山名理興(ただおき)の拠る神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)が大内氏の攻略によってに陥落し、大内家臣の青景隆著(たかあきら)が城将となっていたが、義隆が亡くなると、備後国の国人領主たちは動揺したからである。

 このチャンスを好機ととらえた元就は、大内義長の命(晴賢)によるものだが、天文21年7月備後国に進出し、宮光寄の志川滝山城(写真参照)を攻め、備中に奔らせ、翌22年4月になると、元就は今度は自主的に江田氏攻略を計った。
【写真左】志川滝山城遠望
 所在地:福山市加茂町字北山。H:390(比高250m)
別名・四川滝山城。高尾三郎左衛門義兼(宮氏一族)明応8年(1499)築城。

 天文21年の戦いは毛利氏が勝ったものの、本隊は7人の戦死、負傷者156人という犠牲を払った。要害堅固な城である。


 注目されるのは、このころ元就は238名の家臣たちに連署させた起請文を残していることである。そして、具体的な動きとしては、毛利氏一族を中心とした新たな組織体制の強化と、それに伴う領地の管理、並びに戦の際その動員についての制度化(「具足注文」)を行い、指揮命令系統の遵守徹底を図った。つまり現代風に言えば、行政と軍事の両面を確立していったことになる。
【写真左】主郭跡先端部
 主郭先端部で、この下にも腰郭がある。また鉄パイプで造られた展望台も設置されている。





姫塚

 ところで、旗返城の東北東麓沖庄の田圃の脇に「姫塚」という小さな祠が祀られている。これは下段の説明板にも紹介されているように、天文22年の毛利氏による旗返城攻めにおいて、隆連の妻と娘が戦の最中、甲山城(広島県庄原市山内町本郷)の山内氏を頼って逃げようとしたが、途中で娘が産気づき、出産したものの既に逃れるほどの体力がなく、母(隆連妻)と共に自刃した場所といわれている。
【写真左】姫塚
 北側から375号線を南下していくと、右手に見える。掛田川沿いの農道をゆっくりと進むとこの小さな祠が祀られ、脇には下段の説明板が設置してある。


現地の説明板・その2

“姫塚の由来

 旗返城主江田隆連は、庄原の山之内氏に誘われて、ひそかに山陰の尼子氏と通じたことが発覚すると、毛利元就は山口の大内氏に救援を求め、1万数千の大軍をもって江田領に攻め込んできました。天文22(1553)7月には隆連の家臣武田祝氏(たけだほうりし)の居城高杉城を全滅させ、その勢いで旗返城に攻め寄せてきました。隆連は尼子軍の救援を唯一の頼りに1千1百の軍勢で籠城しました。
【写真左】旗返城本丸から「姫塚」を遠望する。
 左側の川が美波羅川で、姫塚の脇を掛田川が流れている。






 毛利軍は、要害堅固な旗返城を攻略するため、旗返城の麓、丸山(陣床山)に臨時の城を構え、食糧や水を断つ作戦にでました。
 隆連は、唯一の頼りだった尼子の援軍が来ないため、落城も覚悟したのであろうか。包囲されて間もなく、妻と娘(姫)に一人の家来をつけて、庄原の山之内まで逃がそうとしました。

 始め廻神(めぐりかみ)を通ろうとしましたが、この道は既に敵軍の手に落ちており、仕方なく加風呂谷(かぶろだに)を下って、掛田(かけだ)に降り、夜陰にまぎれて石原から寄国(寄国)を通り、山之内に逃げようとしました。そして、掛田川の川端までたどり着きましたが、娘(姫)は身ごもっており、ここまで来て急に産気づきました。
【写真左】姫塚から旗返城を遠望する。
 旗返城は中央やや左の低い山に当たる。現在は田圃の脇に祀られているが、当時この付近は掛田川の河原だったと思われる。

 せっかく生まれた赤ん坊も道連れに自害していったとは、なんとも憐れである。


 そして苦しみながらかわいい娘の子を出産しましたが、敵陣の中を潜んでの逃亡で体力も尽き果ててしまいました。
 兼ねてより父隆連から、途中逃げ切れぬ時は自刃せよと諭されていたこともあり、妻と娘(姫)赤子ともども、この地で自刃して果てました。

