2015年12月9日水曜日

藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)

藤掛城(ふじかけじょう)・その1

●所在地 島根県邑智郡邑南町木須田
●別名 藤根城
●高さ 354m
●築城期 文和4・正平10念(1355年)ごろ(南北朝期)
●築城者 高橋師光
●城主 高橋氏(興光)
●廃城年 享禄3年(1530)ごろ
●遺構 郭(本丸・二の丸)、空堀、井戸、石塁、土壇
●登城日 2015年10月3日、4日

◆解説(参考文献 「大宅姓高橋氏の時代から毛利氏へ」2015年10月3日、高橋氏660年記念事業 岸田裕之広島大名誉教授講演添付資料等)

 藤掛城は石見と安芸の境に接する現在の島根県邑南町木須田に所在する山城で、石見・高橋氏が築城したものである。
【写真左】藤掛城遠望
 東麓の阿須那公民館側から見たもの。










 当城及び城主・高橋氏についてはこれまで琵琶甲城(びわこうじょう)・口羽氏 その1(島根県邑南町下口羽)壬生城(広島県北広島町壬生)別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)口羽氏・その3 二つの軍原(いくさばら)などで度々紹介してきた。

 今年(2015年)10月3日、当城の麓邑南町阿須那において、「高橋氏660年記念事業」が開催され、広島大学名誉教授岸田裕之氏の講演並びに、藤掛城登城のイベント企画があったため管理人も参加した。
【写真左】藤掛城の縄張図
 説明板に添えられたもので、上方が北を示す。
 左側に薄い線だが、登城道が表示されている。

 この図を元に、管理人が作図したのが下段の鳥瞰図である。
【写真左】藤掛城鳥瞰図
 上記縄張図を基に描いたもので、東側から鳥瞰しているため、西側の遺構については表示できないが、主だった遺構は描いたつもりである。
 当城の主だった構成は、最高所に南北に長い本丸があり、その中央部に土壇が設けられている。

 現在の登城道はこの絵図の裏側(西側)になるが、本丸の南西部に本丸の入口がある。また、本丸から北の二ノ丸へは凡そ8m程下った尾根筋に設けられ、その先の尾根筋にも二条の堀切や、櫓段が配置されている。
 この他、東側に下りた尾根筋には長郭(仮称)とされるおよそ長さ30m×幅8mの規模を持つ長い郭が突出している。


阿須那公民館側に設置されている説明板より

“藤掛城(藤根城)
 1355年(文和4・正平10)頃、岡山県高梁市の松山城に居た高橋九郎左衛門師光は、室町幕府の足利尊氏将軍から、石見、安芸の両国にまたがる3千貫の領地を与えられ、その本拠と定めたこの阿須那の地にやってきた。
【写真左】登城口
 講演後、凡そ40人前後の参加者の皆さんと藤掛城へ登城すべく、チャーターされたマイクロバスで裏側(西側)の谷にある登城口まで来る。
 藤掛城はこの写真の左側の山である。
 主催者側から簡単な説明を聞いた後、いよいよ登城開始。


 そして、反幕府方へついた石見の国人領主に対抗する最前線の拠城として、木須田の藤掛山に城を築いた。引き続き、大庭と戸河内境に聳え、眺望に優れた鷲影山に城を築き、更に、安芸、備後への連絡に適した、下口羽の高畑に砦を築いた。

 1361年(康安元・正平16)、師光は嫡男貞光を従え、出羽弾正左衛門尉実祐を二つ山城で討ち、出羽氏を君谷へ追放した。そして、この周辺へ勢力を拡大していった。
【写真左】案内板
 この日(2015年10月3日)のために、事前に実行委員会の方々によって道の整備や、案内板が設置されていた。




 1470年頃、大九郎久光は、毛利氏との間の不利な紛争の解決のため、引退して幼い命千代に家督を譲った。

 1476年(文明8)の命千代を護る重臣16人の契状から、
   東は三次市作木町森山の岡、西は北広島町の壬生、
   南は安芸高田市美土里町の横田、北は飯南町の井戸谷、
 という高橋氏の領域が推察できる。

 1508年(永正5)、大内義興に従い、足利義尹を推して京へ攻め上がった褒賞として、福岡県東部の三つの荘や、山口県柳井の荘を賜った。最盛期の所領は1万6千貫という。

【写真左】馬の水飲み場跡
説明板より

“藤掛城は南の山からの豊富な地下水に恵まれて、この高い所へ堤で池を造り、馬に水を飲ませていたという。北隣の谷には涸れることのない清水が湧いている。”




