2016年2月20日土曜日

鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)

鷲影神社(わしかげじんじゃ)
      ・高橋地頭鼻(たかはしじとうはな)


●所在地 島根県益田市元町
●創建 長禄2年(1458
●創建者 高橋頼之・頼久父子
●探訪日 2016年2月1日、11日

◆解説(参考文献『益田市誌』等)
  島根県益田市の市街地である元町には、鷲影神社という小さな社が祀られている。この社を創建したのは、前稿阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)で紹介した高橋民部少輔貞春の流れを持つ「地頭鼻高橋家」である。
【写真左】阿瀬尾山 鷲影神社
 所在地 島根県益田市元町

 ご覧の通り、民家の隣で、その左側は崖となっている。




 手前の石碑には、「阿瀬尾山 鷲影神社」と刻銘されている。

 この場所は、益田市元町の南端部にあたる丘陵地で、周辺には階段状の団地が建ち並び、住宅地の脇に鎮座している。

 境内は小規模なものだが、その奥には石碑が建立されており、そこには備中阿瀬尾城から石見阿須那鷲影城に移り、さらには当地益田に下向してきた地頭鼻高橋家の由来を示す碑文が刻まれている。

鷲影神社(益田市元町)の碑文

“備中守護職松山城主高橋九郎左衛門尉光國 参河守時英事 元弘三癸酉年五月近江國番場合戦於六波羅探題北條仲時従嫡子時住太郎範時事、次子仲光次郎光時事共討死平田場峠蓮華寺葬光國之◇
 備中国阿哲郡田渕阿瀬尾城城主別名馬酔木城主高橋民部少輔貞春南北朝争乱之延文五庚子一月河内国干破釼合戦於討死

【写真左】碑文が刻まれた石碑
 本殿前の境内に建立されているが、時が経ったこともあり、筆耕された文字が部分的に潰れていたり、見難くなった箇所もある。


 嫡子高橋左近将監貞頼応永十五戌子年十月従兄石見國邑智郡阿須那藤掛城主高橋刑部少輔貞光之招応石見国邑智郡神稲郷大庭鷲影城主トナリ翌々応永十七癸寅年二月城内西之丸ニ鷲影城鎮護社創建守護神武内宿祢貞頼之曽祖父光國父貞春之三神祀ル
 貞頼之嫡子左近将監頼之◇民部少輔頼久父子嘉吉元辛酉年八月播磨赤松之乱後益田七尾城主益田越中守兼堯之招応鷲影城ヲ去り長禄二戌寅年益田庄上吉田郷移リ八幡原地頭家敷住百貫地知行三神祀鎮守社再建然処子孫高橋源四郎明治十癸未九月没被故有鎮守社廃絶今度高尾山地開発ヲ記念シ永年宿願之当鎮守阿瀬尾山鷲影神社ヲ再建ス
 昭和四十九年十一月二日 上吉田 地頭鼻 高橋正喜“
(註:◇・判読不能個所)
【写真左】鷲影神社本殿 ご覧の通り本殿は1間ほどの幅をもった小さなもので、昭和49年に再建されているようだ。





 一部判読不能な箇所もあって明瞭ではないが、この碑文を要約すると概ね次のような内容と思われる。

(要約)(途中から)
「…… 延文5年(正平15年:1360)、備中阿哲郡の田渕にある阿瀬尾城(馬酔木城)の城主であった高橋民部少輔貞春は、南北朝動乱において河内国の合戦で討死し、その後嫡子・貞頼は、父の死から40年余り経った応永15年(1408)10月、石見阿須那藤掛城主・高橋貞光の招きで近接の神稲郷大庭の鷲影城主となった。2年後の応永17年(1410)正月、鷲影城の西の丸に守護神として、武内宿祢貞頼・曽祖父光國・父貞春の三神として当城鎮護社守護神を祀る。

 嘉吉元年(1441)の乱において、頼之・頼久父子播磨に参陣、その後益田兼堯(かねたか)の招きで鷲影城を去り、長禄2年(1458)、益田庄上吉田郷に移り、八幡原地頭となり、100貫の知行を受け、三神祀鎮守社を再建した。然しその子孫高橋源四郎が明治10年に没し、鎮守社も廃絶した。この度(昭和49年)高尾山地開発を記念し、長年の願いであった当鎮守阿瀬尾山鷲影神社をここに再建する。