 後、邑人(むらびと)たちはこのあわれな人たちのために祠を建てて供養しました。この祠を「姫塚」と呼びこの一帯を「姫原」と呼ぶようになりました。
 旗返城は、水と食料を断たれ、終に10月になり城兵は夜陰にまぎれて逃亡し、落城しました。

     川西郷郷土史研究会”

七森塚

 先ほどの姫塚よりさらに旗返城側に向かった位置に祀られているもので、「七森塚」と呼ばれている。これは、尼子氏側から援軍として派遣されていた弓の達人が、誤って味方を射抜いてしまったというもので、一矢で田楽刺しされたという。強弓の士といえど、かなり誇張された話だが、敵か味方か判断できず射ってしまったということを考えると、夜間の出来事だったのかもしれない。
【写真左】七森塚
 塚は山側にそってはしる道路沿いに祀られている。










現地の説明板・その3

“七森(盛)塚の由来

 旗返城主江田隆連は、これまで毛利氏と同盟関係にありましたが、庄原の山之内氏に誘われ、4月初旬山陰の尼子氏に味方しました。この事を知った毛利元就は山口の大内氏に援軍を求め、たちまちのうちに江田領に進攻して来ました。7月には隆連の家臣で神杉の武田氏が守る高杉城を全滅させ、その勢いで1万数千の兵をもって、1千百人が守る旗返城に攻め込んできました。
 旗返城は堅固な山城であったため、毛利軍は、旗返城の麓、丸山(陣床山)に臨時の城を築き、食糧や水を断つ作戦をとったと思われます。
【写真左】七森塚から旗返城を見る
 











 隆連の唯一の頼りは尼子氏の援軍でしたが、毛利軍に阻まれて容易には来られませんでした。
 城中にはすでに尼子晴久の家臣で強弓で知られた坂田原蕃(げんばん)を差し向けていましたが、ある日、旗返城の東方を見ると、数十の敵兵が攻め寄せて来るのを確認して、坂田原蕃は弓を満月の如く引き絞り、よき敵ござんなれと、ひょーと打ち放てば前方よりの7人が田楽刺しに一矢で射ぬかれました。けれどもこれは手柄でもなんでもなかったのです。

 射抜かれた武士は、隆連救援のために駆けつけた尼子の援軍だったのです。(言い伝えによると、高杉城の援軍だったともいわれている)後、邑人は(むらびと)は、このあわれな武士たちを厚く葬りました。これを七森(盛)塚と呼ぶようになりました。(圃場整備により現在位置に移されたが、元は高さ1m・直径5mくらいの塚の上に祠が建っていた。)

 旗返城は、水と食料を断たれ、遂に10月になり城兵は夜陰にまぎれて逃亡し、落城しました。

    川西郷土史研究会”


出雲市江田村(町)

 旗返城落城後、妻とその娘は当地で自刃しているが、それ以外の江田氏の動向については不明な点があるもの、江田氏(隆連)一族がこの戦のあと、出雲国に逃れ、その末裔が現在でも住んでいるという地区がある。
 その場所が、現在の島根県出雲市江田町といわれている。
【写真左】江田町北側
 北側からみたもの。
江田町の周囲は田園が広がり、広域農道161号線を西に向かうと、杵築大社に繋がる。






現地の説明板・その4

“旗返城落城とその江田氏について

 天文22年(1553)、尼子氏に味方をしたために毛利元就・山口の大内勢(1万6千の兵)に囲まれた。これに対し、江田勢は尼子の援軍あわせ千百余りで籠城すること4カ月、10月19日に落城した。「城兵は、夜陰にまぎれ敵の囲いを切り抜けて落ちのびていった。」とあります。
 ここに鎌倉時代以来備後国北部で、その名を馳せた広沢江田氏は滅亡しました。その後の江田隆連家族一族の行方については、諸説あるが、不明な点も多くあります。

