2015年1月31日土曜日

越前・藤島城・超勝寺(福井県福井市藤島町)

越前・藤島城・超勝寺
        (えちぜん・ふじしまじょう・ちょうしょうじ)

藤島城
●所在地 福井県福井市藤島町
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 平泉寺門徒
●備考1 足羽七城
●遺構 土塁

超勝寺(西超勝寺)
●創建 応永年間(1394~1428) 
●開山 綽如(本願寺5世) 

●登城・参拝日 2014年6月17日

◆解説(参考文献 サイト「足羽七城の戦いとその跡を訪ねて」等)
 越前・藤島城は現在の超勝寺があったところとされている。所在地は、福井市藤島町にあって、「えちぜん鉄道・勝山永平寺線」の東藤島駅からおよそ600m程北に向かったところにある。
【写真左】「藤島城跡」と記された石碑
 現在の西超勝寺の山門脇に建立されているが、この辺り一帯には当院の他、南200mの地点に、のちに分かれた東超勝寺を含め、厳浄寺・大光寺・偏超寺など多くの寺が集まっている。

 いずれも藤島城が築かれていたときの城域(城館)敷地だったといわれている。



足羽七城

 藤島城については、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)で少し紹介しているが、南北朝期南軍方の新田義貞が、金ケ崎城陥落後北に奔り、態勢を立て直し、北軍方の斯波高経らが守備する城砦を攻撃した際、あえなく敗死するきっかけとなった城砦である。
【写真左】超勝寺南側
 「藤島御坊 別格別院 超勝寺」と記された石碑が建つ。
 なお、この写真の手前を更に南に降ると、もう一つの超勝寺がある。



 義貞が金ケ崎城陥落後、最初に身を寄せたのが南越前町阿久和の杣山城(そまやまじょう)である。杣山城麓には元々北軍方斯波高経に従っていた瓜生一族がいたが、義貞が根気よく瓜生氏に南軍支持を要請した結果、瓜生氏が雌伏し、ここを作戦本部基地とし、越前国内の諸勢力への工作を始めた。この結果、3千の兵を得ることができた。
【写真左】山門
 右側に「綽如上人開基」と記され、左側には「◇如上人留錫、霊場」とあるが、巧如ではないようだ。




 こうした動きを知った越前守護斯波高経は、金ケ崎城落城後上洛していたが、すぐさま越前に下向、府中(武生)に在陣、杣山城攻略へと動いた。しかし、杣山城は難攻不落の要害の地で、長期戦の様相を呈してきた。

 杣山城でのこう着状態が続く中、新田軍の畑時能は隣国加賀に入り、在地国人領主らを誘い越前への侵入を図った。このため斯波高経は次第に新田軍の勢力が拡大するのを防ぐため、府中の拠点新善光寺城の防備を強化し、さらには加賀勢力の侵入に備え、北ノ庄および九頭竜川周辺の要所に多くの城砦を築いた。これがのちに足羽七城といわれるものである。
【写真左】本堂
 雪深い地方なのだろうか、前面ガラス張りとなっている。









 足羽七城は、その名称から、7つの城という意味にとれるが、実際は10数ヵ所に築いた城砦の総称で、代表的な城として現在次のような城砦が記録されている。
  1. 勝虎城(船橋町)
  2. 高木城(別名構ヶ城)(高木町)
  3. 安居城(金屋町)
  4. 和田城(和田東町)
  5. 江守城(南江守町)
  6. 深町城(深見町)
  7. 足羽城(足羽上町)
  8. 藤島城(藤島町)
  9. 林城(林町) 
  10. 波羅密城(原目町)
なお、斯波高経が府中の拠点とした新善光寺城は、現在の越前市京町にある正覚寺で、管理人は未登城だが、サイト『城郭放浪記』さんが登城紹介されているのでご覧いただきたい。遺構としては土塁が残っている。

