2015年9月28日月曜日

安芸・障子嶽城(広島県東広島市河内町宇山)

安芸・障子嶽城(あき・しょうじがたけじょう)

●所在地 広島県東広島市河内町宇山
●別名 嶽ヶ城山・高城山
●高さ 556m(比高200m)
●築城期 文永年間(1264~74)又は、南北朝期か
●築城者 上山氏か
●城主 不明
●遺構 郭・土塁・堀切等
●登城日 2015年3月2日

◆解説(参考資料 石井進著「中世武士団」講談社編、サイト『城郭放浪記』等)
 安芸・障子ヶ嶽城(以下「障子ヶ嶽城」とする)は、旧賀茂郡河内町(こうちちょう)宇山にある城砦で、当地は2005年に現在の東広島市に編入されている。
 河内町地区を横に横断している川が沼田川だが、この川を下っていくと以前紹介した小早川氏の居城であった高山城及び新高山城にたどり着く。
【写真左】障子ヶ岳城遠望
 南麓部から見たもので、登城道は写真中央の道を車で暫く進む。







 障子ヶ岳城は別名嶽ヶ城とも呼ばれているが、所在するこの場所には当城の他、添付地図にもあるように、西から小高城、くもん城、下高城、狐城、鶴ヶ城、田屋城、実宗城、桧谷城、といった中小の山城も記録されている。
【写真左】案内図・その1
 現地には「宇山村づくり協議会」という団体が作成した案内図が設置されている。

 この図でいえば、左側に「城山」と記入された場所が障子ヶ岳城となる。
【写真左】案内図・その2
 これも現地に設置されている案内図だが、主として山城を含めた史跡の案内図となっている。

 この中には障子ヶ岳城の支城とおもわれる諸城の位置も書かれている。



現地の説明板より

障子嶽城跡(通称城山)

 障子嶽城跡は宇山の北側にそびえる標高556m、比高200mの山で、嶽ヶ城山・高城山とも言われますが、地域の人は「城山」と呼び親しんでいます。
 山城としての遺構がよく残っており、本丸跡には土塁があり、本丸のまわりには何段かの郭と空堀が見られます。

 誰が城主であったかは明らかでありませんが、南北朝時代の上山氏の第二の城ではないかと推測されています。
 頂上には桜が植えられて、春には山腹の山桜とともに美しく山を彩っています。
                 (郷土史研究会)”
【写真左】南麓部に設置された案内標識
 この近くには、旧宇山小学校や、隣接してそば打ち道場「さわやか茶屋」という施設などがあるが、おそらくこの辺りが城主宇山氏らが平時生活していた中心地だったと思われる。

 なお、写真の右側にある道を進んで行くと、障子ヶ岳城の登城口に繋がるが、この道はもう一つの東方に聳える竜王社が祀られている竜王山への道でもある。



上山(宇山)氏

 障子ヶ岳城の城主とされている上山氏は、新荘小早川氏から分かれた一族といわれている。小早川氏についてはこれまで安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1などでも紹介してきているが、障子ヶ岳城主上山氏については、椋梨城(広島県三原市大和町椋梨)で紹介しているように、土肥実平の曾孫すなわち4代茂平の弟・季平が沼田新荘を統治したときに始まる。
【写真左】登城開始
 峠のピーク辺りに登城口があり標識も設置されている。ただ、この位置は幅員があまりないので、車はここから少し下がったところの広い個所に停める。


 このとき、支配された地域が椋梨・和木・大草・小田、そして今稿の上山(宇山)である。 

 従って、上山(宇山)氏の始祖となった武将の名は不明だが、近接している小田城(広島県東広島市河内町小田)の築城者が季平の次男・三郎左衛門信平といわれているので、信平の兄弟であったと考えられる。そしてその時期も、小田城築城期とほぼ変わらない文永年間(1264~74)と推定される。
【写真左】最初のピーク
 この道が当時からの大手道だったかどうか分からないが、一旦小高いピークに出くわす。
 地元の方によって定期的に清掃されているようで、歩きやすい。



