2015年2月17日火曜日

北ノ庄城(福井県福井市中央1丁目)

北ノ庄城(きたのしょうじょう)

●所在地 福井県福井市中央1丁目
●築城期 天正3年(1575)
●築城者 柴田勝家
●廃城年 天正11年(1583)
●形態 平城
●遺構 石垣
●登城日 2014年6月17日

◆解説
 昨年(2014年)訪れた北陸地方の城跡探訪のとき、最初に泊まったホテルがJR福井駅前だったこともあり、ここから歩いて数分のところに北ノ庄城があることが分かり、チェックアウトする前の早朝散歩を兼ねて訪れた。
【写真左】北ノ庄城跡
 福井市の街中にあり、現在西側を「北ノ庄城址公園」、東側を「柴田公園」としている。

 跡地にはご覧の北ノ庄城を模したミニチュア版のものが建っている。


現地の説明板より

“柴田勝家が築いた北ノ庄城

 織田信長は、一向一揆を壊滅させた直後の天正3年(1575)8月に越前49万石を柴田勝家に与えた。勝家は足羽川と吉野川との合流点に北ノ庄城を構築した。現在の柴田神社付近が本丸と伝えられる。
【写真左】案内板
 通りの歩道部分に案内板が立っている。専用の駐車場はないので、車で来る場合は、近くの有料駐車所に置いていかれることをお勧めする。



 天正9年(1581)4月、北ノ庄を訪ねてきたポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスは、本国あての書簡の中に、『此の城は甚だ立派で、今、大きな工事をしており、予が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである…』と報告している。


【写真左】北ノ庄城「想像図」
 現地には当城の姿が想像図であるが描かれている。

 出典/西ヶ谷恭弘著・イラストレーション香川元太郎 「復元図譜 日本の城」1992年理工学社より



 また、羽柴秀吉が勝家を攻めたときに、その戦況を小早川隆景に報じた天正11年5月15日付の書簡の中では、北ノ庄城について『城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候…』と記しており、九層の壮大な天守閣であったことが知られる。
【写真左】歩道側から見る。
 現在ではビルの谷間にあるという風景だ。
【写真左】配置図
 下段が歩道部に当たる。








 勝家はまちづくりにも創意を施し、城下の繁栄のために一乗谷から社寺・民家等を北ノ庄へ移転させるなどに努めた。足羽川に架かる橋(久十九橋)を半石半木の橋に架設したといわれる。
 柴田勝家は今日の福井市の基礎を築いた人である。

 画像/福井ライオンズクラブ会員・東郷靖夫 模写”

柴田勝家とお市

 賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)で紹介したように、北ノ庄城における戦いは、賤ヶ岳の戦いでほとんど勝負が決定していた状態で行われた。その敗因は佐久間盛政が柴田勝家の命を聞き入れず、リスクの高い戦いを挑んだことにあるとされるが、これとは別に最大の理由は、前田利家による戦場離脱がもっとも大きいとされている。秀吉側からの巧妙な調略が功をそうしたわけだが、勝家からすれば、利家は明らかな「裏切り」行為と写っただろう。
 
 ところで、この北ノ庄城は、天正3年(1575)築城である。従って、信長が築いた安土城が天正4年(1576)であるので、勝家は信長より1年早く当城を築いたことになる。
 説明板にもあるように、「城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候…」と記されている。安土城が地下1階、地上6階の城郭であったので、層数だけからいえば、北ノ庄城の方が多い。さすがに主君・信長ほどのドハデな建築意匠ではなかったと思われるが、上段に紹介している「想像図」の如く、おそらく当時としては壮大な城郭だったと考えられる。
【写真左】柴田勝家像
 随分とイカツイ顔で、まるで金剛力士像のようだ。
説明板より

“柴田勝家(~1583)

 勝家は尾張国愛知郡に生まれ、織田信長の重臣となる。天正3年(1575)8月、越前一向一揆を滅ぼした信長は、越前の大部を勝家に与えた。勝家は北ノ庄に城郭を築き、壮大な天守閣を造営した。

 信長の亡き後、天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れた勝家は、同月24日北ノ庄城にて、妻のお市の方と共に自害した。墓はお市の方とともに、福井市左内町の西光寺にある。享年62歳と伝えられる。