 さて、今稿の藤島城はこの足羽七城の一つとされているが、上掲した各城のうち、№9の林城は藤島城の南方にあるが、近接しているので、いわゆる一城別郭の形態であったともされる。
【写真左】藤島城跡土塁遺構・その1
 本殿の裏側にまわると遺構として土塁の一部が確認できる。
 現在はご覧のような1m程度の高さの土塁だが、当時は最低でも2m位はあったものと思われる。

 というのも、この辺りは海抜があまりなく低地であり、藤島城そのものはいわゆる平城形式の城館であったと考えられるからである。このため、土塁などは相当高くしないと防御性が確保できなかったと考えられる。


新田義貞の敗死

 義貞が無念の自害をすることになるこの藤島城での戦いについては、別稿「新田塚」で紹介する予定だが、当時越前で勢威を取り戻した新田軍(南軍)は、ほぼ同国において斯波高経らを撃退することは間違いない状況であった。
【写真左】藤島城跡土塁遺構・その2
 藤島城陥落のあと、この城域一帯が整地され、土塁など多くの遺構が取りこわされ、新たに超勝寺を含めた多くの寺院が建てられたものと思われる。


 特に藤島城に拠った面々は、平泉寺の衆徒など寄集め軍団のため、義貞にも油断があったのだろう。
 義貞が想定していた藤島城をはじめ、近くの林城、波羅密城も落城は時間の問題だと考えていた。
 しかし、これら諸城に拠った斯波方の兵は少数精鋭ながら果敢に抵抗をつづけたため、遅々として落城したという報は義貞のもとに届かなかった。このため、しびれをきらした義貞は、自ら50余騎という少ない随従者を率い、偵察と督戦を目的に陣所であった燈明寺城を出立した。
【写真左】築山
 土塁遺構の近くのもので、同じく北側に東西に延びる形で築かれた庭園用の築山だが、場合によっては、この築山も元は土塁の一部だったかもしれない。
 このあと、超勝寺の外回りを一周してみる。



 義貞は各所で行われていた激戦地を避けながら、大回りするコースをとったが、これが逆に斯波方の重臣細川出羽守らの救援部隊300余騎と遭遇する羽目になった。たちまち義貞らは囲まれ、矢を射られ義貞も眉間に矢を受け、あえなくその場で自害した。建武5年(1338)閏7月2日のことである。
【写真左】白山神社
 超勝寺の北側にはご覧のように、十九社 白山神社が祀られている。
 余談だが、越前・加賀国を探訪するとこの「白山神社」が至る所に祀られている。

 この地に当社が祀られているのは、前述したように、南北朝期、斯波高経方として、当城(藤島城)に拠った平泉寺衆徒が活躍したこともその理由の一つだろう。


超勝寺(西)

 超勝寺は応永年間(1394~1428)、本願寺5世綽如(しゃくにょ)の創建といわれている。藤島城陥落からおよそ50年余りの後、当地に創建されたことになる。綽如が同寺5世になったのは40歳ごろで、すぐに第2子であった6世巧如(ぎょうにょ)に権限(寺務)を移譲し、本人は越中国杉谷に草庵を求め居所とした。そして、巧如が綽如から継承を受けた直後、彼は弟であった屯円にこの超勝寺を任せている。このため、事実上超勝寺初期の運営に携わったのは、この屯円と考えられる。
【写真左】超勝寺の北側
 ご覧のように周囲は田圃や住宅が立ち並んでいる。
 田面と超勝寺(藤島城)との比高差もほとんどなく、平城というより沼城に近い形態のものだったかもしれない。


 蓮如が没したのち、永正年間に至ると、越前・加賀は真宗門徒を中心とする土豪連合組織が次第に強大なものとなり、いわゆる一向一揆が確立した。

 当時本願寺9代法主であった実如は、越前の雄・朝倉氏との対決のため、彼ら一揆衆に挙兵を命じた。しかし、その目論みは脆くも崩れ、朝倉氏に一方的に撃退され、越前国内にあった本願寺系寺院である吉崎御坊・超勝寺・本覚寺・興行寺などは破却され、残った門徒衆らは白山麓に逃げ込んだ。永正3年(1506)8月6日のことである。

