2015年7月28日火曜日

端谷城(兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺)

端谷城(はしたにじょう)

●所在地 兵庫県神戸市西区櫨谷町寺谷 満福寺
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 衣笠氏
●高さ 140m(比高40m)
●形態 丘城
●遺構 郭・空堀・堀切等
●登城日 2014年11月22日

◆解説(参考文献 「端谷城 第1次発掘調査地元説明会資料 神戸市教育委会 文化財課 平成14年3月19日」、「HP 武家家伝 衣笠氏」等)

 兵庫県の東部明石市を流れる明石川の支流櫨谷川(はぜたにがわ)の中流域櫨谷寺谷は、隣接する福谷とともに歴史を持った地区である。中世には中村と呼ばれ、西国街道の要所でもあったされ、鎌倉時代から戦国期まで多くの戦場となった場所でもある。
 なお、当地は旧国名でいえば東播磨となるが、東隣の摂津国と接し、端谷城はいわゆる「境目の城」であったことも指摘できる。
【写真左】端谷城遠望
 南東麓から見たもの。
 当城は標高140m程の高さで、しかも比高は40m程である。

 現在はその麓に民家などが建っているが、下段でも示すように、明石川の支流櫨谷(はせたに)川が三方を囲み、濠の役目をしていたため、比高の低さの割に防御性がこれによって高められていたものと思われる。

 
現地の説明板より

“端谷城

 端谷城が築かれた詳細な時期は不明ですが、城主の衣笠氏は鎌倉時代の中頃には櫨谷の荘園を治めていたと考えられます。室町時代には、赤松氏に属し応仁の乱(1466~77)などで活躍し、その功により衣笠の姓を得たと伝えられています。
【写真左】端谷城などの配置図
 端谷城の東には川を挟んで、城ヶ市城があり、櫨谷川を下っていくと、南側に城ヶ谷砦、北側に福谷城などがあった。
 これらはいずれも端谷城の支城といわれている。



 その後は、福中城の間嶋氏(平野町福中)などと勢力を争い続け、勢力拡大に伴い櫨谷の谷筋に池谷城、福谷城、城ヶ市城、城ヶ谷砦など衣笠氏一族のものと考えられる城や砦を築いています。

 戦国期に入り、別所氏(三木城)が勢力を伸ばし、やがて東播磨の覇者となった時、端谷城もその支城の役割を果たすようになります。
【写真左】端谷城縄張図
 現地に設置された縄張図であるが、当時の状況を示したもの。色が大分劣化していたため、管理人によって修正している。
 南側の櫨谷川が当時の濠の役目をしており、それを超えると居館があり、この場所を大手口としている。そこからさらに北に向かって尾根伝いに登っていくと、三の丸があり、現在満福寺という寺院が建っている箇所である。
 ここからさらに尾根伝いに進み、堀切をこえて二ノ丸を抜け、さらにその奥に本丸が控えているが、この後背は馬蹄形に長大な空堀が配置されている。



 天正6年(1578)、羽柴秀吉の三木城攻めが開始され、当時の端谷城主衣笠範影は淡河城の淡河氏、福中城の間嶋氏らとともに別所方として活躍しましたが、三木城落城後の天正8年2月25日に落城し、廃城となりました。今日に残る遺構は、この時のものです。
【写真左】三の丸に向かう。
 写真の階段下に居館があったとされ、大手口となる。現在数軒の家が建ち並んでいるが、道路は狭い。
 比高の低さの割に、三の丸周辺部は切崖となっており要害性が高い。このため階段も急傾斜となっている。


 堀切によって丘陵の一部を切断するなどの大土木工事のすえ、急峻、堅固な城塞を築き上げた背景として櫨谷、東播磨全体が緊迫した状況にあったことが、残された遺構から読み取ることができます。

 櫨谷を守り続けた端谷城は、落城から400年以上たちましたが、市内で最も保存状態が良好な山城です。当時の櫨谷の状況を知ることのできる貴重な遺構で、歴史遺産として後世に守り伝えていかなければなりません。

   2000.8 寺谷里づくり協議会”
【写真左】三の丸・満福寺
 寺院となりその面影は殆ど消えているが、当時は二段で構成された郭だったとされている。
 この写真の奥を進むと本丸にたどり着く。
登城道は一旦境内からそれて右(東側)の脇から向かうようになっている。


衣笠氏

 衣笠氏は当城・端谷城の城主とされ、鎌倉時代の中頃にはすでに当地を支配していた一族とされている。
【写真左】衣笠範景公顕彰碑
 当城最後の城主といわれる範景(影)公の顕彰碑が境内脇に建立されている。






