2016年6月25日土曜日

豊前・岩石城(福岡県田川郡添田町大字添田)

豊前・岩石城(ぶぜん・がんじゃくじょう)

●所在地 福岡県田川郡添田町大字添田
●高さ 標高454m(比高380m)
●築城期 保元2年(1157)
●築城者 平清盛(大庭平三景親)
●城主 日田判官宗道・筑紫氏・大友氏(大庭十郎左衛門景道)・大内氏・秋月氏その他
●遺構 郭・堀切・柱穴・土塁・古井戸・馬場・石垣その他
●探訪日 2015年1月12日

◆解説(参考資料 サイト『城郭放浪記』等)
 前稿筑前・白山城(福岡県宗像市山田)の登城後、帰途に着く予定にしていたが、以前から気になっていた豊前の岩石城の麓まで足を運ぶことにした。

 従って、当城については最初から本丸跡まで登城する予定ではなかったので、本稿では遺構などの紹介は出来ない。これについては、サイト「城郭放浪記」氏がいつもながら詳細な写真をアップされているので、ご覧いただきたい。
【写真左】模擬天守 岩石城の西麓には天守を模した添田美術館がある。

 この美術館の脇を走る道路を登っていくと、下段の写真にあるように、岩石城へ向かう。

【写真左】添田公園・岩石山案内図
 上記美術館がある場所よりさらに下がったところには、添田公園があり、その一角にこの案内図が設置されている。

 時間に余裕のある方なら、麓から徒歩で向かう「滝コース」というのがあるが、余裕のない人や体力に自信のない方などは、模擬天守のある美術館の脇を走る道がかなり上の方まで繋がっているので、これを使って車で行けそうだ。



現地説明資料より

“岩石城史
  • 保元2年(1157) 平清盛・岩石城を築き大庭平三景親を置く。
  • 応保元年(1161) 豊後日田陸奥守の次男日田判官宗道城主になる。
  • 文治2年(1186) 筑紫三郎種有、筑紫弥平治種固城主になる。
  • 承久2年(1221) 承久の乱に破れ筑紫三郎種有は所領を没収され、豊後大友氏の抱城となる。
  • 延元3年(1331) 大友氏、大庭十郎左衛門景道を城主とする。
  • 正平23年(1368) 大内氏、熊井左近少監親盛を城主とする。大内氏、大庭平太景忠を城主とする。
【写真左】添田神社
 岩石城の麓には添田神社が祀られている。

 往古岩石山に鎮座していたが、岩石城の築城者であった時の大宰府大貮・大庭平三景親が、築城に併せ、現在地に社殿を造営、大宰府天満宮を勧請合祀したとされている。


  • 応永5年(1398) 大友氏親岩石城を攻めの大庭平太景忠敗走する。大善寺城主・大友親泰に岩石城を守らせる。
  • 応永6年(1399) 大内盛見が岩石城を攻め、大友氏敗走。大内氏は再び大庭平太景忠を城主とする。
  • 天文19年(1550) 大庭氏、大友氏に攻められ退城する。
  • 天文20年(1551) 大友氏、原田右京進義貫を城主とする。
  • 永禄元年(1558) 大友氏、高橋九郎長幸を城主とする。
  • 天正元年(1573) 秋月氏、熊井越中守を城主とする。
  • 天正15年(1587) 城主、熊井越中守、芥田悪六兵衛、九州平定の豊臣秀吉軍に破れる。毛利壱岐守が森八郎高瀬を城主とする。
  • 慶長5年(1600) 細川氏、長岡肥後守忠直を城主とする。
  • 元和元年(1615) 岩石城は一国一城令により廃城。”
【写真左】模擬天守
 岩石城はこの模擬天守の向背の山に築かれている。










大庭平三景親

 上掲の「岩石城史」を見てみると、当城が築城されたのは、保元の乱が起こった翌年(2年)となる。この保元の乱後、西国では当国豊前を始め、西国の主だった国々の国司が新たに任命されている。管理人の当地出雲国では保元3年に平基親が、石見国ではその前年に藤原永範が、それぞれ出雲守、石見守に任命されている(「大日本史」)。

 岩石城の築城者は平清盛とされているが、実際に築城したのは大庭平三景親とされている。ただ、景親が本格的に平家の家臣になったのは、保元の乱から3年経った平治の乱の時とされている。景親は従って、岩石城を築城した直後平治の乱に参陣しているので、当地に在城した時期は極めて短期的なものだったと推測される。

 ところで、景親は相模国の武将で、鎌倉権五郎景政(出雲・生山城(島根県雲南市大東町上久野生山)参照)の流れを汲む大庭氏の一族である。 
【写真左】美術館(模擬天守)内に展示されている甲冑











