2016年4月24日日曜日

牛の皮城(広島県尾道市御調町大町)

牛の皮城(うしのかわじょう)

●所在地 広島県尾道市御調町大町
●高さ H:233m(比高150m)
●築城期 不明
●築城者 森光氏
●城主 森光氏
●遺構 北郭群・南郭群、畝状竪堀群・郭・堀切等
●登城日 2016年4月12日

◆解説(参考文献「平成25年度ひろしまの遺跡を語る 城館研究最前線 資料集」より事例報告Ⅱ 「牛の皮城跡の発掘調査」(公財)広島県教育事業団埋蔵文化財調査室主任調査研究員 山田繁樹、「日本城郭体系第13巻」等)

  牛の皮城は、前稿雲雀城(広島県尾道市御調町市)でも紹介したように、御調方面に進出した三吉氏の家臣の一人、森光(守光)氏の居城とされている。所在地は雲雀城の麓を流れる御調川を北東方向へ約2.5キロほど下った同町大町というところにある。
 築城期などは不明だが、おそらく雲雀城と同じく、三吉氏の家臣森光氏が当地に入った15世紀末頃と推察される。
【写真左】牛の皮城遠望
 北側から見たもので、手前(右)に北郭群があり、その奥に南郭群が見える。
 なお、この写真は登城口に繋がる道ではなく、駐車した墓地に向かう道である。
 登城口はこの写真では右側に当たる。


北郭群・南郭群と畝状竪堀群

 当城の縄張りで特徴的なこととしては、第一に、南方の頂部に独立した郭群を配し、さらにそこから北に180m程下った尾根上の軸線にも独立した郭群を配していること、第二には、何よりも双方の郭群には夥しい数の畝状郭群が周囲に張り巡らされていることである。
【写真左】牛の皮城 鳥瞰図
 「牛の皮城跡の発掘調査」(公財)広島県教育事業団埋蔵文化財調査室主任調査研究員 山田繁樹氏の資料を基に描いたもの。

 主だった遺構は描いたつもりだが、南郭群の南斜面にある畝状竪堀群は、角度的に描けなかった。



 西側には現在中国横断自動車道尾道線(以下「尾道道」とする)が走っているが、この道路建設工事に伴い、平成15年から18年にかけて発掘調査が行われ、その報告が平成26年1月11日、(公財)広島県教育事業団によって発表されている。概略は次の通りである。
【写真左】登城口
 現地には案内標識などは設置されていないが、北郭群の北端部に入口がある。
 なお、この写真には写っていないが、右側には尾道道の橋脚が建っている。




(1)北郭群

 南東側最高所(H:166m)から北西側(H:145m)にかけて1郭・2郭・3郭・4郭・5郭と郭段が続く。このうち、4郭だけは極めて小さなもので、3郭と5郭の連絡道的な位置づけとなっている。
【写真左】畝状竪堀群・その1
 北郭群の5郭、すなわち最北端の郭段に設置された畝状竪堀で、写真では2条しか見えないが、この左右にも中小の竪堀が控えている。


 畝状竪堀群では、5ヵ所の郭のうち、北端にあるのが5郭だが、この郭の先には放射線状に14か所の畝状竪堀が配置されている。このうち西側では尾道道のため、一分消滅しているようだが、調査当時の写真を見ると、竪堀間の間隔が狭いこともあり、まるで南米の「アスカの地上絵」のようにも見える。
【写真左】畝状竪堀群・その2
 北郭群の3郭から1郭にかけて東斜面に残る個所で、長さは短いものの、堀幅は広い。
【写真左】2郭付近
 北郭群の南方に配置されている1郭及び2郭の頂部から見たもので、二つの郭附近からは尾道道や西麓部の大町の集落が俯瞰できる。

 なお、2郭の西斜面には、一本のかなり長い竪堀があったようだが、尾道道設置のため消失しているようだ。
 写真は、2郭の西端部から北方を見たもの。



(2)南郭群

 北郭群の突起した1郭から南東方向に伸びる尾根を100m程進んで行くと、南郭群に入る。最初に見えてくるのが、尾根中心部に小さく突き出した小郭で、南郭群のいわば入口となる個所となる。おそらくこの箇所には監視を兼ねた番所のようなものがあったと推察される(下段写真「小郭」参照)。
【写真左】竪堀と堀切
 北郭群の1郭(最南端)の南側にあるもので、ここから左の尾根に向かうと、南郭群に繋がる。
 ここには2条の畝状竪堀及び堀切が配置され、南郭群と遮断する意図が読み取れる。

 なお、登城道はこの写真の下から登っていくコースとなっているが、急傾斜のため部分的に階段が設置されている。
 このあと、尾根伝いに南に進み南郭群に向かう。
【写真左】南郭群に入る。
 北郭群から南郭群に向かう道は、尾根道となっている。道は殆ど手つかず状態なので、藪コギや倒木などがあり、歩きにくいが、南郭群に入りかけると、少し開けてくる。