 衣笠氏の姓を名乗りだしたのは室町期に至ってからだが、もともと赤松氏の庶流別所氏の分流ともいわれ、赤松円心の弟円光の曾孫持則をその祖としている。円光といえば、黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)でも述べたように、その子・重光が黒田氏の始祖であるから、黒田官兵衛と衣笠氏はその系譜で繋がっていることになる。
 円光が活躍したのが播磨の北東部といわれているので、代を重ねるうちに東播磨にも及んで行ったのだろう。
【写真左】切崖縁の登城道
 庫裡(三の丸)の東端部に細い登城道が確保されているが、その右下はほぼ垂直の崖となっており、見ごたえ十分の切崖である。


三木合戦
 
 三木城(兵庫県三木市上の丸)でも述べたように、戦国期に至ると信長の西国征伐の一環として、家臣羽柴秀吉が東播磨攻めを開始する。いわゆる三木合戦と呼ばれるもので、天正6年(1578)4月より始まり、以後1年10か月にも及んだ。三木城が落城したのが、天正8年(1580)1月17日といわれ、城主別所長治は自害した。
 ところで、端谷城が落城したのは、同年2月25日とされているので、三木城落城から1ヶ月ほど持ち堪えていたということになる。
【写真左】空堀(堀切)
 三の丸(満福寺)をこえて少し登ると、左手に空堀が控えている。

 現地の説明板では堀切と書かれている箇所で、東西に約30m程伸びた遺構で、右側は途中で停止しているが、左(西)側の谷に向かって削り落としている。
 右(二ノ丸)との比高差は10m前後はあるだろう。見ごたえがある。


遺構及び出土品

 端谷城は小規模な城砦だが、遺構の保存度からいえばかなり良好な状態といえる。また、出土品の中で特に注目されるのは、鎧(甲・よろい)である。平成17年におこなわれた遺構調査などで判明したものだが、主だった郭跡にのこる建物内石敷面の北半部から出土している。
 特に、甲の「胴丸」と呼ばれていた個所のものが多く、着脱用の「押付板」は20枚も出てきている。
【写真左】三の丸から二ノ丸に向かう。
 東側に設置された犬走りだが、写真にもあるように右側には柵が設けられている。
 写真では分かりづらいが、ほぼ垂直の切崖となっているからである。
 このあと、左側にある二ノ丸に向かう。
【写真左】二ノ丸
 幅約25m×長さ約65mの規模をもち、当城の中で最大の面積を誇る郭。
 
 発掘調査では掘立柱の建物があった箇所。
【写真左】二ノ丸西の段
 二ノ丸の西側には南北にそれぞれ小さな郭が配されている。
 写真は南側のもの。

 この段では礎石建物が確認されている。
【写真左】二ノ丸先端部から櫨谷の集落を俯瞰する。
 写真の中央部に流れる川が櫨谷川で、この川は下って明石川と合流し明石海峡(播磨灘)に注ぐ。
【写真左】西の壇附近
 二ノ丸の北端部で、本丸の南西方向に伸びる尾根伝いに設置された郭群で、写真はそこに向かう入口点。
 ここからは瓦葺の礎石建物、及び柵や塀などが出土している。
 このあと、二ノ丸と本丸の境付近まで登り、本丸方面に向かう。
【写真左】左本丸、右二ノ丸
 左右の比高差は約2m前後で、傾斜はゆるやか。
【写真左】本丸・その1
 ほぼ最高所となる位置で約140m前後。
 北側には土塁が残るとしてあるが、大分磨耗していて余り高さがない。

 なお、この写真でも分かるように、この箇所の縁も柵がしてあるが、この箇所もほぼ垂直の切崖があり、その奥に長大な空堀が本丸を囲繞している。残念ながらこの箇所は整備されておらず、当日は向かっていないが、ここに向かうには、旧大手道の東側から藪コギ覚悟で進むしかないだろう。
【写真左】本丸・その2
 西側附近の箇所で、右側には物見台及び礎石建物があったといわれている。
【写真左】物見台
 実質当城の最高所であるが、この西側及び北側も絶壁となった切崖がある。







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淡河城(兵庫県神戸市北区淡河町淡河)

2015年7月19日日曜日

源頼政の墓・宇治平等院(京都府宇治市宇治蓮華116)

源頼政の墓・宇治平等院
      (みなもとのよりまさのはか・うじびょうどういん)

