2016年8月28日日曜日

鞠智城(熊本県山鹿市菊鹿町米原)

鞠智城くくちじょう、又は、きくちじょう

●所在地 熊本県山鹿市菊鹿町米原
●指定 国指定史跡
●別名 菊池城
●高さ 145m前後
●形態 古代山城
●築城期 7世紀後半
●登城日 2015年2月24日

◆解説(参考文献・資料 HP「熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智城・温故創生館」、『中世武士選書 菊池武光』川添昭二著等)

 鞠智城は、「くくちじょう」又は「きくちじょう」と呼称する。本稿では次稿で予定している菊池氏の菊池城(きくちじょう)と混乱を避けるため、「くくちじょう」とする。
【写真左】鞠智城
 写真:八角形鼓楼(ころう
 復元されたものだが、国内にある他の古代山城にはあまり例をみないもので、これによく似たものが韓国の二聖山城にもあるという。


 さて、この鞠智城は現在の熊本県山鹿市菊鹿町(きくかまち)米原(よなばる)付近に所在する古代山城である。また、当城が所在する米原の南方には、前述した南北朝期に活躍する菊池氏の本拠があった菊池市が接している。
【写真左】鞠智城跡周辺案内図
 当城周辺には、南東部に菊池神社(菊池城)、北東部に隈部氏館跡、北東部には田中城などがそれぞれ所在している。
【写真左】再現図
 当時の状況を再現し、さらに観光史蹟として建てられた施設も併せて描いたものである。

 主だったものとしては、冒頭の八角形鼓楼を始め、米倉、兵舎、宮野礎石群、板倉、北の門礎、西側土塁、灰塚、池の尾門跡、南側土塁、堀切門跡、深迫門跡などが描かれている。



現地説明板

“鞠智城
 鞠智城は、7世紀後半(約1,300年前)に、大和朝廷が築いた山城です。当時、東アジアの政治的情勢は、非常に緊張していました。日本は、友好国であった百済を復興するため援軍を送りましたが、663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、唐と新羅の連合軍に敗北しました。
 このため、事態は急変し、直接日本が戦いの舞台となる危険が生じました。そこで、九州には、大宰府を守るために大野城(福岡県)、基肄城(きいじょう)(佐賀県)、金田城(長崎県)が造られました。
 鞠智城は、これらの城に食糧や武器、兵士などを補給する支援基地でした。”

古代山城の分布

古代山城に関してはこれまで筑前・大野城・その1(福岡県大野城市・宇美町)などでその都度取り上げているが、当地にも主だったものが分布図によって表記されている。
【写真左】古代山城の分布図









 文字が小さいため分かりにくいが、この図では、古代山城を、
(1)朝鮮式山城 
(2)神籠石式(系)山城 
(3)奈良時代山城
と定義している。

 そして、九州方面では(1)の朝鮮式山城として、鞠智城を始め、大野城、基肄城、金田城(対馬)があり、四国では屋嶋城(香川県高松市屋島東町) を挙げている。
【写真左】深迫門跡(ふかさかもんあと)
 この付近の土は脆いのか、ブルーシートが要所にかけてある。







 説明板より

“深迫門跡
 深迫門跡は、城域の南東隅に所在し、標高は123mをはかります。これまでの発掘調査によって、地元で「長者どんの的石(まといし)」と古くから呼ばれてきた門礎石1基のほか、版築工法による土塁やそれに伴う柱穴、石列などが確認されるとともに須恵器などが出土しています。
【写真左】門礎石
 この石には真円に近い穴が掘られている。