※現在島根県出雲市に「江田家」があり、この家の庭先に、江田隆連外一族の墓がたっています。また近くに江田村もあります。

    平成24年(2012)7月
       川西郷土史研究会”
(註:下線は管理人による)
【写真左】江田町南側
 江田交差点の南側付近で、東方には出雲ドームが見える。






 上記の説明板は本丸の北側に設置されているが、※印の記事を目にしたとき驚いたものである。私事で恐縮だが、連れ合いの同級生の中に、出雲市江田町に「江田君」が居たと聞かされ、数日後、その「江田隆連外一族の墓」を訪ねるべく当地に向かった。
【写真左】恵比寿神社
 江田の集落北西端には恵比寿神社が祀られている。
 江田氏一族が勧請したものかもしれない。






 以前は江田村だった現在の出雲市江田町は、旧出雲市と大社町の境にあり、広域農道161号線を挟んで北と南に分かれ、東は常松町、南西の八島町に挟まれている。
 161号線と276号線が交差するところが江田交差点で、江田の主だった集落はそこから北に伸びる276号線の西側に密集して住居が建ち並ぶ。
 路地のような狭い道を歩きながら探したのだが、残念ながらその場所を突き止めることができなかった。おそらくこの集落の中の一軒に、江田隆連外一族の墓があるのだろう。
【写真左】恵比寿神社本殿
 創建期は不明だが、おそらく当社は美保関神社から分祀されたものかもしれない。
 






坪内宗五郎

 ところで、何故落ち延びていった江田氏一族がこの地を選んだのだろうか。江田一族が何のツテもなく見知らぬ出雲の地に赴くことは出来ない。当然かれらを導いてくれた仲介者が居たはずである。それを解明する一つの糸口と考えられる人物が坪内宗五郎である。

 坪内氏については、これまで平田城・その2(島根県出雲市平田町)宇龍城(島根県出雲市大社町宇龍)でも紹介したように、尼子氏はおろか、のちには敵対する毛利氏とも太いパイプを持つ杵築大社を本拠とした有力商人で、杵築相物親方職として出雲大社周辺の商人を統括する特権商人であった。

 尼子氏と毛利氏が旗返城並びに高杉城を巡って、激しい戦いをしていた天文21年(1552)、「坪内文書」の10月10日の日付として以下のものが残されている。

“尼子晴久、坪内宗五郎が使者としてたびたび備後江田氏のもとへ赴いたことを賞し、林木荘・朝山郷の内で一名を宛行うことを約束する。”

 この文書は直接江田氏が江田村に落ち延びたことを示すものではないが、坪内氏が当時置かれていた裁量権と併せ、そのころ斐伊川が杵築(大社)方面に蛇行して流れ、中州から陸地へと変わっていった新しい土地(江田村)ができ、それを同氏が確保し、尼子氏の承認を得て上で江田一族に宛がったものだろう。

2016年10月18日火曜日

備後・旗返山城(広島県三次市三若町)・その1

備後・旗返山城(びんご・はたがえしやまじょう)・その1

●所在地 広島県三次市三若町
●別名 三若城、江田城、昌通城
●高さ 420m(比高200m)
●築城期 不明(南北朝後期から室町初期か)
●築城者 江田氏
●形態 山城
●遺構 郭・堀切・土塁・井戸等
●登城日 2015年3月6日

◆解説(参考文献「知将・毛利元就」池享著、HP「城郭放浪記」等)
 中国地方最大の大河・江の川水系には、多くの支流が流れ込んでいるが、特に広島県三次市では西城川と並んで規模の大きい馬洗川(ばせんがわ)が合流している。
 この馬洗川を少しさかのぼると、以前紹介したに高杉城(広島県三次市高杉町)の東方地点で、その支流・美波羅川(みはらがわ)が注ぎ込んでいる。因みにこの合流部は江田川之内町という。
【写真左】旗返山城遠望・その1
 東麓を走る国道375号線の北側から見たもの。









 そしてこの美波羅川をおよそ10キロほどさかのぼっていくと、三若町に至り、この西岸に聳えているのが旗返山城である。
【写真左】旗返山城遠望・その2
 さらにズームした写真で、本丸は右側の樹木の間隔が少し広い箇所に当たる。