●所在地 京都府宇治市宇治蓮華116
●平等院創建 永承7年(1052)
●創建者 藤原頼道(関白)
●参拝 2015年7月12日

◆解説(参考文献「平等院パンフ」など)
 源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)ですでに紹介したように、頼政自身が討死したとされれる宇治平等院を先般探訪したので、紹介しておきたい。
【写真左】宇治平等院・鳳凰堂・その1
 参拝したこの日(7月12日)は日曜日で、観光客が多いことは予想していたが、それをはるかに上回る人出だった。

 しかも最も気温の上がった昼ごろだったため、当院内の観光客もいささかバテ気味の表情。

 因みに、観光客の半分以上は中国人ではないかと思うほど中国語が飛び交っていた。


現地の説明板より

源三位頼政公の墓 宝篋印塔

 源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請により、源氏として初めて従三位に叙せされました。歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残しています。
【写真左】源頼政の墓
 頼政の墓は鳳凰堂の裏にある不動堂の境内隅に祀られている。







 治承4年(1180)5月26日、平家追討の兵を挙げた頼政は、宇治川で平知盛軍の追撃を受け、平等院境内にて自刃しました(齢76歳)。

辞世
   埋もれ木の 花さくこともなかりしに
         身のなる果てぞ 悲しかりける”
【写真左】初代 太敬庵通圓の墓
 宇治橋の東岸に「通圓(つうえん)茶屋」という大変に古いお茶の店がある。
 この元祖は頼政の家臣であった古川右内という武士といわれている。

 頼政から「政」の字を賜り、太敬庵通園政久と名乗り、平治の乱直後、宇治橋の東詰に庵を結んだ。

 その後、通圓政久の末裔は、通圓(円)の姓を名乗り、宇治橋の橋守を仰せつかり、道行く人々に茶を差し上げてきたとされる。

 現在の通円祐介氏は、24代目となる。


宇治平等院

 永承7年(1052)3月28日、関白藤原頼道は父道長の別荘を寺院に改め、平等院と号した。この前年陸奥(東北)では、俘囚安倍頼時が反乱を起こし、朝廷から源頼義を陸奥守に任じて頼時反乱の追討を命じた。いわゆる「前9年の役」の始まりである(八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)参照)。
【写真左】宇治平等院・鳳凰堂・その2
 北側から見たもの










 そして、その翌年(天喜元年)3月4日、阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、「鳳凰堂」と呼ばれるようになった。今では平等院といえば、この「鳳凰堂」がその代名詞ともされている。
【写真左】宇治平等院・鳳凰堂・その3
 東側から見る。










以仁王 ・頼政の戦い

 さて、宇治平等院が建立されてから約120年後の平安末期となる治承年間、源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)でも紹介したように、平氏と源氏の戦いが始まることになる。

 説明板にもあるように、宇治川の戦では平知盛軍の勝利に終わるが、戦いのあとの8月17日、源頼朝が伊豆で、9月7日には信濃で源義仲が、その3日後には、甲斐の武田信義など源氏方の相次ぐ挙兵へと繋がっていくことになる。

 ところで、この戦いでもっとも有名なのが平家物語にも書かれているように、別名「橋合戦」といわれるものである。
 これは、宇治川を挟んで平氏方(平重衡・惟盛)と、源氏(以仁王 ・源頼政)が対峙し、守勢に回った頼政側は宇治橋を壊したため、のちに「橋合戦」と呼ばれた。

 探訪したこの日は蒸し暑く、宇治川の水量は予想以上の量で、宇治の街並散策の途中、中洲に足を運び、つかの間の清涼を味わったが、余りの人出に宇治橋の方には向かわなかった。
【写真左】宇治川・その1
 上流部を見る。











巨椋池(おぐらいけ)

 さて、宇治川の源流は御存じのように、琵琶湖である。平安時代この付近の地勢を見てみると、現在の宇治橋を境にその下流部には巨椋池という巨大な湖があった。そして、平等院が建立される時期とほぼ同じころにかけて、今の宇治地区に碁盤目状の街が形成され、京の都を模したような景観が形づくられたという。
【写真左】宇治川・その2
 中洲に渡り、対岸の宇治上神社方面を見る。









 巨椋池には宇治川、木津川及び桂川も注いでいたため、それまで数えきれないほどの洪水があったという。
 このため戦国時代に豊臣秀吉が三本の川のうち、宇治川を築堤工事によって切り離した(「太閤築堤」)が、被害はさらにひどくなり、結局明治時代になって淀川水系全体を見直した治水工事が始まり、戦後になってやっと干拓田を基本とした現在の景観が生まれることになる。

