2015年4月22日水曜日

能島城・その2(愛媛県今治市宮窪町・能島)

能島城・その2

●所在地 愛媛県今治市宮窪町・能島
●指定 国指定史跡
●形態 水軍城
●高さ 31m
●築城期 応永26年(1419)
●築城者 村上山城守雅房
●遺構 郭・柱穴(ピット)その他
●登城日 2015年4月4日

◆解説(参考文献『日本城郭体系』等)
 今稿も能島城の続きとして、城主であった村上氏について述べたいと思う。
【写真左】能島城と鯛崎出丸遠望

 
【写真左】能島城周辺部遠望
 対岸の大島カレイ山展望公園から見たもので、能島城の北側には鵜島が見える。
【写真左】能島城の脇を流れる船折瀬戸を俯瞰する。
 能島城はこの写真には入っていないが、右側にあり、しまなみ海道の大島大橋が伯方島と大島をつないでいる。
 同橋の橋脚が設置されている見近島にも水軍城が築かれており、鵜島と併せ、詰城であった能島城と有機的な関係を持っていたものと考えられる。



村上一族

 前稿でも紹介したように、村上氏は南北朝期から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した一族で、後期村上氏とされ、俗に三島村上氏(村上三家)とも呼ばれた。

 南北朝期における村上氏の中では、能島村上氏が最も早くから活躍している。貞和5年(1349)、警固料をもらって弓削島荘の警戒に当たっている記録が残るが、この時期は、足利尊氏が直冬討伐を計画し、このため直冬が四国に奔ったころ(大可島城(広島県福山市鞆町古城跡)参照)で、おそらくこの動きと関連するものかもしれない。
【写真左】小早船(武吉丸)
 大島宮窪には村上水軍博物館があり、その入り口付近には、村上水軍が使用したとされる小早船(こはやふね)が復元・展示してある。
 全長8.4m×幅2m、長さ6.6mの5丁櫓を搭載しており、小回りの利く船。
【写真左】あけたぶね
 母船として使用された船の模型。横には〇や△の穴が開いており、ここから鉄砲などが差し込まれて使用されたという。



 またそれから約100年後の記録によれば、村上某氏は弓削島を押領し、荘園領主から非難される立場に立たされている。弓削島の荘園領主は元は南朝方であったが、この頃の他の資料によれば、村上右衛門尉・同治部進という人物が弓削島の所務職を請負っていることが知られる。

 こうしたことから、当初村上氏は弓削島を本拠地として活躍していたものと思われる。
【写真左】黒韋威胴丸
 村上水軍博物館に展示されているもので、冑などはついていないが、村上家に長く秘蔵されていたという。
 この他、「色々威腹巻」という胴も展示されている。
【写真左】能島城から出土した銭貨
 当城からは250点以上の銭貨が出土しているが、そのうち21種・82点が東南側の出丸から出ており、「元豊通宝(北宋銭、初鋳1078年)」や、永楽通宝(明銭、初鋳1498年)などがある。

これらは経済的な利用のほか、地鎮祭などにも使用された。



村上武吉
 
 さて、能島城の城主は村上三家の中の能島村上氏といわれている。三家のうち、来島村上氏は来島城(愛媛県今治市波止浜来島)を本拠としているが、その地理的な関係もあって四国本土側の河野氏に属していき、一方北方の因島を本拠とする因島村上氏(因島・青陰山城(広島県尾道市因島中庄町)参照)は、中国本土側に接近していることから、大内氏やのちに毛利氏に属していくことになる。
【写真左】村上水軍の幟
 能島村上家に伝わる幟には、長短2種類の幟があり、写真はそのうち長い幟で、紅地白引両上字紋幟(くれないじしろびきりょうかみのじもん のぼり)といわれるもの。










 それに対し、能島村上氏は弓削島を経て、越智大島・伯方島を拠点とし、芸予諸島の中間を押さえていたため、当初どちらにも与せず、自立した態勢を選んだのだろう。しかし、その後情勢は大きく変わり、毛利方に属していくことになる。