 大永元年~2年(1521~22)、加賀国では蓮如の子(三男・蓮綱、四男・顕誓、七男・蓮悟)が本願寺教団を維持し、事実上守護富樫氏の動きを封じていた。特に河北郡二俣・若松本泉寺の七男・蓮悟は、その中心的人物で、越後の上杉氏、能登の畠山氏などとも激しい戦いを繰り広げていた。
【写真左】福井市都市景観重要建築物指定の看板
 当院は、平成13年9月3日に、同市重要建築物等の指定を受けている。





 享禄4年(1531)、越前国・加賀国を挟んで本願寺・一揆衆の主導権争いが勃発した。これは蓮如三男・蓮綱の松岡寺を含む加賀4郡に置かれた4ヶ寺と、そのころ越前から亡命していた超勝寺との争論が元である。

 4ヶ寺は加賀武士と与同して超勝寺を成敗しようとするものであった。これに対し、超勝寺は本覚寺と組み、さらには山科本願寺が味方した。当時本願寺10代であった証如は、蓮如の曾孫で超勝寺とは親戚関係にあった。
 戦いは加賀4ヶ寺が優勢であったが、その後、本願寺(証如)は、三河国の門徒衆に支援を要請したため、形勢は逆転、4ヶ寺が敗北した。この結果、松岡寺の蓮綱、蓮慶らは生捕となり、9人が生害した。

 ところで前稿・二曲城(石川県白山市出合町)で紹介した二曲右京進が当城を整備していた天文6年ごろ、加賀国の真宗支配の中核となったのは、北加賀が本覚寺で、南加賀がこの超勝寺であったことが知られている。

2015年1月28日水曜日

二曲城(石川県白山市出合町)

二曲城(ふとげじょう)

●所在地 石川県白山市出合町
●高さ 268m(比高120m)
●築城期 不明
●築城者 二曲右京進・鈴木出羽守
●城主 同上
●遺構 郭・掘立柱建物・土塁など
●指定 国指定史跡
●登城日 2014年6月18日

◆解説(参考文献『加賀一向一揆 ~最後の砦、鳥越城と共に終焉~』西田谷功著等)
 前稿鳥越城と同じく一揆衆が拠ったといわれる城砦が二曲城である。場所は鳥越城を南西約1キロ隔てた位置にある。
【写真左】二曲城鳥瞰図
 現地登城口に配置図などが掲示されていたが、大分劣化しほとんど読めなかったので、新たに管理人によって作図した鳥瞰図。

 2010年から復元整備事業が開始されているが、まだ完了していないようなので、いずれ鳥越城のような整備された案内板などが更新されるだろう。


 現地には登城口から主郭までは約20分余りでたどり着けると書かれていたが、この日は帰途に着く予定で時間もあまりなく、また鳥越城下山後着替えしたことや、かなり蒸し暑かったこともあり、麓までしかいっていない。
【写真左】二曲城遠望
 鳥越城からみたもので、麓には「一向一揆歴史館」や道の駅「一向一揆の里」がある。
【写真左】二曲城の看板
 麓の「一向一揆歴史館付近には、鳥越城と併せて、二曲城の案内標識が建っている。







現地の説明板より

"国指定史跡 二曲城跡

 当城跡は、鳥越城跡とともに織田信長の攻勢に最後まで抵抗した、白山麓の一向一揆の拠点となった城跡である。
 二曲の地は、白山麓門徒の指導者であった鈴木(二曲)氏の本拠で、本来、この城跡は、山麓の通称「殿様屋敷」の館に居住した同氏の砦であった。
【写真左】登城口付近・その1













 城跡は鳥越城から大日川の対岸に相対する標高268mの独立峰上に築かれており、山頂は平坦に削平されていて、屋根上に腰郭と空堀の遺構が確認できる。

 天正8年(1580)11月、鳥越城とともに落城するが、山内衆の抵抗はこれをもって終わらなかった。『信長公記』によれば、翌天正9年(1581)2月、加州一揆が蜂起して「ふとうげ」に入置かれた柴田勝家の人数300人を悉く討ち果たしたとある。