 版築土塁は谷部を挟んだ南北両側で見つかり、それぞれ高さが4m以上あり、裾部には土留めのための石列を置く構造となっています。また、同じく土塁裾部からは、1.8m間隔で並ぶ柱穴が南土塁で7基、北土塁で8基見つかっていますが、これらの柱穴は版築で土塁を築く際に用いた支柱の痕跡であると考えられています。”
【写真左】堀切門跡
 城域の南側にあり、標高122mの位置になる。下段で示す門礎石1基のほか、門跡、道路跡(側溝併設)、城壁などが確認されている。
【写真左】門礎石
 堀切門跡に残るこの石には、2か所の軸摺穴があり、この穴で門扉の軸を受けていたといわれる。
 また、当該城域内に残る城門跡の中で、唯一門跡の原位置が判明している。
【写真左】南側土塁線附近
 城域南外郭線上にあり、東西に伸びている。その外側の崖面は比高差20~30mをはかり、「屏風岩ライン」とも呼ばれている。
【写真左】南側土塁線付近から西にのびる谷を見る。
 この谷には現在でも田圃が残り、耕作もされているようだ。このあと下に降りていく。
【写真左】谷間
 整備された道のため高低差は無いように思われるが、下に降りて上を見上げるとかなりの比高差を感じる。
【写真左】池ノ尾門跡
 鞠智城の城域では最も低い箇所で、標高は90m。
 ここにも写真にあるように軸摺穴が1か所残る門礎石が1基あり、石塁、通水溝、盛土状遺構などが確認されている。

写真の奥は城外となる。このあと、再び谷を遡り灰塚展望所に向かう。
【写真左】堀切か
 現地には特段説明するようなものは設置されていないので、分からないが、自然地形でできた小谷にも見えるし、人工的に掘削された堀切にも見える。

 左に向かうと、灰塚展望所、右に向かうと長者山展望広場休憩所に繋がる。この谷間に橋が架かっている。
【写真左】長者山展望広場
 橋を介して、灰塚展望所側からみたもの。
 右斜面は険阻な傾斜面で、手前の斜面もかなり傾斜があるため階段が設置してある。


【写真左】灰塚展望所に向かう
 上記の橋を渡って西を見ると、ご覧の様に郭状の形のものが数段構築されている。
【写真左】灰塚展望所
 頂部を始めこの付近はきれいに整備され、四周の眺望が楽しめる。
【写真左】展望所から南西方面を俯瞰する。
 鞠智城の西麓から南麓にかけて流れるのが、菊池川だが、その支流である迫間川附近の海抜は30m前後である。

 おそらく鞠智城が築かれた頃は、有明海から菊池川を遡り当城の麓まで船を使った水運が用いられ、陸路と併せて大野城や大宰府に盛んに物資などが運ばれていたのだろう。
【写真左】不動岩を遠望する
 展望所から北西の方向には、独特の形をした奇岩「不動岩」が顔をのぞかせている。
 往古この岩を本尊として修行に励んだといわれている。


【写真左】礎石群
 鞠智城跡にはこうした建物跡の礎石群が数か所見られる。
 このうち、宮野礎石群(49号建物跡)は、3間×9間の総柱のもので、調査時に平瓦、丸瓦などが検出され、瓦葺屋根であったことが分かっている。
 こうした点は大野城にも共通する。
【写真左】板倉復元建物(第5号建物跡)
 3間×4間の掘立柱建物で、総柱であったことから高床式の倉庫であったと考えられている。
 また、配置から考えて「兵庫」すなわち、「武器庫」であると推定されている。

 因みに、六国史(正史)という史料によれば、天安2年(858)、貞観17年(875)及び、元慶3年(879)に、鞠智城院の「兵庫」の鼓が自ら鳴る、などとする記述が残されている。
【写真左】兵舎復元建物(16号建物跡)
 側柱(がわばしら)のみの掘立柱建物。3間×10間の大型建物。柱径は30cm程度。

 防人(さきもり)といわれた兵士が寝起きしていた兵舎で、50人程度の兵士が生活していたとされる。

2016年8月21日日曜日

夕部山城(岡山県総社市下原)

夕部山城(ゆうべやまじょう)

●所在地 岡山県総社市下原
●別名 伊世部山城・勝山城
●高さ 107m
●築城期 天正3年(1575)以前
●築城者 明石兵部少輔
●城主 明石兵部少輔
●遺構 郭等
●登城日 2015年2月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系13巻』等)
 夕部山城は、岡山県の三大河川の一つ高梁川の支流・新本川の西岸に突出した舌陵丘陵・伊与部山に築かれた城砦である。
【写真左】夕部山城遠望
 北側から見たもので、遺構が残るのが右側の頂部だが、左側の頂部も物見櫓的な用途として使われたと考えられる。