秋月種実熊井久重・芥田悪六兵衛
 

 上掲した「岩石城史」や、後段の「岩石城武将の碑」にもあるように、天正年間に至ると当城は秋月氏の勢力下に入る。秋月城(福岡県朝倉市秋月野鳥(秋月中学校)の稿でも紹介しているように、秋月氏は、建仁3年(1201)に鎌倉幕府2代将軍源頼家から秋月庄を賜った原田種雄が秋月氏を称したのに始まる。この原田氏は元は筑前を本拠としていた一族である。

 戦国期における秋月氏の動きは、大友氏や毛利氏並びに島津氏らの盛衰に絡んで、甚だ目まぐるしいものがある。最終的には島津氏と連合し、九州征伐を目指した秀吉軍と抗戦し、敗れ去ることになる。
 戦いの後、種実は我が娘と、名物茶器「楢柴茶入」及び、名刀「来国俊」を秀吉に差出し、降伏した。その後日向高鍋3万石に移封され慶長元年(1596)49歳で没した。

 ところで、岩石城における秀吉軍との戦いで、秋月軍の主力として戦ったのが、熊井越中守久重と芥田悪六兵衛である。秀吉軍が岩石城に迫ったとき、島津軍は既に総退却していた。当初豊前・築後・肥後の国人領主のうち島津方に属していた者たちではあったが、15万という桁外れの大軍で攻めてきた秀吉軍の迫力に圧倒され、雪崩を打つように島津方から離反していったためである。それでも岩石城に拠った二人の勇将は最後まで戦った。

三沢為虎

 なお、この戦いでは秀吉軍の毛利方先鋒として出雲国からは、三沢為虎が鉄砲隊として参加している。為虎は、天正10年(1582)の高松城攻めの頃より、秀吉に通じていたという流言があり、同12年、彼を始めとして、毛利氏(輝元)から内応の疑義をかけられていた山内隆通・三吉・久代諸氏は人質を出し、忠誠を誓っている。その際、為虎は亀嵩城の保持を願い、領内収攬に努めた。

 因みに、秀吉の九州攻めが終わったこの年(天正15年:1587)の夏ごろより、輝元は出雲国を始めとし惣国検地を開始しているので、為虎は岩石城攻め(九州征伐)では、なおさら奮起したものと思われる。

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藤ケ瀬城跡・その2


現地に建立された石碑より

“岩石城武将の碑
  天正時代の岩石城は、古処山城の秋月氏の勢力下にあった秋月種実の時には、全盛期を迎え、24支城を支配し、36万石を領した。岩石城はその24支城の中で、最も堅固で自慢の城といわれていた。

 天正15年(1587)4月1日、豊臣秀吉は、九州平定の要の戦として、島津・秋月連合の重要な砦である岩石城を15万の大軍を揃え攻めた。大手(芥田)、搦手(熊井)が守る3千の守備兵は、奮戦したが1日で破られ落城した。

 熊井越中守久重は、秋月種実に命じられ、天正15年(1587)まで岩石城を守備した武将である。彼は種実旗下の最も有力な家臣である。勇猛果敢な兵士3千を抱えて、秀吉軍に抗戦し討死した。

 芥田悪六兵衛は熊井越中守と共に、死守した武将である。「太宰管内誌上巻」には、天正10年(1582)の大友・秋月合戦の時、単身敵陣に乗り込み、並外れた気力と大力で、大友方の将・臼杵中務少輔の首をかき、秋月種実の命を救ったという武勇伝も伝わる。
【写真左】熊井越中守久重と芥田悪六兵衛の石碑








追善供養碑と碑文(口伝)

一、熊井越中守久重の碑
    巌之翁「雀ニ翁か」之墓 南冥書(表面)
  辞世 夜となく現に思う 蓮かな 砂水仙人写(裏面)

一、芥田悪六兵衛の碑
    阿幾多「養老斎か」之墓(表面)自書
       一鞭に飛びこへにけり 三途川
          津美の 手綱に朋いざなひて 自書(裏面)

 この碑は町内宮町の後藤家が、古くから管理されてきたものを添田町に委託され移転したものである。
     添田町
 平成15年(2003)9月吉日”

2016年6月20日月曜日

筑前・白山城(福岡県宗像市山田)

筑前・白山城(ちくぜん・はくさんじょう)

●所在地 福岡県宗像市山田
●高さ 標高319m(比高260m)
●築城期 寿永元年~元歴元年(1182~84)
●築城者 宗像大宮司氏国
●城主 宗像氏
●遺構 郭・畝状竪堀・堀切・水穴等
●登城日 2015年1月11日