 北郭群が北西から南東の方位に長軸を撮っているのに対し、南郭群は90度変えて、北東から南西に長軸をとっている。

  主郭は最高所となるH:230mの位置に、長径30m×短径20m前後の方形平坦地を備え、その南東斜面には上段の斜面に10か所の畝状竪堀を配し、さらに下段の斜面には長さ20~30mの規模を持つ竪堀が3本単独に走る。
【写真左】小郭
 南郭群の領域に入るとすぐに右手に独立した小郭が見える。
 長径8m×短径5mほどの小規模なものだが、おそらくここが見張的な役割を持っていたものと思われる。
 このあと、辛うじて残る踏み跡を進むと、次第に東側を進むことになる。



 また、東斜面にも大小の竪堀が6本配置され、主郭の南西部に付属する腰郭の下段には、北側から幅10~20mの帯郭が取り巻き、その南西端にはさらに2段の腰郭が付属している。
 この腰郭の先は斜面が少し緩いためか、尾根を横断するような長い竪堀(堀切)が2本並行して並ぶ。
【写真左】竪堀
 南郭群の東・南斜面にもまとまった畝状竪堀群が構築されている。
 このうち東斜面では、上段部に平均して10~20mの長さの竪堀があり、さらにこれらの中から3本の竪堀が下段に延びている。写真は、その下段にも延長している竪堀を上から見たもの。
【写真左】東南部の竪堀から上を目指す。
 畝状竪堀群を横断していったのだが、いつまでも主郭方面に向かう道が見つからないため、この付近の竪堀から強引に上を目指した。
 しかしトライしたものの、上に向かうまともな道が見つからず、再び中断部まで降り、そのまま外周を時計廻りに進んだ。
【写真左】主郭から3段目の郭
 結局、北側から入って東に廻り、西側の腰郭の南斜面から強引に登ってこの郭にたどり着いた。
 当城最大の規模を持つ郭で、幅広い帯郭の形態を持つ。

 写真の右側が主郭方面になるが、直近の切崖は主郭の真下にある腰郭のもの。左側の郭から更に西には2段の腰郭が付随している。
【写真左】主郭方面を見上げる。
 勾配はさほどないものの、高低差は10m前後ある。ここから直登できないこともないが、まともな道は更にこの郭を回り込んだ北西部に設置してある。
 先ずはこの郭の西端部まで進んでみる。
【写真左】西端部
 この先も余り整備されていないため、写真では判然としないが、西麓の集落などが見える。
 なお、このまま尾根筋を下っていくと、二条の竪堀と、尾根中心部を軸とする竪堀がある。
【写真左】井戸跡か
 主郭の西側まで回り込んで行くと、郭幅は狭くなっていくが、その終点部にご覧のような大きな窪みが見える。
 長径5m前後のもので、大分埋まってはいるが、おそらく井戸跡だろう。
 この場所から上を見ると、崩れてはいるものの九十九折の廃道らしきものが見えたので、ここから主郭を目指す。
【写真左】主郭下の腰郭へ向かう。
 大量の枯葉があるため、分かりにくいが、登り道の脇には土留め用の石積跡も散見された。
【写真左】腰郭
 主郭直下にある小規模な郭で、奥行8m×幅7m前後のもの。
 左側が主郭方向になる。
【写真左】腰郭から主郭を見上げる。
 腰郭から北東方向に主郭が控えており、比高差は凡そ8m前後。登り道は矢印で示したように、踏み跡がよく残っており、勾配は多少あるものの、周りの木に捕まりながら簡単に登れる。
【写真左】主郭
 雑木林のような光景だが、地面の方は平滑に仕上げられている。
【写真左】土塁
 主郭の外周部のうち、北郭群方向(北西方向)の位置には高さ50cm程度の土塁が残る。
 
 この場所には薄い紫色の綺麗な花がたくさん咲いている。
【写真左】真っ直ぐに伸びた竪堀
 主郭の縁付近も殆ど熊笹などで覆われているが、北側の一画だけ開放された箇所があり、その位置から下を見ると、一直線に竪堀が伸びている。
 前述したように、上段の竪堀と、下段の竪堀が連続している箇所のようだ。
【写真左】福成寺にある五輪塔群
 牛の皮城の西麓には城主森光氏の菩提寺といわれる福成寺がある。

 当院の墓地には五輪塔・宝篋印塔などの墓石が一画にまとめられているが、おそらく森光氏一族のものだろう。
【写真左】福成寺から牛の皮城を見る。
 墓地から東の方を見上げると、尾道道を介して牛の皮城が遠望できる。

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