 しかし、これも織田方の佐久間盛政によって鎮圧された。翌天正10年、一揆衆は再度鳥越・二曲両城を奪還するが、同年3月、生捕者300余人の磔(はりつけ)により終焉する。
 二曲城跡は、鳥越城とともに加賀一向一揆の最後の砦となった歴史の舞台としての意義をもつことから、史跡に指定され保存が図られている。
   昭和63年11月設置  鳥越村教育委員会”
【写真左】登城口付近・その2
 梅雨時の登城は辛い上に、藪蚊が多い。










鈴木出羽守・二曲氏

 蓮如(吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)参照)が加賀国に入って浄土真宗を広めたのは、文明3年(1471)といわれている。真宗の布教活動は親鸞が最初とされているが、もともと加賀・越前には往古より白山信仰が根付いていた。

 養老元年(717)泰澄(たいちょう)が当山を開山したといわれ、神仏習合の教えが広まり、それぞれの拠点は、加賀では白山本宮、越前は白山神社(平泉寺)(下段写真参照)、また東麓美濃国においては長滝白山神社とされた。
【写真左】白山神社・平泉寺
所在地:福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上
 白山信仰越前川の禅定道の拠点として、最盛期には、48社36堂千坊、僧兵8千人の強大な寺社都市を誇った。

参拝日:2014年6月17日


 鈴木出羽守の出自については諸説あり、その一つが、熊野信仰が全国に伝播すると、阿弥陀仏を共通とする熊野神主の一族・鈴木氏が当地・加賀二曲地域に土着し、二曲氏を名乗り、室町・戦国時代に至って、浄土真宗に帰依し、いわゆる「門徒武士」になったのが同氏一族の始まりといわれているもの。
【写真左】登城口付近・その3
 少し登ってみたが、再び汗が出始め、もう着替えがないため断念。








 もう一つは、元亀元年(1570)織田信長と本願寺の戦いが始まった際、石山本願寺に拠った顕如が、当時紀伊雑賀門徒であった鈴木出羽守に、加賀山内一揆の大将として派遣を命じ、当地に赴いたというものである。

 紀伊国における雑賀衆とは、加賀国などと同じように、一揆集団であって、特に鉄砲を主力兵器として武装していた軍事集団である。そのリーダー格とされていたのが、雑賀党鈴木氏などである。従って、鳥越城・二曲城の鈴木出羽守は、元々この雑賀党鈴木氏の一族ではなかったかと考えられる。
【写真左】説明板
 大分劣化していて読めない。











鳥越城と二曲城

 蓮如が加賀を退去した後、門徒内部における抗争や、加賀・越前守護らとの対立が度々起こるが、加賀一向一揆の本拠地として平野部で確立したのは、戦国期となる天文15年(1546)の金沢御堂建立のころとされている。同堂は後に信長らによって陥落されるが、その後佐久間盛政や前田利家によって金沢城へと姿を変えることになる。
【写真左】二曲城全体図
 紙を貼った形式のものはどうしても劣化が早い。









 さて、前稿鳥越城や二曲城の築城期は不明だが両城とも同じころ築かれたと考えられ、特に本願寺顕如が織田信長と戦いを始めた石山合戦の元亀元年(1570)ごろ、二曲城は砦形式の城砦から本格的な山城へと拡幅・改修されたとされる。
【写真左】加賀の傑僧「任誓」与三郎の碑
 登城口付近には、戦国期に一向一揆は掃討されたが、江戸時代の貞享・元禄のころ、当地近郷の人々を教化し、尊信された傑僧・任誓の碑が祀られている。

2015年1月13日火曜日

鳥越城・その2(石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町)

鳥越城(とりごえじょう)・その2

●所在地 石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町
●指定 国指定史跡(昭和63年9月3日)
●築城期 不明
●築城者 鈴木出羽守
●城主 鈴木出羽守
●高さ 312m(比高130m)
●遺構 郭・堀切・空堀・櫓・礎石建物等
●登城日 2014年6月18日

