2016年4月11日月曜日

雲雀城(広島県尾道市御調町市)

雲雀城(ひばりじょう)

●所在地 広島県尾道市御調町市
●高さ 210m(比高120m)
●築城期 嘉吉3年(1443)
●築城者 土倉夏平(小早川氏一族)
●城主 土倉氏、池上氏
●遺構 堀切・郭・井戸・土壇等
●登城日 2014年11月28日

◆解説(参考文献「御調町史」等)
  雲雀城は北方の三次・世羅方面から南下してきた旧石見銀山街道(R184号線)と、東方の府中市街から西進してきた旧山陽道(R486号線)が合流する御調町(尾道市)の市という地区にあって、御調川と、その支流諸原川の間に挟まれた雲雀山に築かれている。
【写真左】雲雀城遠望・その1
 北側から見たもので、2015年3月に撮影したもの。
 この時期に見ると尾根筋の形がよく分かる。
【写真左】雲雀城遠望・その2
 この写真は、麓からさらに北に向かった公園から撮ったもの。
 2014年11月28日撮影





現地説明板・その1(赤字・管理人による)

“雲雀城址
 御調町域で成立の古い山城は、大塔の撰場城(千羽ヶ城)で、仁野の善福寺の過去帳に、嘉吉2年(1442)に大道庄官藤原時実が築城したとある。ついで嘉吉3年(1443)には、小早川氏の一族の土倉夏平が、交通の要衝で、この地の経済的中心地である市(いち)を眼下に望むこの雲雀山に築城している。しかし、この時点での小早川氏の支配はあまり長く続かず、退去したようである。
【写真左】雲雀城址 実測図
 この図は、北麓にある「道の駅クロスロードみつぎ」に置いてあったものだが、図中の北を示す方位は実際とは大分違う。

 この図でいえば、北西方向を示す角度が実際の北となる。



 この雲雀城に本格的に入ってきたのは、三吉氏の家臣の池上氏である。三吉氏は、近江国から双三郡八次村(現三次市)に来住した地頭で、鎌倉・室町時代を通じて勢力を伸張し、明応年間(1492~1501)に南下して世羅・御調に勢力を扶植し、有力家臣を各地に配置していった。
 御調町域関係では、市の雲雀(山)城の池上氏、大町の牛皮城の森光(守光)氏、丸門田の丸山城の上里氏がそれである。
【写真左】登城道
 今回は北麓の道の駅に車を停め、そこから歩いて向かった。
 尾道市御調支所と北麓の間にある狭い道を進み、一旦東側まで廻ると、神社下に出る。そこに「雲雀城 ⇒」の標識があるので、それに従って進む。
 写真は神社の北側に差し掛かった箇所。


 雲雀(山)城は、市の町並みの南西にそびえるこの雲雀山(227m)の山頂を中心に築かれて、御調町域の主要通路を含む地域を見渡すことができる。
 山頂の削平地に、本丸があり、その南に深さ約20m、幅約3mの堀切(空堀)があり、北側に二の丸やその帯曲輪、東に出丸や井戸曲輪があり、土塁の跡や堀切・竪堀などが見られる。城主は平素は山麓の居館にいたが、それは市頭に近いところにあったと推測され、麓の本照寺付近の可能性が大きいと考えられる。
【写真左】空堀
 出丸に向かう途中に設置されたもので、北側からの侵入を防ぐために設けられている。
 この説明板にも書かれているように、斜面を垂直に掘ったものなので、ここでは竪堀となる。



 当城には明応2年(1493)に三吉氏の家臣池上丹羽守が城主として入り、この地を統治した。のちに池上氏は、尼子晴久の勢力下にあった天文13年(1544)、旧主であった三吉広隆攻撃に牛皮城主森光(守光)氏や、丸山城主上里氏とともに参加している。”
【写真左】出丸・その1
 北東部に配されているもので、本丸までの高さからすると凡そ1/3の位置になる。
 郭が2段で構成され、上段に社が祀られている。
【写真左】出丸・その2
 上段に祀られた社で、この奥に本丸に向かう道がある。







池上・森光・上里氏
 
 雲雀城が築かれたのは説明板にもあるように、嘉吉2年及び同3年にそれぞれ、大道庄官藤原時実、小早川氏の一族の土倉夏平と記されているが、本格的に築城したのは三吉氏の家臣であった池上氏とされている。そしてほぼ同じ時期に、東方にあった大町に牛の皮城(広島県尾道市御調町大町)を森光氏が、西方の丸門田には上里氏が丸山城を築城している。
【写真左】井戸郭
 出丸から本丸に向かう道は次第に険しく、狭くなり、油断していると滑落する箇所も多くなる。

 途中で本丸の北側直下となる斜面には井戸が設けられ、「井戸郭」と命名してあるが、実際は郭というほどの平坦な箇所はほとんどなく、直径1m×深さ30cm程の岩をくりぬいた箇所がある。

 この日は殆ど水がなく、当時もさほど湧きあがるほどの水は出なかったと思われるが、水の手としては重要な場所だったと思われる。


 これら三氏は何れも当時三吉氏の家臣で、特に丸山城築城の上里氏は、戦国期に尾関山城(広島県三次市三吉町)の城番を任された上里氏と同じ系譜である。

 ところで、三吉氏が御調方面へ進出した理由について、具体的な史料は残されていないが、冒頭でも述べたように、御調川沿いは古代から水田地帯として条里制が敷かれ、東西南北を走る街道があり、交通の要衝であったことが最も大きな理由であったと考えられる。その際、併せて御調に至る途中の世羅方面にも勢力を扶植したとされている。
【写真左】二の丸へ向かう。
 井戸郭から二の丸に向かうには、一旦東側に回り込み、そこから枯葉で覆われた急勾配の斜面をよじ登る。