◆解説(参考文献「肥後国衆一揆」荒木栄司著 熊本出版文化会館等)
 前稿筑前・岡城(福岡県遠賀郡岡垣町吉木字矢口)から、南下し高倉から野間須恵線(県道291号線)を西に向かうと、岡垣町(遠賀郡)と宗像市との境地蔵峠に至る。ここから一気に下っていくと、右手に長い稜線を持つ山が見えてくる。この山の西端頂部が筑前・白山城(以下「白山城」とする)である。
【写真左】白山城遠望
 南側から見たもので、麓には後段で紹介する山田地蔵尊増福禅院が建立されている。






現地説明板

“白山城の歴史

1182~1184(鎌倉時代)
 第36代宗像大宮司氏国築城、約380年間宗像家の本城としての役割をはたす。
 城跡には本丸、曲輪、竪堀跡が現存している。
 特に山の井と称し、岩盤を刳(えぐ)り貫いた井戸が残っており、これは全国にも例を見ない貴重な遺物である。
【写真左】白山城縄張図
 概要は、頂部に本丸と二の丸を東西に配置し、北側に二段の郭を付随させ、その周囲には「棚状竪堀」が囲繞されている。

 また、二の丸から北東部の尾根筋を隔てた箇所には出丸が配されている。


1335(室町時代※ママ
 足利尊氏、関東で天皇に叛き反乱を起こす。
1336(2月)
 京都の合戦で敗れ、九州に落ち延びてきた尊氏を白山城に迎え入れる(宗像軍記)
1336(3月)
 宗像大宮司家は尊氏主従に軍備を整えさせて援護し、香椎の多々良浜で、熊本の菊池軍を奇跡的に破り勢いを盛り返した尊氏が室町幕府を開く。
【写真左】周辺案内図
 麓の山田地蔵尊から更に南には後段で紹介する「旧御殿河原山」が描かれている。



1551(9月12日)(安土・桃山時代)
 黒川鍋寿丸(宗像氏貞)白山城に入る。
 在城12年間(最後の宗像大宮司)

1554(3月23日)
 白山城下の山田の御殿に於いて宗像家の御家騒動に因る大惨劇が演じられる。

1560
 氏貞鳶ヶ岳城を再築し宗像家の本城とする。

 増福院は宗像大宮司家の神護寺として古くから建立されていた。最後の大宮司氏貞の時代、御家騒動の犠牲になられた人々の怨霊を鎮めがために、六地蔵を刻み、田地を寄進して霊を祀ってあるのが、山田地蔵様(増福院)で、宗像家とは特に縁の深いお寺である。またお寺の裏山には尊氏が座禅をしたといわれる岩場がある。

    宗像市史より
      贈 白山城址を守る会”
【写真左】登城口
 登城口は増福院の左(西側)にあり、ここから頂上(本丸)まで約790mの距離になる。






宗像大宮司

 福岡県宗像市に所在する官幣大社宗像大社は、玄界灘に浮かぶ大島の「中津宮」と、沖ノ島の「沖津宮」並びに、九州本土の田島にある「辺津宮」の三社の総称である。そして当社の大宮司職を代々務めたのが、宗像大宮司家の宗像氏である。初代は延喜14年(914)から務めた清氏とされているが、実在の人物であったかははっきりしない。
【写真左】宗像大社(辺津宮)
所在地 福岡県宗像市田島2331
2007年4月参拝



 その後鎌倉期に至ると、36代氏国は「辺津宮」から東に5キロほど向かった山田の白山に城を築いた。鎌倉幕府が開かれた当時、筑前並びに豊後・肥前の守護職が少弐氏であったことから、宗像大宮司家は少弐氏の庇護を受けていたものと思われる。
【写真左】堀切
 登城道は尾根の稜線を基軸としており、直登の箇所が多く、少し息が切れるときもあったが、道は整備されている。
 写真は途中に見えた堀切。大分埋まっている。


尊氏、鎮西

 説明板にもあるように、足利尊氏が京都の合戦で敗れ、九州に奔ったのは延元元年・建武3年(1336)の1月から2月にかけてのことである。尊氏を京都から放逐した最大の功労者は、以前にも紹介したように南朝方の北畠親房の息子・顕家(北畠氏館跡・庭園(三重県津市美杉町下多気字上村)参照)である。
【写真左】旧御殿河原山を俯瞰する。
 登城途中の標高200mの地点で視界が開ける箇所があるが、そこから後段で紹介する「旧御殿河原山」が見える。



 尊氏は九州に下る際、後醍醐天皇側からの追討を防ぐため、海路であった瀬戸内周辺部に一族の配備と、地元有力豪族を味方に引入れている。四国では細川(和氏)、播磨には赤松円心(則村)、備前には石橋(足利一門)氏、備後に今川氏、安芸に桃井氏・小早川氏、周防には大嶋氏・大内氏、長門は斯波氏・厚東氏などである。