第一の城・第二の城

  現地の説明板では、当城・障子ヶ岳城は上山氏の「第二の城」ではないかと記されている。では「第一の城」というのがあるはずだが、これは後段で紹介している「田屋城」と思われる。

 この城については、登城口まで向かったが、看板はあるものの、踏み込む場所の標識がなく、登城口が分からず断念している。
 参考までに当城の麓の写真(下段の写真参照)。なお詳細は、サイト『城郭放浪記』氏が既に登城されているので、こちらをご覧いただきたい。
【写真左】分岐点
 右奥から進んでくると、途中で北側から別の道と合流する。
 この道はあとで下山するときに使ったが、最近新たに敷設された道のようだ。
 この先からしばらく改修(新設か)された道を進むことになる。
【写真左】郭
 「郭」の標識が設置してある。ただ、おそらくこの付近は郭段としての遺構であったのだろうが、道を拡張整備した関係からその面影がほとんど消滅している。


【写真左】本丸直下
 ご覧の通り広い削平地となっているが、結局さきほどの分岐点から伸びた道がここまで繋がり、四駆の軽トラックもしくはSUV車でも通れるようにした道を新たに敷設したということなのだろう。
 駐車できるほどの空き地が確保されているが、地元の人でないとこの道を車で向かうには傾斜がかなりきついためお勧めできない。
【写真左】空堀
 上記空き地の左側には空堀が見える。本丸の東側から南側にかけて巡らされているようだ。
 このあと本丸に向かって進む。
【写真左】本丸に向かう階段
 最近この階段の補修があったようで、「2013年11月24日」と刻銘された文字が階段の踏み面にのこしてあった。
【写真左】腰郭
 本丸の下には凡そ幅4m×奥行6m程度の腰郭があり、そこから約4mほどの高さで本丸が築かれている。
 なお、この腰郭から本丸を囲繞する帯郭が繋がっているようだ。
 本丸の切崖が見えているが、以外と高低差があるため、階段が設置されている。
【写真左】本丸
 北東から南西に延びる尾根頂部を利用した遺構で、全体に細長い円形の形状をなす。
 およそ長径40m×短径15mの規模。
【写真左】土塁
 本丸の周囲には高さ1m前後の土塁が囲繞する。
【写真左】切崖
 本丸の南斜面にあたるが、この付近は傾斜がかなりあり、比高は10m前後はあるだろう。


【写真左】本丸に立つ標柱
 本丸はほぼ東西に伸びる形状で、北側が少し低い段の構成となっている。
【写真左】礎石
 本丸の一角にはまとまった礎石群が見える。元からあった大岩を中心に後から人為的に石列のような形で施工されたような遺構に見える。
【写真左】本丸から北西方面を俯瞰する。
 本丸からの眺望は360度の視界が確保されている。
 写真は西側の福富町方面。
【写真左】南麓を見る。
 登城口側に当たり、中央の白い建物が旧宇山小学校の校舎で、そば茶屋となっている。
 向背の山を越えると、沼田川が流れている。
【写真左】板鍋山
 管理人はこの山に登ったことはないが、標高757mの山でハイキング登山の山として親しまれている。






田屋城

 前記したように、障子ヶ岳城の近くには多くの小規模な山城があるが、そのうちの田屋城を紹介しておきたい。
 当城は障子ヶ岳城の東方約約1.5キロ向かった東宇山地区にあり、山城というより丘城といった方がよさそうな城砦である。
 標高は360m余りだが、ご覧の通り周辺部には集落がとりまき、比高は50mほどの高さを持つ。想像だが、上山氏の平時の住まいがこの田屋城で、詰の城が障子ヶ岳城ではなかったかと考えられる。
【写真左】田屋城遠望
 北側から見たもの。
【写真左】登山口の標識
 この日ここまできたものの、矢印が示している方向では要領を得ないことや、どこを見ても藪コギの登城が予想されたため断念した。