現地説明板・その1

“旗返山城跡(三次市三若町)

 麓からの高さ200m、東・西・南は急斜面で天然の要害となっていて、典型的な戦国時代の山城です。頂上の主郭(本丸)には井戸跡も残っています。
L字型に配置された郭が南にのびており、一部には石垣も残っています。城の北西部は複雑な堀切と竪堀で防備され、堀切の底には人頭大の石が多く散乱していて籠城合戦に備えたものと思われます。
【写真左】案内図
 地元川西自治連合会が作成した案内図に記載されている。

 なお、旗返山城の西の谷側には、名瀑「白糸滝」がある。



 旗返山城は美波羅川(みはらがわ)の中下流域一帯を支配した江田氏が本拠とした城で、江田氏は吉舎・三良坂を支配した和智氏と同族でしたが、戦国時代毛利・尼子の対立の中で、尼子方に味方した江田隆連(たかつら)は天文22年(1553)毛利元就によって滅ぼされました。本城の南方国道375号線を挟んでそびえる陣床山城は、このとき毛利軍陣地を構えた城です。
【写真左】登城口手前にある看板
 旗返山城の南麓を走る国道375号線沿いに設置されているもので、白糸滝の隣に旗返山城と記されている。

 ここから入り、途中の空き地に駐車し、獣防御用の柵をあけて進む。



 江田氏を滅ぼした毛利元就は、大内氏を倒して実権を握った陶氏に、旗返山城の受け取りを求めましたが、陶氏は毛利氏の力が大きくなるのを警戒して、家臣の江良氏を城番としました。このことが、毛利氏が陶氏を倒す原因になったともいわれています。
   三次市教育委員会”
【写真左】分岐点
 暫く歩いていくと、途中で三方に分かれる個所があり、矢印の方向へ進む。

 なお、この道は白糸滝へ向かう道でもあるが、途中で別れる(下の写真参照)。



江田氏

 旗返城の城主江田氏は、高杉城(広島県三次市高杉町)でも述べたように、広沢和智氏(南天山城(広島県三次市吉舎町大字吉舎)参照)の庶流である。初代江田氏となるのは、広沢左近将監実高の子・実村から、実成が和智氏初代となり、その兄弟である実綱(兄か)が江田氏を名乗った。
 上述したように、両氏(和智・江田氏)が支配地としたのが、馬洗川および美波羅川流域である。
【写真左】白糸滝と旗返山城の分岐点
 左方向へ200m行くと、白糸滝で、旗返山城は、右の道を700m、と書かれている。




 
 ところで、高杉城の稿で旗返城の落城時期を、高杉城落城の2か月前である5月3日としているが、「萩閥15」によれば、「同年(天文22年)10月19日、毛利方が安芸国(ママ)三若城(旗返城)を攻撃し、尼子方は敗走する。」とある。
 この史料を事実とすると、5月3日に江田隆通の拠った旗返城は一旦は落城するが、その後尼子方が再び当城を奪還していた可能性が高い。

【写真左】旗返山城略測図
 上が北を示す。
この図では、右側に美波羅川や国道375号線が走っている。








現地説明板・その2

“旗返城について

 この城は、元関東の御家人広沢氏を祖先とする江田氏がきずいたもので、戦国時代の典型的な山城です。
 頂上部に本丸を構え、そこから尾根伝いに東へいくつかの郭を設け、前面は急傾斜面で、西側面と北側鞍部には、深い「掘り切り」や「竪堀」をつくって容易には攻め登ること出来ない構造になっています。
 又本丸下の郭には井戸の跡も残されています。”
【写真左】本丸まで約400mの地点
 次第に傾斜が険しくなり、中小の石や倒木が現れてくる。

 いわゆるガレ場状態となっているので、この付近の道もその都度コースを変更しているのかもしれない。幸い、この日は要所に案内標識がなんとか残っていたため、迷うことはなかった。
【写真左】ここから一気に直登
 随分前に設置された木製の階段があるが、枯葉の下に埋まり、劣化しているため余り信用できない。
 また細いロープもあるが、頼りないので自力で登る。
【写真左】堀切・竪堀が見える。
 本丸の北西側から伸びる尾根斜面をトラバースするような道を進むと、ご覧の箇所に出た。
 右が南にあたる。
【写真左】堀切と竪堀
 斜面には竪堀の遺構が残るが、上部は大分改変されたせいか、良好な状態ではない。