 おそらく、以仁王 ・頼政の戦いは、そうした宇治川・巨椋池を主戦場とした船戦(ふないくさ)であったと思われる。
【写真左】宇治川・その3
 中洲側から下流部を見たもので、左側に宇治橋が見える。










平氏軍の先鋒

 ところで、この戦で平氏方の指揮官であったのは、清盛の五男・重衡と、重盛の嫡男・惟盛(清盛の孫)だが、先陣を務めたのは下記の信濃武士である。

   氏名        出身地
 吉田安藤馬允     長野市吉田
 笠原平五       中野市笠原
 千(常)葉三郎    飯山市常盤
 
 信濃の国人といえば、木曽(源)義仲が思い浮かぶが、この段階では義仲は信濃をまとめておらず、木曽谷に身を隠していた。そして頼朝が伊豆で挙兵すると、これに呼応する動きを見せる。

 このため、平氏方の笠原平五と同族の笠原頼直は、義仲を襲撃する態勢を整えた。その後、義仲軍の村山義直や栗田範覚らが現在の長野市市原で平氏方と戦った。義仲はその後上野に入り味方を募り、再び信濃に入り、次第に地元勢力を結集、以後平氏方を次々と破り、寿永2年(1183)遂に入京を果たすことになる。

2015年7月6日月曜日

吾妻子の滝(広島県東広島市西条町御薗宇)

吾妻子の滝(あづまこのたき)

●所在地 広島県東広島市西条町御薗宇
●別名 東子の滝・千尋の滝
●落差 15m
●滝幅 35m
●水系 黒瀬川水系(三永水源地)
●探訪日 2015年6月27日等

◆解説(参考資料 「東広島てくてくマップ・黒瀬川散策 西条編」等)
 本稿は「山城」でないが、前稿安芸・二神山城(広島県東広島市西条町下見)で述べたように、菖蒲御前が京都から安芸に逃れて最初に立ち寄ったといわれる通称「吾妻子の滝」や、その他関連史跡を取り上げておきたい。
【写真左】吾妻子の滝・その1
 前日降った雨のせいか、少し濁った大量の水が流れ落ちる。







吾妻子の滝

 この場所は、二神山城から東へ約5キロほど向かった三永水源地の取水口となった箇所で、種若丸が亡くなったあと、悲嘆にくれた菖蒲御前が、この場所で石を重ね墓の印とし、親の手向け草として詠んだ箇所である。
【写真左】吾妻子の滝・その2
 左上部が上流部だが、この付近には基盤となる大岩が滝の豪快さを演出している。






現地の説明板より・その1

“吾妻子(あづまこ)の滝

 西条盆地を南流する黒瀬川にかかるこの滝は、呉市三永水源地の取水口が設けられ大きく形は変わっていますが、市内でも最大級の滝です。

 落ち口の幅36m、高さは現在15mを測ります。昭和初期までは雄滝(おだき)と雌滝(めだき)に分かれて流れていましたが、雄滝は現在水は流れておらず、今の滝はいわゆる雌滝に当たります。滝の基盤は花崗岩です。滝を境に下流は黒瀬川によって大きく浸食されていて、上流は平坦地が広がっています。これは、滝の岩盤によって浸食が食い止められていることを示していると思われます。
【写真左】観音堂
 滝の脇に突出した磐の上に建立されているもので、堂の中には、この場所で病没したといわれる菖蒲御前の遺児・種若丸の墓が納められている。

 墓の形式は宝篋印塔。



 平安時代末期、源三位頼政の妻菖蒲の前は、遺児とともに平氏の追手から逃げてこの滝のそばに隠れました。しかし、頼政の遺児は病死し、滝の傍らに葬られました。菖蒲の前の悲しみは深く

 吾妻子や   千尋(ちひろ)の滝のあればこそ  
    広き野原の   末をみるらん

 と詠んだと伝えられます。後に頼政の遺児の霊を祭るために石塔が建てられました。

   社団法人 東広島市観光協会”

 また。上掲した説明板とは別に橋の袂にも当該滝の由来が記載されている。
【写真左】上から見たもの。
 現在は滝の上部は堰が設けられ、滝の水系とは別に、分水して三永水源地に送る水門が左側にも見える。



