2015年8月14日金曜日

別所長治首塚(兵庫県三木市上の丸町9-4 雲龍寺)

別所長治首塚(べっしょながはる くびづか)

●所在地 兵庫県三木市上の丸町9-4 雲龍寺
●参拝日 2014年11月22日

◆解説
 以前紹介した三木城(兵庫県三木市上の丸)の南側にある雲龍寺には、三木合戦で自刃した別所長治の墓が祀られている。
【写真左】別所長治首塚
 現在は五輪塔が建立されている。











現地の説明板より

“由緒の記

 羽柴秀吉の軍勢を迎えうつこと1年10ヶ月、天正8年正月17日申の刻、三木城主別所長治公は将兵、領民の身がわりとなり、一族とともに自刃、その壮烈なる最期は武士の鑑みとして永く語り継がれ、その遺徳は正に永遠にして不滅であります。
【写真左】長治の首塚が祀られている雲龍寺と三木城の配置図
 雲龍寺は二ノ丸の南側にあって、東には「鷹の尾」という物見櫓が配されている。
 下段にも紹介しているように、三木城が築城される以前に既に当院が創建されていた。









 昭和17年、帝国在郷軍人会三木分会によって当首塚の補修が為され、さらに昭和48年3月、別所公奉賛会はさきに三木城再建の構想趣意に賛同され寄進された浄財と首塚修復に当たり寄せられた市民有志の浄財を以て茲に玉垣を建立、併せて照子夫人の霊を合祀いたしました。

 これは実に公の遺徳を偲ぶ三木市民の強い心のあらわれでありまして茲にその由緒を刻み、永くこれを顕彰するものであります。

 昭和48年3月25日
     別所公 奉賛会”
【写真左】雲龍寺山門
 入口の左右にはそれぞれ、
「三木釜山城主 別所則治公中興開基 雲龍寺」
と刻まれた石碑と、
「村上天皇勅願所 後醍醐天皇御下賜 高源山」
の石碑がそれぞれ建立されている。



別所長治

 別所氏は守護大名・赤松氏の庶流といわれているが詳細ははっきりしない。しかし、赤松円心(則村)の孫、すなわち円心の子・則祐の三男・持則の代になって、別所氏の名跡を継いだとされている。

 その後、嘉吉の乱によって赤松氏が衰退すると、別所氏も同じ運命を辿ることになる。応仁の乱が勃発すると、赤松氏も勢力を回復、これに合わせるように別所氏も再び歴史の表舞台に登場することになる(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1参照)。
【写真左】雲龍寺境内
 左側が本堂で、長治公首塚は右側にある。










 このとき別所氏は則治の代となり、三木城を築城したとされる。このころ、別所氏は三木城を本城とし、支城の一つとして築いたのが、以前紹介した端谷城(兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺)などである。

 さて、三木城を本拠とした別所氏はその後次のような代を重ねた。
  1. 則治               ?~    1513年
  2. 就治(則治の孫とも)      1502~1563年
  3. 安治               1532~1570年
  4. 長治              1558~1580年
 長治の父は元亀元年(1570)に死去するが、長治が父から家督を継いだとき、若年だった長治の後見人として、安治の二人の弟(吉親(賀相)・重宗(棟))が務めた。

 信長・秀吉による西国征途の際、長治は早い段階で信長に恭順を示していたが、後見人である二人の叔父のうち、吉親は秀吉と衝突、これに対し、重宗は一貫して信長に与すべきとして別所一族内で対立。
 このため、重宗は自ら三木城を退城し、浪人となった。その後天正13年(1585)秀吉の傘下に入り、但馬国に1万5千石を与えられ、八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)の城主となっている。
【写真左】雲龍寺周辺図
 別所長治夫婦墓・首塚の右奥は、もとの濠があったところで、当院も三木合戦の際、郭・陣地として使用されたものだろう。








 ところで、長治がなぜ途中から反信長・秀吉へと変わったのだろうか。

 様々な説がいわれているが、その理由として挙げられるのが、秀吉による上月城攻めがあまりにも常軌を逸した残虐な行為であったこと、また、前述したように、別所氏も元は西播磨の領主であった上月城主と同じく赤松氏庶流であったこと、さらには長治の妻が波多野秀治(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)の女であり、秀治が天正3年(1576)1月の段階で反旗を翻していたことなどが挙げられる。

雲龍寺

 三木城内には雲龍寺という寺院があり、この一角に本稿で紹介した別所長治の首塚が祀られている。
【写真左】「別所長治公・照子夫人 首塚」とかかれた看板

【写真左】長治公・照子夫人の墓
 五輪塔形式の墓石で、昭和17年に補修されたもの。










現地の説明板より

“長治公と雲龍寺

雲龍寺(曹洞宗)
 天徳2年(958)に慈恵僧正の創建と伝えられているが、羽柴秀吉との三木合戦時には、三木城内にあったため、殿堂及び伽藍は焼失しました。

 天正8年(1580)1月17日、一族の最後を弔うために、雲龍寺7世の住職春泰禅師が、当時の三木城主別所長治公の自害の席に招かれたときに、長治公は後事を禅師に託し、日頃から愛用していた「天目茶碗」と「唐子遊びの軸」を形見として贈りました。
【写真左】外堀に使われていた石垣
 附近には、三木城の外堀に使用されていたという石垣が積んである。






 三木城開城後、領主杉原伯耆守は秀吉に上訴して寺院を再建しました。
 天正13年(1585)秀吉から境内山林竹木並びに30石の寄進状及び制札を賜り、以後代々の徳川将軍家より御朱印状を承りました。

 秀吉の兵糧攻めにあい、城内の藁まで食べたとの言い伝えにより、当寺では毎年1月17日に藁に見立てた〝うどん″を食べて当時を偲ぶ会が催されています。
【写真左】山門の外側
 この写真の先を進むと、本丸に向かうが、その手前で、右に二ノ丸、左に西の丸が控える。

 もっとも、大半は宅地などになっており、当時の面影は余り残っていない。


 この寺は古い歴史のある寺院で、明治維新までは公寺に属しており、特別な上位の寺でありました。

 その創建は村上天皇の勅命によるもので、天皇の勅願所でありましたが、廃絶すること久しく、その後、播磨、備前、美作の守護職であった時の豪族赤松円心入道則将が、古い寺伝を知り、深くこれを惜しんで朝廷に再建を奏請して、そのご聖慮に沿い、天皇より高源山の山号を賜りました。

 時は後醍醐天皇の元亨2年’(1322)で、天皇の祈願所となりました。のち、文明年間になって、時の城主別所加賀守就治が異忠禅師を招いて再建し、そのとき規模を一新して禅寺として開山した寺院であると伝えています。”

◎関連投稿
 瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)

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