2016年8月2日火曜日

生子山城(愛媛県新居浜市角野新田)

生子山城(しょうじやまじょう)

●所在地 愛媛県新居浜市角野新田
●別名 庄司山城
●高さ 300m(比高240m)
●築城期 南北朝時代
●築城者 松木伊賀守通村又は、松木越前守景村
●城主 松木氏・越智俊村(一条修理俊村)等
●遺構 郭・堀切
●備考 「エントツ山」
●登城日 2015年2月7日

◆解説(参考文献『日本城郭体系 第16巻』等)
 NHK・TVで「にっぽん縦断 こころ旅」という番組がある。俳優火野正平さんが、寄せられた手紙をもとに自転車にのって各地を探訪するというもので、2011年から開始されているから、すでに足かけ6年になる。
 2012年10月の放送だったと思う、愛媛県新居浜市の「エントツ山から眺めた角野(すみの)の風景」という景色が紹介された。
【写真左】エントツ山から生子山城を遠望する。
 生子山の北西に延びる尾根に設置されたエントツ山は、尾根が削平されかなり広い広場となっている。高さ約145mなので、生子山の約半分の高さになる。


 正平さんが佇んだ特徴のあるエントツとは別に、その周囲の削平された広場や、眼下に広がる新居浜の市街地なども紹介されたが、その画像を見た瞬間、ひょっとしてこれは城砦跡ではないかと思った。早速調べたところ、「生子山城」であることが分かった。しかし、このころ雑事に追われていて、直ぐには当地を探訪することは出来ず、そのうち忘れてしまっていたが、「こころ旅」の再放送があり、3年経った2015年に登城した。
【写真左】名勝地「別子ライン」ガイドマップ
 麓にあるマップに管理人によって、「生子山城」の位置を追加した。

 生子山城・エントツ山の西麓を流れる国領川は、切り立った溪谷で景勝地でもある。なお、生子山城の東には西谷川という川も流れ、両川が天然の濠の役目をしていたものと考えられる。




 因みに、当地は元禄3年(1690)に発見され、昭和48年まで続いた日本屈指の銅山・別子銅山が所在した場所で、のちの財閥住友グループ発祥の地でもある。

 このエントツ山も含め、その尾根伝いから南東方向に伸びた標高300m余の山が南北朝時代に築かれたといわれる生子山城である。
【写真左】生子橋
 国領川に掛かる生子橋。
 昔はここから上流部にある大師堂付近と、現在の橋から50m下流にあった角野小学校付近の2か所であったが、明治32年の別子大水害で二つとも流失し、現在の位置から100m下流に木橋が架けられ、大正14年(1925)に現在の位置に木製朱塗りの橋に架け替えられた。
 写真右側が下流になる。


現地の説明板

“生子橋由来

 生子山には南北朝時代南朝の忠臣越智俊村が、砦を設けて北朝側の細川軍と戦い、室町末期(ママ)には松木三河守がここに拠って小早川隆景の大軍と戦った。

 明治21年現在の別子銅山記念館前広場に山湿式製錬所が設けられ、それと同時に両岸を結ぶための生子橋が架設され、山頂には大煙突が建設されたことにより、人々は以来煙突山と呼称した。昭和3年5月製錬所跡に大山積神社を奉斎し、昭和48年別子銅山閉山後、神社境内の一角に別子銅山記念館を設立した。この橋下の立川溪谷の流れは別子ラインの関門として◇定群がならび、美しい碧澤には、龍神伝説とちぎり淵の物語が伝えられてている。
  昭和58年1月吉日
    新居浜市長 泉 敬太郎”
【写真左】えんとつ山入口
 生子山城の登城口でもあるが、右側の県道47号線沿いには駐車スペースはないので、この位置から少し下がった山根公園側の駐車場に車を停めて、そこから歩いて向かう。
 この道は、明治時代「牛車道」とも呼ばれていた。


足利氏の侵入

 生子山城が所在する位置は、旧宇摩郡と新居郡の境にあり、南北朝時代、時の城主(越智氏か)がその境に新居関を設け、足利氏の侵入を防いだといわれる。云いかえれば、南朝方の城主が当城に拠って、北朝方(足利氏・具体的には細川氏)の攻撃を防いだということになる。
【写真左】明治23年頃の山根製錬所













 説明板より

“旧山根製錬所と生子山(しょうじやま)

 長年、市民から「えんとつ山」の愛称で親しまれている「生子山」(標高144.7m)。かつて豊臣秀吉の四国攻めの舞台でもありました。

 明治21年(1888)、住友家初代総理人であった広瀬宰平は、東京大学の教授であった岩佐巌を招き、この地で湿式収銅法による収銅過程で、硫酸などの化学物質の抽出と、更には製鉄の試験を開始しました。官営八幡製鉄所の操業より7年前のことです。
 今では、高さ約20mの製錬所の煙突だけが残り、世界に短期間で追いついた明治の近代化を今日に伝えています。旧山根精練煙突は、平成21年(2009)に国の登録有形文化財として登録されています。”
【写真左】煙道跡
 エントツ山に向かって西の方へ歩いていくと、途中で竪堀のような跡が見える。これはエントツ山に設置されたエントツに向かって接続された煙道跡で、明治21~28年の間使用された。距離は145m、最大斜度45度の規模。