“霊験記

 菖蒲の前の遺告により世の人小倉大明神と崇め遠くは、毛利元就・隆元は小倉大明神に祈願し原村槌山城の戦に平賀隆保に戦勝す 近くは昭和8年(2回)雨を戴く後雨乞の神変じて水源地となり、呉市民20余万の人々に潤をたれ 又今日に藤の花を咲かせ菖蒲の前の遺告通り世の人々を利益せしむ。
【写真左】「吾妻子の滝公園」
 この滝も含め、南岸側は公園化され「吾妻子の滝公園」となっている。







 種若丸が亡くなり失意の底にあった菖蒲御前は、その後御薗宇の寿福寺で男子を生み、豊丸と名付けた。これがのちの水戸新四郎頼興となる。
 前稿では、種若丸が新四郎となったとあるが、ここでは次子とされる。このことから、京から安芸賀茂郡へ逃亡中、すでに菖蒲御前の腹には頼政の二人目の子が宿っていたと思われる。
【写真左】白牡丹精米臼場跡の碑
 当地西条町は江戸時代から今日まで日本酒の製造が盛んである。

 石田三成の家臣であった島左近が、関ヶ原の戦で敗れると、その次男彦太郎忠正が母と共にこの安芸西条に逃れ、その孫六郎兵衛晴正が酒造業を興したといわれる。これがのちの名酒・白牡丹を生み出すことになる。
【写真左】白牡丹酒造の煙突
所在地:広島県東広島市西条本町15番5号
延宝3年(1675)創業。


 この場所は、落差と水量の多いことから大型の水車を廻して酒米を精米していた場所といわれている。


観現寺(かんげんじ)

 吾妻子の滝から黒瀬川を約2キロ余り上った所には、菖蒲御前開基とされる観現寺がある。
 当院境内には、史跡の宝篋印塔があるが、これが、菖蒲御前母子を警固してきた猪早太の墓といわれている。

●所在地 東広島市西条町御薗宇
●開基 菖蒲御前(西妙尼)
●山号 勝谷山
●宗派 真言宗御室派
●文化財 宝篋印塔、厨子他
●参拝日 2015年6月27日
【写真左】観現寺山門
 右側の石碑には、真言宗御室派 勝谷山 観現寺と刻銘されている。
 山門は最近新しくなったようだ。





 建久2年(1191)、すなわち頼朝が征夷大将軍になる前年だが、賀茂郡に落ち延びていた菖蒲御前は後鳥羽院から当地一円を賜った。
 後鳥羽院、のちに上皇となって北条執権体制の鎌倉幕府を倒そうとした天皇である。ただ、帝はこのときまだ11歳前後で、この年関白となった九条兼実(白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)参照)が事実上の権力者であったことを考えると、兼実の意向が相当働いていたものと思われる。
【写真左】境内
 右側に山門があるが、その右に土手を介して黒瀬川が流れている。








現地の説明板より・その1

“広島県重要文化財 観現寺厨子
    平成4年(1992)10月29日指定

 観現寺は、源頼政の妻、菖蒲前(西妙尼)の開基と伝えられています。現在の本堂は寛政6年(1794)の再建ですが、堂内に安置されている厨子は、建築様式から15世紀のものと考えられます。厨子とは、仏像や経巻を入れておく箱型の容器のことで、この厨子の中に仏像が安置されています。
【写真左】護摩堂
 本尊 不動明王 弘法大師
 また、源三位頼政、あやめの前(菖蒲御前)も祀られている。


 厨子の大きさは、高さが約89cm、幅が約49cmです。建築様式は正面の蟇股(かえるまた)を除いて唐様で、柱の下に礎盤という材や、板と桟で組んだ桟唐戸(さんからと)という戸を使ったりしています。蟇股というのは、和様という建築様式で用いられる部材で、この蟇股は左右の脚を別材で作っている古式なものです。
 また厨子の上部には、如意頭という飾りがついています。中世の建築が少ない安芸国(広島県西部)では、貴重な文化財です。
   平成5年(1993)3月31日
   東広島市教育委員会”


猪隼大宝篋印塔

 境内脇の小高い墓地付近には猪隼人の墓といわれる宝篋印塔が祀られている。
 猪隼大は猪早太とも書かれているが、勝屋右京と名乗り、当院を維持すべく努めたという。建保4年(1216)に亡くなったといわれている。
【写真左】猪隼大の墓・その1
 境内の一角に祀られているもので、少し小高いところにある。