 武吉は鎮海山城(広島県竹原市竹原町貞光)でも述べたように、秀吉の四国征伐のあと、天正13年(1585)長年本拠とした能島を追われ、小早川隆景の斡旋により竹原の鎮海山城に移ることになる。その後、関ヶ原の戦いのあと、毛利氏が防長へ移るのに併せ、武吉は周防大島(屋代島)を最期の地とした。
【写真左】村上武吉とフロイスの絵
 宣教師ルイス・フロイスが書き残した「日本史」に村上水軍のことが記されているが、フロイスは能島城で武吉に遭い、日本最大の海賊として紹介している。



尼子氏と能島村上氏

 ところで、能島村上氏は戦国後期に至ると、主として毛利氏に属することになるが、これ以前の天文年間に出雲の尼子氏と接点を持っていたことが注目される。
 それは、天文10年(1541)、能島村上氏が尼子氏に応じ、厳島を攻め大内義隆と戦っているというものである。
【写真左】厳島神社









 厳島神主家は平安時代から佐伯氏が務めているが、鎌倉期に起こった承久の乱において、後鳥羽上皇側に属していたため、乱後幕府御家人であった藤原氏が厳島神主家となった。

 その後、暫くは藤原氏が代々世襲するが、文亀年間(1501~)ごろから継嗣を巡る一族内の内乱が勃発、大永3年(1523)には、友田興藤(洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)参照)が安芸武田氏の支援を受けて神主家を継ぐことになった。しかし、その後大内氏が興藤を更迭、新たな神主家を旧藤原氏一族であった兼藤を着かせた。
【写真左】ピットがあったとされる岩礁
 能島城には、ほぼ全周にわたって夥しいピット、すなわち柱穴がある。その数はおよそ460個あり、これらを使って桟橋が構築されていた。



 これに対し、天文9年(1540)興藤は大内氏に敢然と反旗を翻した。この年の9月、尼子晴久は吉田郡山城を攻撃するが、その際友田興藤は尼子氏と盟約を結び、居城であった桜尾城(安芸・桜尾城(広島県廿日市市桜尾本町 桜尾公園)参照)で大内氏と対峙している。この戦いは結局大内氏の大軍によって大敗、興藤は自害することになる。
【写真左】柱穴・その1
 主としてこの写真のような直径20cm前後のものが多いが、中には下段のような大きなものもある。
【写真左】柱穴・その2
 当城の中では最も大きなもので、おそらくこの箇所には大きな船を停泊させていたものと思われる。




 尼子氏が能島村上氏に厳島攻めを要請したのはこの翌年となるが、吉田郡山城攻めで雌雄が決するのは天文10年(1541)1月13日とされるので、能島村上氏が厳島攻めを行ったのはこの直前と思われる(宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)参照)。

2015年4月16日木曜日

能島城・その1(愛媛県今治市宮窪町・能島)

能島城(のしまじょう)・その1

●所在地 愛媛県今治市宮窪町・能島
●指定 国指定史跡
●形態 水軍城
●高さ 31m
●築城期 応永26年(1419)
●築城者 村上山城守雅房
●遺構 郭・柱穴(ピット)その他
●登城日 2015年4月4日

◆解説(参考文献『日本城郭体系』等)
 前稿木浦城(愛媛県今治市伯方町木浦)でも少し触れているが、能島村上氏の詰城といわれている能島城を取り上げたい。
 能島城は、今治市の大島(越智大島)と木浦城が所在する伯方島の間に浮かぶ能島に築かれた水軍城で、近年特に注目を集めている城砦である。
【写真左】能島城遠望
 西側対岸のカレイ山展望台から見たもの。
【写真左】能島城の南側に隣接する鯛崎島の出丸
 左側の一部に能島城が見える。








現地の説明板より

"能島城跡の位置

 伊予水軍の根拠地であり、八幡船の発祥地でもあって、室町時代以後海外貿易に進出して益々航海術を練り、我が国水軍発達史上重要な役割を果たしている能島城跡は、越智郡大島と伯方島との急潮たぎる海峡に位置し、東経133度5分、北緯34度10分7秒に当たる。
【写真左】能島城と鯛崎出丸の配置図
 現地に設置されている見取図を参考に作図したもので、能島城側の灰色の箇所については遺構名は標示されていないが、海岸側の桟橋から上がったあとの駐屯地として使われたのだろう。