 なお、この場所からは田屋城と併せ、実宗城も100m先にあると記されている。


 説明板によれば、本丸と思われるところの北側に土塁があり、五輪塔があるとされている、そしてこの五輪塔が上山氏の墓といわれている。

2015年9月19日土曜日

瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)

瑞応寺(ずいおうじ)

●所在地 鳥取県西伯郡伯耆町吉定304
●開創 大永6年(1526)3月
●開基 別所就治
●備考 護身仏十一面観音像
●参拝 2015年8月15日 

瑞仙寺(ずいせんじ)

●所在地 鳥取県米子市日下
●開創 天仁元年(1108)
●開基 源義親家来
●備考 土豪真野氏、山名氏、尼子氏、毛利氏
●参拝 2015年8月15日

◆解説(参考文献『岸本町史』、『鳥取県史ブックレット4 尼子氏と戦国時代の鳥取』(鳥取県立公文書館 県史編さん室編)等)

 三木城(兵庫県三木市上の丸)の稿でも少し触れたが、伯耆国(鳥取県)の日野川沿いには三木城主であった別所氏一族に関わりのある場所がある。このことについてはすでに、同国にあった岸本要害(鳥取県西伯郡伯耆町岸本)でもとりあげているが、今稿ではこれとは別に、別所氏が直接もしくは間接的に関わったと考えられる二つの寺院を取り上げておきたい。
【写真左】瑞応寺
 境内入口には「諾量山 瑞應寺」と刻銘された石碑が建つ。








瑞応寺

 瑞応寺は鳥取県西部を流れる日野川の右岸にある現在の伯耆町吉定という場所にあって、その北には日野川の支流・別所川が流れている。
 当寺の縁起によれば、大永6年(1526)3月、別所就治(なるはる)、すなわち長治の祖父が開いたとされる。そして、当院に収蔵されている護身仏十一面観音像は、長治が終生肌身離さず所持していたものといわれ、三木城落城の際、長治の従兄弟・別所左近忠治が長治から受け取り、密かに当地瑞応寺に持ってきたものといわれている。
【写真左】本堂
 本堂は近年改修されたらしく新しい佇まいを見せている。









 なお、近くにある岸本要害の築城については、北方にあった尾高城(鳥取県米子市尾高)の砦として築城されたという説のほかに、三木城落城後、別所一族が当地に逃れたあと築城したという説も残っている。
【写真左】赤松氏の家紋
 本堂の峰瓦には左右に別々の家紋を模ったものが見える。

 写真は左側にある「二引両に左三つ巴 五七桐」で赤松氏の家紋。
 また、右側に別の家紋も見えたが、こちらは源氏系の竜胆車(りんどうぐるま)のようだ。


別所氏の出自

 ところで、前稿別所長治首塚(兵庫県三木市上の丸町9-4 雲龍寺)でも少し述べているが、通説では別所氏は赤松氏の庶流といわれているが定かでない。
 同稿でも別所氏の簡単な系譜を紹介しているが、改めてこのことについて考察してみたい。

                   《 別所氏系譜 》
 別所祐則 ? ~ ? 
    ⇓
   則治 ?~1513年
           赤松政則の重臣として唐突に現れ、東播磨の守護代となる。
    ⇓
   則定 ? ~ ?   
    ⇓
   就治 1502~63年
            別名・村治又は重治とも呼ばれ、則治の孫又は子とされる。
    ⇓      就治の子 : 安治(長勝)・重宗(重棟)・吉親(賀相)

   安治 1532~70年
    ⇓
   長治 1558(異説あり)~80年
 
 この中で、最初に注目されるのは、長治の祖父・就治(なるはる)である。就治は『鳥取藩史社寺調』によれば、大永6年(1526)3月に、この瑞応寺を建立していることが知られる。ただ、その後の記録がなく、6年後の天文2年(1532)再び当院にあったとされている。
 就治についての詳細な記録はないため、その動静を推測する方法としては、上掲した彼の「別名」を一つの手がかりとすることができる。