◆解説
 前稿に続いて鳥越城の本丸以降の箇所を紹介したい。
【写真左】鳥越城案内図


【写真左】本丸土塁上から麓を俯瞰する。
 鳥越城の東麓部が見えるが、その奥(中央)は鳥越城の西麓を流れる大日川が、東麓を流れる手取川と合流し、谷を縫うようにして日本海へ流れる。その距離は凡そ25キロほどになる。
【写真左】後二の丸
 本丸北端部から後二の丸が見える。一旦本丸を出て、再び北側の道にまわり、二ノ丸に向かうことにする。
【写真左】後二の丸に向かう道
 中央が後二の丸に向かう道だが、その手前右に空堀が配置されている(下の写真)。
【写真左】空堀
 右側が本丸(土塁)で、左が後二の丸になるが、幅は狭いものの、かなり鋭角な切り込みの薬研掘りとなっている。
【写真左】後二の丸
【写真左】中の丸
 後二の丸から再び戻り、枡形門の前にある中の丸を見る。
【写真左】中の丸門
 西側に設置されているもので、両側には土塁が構築されているが、特に右側の土塁は厚みがある。
 このあと、門を潜り下に向かう。
【写真左】腰郭
 北側から回り込んできた腰郭がこの位置で終点となる。
 中の丸門と腰郭で西側を扼するもの。

 このあと、再び戻り前二の丸・三の丸に向かう。
【写真左】前二の丸
 奥には隅櫓が見える。












現地の説明板より

“二の丸
 二の丸跡は腰郭から登る路と中の丸門に隣接する郭で、南側は堀切を配して三の丸を見下ろす。
 郭に全周する土塁が築かれ、南東側が特に高い。南西隅の礎石建物跡は、谷に臨んで二曲(ふとうげ)城を正面にした隅櫓で、東縁の礎石建物跡は東腰郭側に備えた櫓である。
【写真左】二の丸発掘区遺構配置図





 内側には建替えを表す掘立柱建物の柱穴多数と食料貯蔵用の石室状土坑1基が発見されたが、礎石は抜き取られていた。
 土坑内からは炭・焼土に混じって、陶器類と刀・鉄砲玉、鏡。漆器碗・皿、賽子(サイコロ)が出土した。”
【写真左】隅櫓・その1
 南東側に配置された隅櫓。
【写真左】隅櫓・その2
 南端部のもの
【写真左】二の丸から中の丸方面を見る。
 二の丸も含め、西側は木立に遮られて見えないが、北東方面の視界は確保されている。
【写真左】釜清水・別宮方面に向かう。
 この日は釜清水・別宮まで足を延ばしていないが、この先に整備はされていないものの、前三の丸がある。
【写真左】空堀
 前二の丸と前三の丸の間に設置されたもの。
深さはさほどないが、東斜面の下方まで伸びている。
【写真左】前三の丸
 ご覧の通り整備されていないが、全体の形状は把握できる。
 中央部が少し盛り上がっている。
さらに先を進む。
【写真左】堀切
 前三の丸の南端部に設置されているもので、奥の方は土塁状の高まりがある。
【写真左】三の丸から先の箇所
 このあたりから少し下り坂となる平坦な尾根が続いている。
 この先には馬場跡があったといわれるが、既にこの個所も馬場跡だったと思われる。

2015年1月7日水曜日

鳥越城・その1(石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町)

鳥越城(とりごえじょう)・その1

●所在地 石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町
●指定 国指定史跡(昭和63年9月3日)
●築城期 不明
●築城者 鈴木出羽守
●城主 鈴木出羽守
●高さ 312m(比高130m)
●遺構 郭・堀切・空堀・櫓・礎石建物等
●登城日 2014年6月18日

◆解説(参考文献『石川県中世城館跡調査報告書Ⅲ H18年』等)
 鳥越城は北陸の霊峰白山(標高2,702m)を源流とする石川県最大の河川手取川中流域にあって、中世本願寺門徒の拠点とされた山城である。
【写真左】鳥越城鳥瞰図
 田村昌弘氏作図の縄張図を参考に描く。

