2015年3月1日日曜日

周防・岩国城(山口県岩国市横山3)

周防・岩国城(すおう・いわくにじょう)

●所在地 山口県岩国市横山3
●別名 横山城
●高さ 214m(比高210m)
●形態 平山城
●築城期 慶長7・8年(1602・03)
●築城者 吉川広家
●城主 吉川氏等
●廃城年 元和元年(1615)
●遺構 石垣・水堀・空堀・井戸・隠居所長屋等
●指定 なし
●登城日 2014年6月10日

◆解説(参考資料『佐田町史』、「岩国城周辺散策マップ」岩国市観光振興課発行等)
 山口県岩国市のもっとも有名な観光地といえば、錦帯橋とセットで知られる岩国城である。最初に当地を訪れたのは、今から12年ぐらい前だったと記憶している。このときは、別の史跡探訪を終え帰途中に立ち寄った程度だったため、山頂までは向かっておらず、もっぱら麓の公園内を散策した程度だった。
【写真左】岩国城遠望・その1
 麓は錦川が流れ、日本三名橋の一つで5連のアーチ構造となる錦帯橋が架かる。

 因みに、錦帯橋が現在のような形になったのは、3代藩主吉川広嘉の頃で、延宝元年(1673)といわれる。



資料・岩国城周辺散策マップより

“岩国城物語”
 岩国藩は、周防国(山口県)岩国周辺を領有した外様小藩であるが、岩国藩が正式に成立したのは、慶応4年(1868)3月、吉川経幹が、諸侯に列せられてからである。しかし、その起こりは吉川広家が慶長5年(1600)岩国3万石を与えられたときに始まる。
【写真左】岩国城遠望・その1
 現在の岩国城は説明板にもあるように、当時の天守閣のあったところから約50mほど南に移動した位置にある。



 藩の形式は、横山、錦見地区を藩の中心として、横山山頂に要害を築き、山麓に政務を執るための居館を構えて、上中級の役付き武士を住まわせ「城郭部」とし、錦川を外堀として、対岸の錦見地区に中下級武士、町人の居住区を設けて「城下町」とすることとした。

 岩国城は、吉川広家によって築城されたもので、慶長8年(1603)起工し、同13年(1608)に竣工した。
【写真上】案内図
 現在「城山おもしろぱあく」という名称の公園に整備され、尾根南側(左側)にはロープウェイ乗場、野外ステージ、休憩舎などといった施設が西側に造られ、そこから北にある岩国城に向かう2本の遊歩道が設置されている。


 城郭は、錦川を外堀に見立て、山上に要害を築き、その南麓に御土居(後に御館)と呼ばれる領主の館を構え、その両方を合わせて岩国城を構成した。
 しかし、完成して7年後の元和元年(1615)、徳川幕府の「一国一城令」により、山上の要害は廃城となり、以後山麓の居館で藩政が行われた。
【写真左】大釣井
 ロープウェイで山頂にたどり着き、天守閣の方へ約5分ほど歩くと、左側に見えてくる。

 慶長13年(1608)築城期に造られた井戸で、この付近が水の手と呼ばれ、この井戸からさらに下の方に降りると、「小釣井」と呼ばれる井戸もあったという。直径は約4m前後はあるだろう。
 なお、戦があった場合、落城の際はこの井戸を使って脱出口を兼ねたとも伝えられている。


 山上要害は徹底的に破壊されており、特に西側(山陽道側)の石垣は、往時の姿が想像もできないほど破却されている。
 これららは、寛永15年(1638)3月13日、吉川広正宛て毛利秀就書状に見られるように、元和の一国一城令に続いて、徳川幕府が島原の乱の後、古城の石垣をさらに破却せしめたことによるものであろう。ただ、東側は、山麓に居館があるため、石垣は崩さないで、そのまま残っている。
【写真左】北の丸
 大釣井の後本丸に直接行かず、先ずは北端部に残る「北の丸」に向かう。
 東西50m×南北50mの規模を持つもので、東櫓・北櫓があったという。
【写真左】石垣
 北の丸の一角には山麓の居館保護のために残された築城期の石垣がある。

 この北の丸側の石垣群はそのまま岩国城の東側(麓の町から見える面)まで延長され、大手門側まで続く。これに対し、反対側の西側(裏)は殆ど石垣が使用されない山城形式の郭構造となっている。

 現在の復元天守は、昭和37年(1962)に、錦帯橋付近からの景観を考えて、残存していた図面(断面図のみ)をもとに、本来の天守の位置より約50m南に復元されたものである。
 岩国城は、錦川にかかる錦帯橋とともに岩国観光のメインのひとつになっている。”


【写真左】空堀・その1
 山城愛好家としてはもっとも見どころのある空堀で、北の丸と天守側の間にある。

 形態としては「箱掘」といわれるもので、規模は幅19.6m×深さ約10m×長さ58.2mとかなり大きなものである。




石橋氏岩国城

 岩国城の築城期については、上記資料にもあるように、吉川広家が慶長8年に築いたとされている。

 ただ、後述するように、当城はこの時期(江戸時代初期)に平山城とはいえ、標高200m余の山頂に城郭を築くということ自体珍しく、さらには本丸と北の丸の間に残る日本最大級の箱掘などがあることから、広家が築城する以前に、この横山には中世山城があったのではないかと思わせるものがある。
【写真左】空堀・その2
 東側から見たもの。
 岩国城の特徴としては、この空堀(箱掘)を含め、写真には撮っていないが、西側の郭群を取り巻く竪堀群である。