 こうした手筈を整えた上での九州上陸であったが、しかし九州では菊池氏や阿蘇氏といった後醍醐派の勢力が強く、尊氏は少弐氏や宗像氏といった僅かな味方を頼りに、筑前の地に足を踏み入れた。
【写真左】竪堀
 登城道のほぼ中間地点から次第に傾斜がきつくなるが、その始点から上に向かってかなり長い(40m前後か)竪堀が構築されている。
 登城道はこの竪堀と並行してほぼ直登のため、ロープが設置してある。
【写真左】土塁
 竪堀の終点部から中小の郭が4ヵ所上に向かって配置されている。
 写真はそのうち最下段の郭先端部に残る土塁。





多々良浜の戦い

 多々良浜とは現在の福岡市東区多の津付近で、福岡流通センターがその中央部に建っている。
 この年(延元元年)3月2日、尊氏は弟の直義をはじめ、地元少弐氏・宗像氏らと、後醍醐派の菊池武敏・阿蘇惟直軍を相手に多々良浜で激突した。
【写真左】多々良浜方面を俯瞰する。
 2008年に立花山城に登城したとき、本丸側から博多湾方面を撮影したもの。
 当時多々良浜と呼ばれていた箇所は、写真の中央右側のところに注ぐ多々良川付近で、浜(川)を挟んで、尊氏軍と菊池軍(後醍醐派)が対峙した。


 「太平記」によれば、尊氏軍は僅か300余騎で、対する菊池軍は3万と伝えているが、実際には尊氏軍は2,000余騎、で菊池軍は2万といわれている。この戦力を比較すれば、尊氏軍は菊池軍の10分の1の戦力であり、とても尊氏にとって勝ち目があるものではなく、説明板にもあるように「奇跡的」な勝利であったことになる。
【写真左】2段目の郭
 本丸に至る前の郭段のうち、2段目のもの。いずれも尾根筋を加工したもので、3段目の郭が一番規模が大きい。




 何故このような結果となったのか。それは菊池軍が多々良浜の戦いの前まで、宝満山(有智山)の戦いなど連戦に次ぐ連戦であったことから、菊池軍に疲れが見え始め、さらには緒戦で不利になると、脱落者や尊氏軍に寝返りする者が出たためである。
【写真左】3段目の郭
 ここから東側に回り込んで行くと、「水穴」というものがあり、江戸末期地元の猟師が発見したということが書かれた「山ノ井兎狩り」という説明板が掲示されている。

 これによると、「…中は人の長さ程の高さにて左右の巾も5.6尺、入りて11間余りの人工穴なるに、いずれの頃より狸がすめり…」とし、「是は宗像大宮司在城の時の水なりと覚ゆ…」としている。

 「水穴」に向かおうとしたが、時間がなかったため管理人は確認していない。


宗像氏嫡流大宮司断絶

 最後の宗像大宮司となったのは、第80代の氏貞である。およそ650年近くも続いた宗像氏嫡流大宮司は、戦国時代の天文年間に至って、激動の時期を迎えることになる。

 宗像氏はこのころ山口の大内氏の家臣となって筑前を治めていた。しかし、天文20年(1551)9月1日、大内義隆は陶晴賢の謀反によって長門の大寧寺に自害(大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)参照)、このとき79代氏男は主君義隆を守るため奮戦した。そして、義隆自害を見届けたあと殉死してしまった。
【写真左】本丸・その1
 長径36×短径21mの方形郭で、東西に軸をとる。  
本丸跡に設置された説明板より

“白山城本丸跡
  1182~1184(鎌倉時代)
  36代宗像大宮司氏国築城
  約400年間宗像家の本城とする

 此の時代の山城は天守閣等は無く砦の様な物で櫓の上から眺望できる質素な城郭で有ったと云われています。

 1336年2月
 室町幕府を開いた足利尊氏は、九州に落ち延びて来た時此の城で軍議を開き、熊本の菊池軍との戦いに勝ち、宗像家を先陣に立て中央に反攻して行ったと伝えられています。
 最後の大宮司氏貞も7歳から12年間在城し、その後蔦ヶ岳へ移っています。
     宗像史誌より
        白山城址を守る会”


 これをきっかけに宗像氏の家督騒動が勃発する。幼名鍋寿丸を名乗っていた氏貞と、氏貞の弟(千代松)を推す両派が対立、氏貞側は白山城に、千代松側は蔦ヶ岳城にそれぞれ立て籠もり争った。義隆を倒した陶晴賢が氏貞を支援したため、千代松側は敗れ、天文21年(1552)氏貞が宗像大宮司に補任(80代)された。なお、このころ宗像氏一族の間では「山田事件」という家督争いに絡んだ凄惨な事件が起きている(後段参照)。
【写真左】本丸・その2
 写真は北側附近で、この下には2段の腰郭が付随し、さらにその周囲には棚状(畝状)竪堀群がある。