 鳥越城は長く伸びた舌陵丘陵の先端部に築かれているが、当時丘陵直下は、東西を流れる手取川や支流・大日川などが天然の濠の役目をしていたものと思われる。

 なお、城域はこの図からさらに上(南方)に向かった位置(現釜清水トンネル)まで伸びていたといわれ、総延長は凡そ1,5キロの長大な規模のものであったと考えられている。
【写真左】鳥越城遠望・その1
 東麓側の大日川付近から見たもので、写真右側が南方の白山方面に繋がる。
【写真左】鳥越城遠望・その2
 先端部を見たもので、手前の大日川はこのまま下って、本流手取川に合流する。







現地の説明板より

“ 讃

 五百年前、日本の歴史に、世界の歴史に例のない、農民の心をひとつにしてできた国があった。
 これが、加賀「百姓の持たる国」の誕生である。
【写真左】鳥越城跡案内図
 現地の案内図に手を加えたもので、追加したものは左側の「前三の丸」だが、この他に尾根南側には「馬場跡」があったとされている。

 なお、当城には車で直接向かうことができ、駐車場も完備されている。


 天の声、地の声を、わが心とした人々の固い団結は、以来百年に及んでいる。
 しかし、歴史は無情である。この国の終末は殉教と云う悲劇の中に幕を閉じることなる。その最後の舞台が、ここ、「鳥越城」である。

 いま、悲しい歴史をもつこの里にも、新たな創生が進められている。
 それは、四百年前に、先人たちが心をひとつにして、雲霞の如き織田の大軍に、死をも恐れず立ち向かった一向一揆の殉教の精神を讃仰し、そのエネルギーを継承し、新たな鳥越村を築くことでる。
 やがてこの里の山河燃ゆる日を念じつつ、先人たちの霊に合掌せん。

  加賀一向一揆五百年を記念し
  新たな鳥越村の創生を祈りつつ記す。
 
 平成2年8月13日
  鳥越村一向一揆まつり実行委員会
        鳥越村村長  橋浦 久三
            作者  吉田  隆
            題字  笠原 一男”
【写真左】駐車場から後三の丸に向かう。
 手前の広場が駐車場で、ここから歩いて各遺構に向かう。
 写真の右側には下段で示す「あやめが池」がある。
【写真左】あやめが池
 鳥越城周辺部にはまとまった水源が確保できた箇所はあまりなかったのだろう。

 その中でもこの池は東方の「後三の丸」の谷にあって、発掘調査の時、水を通す砂の地層があって、出口には石積と、パイプの代わりをしていた木樋が検出された。



百姓の持たる国

  室町時代、本願寺中興の祖といわれた第8世・蓮如の子である実悟(じつご)が残した『実悟記拾遺』に次のような個所がある。

百姓の持たる国のようになり行き候云々

 これは加賀国(石川県)で起こった一向宗の一揆「長享の一揆」のあと、記録されたものである。
【写真左】後三の丸・その1
 遺構の配置の中で最北端部にあるもの。
「うしろさんのまる」と呼称されている。当城のなかでは最大の面積を誇る郭で、南側の本丸がある郭群とは空堀を介して独立している。


【写真左】後三の丸・その2
 三の丸の一角に小さな郭が付随しているが、この箇所に掘立柱建物跡や排水溝などが検出されている。
 位置から考えて、北の守りとしての前線基地であったと考えられる。


 応仁・文明の乱がおこったこの時期、京都における内乱は瞬く間に全国に広がった。中でも北陸加賀地方では守護家の家督争いを起点として、国人領主や門徒・農民らが一斉に蜂起した。当初は加賀守護職を巡っての守護家富樫家の家督相続争いであったが、やがてこれに浄土真宗高田派と、本願寺派(一向宗)が加わり、当地の一揆は拡大の一途をたどることになる。
【写真左】空堀
 後三の丸のほぼ全周囲を囲繞しているもので、堀としての窪みは殆ど残っていないが、後三の丸をこのラインで最初に防御するものだったと思われる。
 

 この騒乱はその後、一揆勢(土民)らが主導権を握り、武家方を駆逐し、ついに「百姓の持たる国」となった。こうして加賀をはじめ越前や越中の一部は、ほとんど武家方が表に立つことなく、一揆・一向宗門徒らによって国の支配がおよそ100年近くの間にわたって続くことになる。