現地の説明板より

“市史跡  宝篋印塔
    昭和53年(1978)11月15日指定

 この宝篋印塔は、江戸時代の歴史書の芸藩通志よると、碣面(けつめん)に梵字、左に勝屋右京墓、右に建保四丙子(ひのえね)年(1217)7月8日と刻んでいるとあるが、現在は判読できない。
 現存高約1m、最大幅34cmの規模で、塔身と笠の組合せは若干異なるようである。笠や基礎の特徴から鎌倉時代後半期のものと思われる。
【写真左】猪隼大の墓・その2
 中央に宝篋印塔があり、その左右には大小の五輪塔も隣接している。
 また、このほか周辺部にも小さな五輪塔群が建立されている。



 勝屋右京は、もと猪隼太(いのはやた)といい、源頼政の家人で、治承4年(1180)に頼政が宇治で敗死後、その妻菖蒲前に従って下原村(現、西条町御薗宇)に移り住みこの地の名をとって勝屋四郎兵衛と改めたといわれる人物である。
 この宝篋印塔の他にも当地には菖蒲前にまつわる伝説が数多く残されている。”
【写真左】猪隼大の一石供養塔
 「勝谷右京八百回御遠忌ノ砌奉建立」と刻銘された一石供養塔も隣接している。

 従って、おそらく最近供養されたものと思われる。


福成寺(ふくじょうじ)

●所在地 東広島市西条町下三永
●開基 奈良時代
●宗派 真言宗 
●山号 表白山 九品院
●参拝日 2010年11月1日

 福成寺は、吾妻子の滝からおよそ5キロ余り南東へむかった西条町三永にある古刹である。
 菖蒲御前は賀茂一円を賜ったのち、当地下原村を「御薗宇」と改めたが、その後菩提寺として三永にある福成寺を再建したという。
【写真左】福成寺
 参拝日 2010年11月1日











 当院を訪れたのは4年前で、目的は戦国期の天正年間、伊予の河野通直が土佐の長宗我部の攻撃を受けたため、毛利輝元に救いの手を求めるため会見した寺であったことから探訪している。
 南北朝期には南朝方の拠点でもあったといわれている。

 この寺は奈良時代の神亀3年(726)の開基で、当時は福納寺と呼ばれていた。その後平安時代の寛仁年間(1017~21)に現在地に移転された。
【写真左】頼政と菖蒲御前を供養した追慕碑
 境内には「源三位頼政=西妙尼(菖蒲御前)一族」と刻銘された追慕碑が立つ。
【写真左】石塔群
 追慕碑の周りには多くの墓石が並んでいる。

 五輪塔や宝篋印塔形式のものなど混然としているが、中には菖蒲御前の一族のものもあるだろう。



小倉神社

●所在地 東広島市八本松町原
●参拝日 2014年9月22日 

 さて、菖蒲御前は二神山城において、土肥遠平の攻撃をうけて落城したあと、逃れて二神山城から北西へ約6キロほど向かった小倉大谷に移った。そして、そのまま当地で没したといわれている。
【写真左】小倉神社鳥居
 麓にも小倉神社が祀られているが、本宮とされるのはこの社で、標高370m付近にある。

 東麓の方からほぼ真っ直ぐに伸びる道を進むと、当社にたどり着くが、この日は北東側の曾場ヶ城南麓部から伸びる林道から向かった。


 当社の由来は次のように表記されている。

“小倉神社縁起
 當社は、源頼政の室菖蒲前を祀る。御誓いあらたかに、五穀豊穣、民安全の守護神なり。わけて旱天に雨を祈るに応験著し。
【写真左】本殿
 ほぼ直線となっている長い参道を登ると、見事な石垣によって造られた境内があり、その中央に本殿が静かなたたずまいを見せている。




 治承3年(1179)源頼政宇治平等院に討死し、菖蒲前のがれて芸州下原村(西條町御薗宇)にひそみ、やがて後鳥羽院より賀茂郡一円を賜い、二神城(西条町下見)を築く。賊徒、城を攻むるやまたのかれ、ついに元久元年(1204)8月27日、この小倉大谷に入定す。

 生所小倉の里(京都)にちなみ愛せしところ、所領西條郷を一望する風光絶佳(景)の地なり。

   小倉山 茂る宮居となるならば
       民の竃をわれぞ守らん
【写真左】鵺退治の絵馬
 本殿には頼政の鵺退治をテーマとしたものや、菖蒲御前の絵馬など多くのものが飾られている。





 東(吾妻)子滝・二神城跡・姫ヶ池・馬頭観音・汗平・芋福・経納・福成寺など有縁の地多し。
 毛利元就以来、領主の尊信厚し、小倉寺は當社の別當寺なり。今は円福寺と改称す。