       昭和49年11月2日 上吉田 地頭鼻 高橋正嘉 」 
(以上 ※下線管理人による)

 上述した要約文でほぼ高橋貞春以降の流れが分かると思われるが、これをもとに順を追って足跡を整理したい。

高橋貞頼、阿須那に来住

 前稿の阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)でも述べたように、貞春が河内国で戦死してから約40年余り経った応永15年(1408)10月、師光嫡男の石見阿須那藤掛城主・高橋貞光の招きで、貞春嫡男・貞頼は藤掛城の東隣神稲大庭の鷲影城主となった。

 おそらく、貞春が戦死したころ、貞頼は生まれて間もない幼児であったのだろう。従って、貞頼が阿須那に来住したときは既に40代半ばの年齢であったと思われる。
 このころ、高橋氏惣領・貞光は、藤掛城からさらに出羽の肥沃な上流部方面へも触手を伸ばしていった時期である。

貞頼、鷲影城を築く

 貞光の代になると、出羽氏の領地を次々と攻略、別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)並びに、二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)を手中にしたとことにより、貞光は拡大した領地の守備堅持を確保するため、甥の貞頼には同氏支配地の東方を扼する任務を与えるため鷲影城を築かせたと推察される。
【写真左】鷲影城と軍原を遠望する
 所在地:邑南町 阿須那 大庭、戸河内

 鷲影城の標高は415mなので、西隣のH・354mの藤掛城より60m余り高い。以前登城を試みたが、登城口がどのあたりなのか不明で断念した。郭・帯郭・堀切・竪堀など遺構の種類も多いようだ。
 写真の左側には出羽川が流れ、その対岸に興光が自刃したといわれる軍原古戦場(キャンプ場)がある。
 なお、貞頼らが鷲影城を居城としていたころの屋敷は、この写真にみえる大庭地区であったと考えられる。


 そして、鷲影城を築いて間もない応永17年(1410)正月、貞頼は当城西ノ丸に守護神として、同氏元祖とされる武内宿祢貞頼、曽祖父光國、そして父貞春を三神として崇め、当城鎮護社を祀った。これが後に益田に移った際の鷲影神社のもととなる。
【写真左】大庭の集落から鷲影城を見る
 西麓にある大庭の集落から見たものだが、左側に延びた舌陵丘陵部は、遺構の記録はないものの、この頂部に上がれば西方の藤掛城を見る位置にあるので、常時連絡用の物見櫓的なものが設置されていたのかもしれない。


嘉吉の乱

 嘉吉元年(1441)6月24日、播磨・備前・美作三国の守護であった赤松満祐は、将軍足利義教を謀殺した。直後幕府内に動揺が走り、混乱を極めたが、7月に至ってようやく満祐追討の命が出され、西国の諸将が発向することになった。このとき多くの西国武士が播磨・備前・美作方面に向かっているが、このうち石見国では益田兼堯が7月24日付で幕府から満祐追討の命を受けている。 また石見高橋氏では、上述したように鷲影城主であった頼之・頼久がこの戦いに参陣している。
【写真左】鷲影城本丸
 この写真は、2015年10月3日当地阿須那で行われた高橋氏660年記念事業の際、会場ロビーに展示されていた写真である。
 本丸跡には祠のようなものが鎮座しているようだ。





頼之、鷲影城を去り益田氏に仕える

 嘉吉の乱がおこったころの益田氏は、兼堯が第15代当主になって間もないころである。嘉吉の乱後、頼之・頼久父子は石見鷲影城に帰城していると思われるが、乱の17年後である長禄2年(1458)、頼之父子はこの益田兼堯の招きで益田庄へ移り、当地八幡原地頭となった。
【写真左】益田氏の居城・七尾城本丸から鷲影神社方面を俯瞰する。
 七尾城からは西方に直線距離で2キロ余りの地点に当たり、標高60mほどの丘陵地に建立されている。