 いわば百姓による自治がしばらく続いたわけだが、こうした土民らによる支配された地域を惣国といい、北陸の他に挙げられるものとしては、近江・三河の一部、さらには惣村レベルでは尾張と伊勢の国境である長島や、紀伊の雑賀などがある。
【写真左】中の丸に向かう。
 後三の丸を一通り踏査した後、一旦降りて中の丸方面に向かう。

 写真の右下(東)は雑草で覆われているが、南北に長い帯郭がある。また、この写真の左側には後二の丸や本丸と連続する浅い空堀があり、その中途には土橋が設けられている。



柴田(織田)軍との攻防
 
 天正8年(1580)、織田信長は白山麓の本願寺門徒討伐をめざし、柴田勝家にその任を命じた。
 同年11月、当時一向一揆の拠点の一つであった加賀・松任城の鏑木氏が勝家らによって謀殺されると、一気に一向宗門徒らは守勢に立たされた。
 そして、翌天正9~10年(1581~82)、遂に鳥越城をはじめ白山麓において柴田軍(織田軍)らと壮絶な戦いが繰り広げられた。
 鳥越城の城主・鈴木出羽守は白山麓本願寺門徒を引き従え、最期まで徹底抗戦した。
その結果、織田軍らの掃討作戦によって300余人が捕らわれ、手取川の河原で磔刑されたという。
【写真左】本丸西側の礎石建物跡
 中の丸や本丸に向かう途中には小規模な郭があるが、この部分に礎石建物跡がある。
発掘時の写真を下段に示す。
【写真左】本丸西側調査時の写真
現地の説明板より

“本丸西側
 本丸西側は枡形門前から一段下がり、北方に緩傾斜し幅を広げて長方形となりますが、もとは大日川向きに下がる斜面でありました。盛土と削平で階段状の三区画が造成され、それぞれの建物が棟を東西に向けて建てられます。本丸建物と本郭の建ち並ぶ建物群は、平地からは威圧的な景観として見上げられたと思われます。
 主要郭内での軸線に当たる地形から、南北方向の石敷き道や堀底道が設置されますが、最終的には北方の空堀と西方の腰郭を臨み、本丸を防衛していた郭と想定されます。”
【写真左】枡形門・その1
 すでに中の丸に入っているが、これについては後ほど紹介し、先ずは本丸側に向かう。
 この枡形門は城内で唯一石垣で三方を固めているもの。
【写真左】枡形門・その2
 本丸門側から振り返ってみたもので、枡形門を抜けると一旦L字型に角度を変え階段を登って本丸門に向かうようになっている。
【写真左】本丸門
 ご覧の通り両側には高さ2m余りの土塁が築かれ、柵列を介して防御を固めている。
 復元された門だが、おそらく当時の意匠とほぼ同じものだっただろう。
【写真左】本丸・その1
 南北に伸びる長方形で、三方に土塁が囲繞する。この中には礎石建物群があるが、6回にわたって建替えされた跡が残る。南西側には激しい戦を物語る焼土層が広がっていたという。出土品としては、石臼・茶臼・鉄釘・銅銭・越前焼の甕(かめ)・擂鉢・漆塗碗など。また、中国製陶器として碗・皿・盃が目立ち、武器類としては鉄砲玉・小刀・鎧断片など多数のものが検出されている。
 現地にはこれらの発掘調査時の写真なども掲示されている。
【写真左】井戸跡
 冒頭で紹介したあやめが池とは別に本丸内に井戸跡が残る。
 鳥越城での戦いは長期にわたる籠城戦があったことから、城内における食糧や水の確保などには最大限の努力が払われたことだろう。
【写真左】本丸・その2
 北側から振り返ってみたもので、東側(左)に土塁が残り、その奥には望楼台(櫓台)が見える。中央の門が本丸門。



◎次稿へ
 今稿はここまでとして、中の丸や後二の丸など他の遺構については、次稿で紹介したい。