※入定の地 御墓は神社に面し左側山中にあり”
【写真左】菖蒲御前の墓・その1
 本殿から左に進むと、菖蒲御前の墓が見えてくる。
【写真左】菖蒲御前の墓・その2
 
【写真左】菖蒲御前の墓・その3
 宝篋印塔の形式で、現在でも地元の方によって大切に守られているようだ。
【写真左】小倉神社付近から二神山城を遠望する。
 小倉神社の参道から少し東側の林道付近まで進むと東に眺望が開ける。
 この位置から前稿で紹介した安芸・二神山城(広島県東広島市西条町下見)が確認できる。



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2015年7月2日木曜日

安芸・二神山城(広島県東広島市西条町下見)

安芸・二神山城(あき・ふたがみやまじょう)

●所在地 広島県東広島市西条町下見
●別名 茶臼山城
●高さ 313m(比高90m)
●築城期 平安末期か
●廃城年 元久元年(1204)
●築城者 不明
●城主 水戸新四郎
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2014年11月10日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 前稿源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)で紹介した源頼政の室・菖蒲御前や、その子とされる種若丸(のちの水戸新四郎)が、築城(又は居城)したとされる安芸の二神山城を取り上げたい。
【写真左】二神山城遠望
 南麓の西条町下見付近から見たもの。

 当城の東方(この写真でいえば、右側になる)約3キロほどむかったところには、鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)が所在する。


現地の説明板より

“二神山城跡

由緒
 西条盆地に古くからある「菖蒲前物語(あやめのまえものがたり)」に、この山の城跡としての今日がある。
 即ち、宇治の平等院の扇の芝で平氏に追われ敗死した源頼政の一子種若丸は、妻の菖蒲前に守られて、従者猪早太と共にこの地に陰棲していた。
【写真左】二神山散策道案内の図
 二神山城は西側の二神山頂上(313m)を主郭とし、その北側のピーク(305m)、を西城とし、さらにそこから尾根伝いに東に向かった東ピーク(310m)を東城としている。


 世が源氏の時代となり、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。その時種若丸は成人して元服し、水戸新四郎頼興と命名、賀茂一円を賜り「二神山」に城を築いたという。
 山上には、本城(南北30間・東西8間)、東城、西城が構築されていたという。
 元久元年(1204)3月、土肥遠平の為に陥られたといわれている。

    下見の歴史散歩道 下見地域振興協議会  2010.11”
【写真左】南側の登山口
 登城口は上図にあるように5ヵ所(A~E)あるが、この日は南側(A)から向かった。
 なお、駐車場が完備されているのはこのA地点のみで、写真の道路を挟んだ左側にある。



菖蒲御前(あやめごぜん)と種若丸

 前稿でも述べたように、源頼政が以仁王(もちひとおう) とともに、平家打倒をめざし宇治平等院に討死したあと、頼政の室・菖蒲御前が安芸の国に逃れたのは、この年(治承4年:1180)である。
 おそらく、頼政は菖蒲に対し、宇治平等院での戦いの前に遠国(安芸国)へ逃れるよう手筈を整えていたのかもしれない。
【写真左】分岐点
 登城口から暫く谷間のような箇所を進んで行くと、この位置で分岐している。右に向かうと、東城へ、左にいくと西城に向かう。
 先ずは、西城及び主郭を目指す。
【写真左】平坦地
 分岐点を過ぎてしばらく歩くと、ごらんのような平坦地が現れる。
 下段に紹介する「西城」へ上がる手前の箇所になるが、この辺りに屋敷があったのかもしれない。


 伝承では、菖蒲御前とその子・種若丸を護衛すべく、頼政の家臣・猪早太が随従していたという。
 最初に足を踏み入れた場所が、芸州下原村といわれ、現在の東広島市西条町御薗宇である。この場所は中心部を国道2号線が走り、南に山陽新幹線、北に山陽自動車道・JR山陽本線などが走り、東広島市の中心部となっているところで、二神山城の東方にはのちに室町期、大内氏によって築城された鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)がある。
【写真左】西城
 看板には「西城跡 36㎡」と記されている。頂部が削平された郭が残り、目だった遺構は他には見られないが、北方を扼する物見的機能を有していたと思われる。
 このあと、南側に向かい主郭を目指す。



 ところで、なぜ菖蒲御前らが、この御薗宇を逃亡先としたのだろう。平家が隆盛を誇っていたとき、特に西国には多くの荘園を有していた。当然ながら安芸国などは平家のもっとも支配が及んだ地域である。

【写真左】主郭手前の郭段
 西城から主郭に向かうにはいったん鞍部となった箇所を進み、そこからかなり傾斜がついた坂道を登る。
 途中から2,3段の小郭が左右に見え始める。