 というのも、この場所に「駐車場」という看板が設置してあり、この箇所で旋回するスペースを確保するために遺構が大分消失している。
【写真左】車道?
 振り返ると確かに新たに造られた道が見える。
 こんないい道があるなら、下山はこの道を使おうと思い歩き出したのだが、その結果とんでもなく長い大回りコースとなった。
 


【写真左】主郭を見上げる
 先ほどの駐車場(堀切・竪堀始点)から南方向に見上げると、主郭の切崖が見える。
 右側の方に道らしきものがあるので、そこに向かう。
【写真左】主郭と南に延びる郭段の分岐点
 西側斜面に設置された道を登っていくと、途中で「見張り砦」と書かれた看板があり、そのまま行くと南に伸びる郭段へ繋がるが、先ずは左側の主郭へ向かう。
【写真左】主郭西側の段
 略測図にもあるように、主郭の西側から南側を介して東側には幅4m前後の帯郭が囲んでいる。
 写真はその西側の付近で、このあたりに大分前に設置された階段が顔をのぞかせている。
【写真左】主郭・その1
 45m×35mの規模で、奥には土塁が配されている。
【写真左】井戸跡
 主郭の北西側、すなわち先ほど登ってきた道の上部にあたるが、ここに直径3m前後の窪みが残り、井戸跡とされている。
【写真左】主郭・その2
 北側から南方向を見たもので、南端部にはパイプを利用した展望台が設置されている。
【写真左】主郭より南に大番城を俯瞰する。
 主郭の南端部からさらに一段下がったところに腰郭があり、そこから南東方向に大番城が見える。

 大番城は尼子氏が築いた陣城ではないかといわれている。また、当城とは別にさらに右(西)にもR375号線を介して「陣床山城」という城砦も記録されており、こちらの方は毛利氏が当城を攻める際に使われた陣城ともいわれている。
【写真左】石段の跡
 先ほどの主郭南端部から西に移動し、南に延びる郭段に向かう途中にあるもので、石段の跡と記されているものの、あまりの枯葉の堆積で石段の形跡は殆ど確認できなかった。
【写真左】南東方向に伸びる郭との分岐点
 主郭の真南に中規模の郭があり、この先から少し角度を変えて南東方向を軸にした郭段が続く。
【写真左】見張り砦へ向かう。
 このさきから更に下に向かって段が続く。
【写真左】土塁
 連続する郭だが、全体に右側(西側)には土塁の痕跡が認められる。
【写真左】ここから再び高くなる。
 山の自然地形から考えれば、次第に高度が下がるのが普通だが、郭や土塁などの施工を見る限り、人為的にこの先端部まで土を運び、高くした可能性が高い。
【写真左】次ぎの段も高くなる。
 ご覧のように、大分崩れた石が散在しているが、石垣を積んだような跡が見られる。
 「見張り砦」を構築するため丁寧な普請の跡が窺われる。
【写真左】見張り砦の最高所
 当城の南東最先端部で、突出した位置になるため、北から東・南、そして西方の一部が俯瞰できたのだろう。
【写真左】見張り砦から北北東方面を見る。
 中央に美波羅川やR375号線が見える。
また、この先には同族の祝氏高杉城や、和智氏の初期の所領地和知などが控える。
【写真左】雪を被った伯耆大山ほうきだいせん
 この日驚いたことに、見張り砦から伯耆(鳥取県)の大山の姿が見えた。
 雪を被っていたいたから確認できたのだが、こんな日はめったにないだろう。




◎次稿へ続く

 今稿はここまでとし、次稿では紹介しきれなかった遺構や、旗返山城落城の際、城主江田隆連の妻と娘が自刃したといわれる「姫塚」、並びに江田氏一族のその後の行方等について紹介したい。