 而もこの海峡は帆船時代の昔、瀬戸内海を上下する船にとっては、来島海峡より近道の重要な航路であったから、村上氏は源平当時から根拠をすえて、伊予の豪族河野氏の配下に属して瀬戸内海の海上権を握っていたのである。
 周囲720m、面積15,043㎡(1町5反2畝)の能島と、その南の周囲240m、面積2,786㎡(2反7畝)の鯛崎島と、東北にある周囲5粁(km)の鵜島とが有機的に連なっている。”
【写真左】宮窪の港から能島城を遠望する。
 能島城に上陸することができるのは一年のうちでも限られている。

 訪れたこの日(4月4日)は、この近くにある村上水軍博物館の見学が目的だった。館内の見学を終え、駐車場側から能島城を遠望すると、桜が咲いているのが見える。

 能島城に渡船で上陸できるのは、毎年「能島の花見」として、島に植えられている桜が開花したときに限られている(2日間程度)らしい。

 博物館の係りの方に聞くと、このところ急にあたたかくなり、能島の桜が咲いたことから急きょ、この日と明日に限って、宮窪という港から臨時の船が運航することになったという。これはラッキーと、さっそく向かうことにした。
【写真左】能島運行の渡船
 普段は能島以外の島々を航行する船だが、この二日間は臨時に能島花見専用の渡船とされる。

 手書の「能島」表示板。普段の運行先名は紙とガムテープで隠し、「能島」⇔「宮窪」専用の表示。この手作り感がいい。


村上水軍博物館のパンフより

“海賊衆・能島村上氏

 村上氏は、南北朝から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した一族である。俗に三島村上氏と呼ばれる、能島・来島・因島の三家からなり、互いに強い同族意識を持っていた。

 戦国時代になると、村上氏はその強力な海の武力を背景に、瀬戸内海の広い海域を支配し、国内の軍事・政治や海運の動向をも左右した。この後、来島城を本拠とする来島村上氏は、早くから守護大名河野氏と結びつき、因島村上氏は大内氏のち毛利氏の有力な水軍となった。
【写真左】渡船から能島城の桜が見える。
 この日はおよそ30分間隔で往来していることもあり、能島城には数十人の花見見学者が上陸していた。



 そして、現在の宮窪に本拠を構えた能島村上氏は、三氏の中でもっとも独立性が高く、特に村上武吉は、どの大名にも臣従せず、独自の姿勢を貫いた。
 武吉の時代に全盛を謳歌する能島村上氏は、西は九州から東は塩飽諸島に至る海上交通を掌握していた。戦時には、小早船を巧みに操り、火薬を用いた戦闘を得意とした。その一方で、平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担う重要な役割も果たしたのである。”
【写真左】西側の広場
 船着場から上陸すると南北に弓状の広場が設けてある。

 おそらく戦国期には、主だった資材や兵力を駐屯する場所として使われていたのだろう。
【写真左】能島城の石碑
 昭和39年5月建立とある。
【写真左】二の丸及び本丸方面を見る。
 西側の階段から見たもので、この階段を上がると、左手に三の丸があり、そのまま先を進むと二の丸・本丸に繋がる。
【写真左】三の丸
 最初に三の丸に向かった。
 西端部にある郭で、三角形をなしており、北端部は特に細く突き出した形となっている。

 この先から西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の大島大橋が見える。
【写真左】二の丸附近
 能島にある桜の木はいつ植えられたのか分からないが、かなりの年数を経ているものもある。
 見学客の中にはゴザも用意して楽しんだ人もいた。

【写真左】本丸に向かう。
 本丸の下段にある二の丸は、ほぼ本丸を囲むような配置となっており、当城の中でもっとも面積が多い。
【写真左】本丸
 ほぼ南北に伸びる楕円形の形状をなし、長径30m前後か。

 郭(本丸)を写すつもりが、ついつい桜の方に目が行ってしまう。それぐらい本丸にある桜は見事なものだ。
【写真左】本丸から北側の二の丸に降りる。
 本丸の東側に階段があり、それを降りると北側の二の丸に繋がる。
 この付近の桜は特に見事。
【写真左】堀切
 手前が二ノ丸側に当たり、その先に矢櫃(矢倉)があるが、その間には人為的に高度を下げ、幅を萎めた箇所がある。