 単純に考えれば、菖蒲御前はそうした場所に行けば危険はさらに高まるはずである。そこで考えられるのが、逃亡先の一角には平家の支配が及ばない地域があったということだろう。
【写真左】主郭・その1
 およそ東西20m×南北5~10mの規模を持つ郭で、南側に切崖を持つ。
【写真左】主郭・その2
 三角点
【写真左】主郭・その3
 南西方向に伸びる郭段。
 細い尾根を使って伸びたもので、両側は切崖となっている。



 それを裏付けるものの一つとしては、御薗宇が賀茂郡であったことである。すなわち、賀茂神社の荘園であったことから、平家の支配が及ばないこの場所を選択したのではないか推察される。もっとも、入国直後は源平争乱の真っ最中で、表立った動きはできなかったが、平家が倒れ、源氏の世になってからやっと解放されたと思われる。
【写真左】東城遠望
 主郭から東方に東城が望める。主郭から東城までは直線距離では400m程度だが、そこに行くまでにはいったん西城との鞍部まで下がり、そこから尾根伝いを進むので、実際にはその倍(800m)はあるだろう。


 

土肥遠平

 水戸新四郎が二神山城を築いたその後、当城は土肥遠平によって陥れたという。
 土肥遠平、すなわち小早川遠平のことである。安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1でも述べたように、鎌倉幕府御家人であった土肥実平の嫡男で、のちの小早川氏(沼田)の祖となる人物である。
【写真左】鏡山城遠望
 主郭から同じく東方を見たもので、東城の右後方に見える。
 手前の建物は広島大学の校舎






 遠平の父実平が最初に西国に足を踏み入れたのは、元暦元年(1184)、備前・備中・備後の惣追捕使となって、備後国の有福荘を拠点としたことから始まる。その後、平氏が滅亡し遠平の代になると南下し、沼田荘へ本拠地を移し始める(安芸・高木山城(広島県三原市本郷町下北方)参照)。
 沼田小早川氏が築城したといわれる居城・安芸高山城が完成したのが建永元年(1206)といわれるので、遠平が二神山城を攻略したのは、その2年前となる。
【写真左】切崖
 主郭南側にあるもので、草木が繁茂しているため写真では分かりづらいが、7~8m程度の高低差がある。

 このあと主郭を降り、再び分岐点まで戻り、東城に向かう。



 それにしても、平家打倒という共通の目的の下にあった両者である。菖蒲御前・水戸新新四郎らは摂津源氏系であり、河内源氏系の血を引く頼朝の傘下にあった土肥(小早川)氏が、二神山城にあった摂津源氏を攻め落とすという構図は、一見不可解な行動にも見える。だが、土肥遠平が二神山城を攻略したこの年の状況を考えると、強ちそうでもないことが分かる。
【写真左】菖蒲御前か
 分岐点付近の樹木に掛けてあったもので、おそらくこの女性は「菖蒲御前」なのだろう。



 二神山城攻略の前年、すなわち建仁3年(1203)、北条時政・大江広元は、征夷大将軍に任じられて間もない源頼家を伊豆修善寺に幽閉、ほぼ同時期に時政は執権となった。そしてあくる元久元年(1204)7月18日、頼家は当地で殺害された。

 平家を駆逐し鎌倉幕府を開いた頼朝の死去後、源氏による幕府基盤は脆くも崩れていくことになる。こののち、北条時政の子・義時が御家人を統率する侍別当を兼務した執権体制が続くことになる。
 従って、土肥氏(小早川氏)の二神山城攻略はそうした中央の動きと連動していたのだろう。
【写真左】郭段
 東城に向かう途中にあるもので、全体に細尾根が多いが、この箇所だけは人工的に手が加えられたように見える。




 次稿では、菖蒲御前の嫡男種若丸は元服したとされるが、ところが、これとは別に種若丸が御薗宇の地に辿りついたとき、病気に罹って亡くなったという伝説が残る史跡「吾妻子の滝」などを紹介したい。
【写真左】展望箇所
 東城に向かう途中に1か所ピークがあるが、そこは北方を俯瞰できる岩塊が露出している。
 自然石だろうが、かなり整然と並んでいるので、施工された可能性もある。

 また、その付近には磐でかこまれた窪地があるが、井戸跡のようにも見えるが、虎口のような形状もしている。
【写真左】東城
 頂部はおよそ5m四方の大きさの平坦面が残るが、明確な遺構は残っていない。
高さ310m。