辞世の句
「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を
    雲井に掲げよ 山ほととぎす」
【写真左】お市の方
 美人であることはこの絵からも分かるが、それ以上に意志の強い戦国期の女性という雰囲気が感じられる。

説明板より

“お市の方(~1583)
 お市の方は、織田信長の妹で絶世の美人といわれ、政略的婚姻により近江の小谷城主浅井長政に嫁ぎ、1男3女をもうけた。
 天正10年(1582)10月、3人の娘を連れて柴田勝家に嫁ぐが、翌年4月24日羽柴秀吉に滅ぼされた。勝家はお市の方に娘と共に城を出るように諭したが、お市の方は娘3人を秀吉の陣におくったのち、北ノ庄城で夫婦静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害した。画像は淀殿の命によって描かれたもの。享年37歳と伝えられる。

辞世の句
「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の
    夢路を誘う ほととぎすかな」
  画像/重要文化財 高野山持明院蔵”

茶々(淀殿)、お初、お江

 北ノ庄城の戦い後、残ったお市の三人の娘である。
【写真左】茶々
説明板より

“茶々(淀殿)(~1615)
 お市の方の長女茶々は淀殿とも呼ばれた。
 母はお市の方で父は浅井長政。長政は織田信長に滅ぼされた。お市の方は3人の娘をともなって柴田勝家と再婚し、越前北ノ庄へ移ったが、その後、勝家が羽柴秀吉に敗れたとき、茶々は2人の妹(お初・お江)と共に城から逃れた。
 茶々は秀吉の側室となって寵愛を受け秀頼をもうけたが、慶長19年(1614)徳川家康の大軍と交戦することになり、翌元和元年5月8日、秀頼と共に大阪城中で自害した。享年49歳と伝えられる。”
【写真左】お初
説明板より

“お初(~1633)
 お市の方の二女お初は、姉茶々と妹のお江と共に秀吉に引き取られ、のちに従兄弟の京極高次に嫁ぎ忠高をもうける。高次は慶長5年(1600)関ヶ原合戦ののち、若狭国小浜城主(所領9万2千石)となる。
 慶長14年お初は夫と死別後、剃髪して常高院と号した。この頃からたびたび淀殿を訪ねている。大坂の陣には徳川家康の命を受け、大阪城に使者として入り、姉淀殿との和平の交渉をした。寛永10年(1633)8月27日、江戸において死去。享年66歳と伝えられる。
  画像/小浜市・常高寺蔵”
【写真左】お江
 お江については、以前紹介した小浜城(福井県小浜市城内1丁目)でも取り上げているのでご覧いただきたい。

説明板より

“お江(1573~1626)
 三女お江は、豊臣秀勝などと再婚を重ねた後に、徳川2代将軍秀忠の正室となる。秀忠との間には7人の子宝に恵まれた。長男家光は3代将軍に、次男忠長は駿河大納言となる。長女千姫は淀殿の長男秀頼の夫人になり、次女珠姫は加賀藩前田家の養女、三女勝姫は福井2代藩主松平忠直に嫁いでいる。四女初姫は京極忠高室、五女和子(東福門院)は後水尾天皇に嫁ぎ中宮となる。寛永3年(1626)9月15日、江戸城において生涯を終えた。享年54歳。
  画像/東郷靖夫 模写”
【写真左】石垣跡
説明板より

“北ノ庄城石垣
 柴田神社周辺は、柴田勝家の築いた北ノ庄城(1575~83)天守閣跡と伝えられています。
 ここに展示している石は、勝家築城の北ノ庄城の石垣遺構と考えられます。

 発掘調査の結果からは、この石垣は本来、高く積まれていたが、江戸時代、結城秀康の福井城築城に際し取り除かれ、石垣の根石のみが残った状態であると考えられます。
 石垣は、ここより南でも同様に見つかっています。石垣の前面には、堀が広がっていました。
  福井市教育委員会”
【写真左】柴田神社
 左が柴田神社で、右側には三姉妹神社が祀られている。
【写真左】歩道から西側を見る。
【写真左】堀跡
 かなり浅いものだが、当時はもっと深かったものと思われる。
【写真左】石垣と堀跡

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