 管理人はいつも専用の杖を携帯しているが、この日ばかりは殆ど役に役に立たなかった。むしろ要所では両手を使って登る場面が多く、杖が邪魔になるほどだった。


 さて、三吉氏の家臣であった池上氏は、明応3年(1493)池上丹波守が当地を支配してから暫くすると、やがて出雲の尼子経久の勢力下に入った。その時期についての具体的な史料は見当たらないが、天文年間の初期と思われ、その後天文13年(1544)7月28日、尼子晴久が備後国三吉城(比叡尾山城か)の三吉広隆を攻めているが、このとき件の三氏(池上・森光・上里)が尼子方に属していたと考えられる。
【写真左】二の丸到着
 短い距離だが、久しぶりにスリル満点の険しい道だった。
 
 連合いからは何度も途中で「この道は違うでしょう?!」や「帰りたいコール」を連発された。
 二の丸に到着した途端、心身ともにどっと疲れが出た。

奥に本丸の切崖が見える。
【写真左】二の丸
 二の丸は冒頭で示した図でも分かるように、北から東面にかけて、10~20m前後の幅を保ち、本丸側を凡そ100m前後に亘って囲繞している。

 底面はかなり平滑に仕上がっている。

 このあと、本丸側に向かう。
【写真左】本丸南下の帯郭
 二の丸側から西方向に登っていくと、最初に見える郭で、本丸の長径とほぼ同じ長さを持つが、幅が3m前後と細いので、犬走りとしての役目もあったものと思われる。
【写真左】本丸東下の腰郭
 前記の帯郭と連絡されたより少し高い位置に構築されたもので、東西10mの奥行を持つ。
 写真左側面が本丸の切崖になる。
【写真左】石積
 先ほどの帯郭から本丸に向かう箇所に残るもので、大分崩れてはいるが人為的に積み上げられたもの。
【写真左】主郭
 東西に長径30m余×南北短径10m前後の規模を持つ。
 写真は、東側から西方向を見たもので、奥には高さ2m程度の土壇が配されている。
【写真左】土壇
 主郭の西端部にあるもので、よく見ると東面は石積の跡が残る。
 奥行は5m前後で、さらにその先を行くと、大堀切が断ち切られている。
【写真左】大堀切
 土壇の西端部から見下ろしたもので、大型のものである。

 土壇からはほぼ垂直になっているため、直接降りることは危険なため、一旦南側斜面に降りて、堀切の南端部までトラバースする。
【写真左】大堀切
 南側の斜面は急傾斜でしかも枯葉が堆積していることから、西進しようにも度々足元が救われ、やっとの思いで最初の堀切にたどり着く。
 尾根を深く断ち切った迫力満点の堀切である。
【写真左】堀切から本丸を見上げる。
 これまで登城した中でも3本の指に入る見事な堀切で、規模は深さ20m×幅3m。

 断ち切った傾斜面は険しく、直接この斜面をよじ登ることはできなかった。おそらく当時の状況をそのまま残している箇所だろう。
【写真左】竪堀
 この堀切から西に登り尾根筋に立つと、南北に数本の竪堀が見える。

 南北の斜面そのものが急傾斜なので、これだけでも十分だが、さらに竪堀が付けられている。
【写真左】堀切を介して東方に本丸を見る。
 手前の樹木があるため全体が見えないが、本丸土壇の北側が見える。








本照寺

 雲雀城の東麓には池上氏が関わった本照寺という寺院がある。そしてその後ろには池上氏代々の墓地が祀られている。
【写真左】本照寺













現地の説明板

“雲雀城と本照寺

(中略)

 照源寺を石原谷に再興したのも池上因幡守と伝え、さらに城の下になべかむり、日親上人を開基として永正元年(1504)に本照寺を建立している。諸書によってその説を異にし、天正11年池上丹後守菩提所となすとか、文安元年日親開基、天正13年池上因幡再建などとまちまちであるが、江戸時代焼けたことは間違いなく、その時に古文書を焼失して資料を失っている。現在の建物はその後に建立されたもので、大イチョウのみが昔の面影を伝えている。
【写真左】池上氏の墓地に向かう。
 本殿の裏にあって、一番高いところに建立されている。



 寺の背後に池上氏代々の墓地というのがあるが、これは雲雀城二の丸にあったものを境内に移したものだという。
 室町時代の特色をもついかにも城主のものとしてうなづける。
 大形の五輪石塔を中心に10数基の苔むした墓石は、兵乱の昔を物語っています。

   昭和56年11月
  御調町教育委員会
  御調町文化財保護委員会”
【写真左】池上氏墓石群

















現地の説明板より

“池上城主 墓所

天正12年甲申8月28日 正壽院殿玉翁道仙日築大居士
  城主 池上刑部少輔七郎殿
天正8年庚辰6月15日 正連院妙安日翁大姉
     池上刑部少輔七郎殿室

天正19年辛卯2月8日 院殿奇格梅香日持大居士
  城主 池上久太郎殿
文禄4年己未9月11日 只心院殿妙相代恵日如大姉
   池上久太郎殿 室

慶長6年辛丑9月10日 遠城院殿遠本日到大居士
   城主 池上周満中殿
梅上院殿 壽日香大姉
   池上周満中殿室

慶長10年己巳7月10日 池上院殿周覚了頼日義大居士
   城主 池上因幡守殿

昭和56年11月
 御調町教育委員会
 御調町文化財保護委員会”

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