 その後、大内氏の滅亡、毛利氏による厳島での戦いで陶晴賢が亡くなると、氏貞は大友氏に属し、毛利氏が九州に上陸してくると、大友氏から離反し毛利氏に属した。この間宗像一族内での内紛などがあり、混迷を極めていく。この状況は宗像氏の筑前はもとより、筑後・豊前・肥後国などの諸族でも同じような混乱が生じていた。
【写真左】本丸から東南方向を俯瞰する。
 この方角には、後に氏貞が白山城から移ったとされる岳山城(蔦山城)がある。
 






 詳細は今稿では省くが、氏貞の後半期は立花道雪(筑前・岩屋城・その1(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)参照)との対立がもっとも大きな出来事となり、天正13年(1585)道雪が亡くなった翌年、秀吉による九州征伐の前に亡くなった。これにより宗像氏は嗣子が絶え、長らく続いた同氏大宮司職は断絶した。
【写真左】二の丸
 長径32m×短径20mの規模で、本丸の東側に1m程度の段差を持たせて隣接する。
【写真左】出丸
 二の丸から更に北東に伸びる尾根を進むと出丸がある。本丸・二の丸ほど整備された郭ではないが、この出丸をさらに北に進むと、宗像四塚連山の一つ孔大寺山(こだいしやま)に繋がる。
【写真左】腰郭
 本丸の北側に付随する郭で、この下にも郭が設置されている。
【写真左】イヌシデ
 管理人は樹木や植生などその道に関しては全く暗いのだが、当城の本丸近くに、まるで「主(あるじ)」のように立つこのイヌシデを見たとき、妖気さえ覚えた。

 この樹皮の模様は短期間でできたものではないだろう。おそらくこの老木は筑前の南北朝期から始まった動乱の時代をじっと見てきたのかもしれない。
【写真左】山田地蔵尊 増福禅院
 白山城の南麓には、天文年間に宗像大宮司氏貞開基による増福院が建立されている。
 また、現地には上掲した「山田事件」に関する内容も含めた由来が記されている。



 現地説明板より

“本尊 六地蔵尊

 大祭 毎年4月23・24日
   月例祭 毎月23・24日
   初地蔵 正月1日より4日
   星祭り厄除祈願2月第1日曜日

由来 
 宗像大宮司家第78代氏雄郷は天文20年9月(1551年)主君大内義隆が長州において陶晴賢に討たれ戦死された時、宗像には正室菊姫があったが、側室の子氏貞を立てんとする者たちのために、翌年3月23日の夜、山田の里において菊姫と母君他4人の侍女と共に惨殺された。
【写真左】菊姫廟
 当院奥に祀られている。
 また、境内奥にある庭園には、足利尊氏が座禅したという大岩もある。




 戦国乱世とは言え、婦女子6人を一時に殺すと言うことは史上にその例をみない悲惨事である。その後6女の怨霊の呪いによりてがこの暗殺に加わった者すべて惨死する等怪異が続いたので6女の霊を慰めるために当寺を建立し、六地蔵を刻み本尊として安置したので漸く異変が終わったと伝えられている。
 以来星霜移ること450年信仰遠近を問わず信者の多く特に安産、子育て、厄除、進学、家内安全、諸病平癒、交通安全、商売繁昌を願う人の参詣が絶えない。
  曹洞宗(禅)妙見山増福院”
【写真左】山田夫人の碑
 増福院に向かう手前の場所には、菊姫廟とは別に、菊姫の母方(山田夫人)や腰元(侍女)4人の墓が祀られている。
【写真左】旧御殿跡
 おそらく菊姫や母方等の平時の住まい跡だったのだろう。
 現在は畑・果樹園などになっている。

2016年6月12日日曜日

筑前・岡城(福岡県遠賀郡岡垣町吉木字矢口)

筑前・岡城(ちくぜん・おかじょう)

●所在地 福岡県遠賀郡岡垣町吉木字矢口
●高さ 40m(比高30m)
●形態 丘城
●築城期 文明年間(1469~87)
●築城者 麻生家延
●城主 麻生氏など
●遺構 郭・堀切等
●指定 岡垣町指定文化財
●登城日 2015年1月11日

◆解説
 筑前・岡城(以下「岡城」とする)は、前稿の花尾城(福岡県北九州市八幡西区大字熊手字花の尾)から東へ約17キロほど向かった汐入川の西岸に築かれた丘城である。
【写真左】岡城遠望
 ご覧の通り小丘に築かれた城砦である。