 手前から左側に向かって新本川流れ、その後高梁川と合流する。
 


現地の説明板

“伊与部山(夕部山)
 総社市下原にある標高105m、山頂は、二つに分かれ西は城山(城の辻)、東は八畳岩の名で地区民に親しまれている。1995年(平成7年)山頂に桜を植え、史跡も整備して伊与部山公園と名付けられた。
【写真左】伊与部山史跡公園入口
 登城口は、東側の高梁川と支流新本川が合流する手前の県道279号線と278号線の合流地点で、当城の東麓部にある。

 簡易舗装されているこの道を進むが、幅員が狭いので、対向車が来たらすれ違う際注意が必要。


伊与部山弥生墳丘墓 弥生時代
 1966年(昭和41)岡山大学考古学教室により発掘調査が行われた。墳丘は一辺約7mで、大小二つの石室状の配石墓が発見された。この中に箱形の木棺が納められていたものとみられる。副葬品は発見されていない。
 また墳丘の東南すみに木棺のまわりに石を置いた7~8基の簡単な配石墓が見られる。いずれも小さいもので子供用とみられる。この遺跡からは普通器台・壺・高杯など土器が出土している。
【写真左】駐車場
 かなり高い位置まで車で向かうことができ、駐車場も完備されている。ただ、斜面なので、サイドブレーキは普段以上にしっかりと掛けておく。

 この先からそのまま主郭に向かって道が整備されている。


伊与部山二号墳 古墳時代
 墳丘墓の北東20mに築かれた14m×10mの方墳で、中央に埋葬施設がある。副葬品には内行花文鏡・石釧・勾玉・斧・鉇など鉄器が出土している。
【写真左】登城道
 距離は短いが、途中の所々にこうしたお地蔵さんが祀られている。四国の88か所霊場の短縮バージョンのようだ。






伊与部山城跡(夕部山城) 戦国時代

 戦国時代(16世紀)の山城で、要害の山頂を平らにし築かれる。市内28個所のうちの一つで1575(天正3年正月16日)鬼身城攻撃に当たり、毛利の武将小早川隆景が陣を敷く、城主は明石兵部少輔とその養子彦三郎である。
 鬼身城主上田実親は、毛利の攻撃を受け、城主実親は20歳の若さで自刃し、城兵三千人の命を救ったといわれている。”
【写真左】夕部山城頂上
 「伊与部山城跡」と記された看板がたち、簡単な休憩所も設置されている。

 当城は、二つの郭で構成され、北側に「一ノ壇」、南に「二ノ壇」を設けている。写真はそのうち1m程「二ノ壇」より高い位置にある「一ノ壇」。


明石兵部少輔

 夕部山城の築城期についてははっきりしないが、築城者は明石兵部少輔といわれ、その時期は天正3年以前といわれている。『日本城郭体系13巻』によれば、当城は鎌倉末期か南北朝初期に既に築かれていたのではないかと記している。
【写真左】一ノ壇
 外周部には石が設置されているが、これは公園にしたとき設置されたものだろう。







 この明石氏については、児島麦飯山城(両児山城(岡山県玉野市八浜町八浜)参照)主・明石源三郎の一族、あるいは三村元親(鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)参照)の重臣であった明石与四郎の一族ではなかったかと諸説あるが、確定していない。

 さて、この明石兵部には嫡男がいなかったため、中島大炊介(経山城(岡山県総社市黒尾)参照)の四男彦三郎を養子に迎え、明石与次郎または余次と名乗らせ、継嗣させたという。
【写真左】二ノ壇・その1
 一ノ壇から見たもので、少し低い段だが、大きさは二つとも600㎡前後のもの。
 なお、右奥が搦手に当たる。