 就治は時期は不明だが、途中で「村治」とも名乗っている。この「村」というのは主君であった赤松義村から偏諱を受けたものだろう。置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その2でも述べたように、浦上則宗の孫・村宗が、主君であった赤松義村と不和になり、義村は永正16年(1519)浦上氏の居城三石城を攻めたが撃退され、その後義村は弑逆され、浦上氏は東備前と西播磨を領有することになる。
【写真左】境内から西方を俯瞰する。
 瑞応寺の西麓には日野川が流れ、その手前にはJR伯備線が走っている。

 なお、写真の右側には日野川の支流別所川が東方にある大山(だいせん)の谷間から流れてきており、その地区は「口別所」といわれている。


 就治が大永6年(1526)3月に瑞応寺を建立しているが、このことから主君赤松義村が浦上氏に敗れた7年後、当地伯耆に赴いたということになる。

 では、なぜ別所氏が当地(伯耆国)と関わっていたのだろうか。それを確かめるためには、就治以前の代までさかのぼる必要があるだろう。

 しかし、そもそも伯耆国には、中世文書は極めて少ない。そこでその一助となるのか分からないが、瑞応寺に近接する現在の米子市日下にある瑞仙寺の文書を一つの手がかりとして推考してみたい。


瑞仙寺

 瑞仙寺は、最初に紹介した伯耆町の瑞応寺から北へ約4キロほど向かった米子市日下に所在する古刹である。
【写真左】瑞仙寺
 米子市から岡山方面に向かう際、管理人は度々米子道を利用するが、そのとき車中から左側に常に見えていた寺院で、それまではまったく気にも留めていなかった。

 今回、別所氏について調べていたらこの寺院が関係してたことに少なからず驚いた。


 先ず、当院の現地の説明板より『瑞仙寺文書』のあらましを紹介しておきたい。

"米子市指定有形文化財
 瑞仙寺文書

 曹洞宗久坂山瑞仙寺は、天仁元年(1108)平正盛に討ち取られた源義親の菩提をとむらうため、二人の家来が出家して建立したのがはじまりであると伝えられるが、土豪真野氏らによって守られ、15世紀半ばごろ山名氏が現在地に移した。

 ここに保存されている永享11年(1439)の山名教之書下(かきさげ)ほか30通の中世文書は、この地方を支配した山名氏・尼子氏・毛利氏等による寺領寄進や寺領保証関係のものである。
 中世文書のはなはだ少ない鳥取県内では、15世紀から17世紀にかけての西伯耆政治史研究上貴重な資料である。

 №44 米子市”
【写真左】山名教之書下
 瑞仙寺には説明板にもあるように中世文書が30通以上もあるという。
 このうち山名氏関係文書がどの程度あるのか管理人は分からないが、写真の教之以外には、永正18年1月24日付の山名澄之寄進状もある。
 以下、尼子氏・毛利氏(杉原氏)のものも紹介しておく。
【写真左】尼子勝久安堵状
【写真左】杉原盛重寄進状
 








 
伯耆守護山名氏

 南北朝期から室町期にかけて伯耆国を名目上支配していたのは守護職であった山名氏である。最初に当地を支配したのが以前にも紹介したように山名時氏の子・師義である。

 上掲した瑞泉寺文書に記録されている山名教之は、師義から数えて4代目となるが、このころ伯耆国内では地域ごとに守護代をおいて支配を強めていた。主だった守護代としては、南条氏・小鴨氏・進氏などである。
【写真左】入口付近に建つ「瑞仙寺文書」の標柱
 側面には
寺領寄進状、安堵状、諸役免許状など中世文書31通。山名、尼子、毛利等支配者の移り変わりを知ることができる。
 と書かれている。



 応仁元年(1467)5月、細川勝元率いる東軍と、山名宗全(持豊)らの西軍が京の都で激突した。応仁の乱の始まりである。教之もこの戦いで、小鴨氏ら伯耆国人を従えて京に上り、宗全側の西軍として参戦した。