 現在木製の階段やタラップなどで道を確保しているが、堀切としては施工精度が高く、要害性に富む。
【写真左】矢櫃
 奥行約10m×幅3~4m前後の規模。全周囲は切崖となっている。
【写真左】鵜島
 能島城の東約100m程介して鵜島という島がある。この鵜島と伯方島及び、大島の間を舟折瀬戸というが、そのうち、能島と鵜島の間は特に狭く、この箇所の潮の流れも速い。

 鵜島にも水軍城が記録されているが、おそらくこの写真で少し見える階段部も遺構(矢倉・見張台)の一部だろう。
 このあとここでUターンし、南側の出丸方面に向かう。
【写真左】本丸東側の二の丸付近
 このあたりは幅が狭くなっており、細長い。
【写真左】二の丸から出丸を見る。
 二の丸南端部から少し降りると、細長い道が介在している。その先に出丸が控え、能島の南端部になる。
 なお、その先には鯛崎島が見えている。
【写真左】出丸
 右下の道は渡船の発着場に繋がる。
【写真左】鯛崎出丸遠望
 能島と鯛崎島の間はおよそ20m程の幅を持つ狭い瀬戸だが、底は大分浅く、探訪したとき、底の岩肌が見えていた。

 また、鯛崎島側にも石積された桟橋のようなものが見え、頂部には宮が祀られている。ただ、一般人は上陸できないようだ。

 桟橋の高さを考えると、このときは低潮時だったようで、さらに潮は大島大橋側に向かってかなり早く流れていた。

 中世(戦国期)の船が、帆船や手漕ぎ船であったことを考えると、能島城に船を接岸させるには高度な技術が必要だったのだろう。

 本稿はここまでとし、次稿では城主であった能島村上氏などを中心に述べたいと思う。

2015年4月7日火曜日

木浦城(愛媛県今治市伯方町木浦)

木浦城(きのうらじょう)

●所在地 愛媛県今治市伯方町木浦
●高さ 90m
●築城期 嘉応2年(1170)頃
●築城者 紀氏
●城主 紀氏、村上氏
●遺構 郭・堀切・石垣など
●形態 連郭式
●備考 伯方本城の出城、ふるさと歴史公園
●登城日 2013年5月22日


◆解説(参考資料「日本城郭体系第16巻」等)
  木浦城を訪れたのは2年も前になる。後段でも紹介するように、現在模擬天守風の資料館などが建ち、観光として訪れるのには相応しいが、木浦城は藪コギ覚悟の山城登城を主とする管理人にとって、聊か物足りなかったのか、その後当城の記憶が薄らぎ、投稿する時宜を逸してしまった城である。
【写真左】木浦城遠望
 南側から見たもの。東麓には伯方造船のドックなどが見え、手前には伯方小学校などの建物がある。






現地の資料より

“《中世後期の山城木浦城》
 《木浦城》は城郭史の権威として知られている、財団法人日本城郭協会理事長である井上宗和氏の考証を基礎にして復元されました。

 井上宗和氏の考証

 ― 木浦城があった岩ヶ峯は古代の防御集略、古墳、および13世紀以前にこの地の領主であったと考えられる紀氏一族の所領、14世紀以降は村上氏の本城伯方城に付属する出城であったと推察される。
 従って木浦城の最盛期は、12世紀から13世紀にかけて紀氏一族の本城であった時期と考察される。

 山城の詰の城には、土木構築物において歴然とした遺構がある。すなわち、山城には山頂および稜線上に五郭の削平地として残存し、城地として構成されていたことは明白であり、さらに郭の形成ならびに防備思想をかねた石塁が構築され、山上各所に残存する ― 。”
【写真左】木浦城鳥瞰図
 南東側から想像で描いたもので、中世の頃は東麓部は燧灘(瀬戸内海)が木浦城の縁まで来ていたものと思われる。

 木浦城の標高は90m程とあまり高くなく、縄張は単純な構成となっているが、かなり険峻な独立峰のため要害性は高く、また望楼的機能も優れていたものと思われる。



築城者・紀氏の没落

 木浦城の築城期は12世紀と記されている。『日本城郭体系』によれば、嘉応2年(1170)とされている。前期村上氏が当地を支配する前で、紀氏が当城を築城している。

 紀氏については、伯耆・岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)でも少し触れているが、当地(東予)の紀氏は、このころおそらく平氏に属していたものと思われ、『日本城郭体系』では伊予河野氏の有力な武将であったという。
【写真左】木浦城案内図
 伯方島の東方に所在する。