 
備中兵乱

 説明板にもあるように、天正3年(1575)毛利氏は、備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)を落とすため、夕部山城を陣城として重要な戦略拠点に置いた。鬼ノ身城は夕部山城から北西凡そ8キロの位置にある。前稿で紹介した備中・市場古城(岡山県総社市新本)がこのとき既に、毛利方永井氏の手中に入っていたと思われるので、鬼ノ身城攻めは少なくともこれら二城からの攻めを以て攻略されたと思われる。
【写真左】二ノ壇・その2
 公園化しているため、郭跡には桜の木などが植えられている。
 左側が一ノ壇になる。
 なお、遺構としては二つの郭があるのみで、堀切などは残っていない。
【写真左】第2展望所から見た紹介図
 この図では、城跡として、鬼ノ身城、木村山城、荒平山城、鬼ノ城などが書かれている。
【写真左】夕部山城から鬼ノ城、経山城を見る。
 両城は手前の高梁川を挟んで北東方向に見える。
【写真左】荒平山城を遠望する。
 荒平山城(岡山県総社市秦)は夕部山城の真北に当たる。

 このあと、東側の頂部に向かう。
【写真左】夕部山城主郭から東方の頂部を見る。
 夕部山城の尾根筋を北東に凡そ200m進んだところにあり、高さは夕部山城とほぼ同じ100m余り。

 この位置からは高梁川が南進し、小田川と合流する箇所も確認できる。
【写真左】53番円明寺阿弥陀如来と記された岩塊
 一旦、駐車場側まで降り、再び登り坂を進むと、ご覧の岩が出迎える。

 夕部山城を含め、このあたりは岩山が多いが、特にこの東方頂部にはこうした景観が目立つ。
【写真左】伊与部山二号墳
 前段で紹介した二号墳で、この辺りに埋葬されていたようだ。
【写真左】陸軍特別大演習司令所
 この大岩あたりに司令所が置かれ、昭和5年11月14日から3日間、高梁川河原を中心に、広島第五師団・姫路第十師団の将兵3万人が参加、大演習が行われたという。
 
 戦国時代小早川隆景がここを陣所として使ったあと、350年余を経て再び当地で近代戦争のための演習が行われたということを考えると、よほどこの場所は立地条件が備わっているということだろう。
【写真左】鬼ノ身城を遠望する。
 夕部山城側からも見えなくもないが、鬼ノ身城を遠望するには、この東方の頂部からのほうがよりわかりやすい。

 小早川隆景らが陣所としていたとき、物見台としてはこちらの方がより多く利用していたのかもしれない。

2016年8月16日火曜日

備中・市場古城(岡山県総社市新本)

備中・市場古城(びっちゅう・いちばこじょう)

●所在地 岡山県総社市新本
●形態 丘城
●高さ 40m
●築城期 不明(天正年間以前)
●築城者 不明
●城主 永井越前守一虎(天正2年)
●遺構 郭・堀切・石垣・井戸
●登城日 2015年2月21日

◆解説(参考文献『日本城郭体系13巻』等)
 市場古城は、以前取り上げた備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)の南西3.5キロの新本・市場にあって、その北麓には高梁川の支流新本川が流れている。形態としては標高40mのいわゆる丘城である。
【写真左】市場古城遠望
 西側の市場南橋付近から見たもので、北側には三の壇・一の壇・二の壇が東西に連結され、畑を介してその南には出丸が残る。

 なお、周囲には民家が建っており、細かな遺構は殆ど消失しているようだが、当時の概要は凡そ推測できる。


永井(長井)氏

 築城期は不明だが、天正年間には安芸国から永井越前守一虎が入部し、城主となっている。安芸国の永井氏というのは手持ちの資料にはなく、その出自は不明である。ただ、以前取り上げた南天山城・その2で和智氏の支城であった、知和の池尻城主が長井氏(永井氏)を名乗っているので、この長井氏ではないかと考えられる。
【写真左】堀切
 南側の出丸には北側と南側に堀切があったようだが、現在は南側には民家が建ち、北側の堀切しか残っていない。

