2015年8月9日日曜日

竹中半兵衛の墓(兵庫県三木市平井)

竹中半兵衛の墓(たけなかはんべいのはか)

●所在地 兵庫県三木市平井
●探訪日 2014年11月21日


◆解説
 前稿秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡でとりあげた平井山の西麓には、黒田官兵衛と同じく秀吉に仕えた名軍師竹中半兵衛の墓が祀られている。
【写真左】竹中半兵衛の墓・その1
 宝篋印塔又は五輪塔型式の墓石ではないことから、後年建立されたものだろう。






現地の説明板より

“竹中半兵衛の墓

 一世の軍略兵法家として知られた竹中半兵衛重治は、初め斉藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地に転戦し、殊勲を立てました。

 しかし、三木城攻防戦がたけなわの頃、平井山の陣中に胸を病み、一時は京都に移って療養していましたが、固着した戦況を心配しこの地に帰ってきました。
 けれども、病魔には勝てず天正7年6月13日、36歳の若さをもって永歿しました。臨終の時、秀吉に対して将来の「天下人」と予言し息を引き取りました。
 秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体にとりすがったといわれます。”
【写真左】墓所の前付近
 半兵衛の墓は、秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡の西側に祀られている。






竹中重治

 昨年放送された大河ドラマ「軍師 官兵衛」で登場した竹中半兵衛。華奢で繊細、まるで女性のような姿であったといわれている。
 大河ドラマでは、半兵衛を演じたのは谷原章介氏だったが、知的な面を併せ持ち、よくハマっていた。章介氏は以前から思っていたが、その容姿、立ち振る舞いなどからしてこうした役や、平安期の公家・公卿などがよく似合う俳優さんだ。
【写真左】竹中半兵衛の墓・その2
 地元の方々によって墓守りをされているようで、この日もきれいな花が飾ってあった。





 さて、竹中半兵衛は本名竹中重治といい、美濃国、現在の岐阜県大野町にある大御堂城という平城で天文13年(1544)9月11日に生まれている。のちに出会う黒田官兵衛が、天文15年(1546)に生まれているので、官兵衛より2歳年上となる。

 半兵衛の才能を最初に見出したのは信長といわれている。当時仕えていた暗愚の主君・斉藤龍興の居城・稲葉山城(のちの岐阜城)を奪取した半兵衛は、その後、信長がこの城を譲るように要求したものの、頑なに拒絶、その後再び龍興に返還している。

 その後、半兵衛は自らの意志で栗原山(城)に蟄居している。資料によっては、この頃既に信長から誘いを受けていたというのもあるが、実際に仕え始めたのは、主君であった斉藤氏が滅亡した永禄10年(1567)後といわれている。そして、半兵衛は信長直参の家臣ではなく、秀吉に仕えることを自ら申出ている。
【写真左】竹中半兵衛の墓・その3












 秀吉の家臣となって全幅の信頼を受けたことを最も示す記録は、姉川の戦い(姉川古戦場跡(滋賀県長浜市三田町・野村町)参照)のときである。この戦いで秀吉が本陣しとしていたのが、近江・横山城(滋賀県長浜市堀部町・石田町)であるが、秀吉は当城を留守にすることが多く、殆ど半兵衛に任せていた。

 横山城は当時浅井氏の持城であったが、織田方(秀吉)に奪われ、そのあとに当時木下藤吉郎と名乗っていた秀吉が城番を務めることになった。半兵衛は当城において常に戦況を見定めながら、適格な作戦を立てていたものと思われる。
【写真左】竹中半兵衛重治公墓詩
 墓所には江戸時代後期(天保年間)、当地を訪れた儒者・山田翠雨(やまだすいう)が、半兵衛の遺徳を偲びここに詩を残した。



両兵衛

 さて、半兵衛の軍師としての評価はこれまで多く語られてきたので、ここでは割愛するが、前記したように、のちに黒田官兵衛が半兵衛と出合い、半兵衛がいわば師匠となって官兵衛の資質を更に伸ばすことになる。そして、二人はその名前から「両兵衛」とも呼ばれ、秀吉の懐刀となった。

 二人はその後強い絆で信頼を深めていくが、特にそれを証明したのが天正6年における荒木村重の謀反のときのことである。

 説得に向かった官兵衛が、逆に村重に捕らわれ幽閉された際、信長は官兵衛が裏切ったものとし、秀吉に人質として預けていた官兵衛の息子・松寿丸(後の長政)の処刑を命じた。秀吉は処置に困ったが、ここで半兵衛が機転を利かし密かに松寿丸を匿った。翌天正7年10月、有岡城は落城し官兵衛も助け出され、松寿丸も父・官兵衛のもとに返された。

 有岡城の戦いで、信長はもとより、秀吉自身もおそらく官兵衛が裏切ったと思っていた状況下である。信長の命に逆らい、自らの所領地であった岩手城(美濃国)に松寿丸を匿うことは、一つ間違えれば、自身の命にも拘わることになる。

 半兵衛が如何に官兵衛に対して全幅の信頼を寄せていたか、このことからもうかがえる。また、後に成人した黒田長政は、このことについて最後まで半兵衛への感謝を忘れなかったという。

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