現地説明板より

“岡垣町指定文化財
「岡城」のこと

 ここは岡垣町で唯一、中世城郭の跡をとどめる岡城跡です。
 岡城は、まだ戦国時代たけなわの文明年間(1469~87)の終わり頃に、この地の領主だった麻生家延(いえのぶ)によって築城されたものです。

 麻生氏は下野国(現在の栃木県)宇都宮氏の出で、鎌倉幕府発足の頃、源氏勢力の一翼で九州にきた鎌倉武士の一人です。
 麻生氏はその後、北条氏の御家人から室町時代には筑前守護職大内氏に属して、遠賀川の河口一帯を支配する大きな勢力になりました。
【写真左】岡城跡案内図
 上が北を示す。
南北120m×東西80mの小丘に築かれており、中央部に本丸を置き、その北側に二の丸、三の丸を配している。

 なお、この図には描かれていないが、東麓を南北に流れる汐入川は、外濠の役目を果たし、さらにはこの川を3キロほど下っていくと、響灘に繋がっているので、周辺部には船溜まりがあったものと推察される。




 文明10年(1478)、麻生氏の跡取りを巡る内紛で、大内氏が大軍で攻め寄せる「花尾城合戦」が起こりました。この結果、それまで惣領として麻生氏を束ねていた麻生家延が敗れ、その和睦の条件で遠賀川西の岡ノ庄28ヶ村が家延に与えられ、家延はこの吉木の地を選んで城を築きました。
 これが「岡城」で、別名を「腰山城」とも言われました。

 家延から3代目の麻生隆守のとき、岡城は豊前の大友勢に侵攻され(永禄5=1562年以降)落城、隆守は自刃して吉木麻生氏は絶えました。城跡は、麻生隆守の菩提を弔って建立された「隆守院」境内域になっていて、地元の吉木の人々によって今日まで手厚く保護されてきました。
【写真左】隆守院
 麓には、麻生隆守の菩提を弔う「隆守院」が祀られている。
 当院には同町指定文化財として木造胎蔵界大日如来像(室町時代)が収蔵されている。



 この城跡は、南東に汐入川(しおいりがわ)を配した小丘陵で、最も高い本丸跡の標高は40mしかなく、南東面は急斜面で守られ、北東面に二の丸・三の丸を梯郭式に配置した典型的な山城です。

 本丸跡は、南北35m×東西15mの平坦地で、東側に一段下った所にある南北15m×東西8mの平地が二の丸です。
 二の丸から北東に4m下に、幅7mほどの三の丸が巡らされています。石垣は用いられず、岩質の山肌がそのまま城構えに利用されています。
 城の表口は、本丸の北西山麓で、城主の屋敷跡を示す「門田」地名が現在も残っています。

※注・・「花尾城」は、八幡西区元城町の上にある花尾山(標高・348m)にあった山城です。

平成8年10月10日
  岡城築城五百年記念事業実行委員会”
【写真左】登城口
 西側の麓に登城口が設置され、この階段から登っていく。










大内政弘少弐政資

 岡城の築城期は、説明板にもあるように文明年間(1467~87)とされている。すなわち長引いた応仁の乱の頃とされている。麻生氏については、前稿花尾城でも紹介したように、この時期惣領家の弘家と、庶子家の家延による対立があり、筑前守護職であった大内政弘がこれに介入、政弘が惣領家弘家を支援し、家延を退けた。文明10年(1478)のことである。
【写真左】登城口
 直接本丸に向かう道もあるが、先ずは北に伸びる登城道を進み、二の丸を目指す。







  ところで、この前年(文明9年)10月3日、それまで西軍(応仁の乱)であった大内政弘は、東軍に降り、その代償として幕府は政弘に対し、従前の領国であった周防・長門のほかに、筑前及び豊前の守護職を改めて安堵した。大内氏が西軍から離脱したことにより、他の諸将は次々と帰国した。応仁の乱の終結である。

 山口に帰国し筑前・豊前の守護職を安堵された政弘であったが、しかし両国には反大内派であった少弐政資が肥前並びに、筑前を主な領地として留まっていた。
【写真左】二の丸・その1
 本丸の北側に配置された郭で、奥行(南北)15m程の規模のもの。







 文明10年(1478)9月16日、大内政弘は九州探題の渋川尹繁と共に、幕府からの追討令を受け、少弐政資と戦った。麻生氏の対立はおそらく、惣領家が大内氏に、庶子家が少弐氏に与していた構図だったのだろう。