 ところで、益田氏の招きとはいえ、なぜ鷲影城主であった頼之父子が、やっと住み慣れてきた阿須那を離れ、益田に赴いたのだろうか。惣領高橋氏にとっても、このころは石見・安芸の領国支配に向けて盛んに勢威を広げていく最中であり、他国の大名に対して、いわば身内同然の一族を与えるほどの余裕はなかったはずである。しかし、結果として頼之らは益田氏に仕えることになった。
【写真左】鷲影神社が祀られている高台を見る。
 写真は北麓の市民学習センター(旧石西県民文化会館)側から見たもので、高橋氏が来住する前は、益田氏の庶流益田兼家が赤城(せきじょう)を築いていた場所である。
 従って、高橋氏もおそらくこの赤城跡に居城を構えていたものと思われる。


 七尾城・その3でも述べたように、嘉吉の乱に際し、同年(嘉吉元年:1441)8月23日、兼堯は山名氏の一族山名道作の配下に属し、美作高尾の城(所在地不明)を落とし、細川持之から感状を受けたのを皮切りに、27日には東に進んで蟹坂(兵庫県明石市和坂)へ進撃したが、暫くそこに留まっている。その後は、九州へも発向している。この後も度々幕府の命によって各国(九州・中国・四国・畿内など)の戦地に赴いている。
【写真左】鷲影神社直下
 写真の高台右側に当社が祀られているが、この付近から急坂道となり、高低差が著しい。
 おそらく郭段が構成されていたのだろう。


 寛正4年(1463)12月20日、兼堯は戦乱平定により幕府に対し、帰国の願いを申し出た。しかし、幕府は再度の上洛を命じた(『萩閥7』)。兼堯は大げさに言えば、本貫地である石見益田に在居することはほとんどなく、戦に明け暮れていたと思える。こうした経緯を考えると、そもそも頼之父子は嘉吉の乱後、すぐには石見阿須那に帰城できず、かなり長い間、益田兼堯に随従・同行していたのではないだろうかとも考えられる。

高橋地頭鼻

 ところで、冒頭で紹介した「鷲影神社」から北に下がり、現在の益田市役所方面に向かうと、道路脇に「地頭鼻高橋本家地蔵菩薩」と呼ばれる地蔵菩薩が祀られている。
【写真左】地頭鼻高橋本家地蔵菩薩が祀られている小堂
 小堂の中には地蔵菩薩が納められている。








説明板より

“地頭鼻高橋本家地地蔵菩薩(通称赤城地蔵)
1、 建立の由来
 長禄2年高橋次郎左衛門尉頼久が、上吉田地頭となって8代子孫の吉左衛門頼勝の時、貞享3年倅新之助を亡くし、その供養のため正徳年間に地蔵菩薩を建立した。

 高橋本家は、次郎左衛門尉頼久より5代子孫の三郎左衛門尉頼泰の時、毛利氏に従って須佐に移住した益田氏の下を離れ上吉田に残り帰農し、以降「地頭鼻高橋家」と称した。
 明治になり地頭鼻高橋本家は休溢(現元町)の山手に屋敷を移したが、地蔵菩薩は建立場所(現市役所裏手)に留めた。

【写真左】正面からみた小堂
右には「子守子授け地蔵菩薩」、左には「地頭鼻高橋本家」と書かれた表札が掲げられている。





2、 近年の模様
 吉田地区における二大石造地蔵菩薩(赤城、今西)の内の一体であり、「子守子授け地蔵」として広く地域内外の信仰を集め、お参りが絶えない。
 特に次郎左衛門尉頼久より18代子孫の正喜は厚く敬い、毎年4月21日には先祖と共に供養を行っていた。現在も管理は地頭鼻高橋本家で引き継がれている。
(その経緯は「益田市史(矢富熊一郎著)370p~371p」、「益田市誌上巻(益田市誌編纂委員会)874p~875p」に記載されている)”

 以上のように、備中阿瀬尾城(馬醉木城)主であった高橋貞春の系譜は、石見阿須那(神稲大庭)の鷲影城へ入り、その後益田氏の招きで上吉田の地頭となっていくが、その後天正年間に至ると、頼恭(よりたか)は益田氏が毛利氏に属したことから、同6年(1578)の播磨上月城攻めに参陣している。

 なお、元亀年間、東予(愛媛県)の鷺ノ森城主・壬生川氏(河野氏家臣)が、周辺の諸豪に攻められたとき、毛利氏の命によって、救援に駆けつけた高橋某という将がいるが、次稿ではこれに関わる城址を紹介したい。

2016年2月16日火曜日

阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)

阿瀬尾城(あせおじょう)