 中世山城の形式を併せ持つ遺構をみると、ますます石橋氏時代の「岩国城」を想起せざるを得ないのだが。


 それを裏付けるものかどうか断定できないが、鎌倉期に武功を挙げたことにより、頼朝から当地岩国を下賜された石橋氏という一族について少し紹介しておきたい。

 石橋氏の祖は紀氏の出で、初代河村山城介政師は紀九郎貞光の長男とされ、本貫地は紀伊国に始まるとされる。

 2代河村越後守政房はのちに石橋山の合戦(治承4年・1180年、頼朝と大庭景親(平氏)の戦い)で武功を挙げ、頼朝から石橋日向守重元と名乗ることを許され、周防国岩国に領地を下賜され、以来石橋氏は寿永元年(1182)から文亀3年(1503)まで当地を治め、岩国城に居城した(『佐田町史』)という。

 その後、室町時代の足利義澄将軍の命によって、13代石橋伯耆守光弘は岩国城を去り、石見邑智郡の石原の城に移ったという。
【写真左】旧天守台
 現在の再建天守から約50m程奥に向かったところにある。
 上部一辺長さは17m余で、ほぼ正方形。江戸期に築城された他の城郭のような反りはなく、外枠のディテールは直線状となっている。
 写真でいえば、下段の石積が現存部分で、中段が修復、上段が復元された箇所になる。


 石橋氏を紹介している『佐田町史』とは、管理人の地元島根県出雲市佐田町の資料だが、この事柄に関する出典が不明なため真偽のほどは分からない。
 ただ、同氏(石橋氏)が岩国に約300年以上も住んでいたことを考えると、当然城館または城郭のようなものを所有していたことは間違いないだろう。そして、居城とした城郭があるとすれば、それは現在の岩国城、すなわち横山にあったと考えるのが至当と思われる。
【写真左】復元天守
 古図(断面図)を基に、鉄筋コンクリート製の建物で復元したものだが、三層(三階)部分での絞り(上階の張り出し)などは、他の城郭にはない構造である。


吉川広家

 彼については以前吉川元春館跡(広島県山県郡北広島町海応寺)でも紹介したように、吉川元春の三男である。

 天正14年(1586)11月に父元春が九州で病死すると、長男元長が跡を継いだが、翌15年元長も父の後を追うように急死した。このため、広家が兄の遺言によって跡を継ぎ、それまでの名であった経言から広家と改名、また翌16年宇喜多直家の娘(秀吉養女)を正妻として迎えた。
【写真左】天守から岩国の街並みを俯瞰する。
 大きく蛇行している川が錦川で、奥(上部)へ流れ瀬戸内に注ぐ。
 錦川の中央に二つの橋が見えるが、右のが錦帯橋。


 その後、天正19年(1591)秀吉から伯耆国三郡、出雲国三郡及び隠岐国を領し、出雲月山富田城を居城とした。しかし、関ヶ原の戦いで敗れると、毛利氏の防長移封が決まり、慶長5年(1600)11月、周防における「広家領地」が打渡される。
【写真左】二の丸
 この辺りもきれいに公園として整備されている。因みに、当時はこの位置からは天守は見えなかったのだろう。
 二の丸を過ぎると大手門に繋がる。


 冒頭で当城の築城期を慶長7・8年(1602・03)としているが、竣工したのは慶長13年(1608)である。
 岩国城が築城されたこの時期、西国では他の城普請も行われている。しかし、この期間、幕府は岩国藩に対し、伏見城の石垣普請の手伝いを命じたり、江戸城の修復なども命じている。このため、岩国城の築城工事は度々中断、もしくは人夫の手薄などがあり、大幅に遅れ、竣工したのが慶長13年となった。
【写真左】昌明館付属屋及び門
 説明板より

“岩国市指定文化財
 昌明館付属屋及び門
   指定年月日 平成7年10月11日
   所有者 財団法人 吉川報效会

 寛政5年(1793)、岩国藩第7代吉川経倫(つねとも)の隠居所として建築された昌明館に付属する建物の一部である。
 昌明館は享和3年(1803)経倫公死去後、第8代経忠夫人・喬松院の居所とされ、その後明治4年(1871)、廃藩置県の時、岩国県庁が置かれ、以後一時子孫の方が入居されていたが、後に解体された。
 残された長屋二棟、門一棟については18世紀末頃の建築様式をよく留めており、文化財に指定された。
  平成7年11月1日
    岩国市教育委員会”
【写真左】錦川から岩国城と錦帯橋を見る。
 改めて岩国城を見ると、天守はともかく典型的な中世山城と思える。

 築城者吉川広家にとって、もとの本拠地であった安芸の日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)から見れば、この山を居城したこと自体まったく自然な選択だったとも思える。

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