 写真では右側が出丸で、左側が畑となっている。


 もっとも、この知和は南天山城と同じく、備後国にあるため、整合しないことになる。

 しかし、この永井氏を含む和智氏一族は、三良坂・福山城(広島県三次市三良坂町灰塚)で述べたように、永禄年間に起った毛利元就嫡男・隆元の死に絡み、同年12年毛利氏による南天山城をはじめ、萩原山城・福山城の追討により主だった家臣が自害しているので、このとき、知和の池尻城主永井氏だけが、退城後毛利氏の許しを得て安芸国(吉田郡山城か)に移った可能性もある。
【写真左】西側から見る。
 左手前が三の壇側になり、その奥の藪となっている箇所が出丸。右下の通路とは凡そ3m余りの高低差がある。
【写真左】西側
 この写真も同じく西側から見たもので、中央の小道は犬走りの役目をしていたのかもしれない。






 さて、その一虎は天正2年(1574)毛利氏による備中攻めにおいて、国吉城(岡山県高梁市川上町七地)の戦いに参陣、武勇の誉れ高い法行(六郎左衛門)之勝と槍を合わせ、これを打ち破ったことにより当地に入部した(『陰徳太平記』)、とされる。

 越前守一虎夫妻の墓は、当城の西方小字庭木の福寿禅寺のそばにあり、位牌もあるとしているが(『日本城郭体系13巻』)、探訪した折探してみたが当寺が見つからなかった。寺が移転したのかもしれない。
 一虎が亡くなったあと、その子四郎兵衛重虎が継嗣し、関ヶ原合戦に参陣したものの、その後の行方は分からない。
【写真左】祠
 三の壇の西端部には、井戸が書かれてる(『日本城郭体系13巻』)。位置的にはこの付近になるが、奥の方まで行っていないので分からない。

 ひょっとしてこの祠は、井戸を埋めたあとお祓いし、建立したものかもしれない。
【写真左】中間部の郭
 左が一の壇で、右に出丸があるが、その間はご覧の様な畑となっており、そこには天体観測用の小型のドームが設置されている。
【写真左】一の壇に向かう。
 手前の畑から踏み跡が見えたので、そこから向かった。

 なお、畑から一ノ壇の天端までは約5m前後ある。
【写真左】一の壇
 ご覧の通り笹などが繁茂しているため、中の方には入っていないが、平行四辺形の形をなし、凡そ600㎡の規模を持つ。

 このあと、東に進み、ニの壇に向かう。
【写真左】二の壇・その1
 上の一の壇から見たもので、西側には下段に示すような小社が祀られている。
【写真左】二の壇・その2
 東側から見たもので、奥には先ほどの一の壇が見える。

 二の壇の規模は400㎡と一の壇より少し小さい。
【写真左】石垣
 一の壇とニの壇の間の斜面には石積が残る。
 なお、奥に見える建物は「天守公会堂」というらしい。
【写真左】二の壇の東端部から下を見る。
 『日本城郭体系13巻』では二の壇から東に下がった部分については言及されていないが、この畑となった箇所は、南に回り込んで、出丸と介在する郭と連続しているので、大型の帯郭ともいえる。

 このあと、二の壇の北側にある階段を使って下に降りる。
【写真左】二の壇北側の階段
 構造的に見ても、このルートが大手に当たると思われるが、階段を下りてみると思った以上に比高差がある。

 当時はこの周りを切崖としていたのだろう。
【写真左】北麓部
 先ほどの階段を下りて、北側の畦道を進む。
 ご覧のように、現在は段で構成されているが、当時は一面の切崖だったのかもしれない。
【写真左】北西側から見る。
 下の田圃天端から一の段頂部までの比高差は、おそらく10m以上はあるだろう。
【写真左】西側から見る。
 中央の樹木が見える箇所が一の壇(主郭)になる。
【写真左】市場南橋から市場・古城を見る。
 この南橋を流れる新本川の支流は、おそらく戦国期、当城に接近した西麓を流れ、濠の役目をしていたものと考えられる。

 そして、川を挟んで西側の地区名が「屋敷」となっているので、家臣たちの住まいがあったものと思われる。