●所在地 岡山県新見市哲多町田渕
●別名 馬醉木城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 高橋民部少輔貞春(藤木)
●形態 丘城(城館か)
●高さ 510m(比高20m)
●遺構 郭
●備考 荒戸山観光レクリェーション施設
●登城日 2016年2月14日

◆解説(参考文献・資料 『日本城郭体系第13巻』『大和村誌』「鷲影神社碑文」等)
 前稿まで石見高橋氏の惣領、すなわち師光の系譜を中心として紹介してきたが、ここで師光の弟と思われる武将を取り上げたい。

高橋貞春

 その武将とは、高橋民部少輔貞春、別名藤太という人物である。これまで述べたように、師光が石見阿須那に下向する前に拠っていたのが、備中松山城(岡山県高梁市内山下)であった。これに対し、貞春は同国の北西部に当たる現在の新見市哲多町田渕を本拠としていた。そして、その居城とされているのが、阿瀬尾城、別名「馬醉(酔)木城」である。
【写真左】馬酔木城遠望・その1
 馬酔木城は、下段でもしめすように、その形態は丘城とされ、一般的な要害を誇る山城ではない。
 



貞春師光などの関係

 ところで、『益田市誌』などには、貞春は師光の子として記されているが、状況を考えると、師光が息子を備中に残したまま、石見に下向することは考えられない。このため『大和村誌』にもあるように、父を光義とし、その子に師光・貞春・詮光の三兄弟がいたと考えられる。

 さて、貞春はその名前から推測すると、おそらく細川頼春(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)から偏諱を受けたものだろう。すなわち、そのころ、武家方(尊氏・高師直派)の一員であったと考えられる。
【写真左】阿瀬尾城跡に設置された施設案内図
 現地にあった案内図で、下方が北方向を示す。案内図は大分劣化していたため、管理人によって分かりやすく修正したものだが、現在の南麓を東西に走る県道50号線のすぐ上に位置し、山小屋・コミュニティー広場といった辺り全体がおそらく阿瀬尾城の城域だったと考えられる。

 施設整備のため大幅な改変が為されたと思われるが、形態として丘城であったことを考えると、当時この場所が高橋貞春らの屋敷跡だったと推測される。

 
 兄師光が石見阿須那に下向して地歩を固めつつあったころ、弟貞春は延文5年・正平15年(1360)、5月、河内国千早赤阪に参陣するも武運拙く討死した(『太平記』)。

 この戦いは、当時南朝方として一翼を担っていた楠木正儀の拠る河内赤阪城などを幕府軍が攻略したものだが、すでにこのころ頼春は亡くなり、生前彼が後見していた細川清氏(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)が率いて戦ったものである。
【写真左】グランドと屋内型運動場
 上記の案内図にはこの建物は描かれていないが、中はグランドゴルフなどができるようになっている。

 左側が入口で北になり、ここからさらに南側の施設に向かう。




貞春遺児・頼貞、石見阿須那下向する 

 貞春が河内国で亡くなったあと、所領地であった備中国田淵はその後どうなったのか詳細は不明であるが、そのころから細川氏による守護職としての力が弱まり、秋庭氏(後期秋庭氏)などへ移りつつあったので、貞春没後の高橋氏は当地の支配は出来なくなっていったのだろう。

 貞春没後40年余り経った応永15年(1408)、彼の嫡男・頼貞は、石見阿須那の高橋貞光の招きで、神稲郷大庭の鷲影城主となった。
【写真左】山小屋
 この付近でキャンプを行うようになっていたようだが、現在では小屋も使用されず朽ち果ててきている。






阿瀬尾城(馬醉木城)

 さて、当城は写真にもあるように、現在地元民のためのレクリェーション施設となっており、遺構は殆ど残っていない。所在地を考えると、備中国の北西端部にあたり、備後国と接し、さらには伯耆・出雲両国とも近いため、貞春らは常に緊張した領国経営を強いられていたものと考えられる。
【写真左】南側の段
 小屋の南側に廻ってみると、東西に延びた段が確認できたが、当時のものか、近年のものか判断できない。
【写真左】忠魂碑
 小屋側入口付近に建立されているもので、城跡の碑かと期待したが、先の大戦における地元戦没者を慰霊したもの。