 因みに、大内政弘が少弐政資と戦った際、石見国からは大内の命を受けて、三隅長信(三隅城・その3(島根県浜田市三隅町三隅)参照)・益田兼堯(七尾城・その3(島根県益田市七尾)参照)・福屋是兼(本明城(島根県江津市有福温泉)参照)・周布兼和(周布城(浜田市周布町)参照)らが当地に赴いて戦っている(「正任記」)。
【写真左】二の丸・その2
 二の丸の北側から南方向に見たもので、奥には本丸が見える。
 このまま、本丸に向かう。
【写真左】本丸・その1
【写真左】本丸・その2
【写真左】本丸から東方を俯瞰する。
 東麓には吉木小学校があり、この校庭の東側を汐入川が流れている。
 このあと、南側に一旦降りて、西側に向かう。
【写真左】門田溜池
 岡城の西麓には東西270m×南北220mほどの規模を持つ門田溜池が見える。
【写真左】腰郭
 本丸及び二の丸の西側には腰郭が配されている。
 このあと北に進み三の丸に向かう。
【写真左】三の丸
 二の丸の北側を囲繞するような形で残る郭で、帯郭形式のもの。
【写真左】三の丸から燧灘を俯瞰する。
 三の丸から北方を俯瞰すると、広大な平地が広がるが、室町時代にはおそらく海浜の景色が広がり、多くの船が往来していたのだろう。

2016年6月7日火曜日

花尾城(福岡県北九州市八幡西区大字熊手字花の尾)

花尾城(はなおじょう)

●所在地 福岡県北九州市八幡西区大字熊手字花の尾
●高さ 387m(比高250m)
●築城期 鎌倉初期か
●築城者 宇都宮上野介か
●城主 麻生氏、大内氏など
●遺構 畝状竪堀群、石垣、郭、堀切等
●備考 花尾城公園
●登城日 2015年1月11日

◆解説
 花尾城は、前稿多良倉城(福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山)でも紹介しているが、多良倉城の北西麓に所在する山城で、南北朝期から戦国時代にかけて麻生氏が居城とした城砦である。
【写真左】花尾城遠望
 皿倉山頂上から見たもの。











現地の説明板より

 史跡 花尾城跡

 麻生氏の居城跡で、小倉の大三岳城跡や門司の門司城跡と共に中世北九州の代表的な山城の一つ。
 平家滅亡後、宇都宮朝綱の次男家政は鎌倉幕府の命により遠賀山鹿庄に下り、山鹿氏を称したのち、その子時家は次男資時に麻生庄野面(のぶ)庄上津役郷を割譲、よって資時は麻生庄に本拠をおき麻生氏を名乗った。
 この城の築城年代は定かでないが、南北朝時代と推定されており、その頃は麻生山とも呼ばれたという。
【写真左】花尾城(公園)入口付近
 登城コースは北側及び南側に設定されているようだが、この日は北側から向かった。

 写真は公園入口の駐車場で、車は2,3台程度しか停められない。なお、写真右側の道が「西登山道」で、左側の道を進むと、「中登山道」及び「東登山道」に向かう。

 管理人は、花尾城の東側を始点としたかったので、東登山道を選択した。


 ここでは中世に、いくたびかの合戦があったが、なかでも文明10年(1478)麻生氏の家督をめぐって、惣領家弘家と反惣領派家延との内紛は知られており、このとき山口の大内政弘が弘家を援け、当城にこもる家延を攻めたため、家延は和議を乞い城を開けた。

 その後、麻生氏は家氏のとき、豊臣秀吉の九州征伐のおり、軍監黒田孝高(通称官兵衛、出家後如水)に従い開城、天正15年(1587)筑後に所(ところ)替えとなり、三百数十年にわたる当地でのその歴史をとじた。
 平成25年7月3日
   北九州西ライオンズクラブ 寄贈”
【写真左】石垣跡
 東登山道を少し歩くと、右手に見えたもので、何らかの建物があったものかもしれない。






麻生氏

 現地の説明板では、宇都宮朝綱の次男家政が遠賀山鹿庄に下ったとあるが、一説には家政は朝綱の嫡男ではなく、朝綱の猶子となった高階忠業の子・重業が筑前遠賀郡に領地を賜り、後に麻生郷に花尾城を築き、山鹿氏・麻生氏の祖となったというのもある。
【写真左】竪堀
 東登山道はしらく平坦な道が続くが、途中で右手に見えたもので、割と明瞭に残る竪堀跡








 さて、説明板にもあるように、花尾城の築城期は南北朝時代とされている。正平11年(1356)、およそ20年にわたり九州鎭西管領として任にあった一色範氏(吉原山城(京都府京丹後市峰山町赤坂)参照)は、懐良親王を支援しつづけた菊池氏などの圧力に押され、この年の4月から5月にかけてついに帰京した。