 この大乱はその後地方にも拡大し、翌応仁2年出雲と伯耆の国境を巡って激しい戦いが繰り広げられた。当初出雲国側では月山富田城を本拠とする尼子清貞と、中海沿岸部を支配していた十神山城主・松田氏との戦いであったが、その後伯耆国側から山名六郎が松田氏を支援し、尼子軍と戦火を交えた。この六郎は山名教之の孫・政之とされている。
【写真左】奉納幕
 瑞応寺と同じく、ここにも赤松氏の家紋と、竜胆車の家紋が掲げられている。






 これらの戦いは、いずれも尼子氏の勝利となり、この結果、松田氏が所有していた特に中海・美保関の海上権益を尼子氏がこのとき手中に収め、以後尼子氏の飛躍の一因ともなっていく。

 ところで、尼子氏との戦いごろから教之は、次期守護職を長男・豊之に譲っている。教之の子には、豊之をはじめ、次男・豊氏、三男・之弘、そして四男には元之がいた。このころ、その中の四男・元之は密かに尼子氏と手を結ぶなど伯耆山名氏の結束力は足元から揺らぎ始めていた。

 そうした中、文明3年(1471)9月、新守護職となったばかりの豊之は、伯耆由良嶋(現北栄町)で殺害された。豊之の死因は「賊臣」の手によるもの、すなわち山名家の内訌によるものといわれている。このため、こうした伯耆国内における山名家中の騒動を鎮圧すべく、翌4年(1472)、京にあった前守護山名教之が伯耆へ下向した。しかし、すでに高齢であった教之は翌5年(1473)2月13日、家中を収拾できないまま没した。
【写真左】本堂
 山号は「久坂山」という。
 現在は禅宗系の寺院のようだ。








 その後、伯耆守護は豊之の子・政之が跡を継いだが、依然として叔父の元之との対立が続き、元之はその後尼子氏や、伯耆守護代であった東部に本拠を持つ南条氏とも手を結び、さらには当時播磨・美作の守護であった赤松政則置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1参照)の支援も受けていた。
 これに対し政之は、山名氏惣領であった但馬の守護山名政豊及びその家臣・垣屋氏などが与同していた。

 文明12年(1480)8月12日、守護方の垣屋軍は元之が籠る丸山城(円山城)(伯耆町丸山)を攻撃、その2日後には和田山(倉吉市和田附近か)を攻めた立てた。この結果守護軍はいずれも勝利し、元之らは美作国境に近い竹田(東伯郡三朝町上・下西谷付近)に逃れた。

 さらに1ヶ月後には西伯耆の法勝寺城(鳥取県西伯郡南部町法勝寺)や久坂城(瑞仙寺付近と思われる)も攻めたて、いずれも守護軍(政之)らが勝利を収めている。このように、反守護軍は殆どの戦いで敗れたものの、一旦国外に逃れたのち、再び尼子氏と与同して同国は動乱を迎えることになる。
【写真左】古墓
 当院墓所の片隅には古墓がまとめられた箇所があるが、そこに五輪塔と宝篋印塔が混在したような古墓が見えた。






反守護勢力山名元之別所氏

 さて、大分前置きが長くなったが、前段で紹介したように、《別所氏系譜》の中で別所則治が「赤松政則の重臣として唐突に現れ、東播磨の守護代となる」と記している。
 そこで、これまで述べたような記録を辿っていくと、伯耆にあった別所氏は、同国の反守護勢力であった元之が、当時の播磨・美作の守護であった赤松政則との接点をもったことから、姿を現したのではないかと推察される。

 そして、当時の伯耆国の状況を考えると、別所氏(則治)は、元々反守護勢力であった山名元之の家臣ではなかったのかとも思えてくる。因みに、則治の孫又は子とされる村治(就治)は、前述したように、主君・赤松義村から偏諱を受けているが、この義村の養父が赤松政則である。

源義親

 ところで、瑞仙寺の縁起の中で、当院を建立した人物が源義親の家臣であったとされている。義親については、源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)及び、鶴ヶ城跡(島根県出雲市多伎町口田儀清武山)でも紹介しているが、主君亡き後、二人の家臣は出雲から隣国・伯耆へ逃れてきたということなのだろう。