2016年9月18日日曜日

菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)

菊池城(きくちじょう)

●所在地 熊本県菊池市隈府町城山
●別名 隈府城・守山城・雲上城・菊池本城
●指定 菊池市指定史跡
●備考 菊池神社
●高さ 標高110m(比高40m)
●遺構 空堀等
●築城期 不明(正平年間 1346~70ごろか)
●築城者 菊池氏
●城主 菊池氏
●登城日 2015年2月24日

◆解説(参考文献『中世武士選書 菊池武光』川添昭二著、『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)
 前稿の鞠智城(熊本県山鹿市菊鹿町米原)は、菊池氏発祥の地とされるが、その後南北朝期に至って本拠の一つとしたのが菊池市隈府に所在する菊池城で、別名隈府城とも呼ばれる。
【写真左】菊池城遠望
 現在の菊池市街地北東部にある菊池公園のほぼ中央部に本丸跡がある。おそらく当該公園全体の丘陵地が城砦だったと思われる。

 写真は、西麓にあるきくち観光物産館側駐車場から撮ったもので、北端部にあたる個所で、この上には菊池神社歴史館などが建てられている。


「城山神社」縁起より

“摂社 城山神社
 御祭神 贈従三位 菊池武房公
      菊池十代の主にして文永・弘安両度の元寇を撃退した殊勲者
    
      贈四位下 菊池重朝公 
      戦国争乱の時代に儒教を導入し肥後文教の渕源をなした人

 祭日 (春)4月1日
     重朝公が釈典の礼を行った日に当つ
    
     (秋)9月1日
     武房公が元寇撃退の日に当つ

創立 大正9年2月29日 御鎮座”
【写真左】空堀・その1
 今回は残念ながら本丸跡まで踏査はしておらず、神社周囲を歩いただけで、少し消化不良だったが、当社北東部にある空堀は確認できた。
【写真左】空堀・その2
 神社の北東部を囲繞しているもので、長さはおよそ250m余り。深いところでは5m以上あるようだ。このあと西に回り込む。


【写真左】空堀・その3
 北西端部に当たり、神社の北側入り口付近でもあるが、ここで空堀が解放されている。
 空堀内部に生えている雑木・竹などを除去すれば、見ごたえのある遺構となるだろう。



菊池氏

 地元菊池市のHPには「菊池一族」の項があり、平安時代から室町戦国時代にわたって活躍した累代の人物が紹介されている。これを参考に主だった流れを下段に列記しておく。
 菊池氏の祖は則隆といわれ、さらに則隆を遡れば太宰大監(だざいのたいげん)となった藤原隆家とこれまで言われてきた(下段参照)。

隆家 → 経輔 → 政則(蔵規) → 則隆(菊池氏初代)
【写真左】菊池神社
 菊池城跡の一角には菊池神社が祀られている。
 慶応4年(1868)熊本藩から明治新政府に参与として出仕した長岡護美が、地元に関わりのある加藤清正と菊池氏を祀る神社を創建すべく新政府に建議した。
 これが了承され同藩は、清正については熊本城内に錦山神社、菊池氏については菊池城跡に菊池神社を建立した。
 当社主祭神は、武光の父武時で、子息武重と武光を配祀神とした。鎮座祭は明治3年(1870)4月28日に行われている。


 しかし、近年では地元(肥後・筑前か)の土豪が大宰府の長官であった隆家に仕え、その功によって藤原姓を賜ったとされる説が有力である。件の「功」とは、則隆の父政則(蔵規)が、寛仁3年(1019)4月、満州の一部族「刀伊」の入寇の際、隆家を援け督軍に当たったものといわれる。

①則隆(生年不詳~1081年か)
    
②経隆(生没年不詳)   経隆の代には、後に西郷隆盛に繋がる政隆(西郷氏)があり、その他保隆がいた。

③経頼(生没年不詳) 
④経宗(生没年不詳)
⑤経直(生年不詳~1186)  
⑥隆直(生年不詳~1185) 
⑦隆定(1167~1222) → 隆親(小山氏)
                  ↓
⑧能隆(1201~1258)   ←          
⑨隆泰(生没年不詳)   隆経(城氏)   
⑩武房(1245~1285)
⑪時隆(1287~1304)

武時(1292~1333)              
⑬武重(1307~1341)              
⑭武士(1321~1401)
武光(豊田十郎)(1319~1373)

⑯武政(1342~1374)
⑰武朝(1363~1407)
⑱兼朝(1383~1444)
⑲持朝(1409~1446)
⑳為邦(1430~1488)
㉑重朝(1449~1493)
㉒武運(能運)(1482~1504)
㉓政隆(1491~1509)
㉔武包(生年不詳~1532)
【写真左】城山神社
 菊池神社の隣には上段で紹介している摂社・城山神社が鎮座している。
 祭神は10代菊池武房で、この他、21代重朝なども祀られている。