 南北朝期におけるこうした戦いはしばらく続いたようで、特に応安3年(正平24・1369年)のはじめ、一条修理俊村が本格的に当城を再興し、その年の8月、河野通直の命によって讃岐国の細川典厩の大軍に対し防戦に努めたという。この一条氏はその後松木氏と名乗り、以後代々生子山城主として続くことになる。なお、この一条氏の前が越智氏となっているが、俊村のとき姓を変えたのではないかと思われるがはっきししない。
【写真左】エントツ山が見えてきた。
 西の方向に少しずつ登っていき、途中で東に鋭角に曲がって進と、やがてエントツが見えてくる。
 この尾根もさほど広くなく、左側は切り立つ崖で、生子山の出丸としては理想的なものだったのだろう。


天正の陣

 ところで、生子山城から北西方向へ4.5キロほど向かったところには、以前紹介した金子山城(愛媛県新居浜市滝の宮町)がある。天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国攻めが開始され、秀吉の命を受けた毛利氏(小早川隆景・吉川元長)が、伊予国新居郡に上陸した。
【写真左】エントツ山から南に四国山脈などを見る。
 生子山城はこの写真の左側になるが、西麓には国領川が流れ、その溪谷を跨いで松山自動車道が走っている。
 このあと、再び尾根伝いに東に進み、奥の宮(大山祇神社)へ向かう。



 このころ、東予の国人領主は殆ど長宗我部氏の配下にあり、その代表格であった金子山城主・金子元宅(もといえ)は、金子城を落とされたあと、西条市にある高尾城に籠城、長宗我部氏から援兵として加わっていたものもいたが、途中から彼らは戦線離脱、元宅以下の金子勢は最後まで戦い全滅した。
【写真左】奥の宮
 創建期は不明だが、この手前の参道脇にあった鳥居の石碑には、「明治廿五年・献 新居濱牛車中」と刻銘されたものがあった。
【写真左】北方に岡崎城を遠望する。
 麓の国領川を約5キロほど下った観音原町にある城砦で、南北朝期築城されたといわれる。

 天正年間の秀吉四国征伐のとき、城主藤田山城守芳雄、大隅守俊忠父子は、金子山城主・金子元宅とともに高尾城に入り戦ったが、父芳雄は討死、俊忠は遁れて帰農したとされる。
【写真左】金子山城遠望
 西方に目を転ずると、金子元宅の居城・金子山城(愛媛県新居浜市滝の宮町)が見える。

 このあと、いよいよ生子山城本丸に向けて登城開始する。登城口はこの社の右側にある。
【写真左】登城開始
 尾根の東斜面を使って道が造られているが、傾斜があるため、こまかく九十九折になっている。
【写真左】眼下に「エントツ山」・その1
 最初に訪れたエントツ山が右手に見える。
【写真左】眼下に「エントツ山」・その2
【写真左】本丸までもう一息
 南北に伸びる尾根上に築かれた生子山の東西両斜面は急傾斜のため、このあたりからかなりきつい登りとなる。
【写真左】尾根ピークに到達
 「生子山城址」と書かれた看板があり、その隣には高圧電線の鉄塔が建っている。
 先ずは、この尾根の先端部(左)まで向かう。
【写真左】尾根先端部を見る。
 鉄塔から北へおよそ50mほど削平された細長い郭となっている。
【写真左】尾根先端部
 現地には説明板が設置してある。


“生子(庄司)山城址(280.1m)

●天正の陣(1585年7月)で、毛利勢(豊臣方)に攻められ落城した。松木氏歴代の城(砦)の本丸があったと伝えられている。

●後方の山上(標高300.3m)には、国土地理院の三角点(石柱)があります。”

 これにも書かれているように、後段で紹介する後方の300m余の頂部は尖った形で、郭としての平坦地はなく、この尾根に築かれた郭が本丸であったと思われる。
 このあと、前方にも郭段らしきものが見えたので、降りてみる。
【写真左】腰郭
 北にのびる尾根筋にはおよそ3段の郭段があるが、余り整備されず、大分崩れてきている。

 このあと、再び本丸からさらに後方の山に向かう。
【写真左】後方の山上(標高300.3m)を見上げる。
 途中まで登ってみたが、余りにも急傾斜で、しかも両側は一歩足を踏み外すと、滑落してしまいそうになったので、途中で引き返した。
【写真左】内宮神社・その1
 生子橋を西に渡ると、内宮神社がある。慶雲3年(706)伊勢神宮内宮から勧請創建されたといわれる。

 例大祭は10月16・17・18日にわたって、「太鼓台石段かきあげ神事」や「神輿宮入り」「太鼓台おみおくり」などが行われる。
【写真左】内宮神社・その2
 本殿

2 件のコメント:

  1. 故郷新居浜の地にも、長い歴史の営みが立ったことに、感動しました。何気なく見上げた山も、見方が変わってきました。

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    1. 拝復
      御笑覧いただきありがとうございます。
      トミー 拝

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