2016年2月16日火曜日

阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)

阿瀬尾城(あせびじょう)

●所在地 岡山県新見市哲多町田渕
●別名 馬醉木城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 高橋民部少輔貞春(藤木)
●形態 丘城(城館か)
●高さ 510m(比高20m)
●遺構 郭
●備考 荒戸山観光レクリェーション施設
●登城日 2016年2月14日

◆解説(参考文献・資料 『日本城郭体系第13巻』『大和村誌』「鷲影神社碑文」等)
 前稿まで石見高橋氏の惣領、すなわち師光の系譜を中心として紹介してきたが、ここで師光の弟と思われる武将を取り上げたい。

高橋貞春

 その武将とは、高橋民部少輔貞春、別名藤太という人物である。これまで述べたように、師光が石見阿須那に下向する前に拠っていたのが、備中松山城(岡山県高梁市内山下)であった。これに対し、貞春は同国の北西部に当たる現在の新見市哲多町田渕を本拠としていた。そして、その居城とされているのが、阿瀬尾城、別名「馬醉(酔)木城」である。
【写真左】馬酔木城遠望・その1
 馬酔木城は、下段でもしめすように、その形態は丘城とされ、一般的な要害を誇る山城ではない。
 



貞春師光などの関係

 ところで、『益田市誌』などには、貞春は師光の子として記されているが、状況を考えると、師光が息子を備中に残したまま、石見に下向することは考えられない。このため『大和村誌』にもあるように、父を光義とし、その子に師光・貞春・詮光の三兄弟がいたと考えられる。

 さて、貞春はその名前から推測すると、おそらく細川頼春(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)から偏諱を受けたものだろう。すなわち、そのころ、武家方(尊氏・高師直派)の一員であったと考えられる。
【写真左】阿瀬尾城跡に設置された施設案内図
 現地にあった案内図で、上方が北方向を示す。案内図は大分劣化していたため、管理人によって分かりやすく修正したものだが、現在の南麓を東西に走る県道50号線のすぐ上に位置し、山小屋・コミュニティー広場といった辺り全体がおそらく阿瀬尾城の城域だったと考えられる。

 施設整備のため大幅な改変が為されたと思われるが、形態として丘城であったことを考えると、当時この場所が高橋貞春らの屋敷跡だったと推測される。

 
 兄師光が石見阿須那に下向して地歩を固めつつあったころ、弟貞春は延文5年・正平15年(1360)、5月、河内国千早赤阪(千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早)参照) に参陣するも武運拙く討死した(『太平記』)。

 この戦いは、当時南朝方として一翼を担っていた楠木正儀の拠る河内赤阪城などを幕府軍が攻略したものだが、すでにこのころ頼春は亡くなり、生前彼が後見していた細川清氏(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)が率いて戦ったものである。
【写真左】グランドと屋内型運動場
 上記の案内図にはこの建物は描かれていないが、中はグランドゴルフなどができるようになっている。

 左側が入口で北になり、ここからさらに南側の施設に向かう。




貞春遺児・頼貞、石見阿須那下向する 

 貞春が河内国で亡くなったあと、所領地であった備中国田淵はその後どうなったのか詳細は不明であるが、そのころから細川氏による守護職としての力が弱まり、秋庭氏(後期秋庭氏)などへ移りつつあったので、貞春没後の高橋氏は当地の支配は出来なくなっていったのだろう。

 貞春没後40年余り経った応永15年(1408)、彼の嫡男・頼貞は、石見阿須那の高橋貞光の招きで、神稲郷大庭の鷲影城主となった。
【写真左】山小屋
 この付近でキャンプを行うようになっていたようだが、現在では小屋も使用されず朽ち果ててきている。






阿瀬尾城(馬醉木城)

 さて、当城は写真にもあるように、現在地元民のためのレクリェーション施設となっており、遺構は殆ど残っていない。所在地を考えると、備中国の北西端部にあたり、備後国と接し、さらには伯耆・出雲両国とも近いため、貞春らは常に緊張した領国経営を強いられていたものと考えられる。
【写真左】南側の段
 小屋の南側に廻ってみると、東西に延びた段が確認できたが、当時のものか、近年のものか判断できない。
【写真左】忠魂碑
 小屋側入口付近に建立されているもので、城跡の碑かと期待したが、先の大戦における地元戦没者を慰霊したもの。