菊池武光懐良親王

 上掲したように菊池氏は平安時代から戦国初期にわたって活躍した一族であるが、同氏がもっともその名を馳せたのは、12代武時から15代武光に至る南北朝時代である。その中でとくに有名なのは15代武光で、後醍醐天皇の皇子懐良親王九州下向以来親王に仕え、北朝方と烈しく争うことになる。
【写真左】菊池武光の像・その1
 菊池公園の駐車場側に建立されているもので、猛々しく見事なものである。
【写真左】菊池武光の像・その2




 武光が生まれたのは上掲したように元応元年(1319)としているが、一説には元徳元年(1329)ともいわれている。父は12代武時である。初陣は興国4年(1343)の田口城での戦いといわれている。
 この戦いでは、武光は若かったため、恵良惟澄(阿蘇氏10代当主、別名阿蘇惟澄(これずみ)の指示に従うものであった。
【写真左】菊池一族の幟
 麓には観光物産館、菊池夢美術館などがある。その中のどの建物か失念してしまったが、中には菊池一族を紹介するコーナーがある。

 写真は同氏一族の幟と、系図及び、2代経隆の弟・政隆を始祖とする西郷家略系の掛け軸も飾られている。
 因みに、この西郷氏がのちの西郷隆盛に繋がる。


  懐良親王が九州に下向したのは、興国2年(1341)5月ごろといわれている。その5年前の延元元年(1336)9月、比叡山を降りて、尊氏と講和を結んだ後醍醐天皇だったが、このとき天皇は3人の皇子をそれぞれ各地に下向させている。

 すなわち、恒良親王は新田義貞(新田義貞戦没伝説地(福井県福井市新田塚)参照)と共に越前へ、宗良親王は北畠親房(田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)参照)と共に伊勢へ、そして懐良親王には九州へ征西大将軍として下向させた。このとき親王は年若い8才で、従者も僅か12人であったという。
【写真左】聖護寺の大智禅師と菊池武重
 リアルな蝋人形だが、これは武光の兄武重が険しい山道を訪ね聖護寺で大智禅師に教えを請うている様子を再現したもの。

 聖護寺というのは、菊池城から北東へ約10キロ余り向かった標高460mの位置にある寺院で、延元元年(1338)大智禅師を招いて武重が建立した。菊池氏一族の精神的なよりどころとなったといわれている。

 武重は千葉・宇都宮・大友・松浦などとともに新田義貞に属し、箱根竹之下の戦いで功を挙げ、このとき使われたのが「菊池千本鎗」といわれている。


 懐良親王が最初に入ったのが薩摩である。当時、薩摩では北朝方にあった守護島津氏と対立していた谷山氏がいたためでもあったが、このころ親王の最終的な協力者として期待していたのは、肥後の阿蘇氏であった。

 しかし、阿蘇氏一族内で惣領家と庶子家の対立があり、惣領であった阿蘇惟時は親王の度重なる要請にもすぐには対応しなかった。このため、期待していた阿蘇氏を諦め、次に頼ったのが菊池郡の菊池武光であった。もっとも菊池氏一族もこのころ、一枚岩ではなく、途中では足利直冬方に走るものもあったが、菊池氏の「一族一揆」の団結力は強く、親王は彼を頼ることになる。
【写真左】菊池十八外城の石碑
 菊池本城を支えていた枝城18か所を示したもので、それぞれの位置については下の写真参照。
【写真左】菊池十八外城の位置図
 文字が少し小さいため分かりずらいが、菊池本城を中心に北東から西南方向に分散している。

 このうち、本城南側にある菊之城は、菊池氏初期の居城といわれている。




征西府による九州王国

 懐良親王が肥後に入ったころから幕府方(北朝)は観応の擾乱により混乱を来たし、さらには足利直冬も九州を離れ、九州探題を担っていた一色範氏父子も当地を離れた。

 正平14年(1359)8月、親王及び武光らは、筑後国大保原で唯一勢力を誇っていた守護少弐氏を破ると、その2年後宿願であった大宰府(大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)参照)の入城を果たした。親王にとっては京を離れてから19年の歳月が流れていた。

 以後、約12年にわたってここに征西府、すなわち後に語られることになる「九州王国」が樹立した。
【写真左】大宰府跡









 
征西府滅亡今川了俊

 北朝方の実権をほぼ手中に収めていた管領細川頼之は、応安4年(1371)今川了俊を九州探題として派遣、翌5年、了俊の弟仲秋は、肥前・築後で菊池氏を破り、8月12日遂に征西府の本拠地を落とした。懐良親王は高良山に奔り、激しく抵抗したが、この間武光の死などもあり、肥後まで撤退した(多良倉城(福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山)参照)。

 その後了俊は九州の国人層の不信なども買ったが、永徳元年(1381)ついに菊池氏の本拠・菊池城を落とし、懐良にかわった甥の良成を追い詰め、ほぼ九州を掌握した。


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備後・赤城(広島県世羅郡世羅町川尻)

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