阿瀬尾城の文字

 一通り現地を踏査したが、現地には阿瀬尾城を示すものが全くないため、半ばあきらめかけていたとき、発見したのが次の写真である。

【写真左】合祀者氏名欄の末尾に記された「阿瀬尾城」の文字

 忠魂碑の裏側には戦没者名が列記してあるが、末尾には次のように記されている。

“昭和四十二年十月十二日 大字田渕

     阿瀬尾城址 ◇◇

 新砥 忠魂碑建設委員会◇◇”









荒戸神社と荒戸山

 ところで、阿瀬尾城から西北西へ伸びる山道を約1キロほど登っていくと、荒戸神社がある。その真北に聳えるのが荒戸山である。
【写真左】荒戸神社・本殿
 左側斜面は荒戸山の南面に当たる。









現地の説明板

“岡山県指定重要文化財 昭和62年4月3日指定
    荒戸神社本殿

 本殿は室町時代の建築様式を伝える貴重な建造物で、祭神は大錦積命、天照大神、他に16神がある。
 創建は、正中元年(1324)荒戸山山頂に建立されたが、嘉吉2年火災により焼失したため、文安元年(1444)現在地に再建された。

 本殿の特徴として、入母屋造桧皮葺で、向拝を持たない屋根は全国的にも少ない古い形態で、基壇を作らず石敷きとした床下の工法は古式のものである。

 荒戸神社  新見市教育委員会”
【写真左】荒戸神社境内
 向背に見える山が、荒戸山(城)である。









 当社の創建は正中元年(1324)とされている。この時期の備中国を支配していたのは、秋庭氏累代の墓(岡山県高梁市有漢町有漢茶堂)でも紹介したように、「前期秋庭氏」の時代で、おそらく4代・秋庭小三郎、及び5代・三郎重和が創建に関わったものだろう。
【写真左】阿瀬尾城(馬醉木城)と荒戸山(城)を遠望する。
 東方から見たもので、阿瀬尾城は手前に延びる丘陵部があるため見ずらいが、奥の方にある。


 そして、その7年後の元弘元年(1331)から高橋氏や高氏(こうのし)などが代わって支配することになるが、それは、笠置山に拠った後醍醐天皇が捕らわれ、翌元弘2年、隠岐の島へ配流され、高橋氏は、武家方の一員として尊氏及び、高師直などに属して戦った時期でもある。

 また、高橋貞春が居城を阿瀬尾城としていたとき、荒戸山城はおそらく詰の城としての機能を持っていたものと推察される。
【写真左】荒戸山全景

説明板より

“新見市指定天然記念物 昭和41年6月1日指定

 荒戸山

 昔から土地の人々の間では「鍋山」と呼び、標高761.9mで町内一の高さを誇り、地質時代新生代第3紀の初め(約200万年前)に噴出したと考えられている。この火山は、玄武岩から成っており、トロイデ(鐘状火山)といわれる。

 荒戸山中腹には、玄武岩の柱状節理が多くみられる。この柱状節理は、学術的に価値の高いものである。また、山中には推定樹齢150年以上の荒戸神社参道の杉並木や、200年を超えるケヤキ、コナラ、クヌギなどが混成する天然林がある。
  荒戸神社  新見市教育委員会”
【写真左】荒戸山登山口
 この日は登城(登山)する時間もなく向かっていないが、一般の登山・ハイキングコースとして利用されているようだ。
 また、荒戸神社を中心にして東西に広い駐車場が設置されているので、定期的な祭事が行われているのかもしれない。



 その後、当社は嘉吉2年(1442)火災に遭ったという。この火災は単なる失火ではないだろう。当時社は山頂にあり、荒戸山そのものが山城であったので、戦火が交わったとしても不思議でない。それを裏付ける出来事としては、前年の6月24日、赤松満祐が、時の将軍足利義教を暗殺(嘉吉の乱)し、9月この満祐らを追討すべく、主だった西国の諸将が播磨を目指して参陣している。そうした混乱に起因したものだろう。
【写真左】荒戸神社下山途中の道から阿瀬尾城を見る。
 黄色の線で囲んだ箇所が阿瀬尾城になるが、冬以外の時期では樹木に覆われて見えないかもしれない。

 

 そしてこの嘉吉の乱に参陣した西国の武将の中には、石見鷲影城主となっていた頼貞の嫡男・頼之とその子・頼久らがいた。

 次稿ではこの頼之・頼久の動きを追って見たい。