阿瀬尾城の文字

 一通り現地を踏査したが、現地には阿瀬尾城を示すものが全くないため、半ばあきらめかけていたとき、発見したのが次の写真である。

【写真左】合祀者氏名欄の末尾に記された「阿瀬尾城」の文字

 忠魂碑の裏側には戦没者名が列記してあるが、末尾には次のように記されている。

“昭和四十二年十月十二日 大字田渕

     阿瀬尾城址 ◇◇

 新砥 忠魂碑建設委員会◇◇”

 なお、当初阿瀬尾城を「あせおじょう」と呼称していたが、別名馬酔木城、とあるのでツツジ科アセビ属の常緑低木のアセビから命名されたものだろう。従って、阿瀬尾城の呼称は「あせびじょう」としておく。



荒戸神社と荒戸山

 ところで、阿瀬尾城から西北西へ伸びる山道を約1キロほど登っていくと、荒戸神社がある。その真北に聳えるのが荒戸山である。
【写真左】荒戸神社・本殿
 左側斜面は荒戸山の南面に当たる。









現地の説明板

“岡山県指定重要文化財 昭和62年4月3日指定
    荒戸神社本殿

 本殿は室町時代の建築様式を伝える貴重な建造物で、祭神は大錦積命、天照大神、他に16神がある。
 創建は、正中元年(1324)荒戸山山頂に建立されたが、嘉吉2年火災により焼失したため、文安元年(1444)現在地に再建された。

 本殿の特徴として、入母屋造桧皮葺で、向拝を持たない屋根は全国的にも少ない古い形態で、基壇を作らず石敷きとした床下の工法は古式のものである。

 荒戸神社  新見市教育委員会”
【写真左】荒戸神社境内
 向背に見える山が、荒戸山(城)である。









 当社の創建は正中元年(1324)とされている。この時期の備中国を支配していたのは、秋庭氏累代の墓(岡山県高梁市有漢町有漢茶堂)でも紹介したように、「前期秋庭氏」の時代で、おそらく4代・秋庭小三郎、及び5代・三郎重和が創建に関わったものだろう。
【写真左】阿瀬尾城(馬醉木城)と荒戸山(城)を遠望する。
 東方から見たもので、阿瀬尾城は手前に延びる丘陵部があるため見ずらいが、奥の方にある。


 そして、その7年後の元弘元年(1331)から高橋氏や高氏(こうのし)などが代わって支配することになるが、それは、笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置) に拠った後醍醐天皇が捕らわれ、翌元弘2年、隠岐の島へ配流され、高橋氏は、武家方の一員として尊氏及び、高師直などに属して戦った時期でもある。

 また、高橋貞春が居城を阿瀬尾城としていたとき、荒戸山城はおそらく詰の城としての機能を持っていたものと推察される。
【写真左】荒戸山全景

説明板より

“新見市指定天然記念物 昭和41年6月1日指定

 荒戸山

 昔から土地の人々の間では「鍋山」と呼び、標高761.9mで町内一の高さを誇り、地質時代新生代第3紀の初め(約200万年前)に噴出したと考えられている。この火山は、玄武岩から成っており、トロイデ(鐘状火山)といわれる。

 荒戸山中腹には、玄武岩の柱状節理が多くみられる。この柱状節理は、学術的に価値の高いものである。また、山中には推定樹齢150年以上の荒戸神社参道の杉並木や、200年を超えるケヤキ、コナラ、クヌギなどが混成する天然林がある。
  荒戸神社  新見市教育委員会”
【写真左】荒戸山登山口
 この日は登城(登山)する時間もなく向かっていないが、一般の登山・ハイキングコースとして利用されているようだ。
 また、荒戸神社を中心にして東西に広い駐車場が設置されているので、定期的な祭事が行われているのかもしれない。



 その後、当社は嘉吉2年(1442)火災に遭ったという。この火災は単なる失火ではないだろう。当時社は山頂にあり、荒戸山そのものが山城であったので、戦火が交わったとしても不思議でない。それを裏付ける出来事としては、前年の6月24日、赤松満祐が、時の将軍足利義教を暗殺(嘉吉の乱)し、9月この満祐らを追討すべく、主だった西国の諸将が播磨を目指して参陣している。そうした混乱に起因したものだろう。
【写真左】荒戸神社下山途中の道から阿瀬尾城を見る。
 黄色の線で囲んだ箇所が阿瀬尾城になるが、冬以外の時期では樹木に覆われて見えないかもしれない。

 

 そしてこの嘉吉の乱に参陣した西国の武将の中には、石見鷲影城主となっていた頼貞の嫡男・頼之とその子・頼久らがいた。

 次稿ではこの頼之・頼久の動きを追って見たい。

◎関連投稿
 鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)

0 件のコメント:

コメントを投稿