 しかし、範氏の子・直氏、範光らは長門の厚東氏(霜降城(山口県宇部市厚東末信)参照)を頼り、その前年(正平10年・文和4年)11月、筑前遠賀郡山鹿庄を根拠としていた麻生氏に豊前・筑後の地を与え、懐柔しようとしていた。ところが、その後範光は病気に罹り、軍を動かすことは出来なかった。
【写真左】堀切
 東登山道の東端部に当たる個所で、この付近から道は右に旋回し、登り坂となる。その手前に見えた堀切だが、この堀底を直接登らず、一旦東側に回り込み、櫓台側に進む。




 さらには、翌文和5年の秋、それまで一色氏の傘下にあった豊後の大友氏一族は南朝方に属してしまった。それを裏付けるように、懐良親王の最大の支援者菊池武光(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)の働きによって、このころ北九州一帯は南軍の勢力下に入っていた。さらに、一時は関門海峡を渡って長門にまで攻めようとする勢いだったという。

 これに対し、しばらく帰京していた一色直氏は、陣を立て直し再び西下し、長門から筑前の山鹿山に向かい、麻生氏の軍勢と合流、そして麻生山(花尾城)に陣を構えた。同年(文和5年・延文元年/正平11年:1356年)10月13日のことである。
【写真左】ヤグラ台跡
 現地の周囲には樹木が繁茂しているため、ヤグラとしての物見台的な状況は確認できないが、当時は東方を俯瞰できる場所だったのだろう。
 なお、この付近には近世に建立されたと思われる墓石が数基建立されている。




 同月26日、菊池の軍「数千騎」が麻生山の一色・麻生軍を攻撃、激戦が展開された。それから約1ヶ月経った11月24日、一色軍の山鹿筑前守・同越前守が寝返り、菊池方に内応、菊池軍を麻生の山営に導きいれたため、直氏軍は奮戦空しく総崩れとなって、再び長門に敗走した。
【写真左】堀切
 ヤグラ台から降りていくと、堀切にたどり着く。
 ここから再び上がり、馬場・出丸方面に向かう。
【写真左】馬場跡
 綺麗に整地された箇所で、長さは50m前後はあろうか。
 
【写真左】大堀切
 当城最大の堀切で、右側が馬場跡になる。なお、この近くには人馬用として利用されていたのだろう石組による古井戸があるということだが、この日は向かっていない。
【写真左】下の段・その1
 堀切からさらに西に向かうと、いよいよ当城の中心部が見えてくる。最初に出迎えたのは本丸の東隣にある郭、通称「下の段」といわれるものである。
【写真左】下の段・その2
 下の段から振り返ると、東の方向に前稿で紹介した多良倉城(福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山)が見える。
【写真左】下の段から本丸に向かう。
 本丸は下の段より5m前後高くなっており、写真に見える階段部とは別に、北側にも本丸と連絡する道が設置されている。
【写真左】本丸・その1
  下の段との境には石積跡が残るが、花尾城の石碑部分は少し高くなっており、土塁があったようだ。
【写真左】本丸・その2
 花尾城は東西に伸びる尾根筋上に築かれたいくつかの郭群で構成されている。本丸はそのほぼ中央部に配置され、長さ30m×幅20m前後の規模を持つ。
【写真左】本丸・その3
 西側にも土塁が残る。
【写真左】北に洞海湾を俯瞰する。
 多良倉城ほどではないが、本丸跡からも北九州市の町並みが眺望できる。
【写真左】二の丸
 本丸から西に進むと、二の丸・三の丸と繋がる。本来は西側の「中登山道」から登城した方が、大手道のコースとなって分かりやすいかもしれない。
【写真左】石積
 二の丸から三の丸の間に残るもので、石垣による小郭が残る。
【写真左】三の丸
 二の丸から三の丸の間の比高差はかなりある。
 長径40m弱、短径20mほどか。なお、三の丸の周囲には竪堀群が配されているが、整備されていないため確認していない。
【写真左】石垣群
 三の丸から更に西に下がっていくと、ご覧のようなまとまった石積の遺構が残っている。
【写真左】竪堀
 三の丸から四の丸へ向かう途中に見えたもので、この竪堀は比較的良好に残っている。
【写真左】四の丸
 先ほどの三の丸とほぼ同じ規模のものだが、長さはこちらの方が長いようだ。
 なお、四の丸の西側にはこれとは別に長さ20mほどの小郭が付随している。
【写真左】ヤグラ台
 花尾城は東端部にヤグラ台を兼ねた郭があるが、西端部にもご覧のようなヤグラ台を備えた郭がある。

 以上のように、花尾城は東西に伸びる尾根筋に主要な郭を8か所設けており、郭ごとに高低差があることから、総延長はおそらく700m前後はあるだろう。