 ただ、紀氏が伊予に初めて関わることになるのは、推古期、すなわち大和時代といわれるから大分古い。以前紹介した南予の三滝城(愛媛県西予市城川町窪野)や、甲之森城(愛媛県西予市城川町土居)などの築城者もその紀氏の末裔といわれている。

 木浦城主紀氏はその後、鎌倉期においても当城を居城としているので、平家没落後も幕府から当地支配を許されたのだろう。しかし、承久の乱においては主君河野氏ともども後鳥羽上皇に与したが、幕府軍に敗れ、当城に拠るも河野氏とともに滅亡した。このことについては、以前紹介した高縄山城(愛媛県松山市立岩米之野)の中の、「承久の乱と河野氏の所領没収」の項で述べたとおりである。

 さて、紀氏の時代に構築されたそのころの木浦城は、形態としては本格的な城郭構造(水軍城)をもったものではなく、望楼的機能や、通信手段を主とするものであったと考えられる。そして本格的な水軍城の形態を成したのは前期村上氏や、後期村上氏の代になってからであろう。
【写真左】北側から本丸(本壇)を見る。
 旧名「三の平」「二の平」といわれる北側の郭跡から見たもので、現在公園として大幅に整備されているため、当時の遺構の残存度は不明だが、本丸側との段差は当時もこの位(2m前後)あったと思われる。

 階段を上がったところの建物は、模擬城門。



北畠師清と能島村上氏

 以前にも紹介したように、南北朝期、伊予瀬戸内における戦いは南朝方にとって最後の主戦場となった。当時、伯方島は大覚寺系統の庄園である極楽寺真如堂領加納荘として南朝方の地盤であったという。

 このことから北畠師清が伊予に派遣され、前期村上氏最後の頭首・村上三郎左衛門義弘病没後、師清は大島にあった義弘残党を降し、さらには因島釣島沖にて今岡水軍(因島・青陰山城(広島県尾道市因島中庄町)参照)を破り、姓を村上氏と改め、ここに後期村上氏が始まることになったとされる。もっともこれについては伝承などに基づくため確定したものではない。
【写真左】ふるさと歴史公園居館
 本丸(本壇)跡に建っている史料館で、模擬天守風の建物。







 師清の嫡男義顕には、その後3人の男子があった。応永26年(1419)、この3人を能島・来島・因島の三家に分立させた。これがのちに三島村上氏と称されることになる。
【写真左】検出された什器など。
 木浦城を含めた伯方城関係史跡から発掘されたものらしい。
 高杯・杯身・土師器・須恵器・脚付長頸瓶などが展示してある。


 
伯方城(はかたじょう)

 木浦城は伯方島の東方に所在する城砦であるが、当城も含め木浦のほぼ全域に十指を超える中小の城塞があり、これらを総称して「伯方城」と定義されている。したがって、今稿の木浦城も、群郭複合式海城である伯方城の出城の一つである。
 参考までに木浦周辺に配置された主な城砦は次の通りである。
  1. 伯方本城(伯方館)
  2. 木浦城
  3. 獅子ヶ城
  4. 金ヶ崎砦
  5. 亀ヶ浦砦
  6. 長崎山の砦
  7. 梅ヶ鼻の砦
  8. 小鳥山砦
  9. 小丸子山の砦
  10. 城の台砦
  11. その他
【写真左】模擬天守から北東を俯瞰する。
 奥に見える海は燧灘。
本丸の東奥は現在アスファルト舗装による段が設けられているが、上段の鳥瞰図でも示したように、腰郭若しくは帯郭が走っていたものと思われる。

 また、燧灘に突出した奥の半島部は、伯方城の支城の一つといわれる金ケ崎砦が見える。
 右下は伯方造船所のドック。
【写真左】模擬天守から南方の伯方港を見る。
 奥の尖った山は、見張台として使われた高丸山。

 おそらく、木浦城からは死角となる南~西方のエリアを監視し、事あればすぐに烽で木浦城や伯方館に合図を送っていたものと思われる。
【写真左】北方を俯瞰する。
 左から生口島、その右に岩城島などが見える。
【写真左】南西麓に木浦の街並みを見る。
 この麓には伯方の館があったとされる。