 1515年(永正12)、高橋民部少輔元光は三吉氏の属城の西入君の本亀城を攻め、楽勝の油断を突かれて討死した。驚いた大内義興は、家督を元光の子の治部少輔弘厚でなく、孫の大九郎興光に継がせることを勧めた。これが高橋氏の家中に内紛を招き、後年、毛利元就は、高橋弾正盛光に反間の計をめぐらした。
【写真左】本丸と長郭への分岐点
 後半はかなり急坂となった道を登っていくが、やがて尾根ピークに達する。

 この位置で、左(北)に進むと、本丸へ、右に進むと東斜面に独立して伸びる長郭へ向かう。
 また、尾根の反対側には二条の堀切がある。
先ずは、この尾根南に延びる堀切に向かう。
 

 1529年(享禄2)頃、鷲影城主の盛光は、興光の帰城を軍原に待伏せて襲いかかった。瞬時に達観した興光は、奮戦して多くの敵を倒しながら、傍らの巨岩に駆け上がり、高橋家の滅亡を予言、慨嘆しながら切腹して果てた。興光の首を届けた盛光が、毛利方に討たれたのは3日後と伝える。

  高橋氏660年記念事業2015年”
【写真左】二条の堀切
 分岐点からさほど遠くない南尾根に設置されたもので、手前の堀切がやや深い。
 なお、写真は講演会の時のものでなく、明くる日再び登城したときのものである。

 団体で登城した場合は、どうしても時間的に制限があり、踏査できない箇所があったため、改めて登城した(以降の写真は当日と翌日の2日間に渡って撮影したものである)。


石見・高橋氏

 説明板にもあるように、築城者である高橋氏は1355年(文和4・正平10)備中松山城(岡山県高梁市内山下)から高橋九郎左衛門師光が阿須那に下向してきたのに始まる。ただ、資料によっては、下向したのが観応2・正平6年(1351)というのもある。これについては後段でも言及しておきたい。
【写真左】長郭・その1
 二条の堀切を見た後、今度は尾根の東斜面を少し下がりながら行くと、独立した長い郭が見えてくる。
【写真左】長郭・その2
 先端部から西方を見る。長郭の軸線はほぼその上にある主郭の土壇(櫓)と重なるが、ここから直接主郭に向かうことは出来ない。かなり険しい切崖があるからである。
 尚現在郭周囲は雑木が繁茂しているため視界は良くないが、この位置からは口羽方面が見えるため、主として東方を扼する位置にある。



 師光の祖は元弘3年(1335)5月、六波羅を落とされた探題北条仲時らが遁れて、近江番場で自害した際、彼らと共に従軍していた高橋(大九郎佐衛門)光国である。光国は従って北条氏側であったが、もともと高師直・師泰兄弟(三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅)参照)のいきのかかっていた人物である。
【写真左】蓮華寺にある北条仲時以下432名の墓石
 所在地 滋賀県米原市蓮華寺
 参拝日 2015年10月24日

 元弘3年(1333)5月9日、近江番場にて佐々木道誉(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照)らに追われ一族ら432人自刃。仲時享年28歳。
 この中に高橋光国も随臣し殉死した。中央の大きな墓が仲時で、光国の墓もこの墓石群の中にあるだろう。


 光国が北条氏と運命を共にしたとき、その子光義は備中松山城に残り、尊氏方に与し、その戦功によって感状も賜っている。光義には三人の男子があり、後の藤掛城主となる師光は次男といわれている。

 前述したように、高橋氏が高師直・師泰と深い関係をもっていた裏付けとなるのが、師光という名が示すように、おそらく師光の「師」は高兄弟の「師」から偏諱を受けていたと思われる点である。
【写真左】備中松山城
 所在地 岡山県高梁市







 そして、この石見・高橋氏の祖ともいえる師光が、当地(阿須那木須田)に下向したのは、通説では足利尊氏の命といわれているが、資料によっては、正平6年(1351)2月26日、摂津国で高師直・師泰兄弟が上杉能憲に殺害され、このため備中を追われ石見に下向してきたという説(『大和村誌 上巻』)があり、こちらの方がより事実に近いかもしれない。従って、このことから高橋氏の石見(阿須那)下向時期については、上述したように二説考えられる。
【写真左】本丸・その1
 本丸の入口は西南側にあるが、写真はその南端部から北方向を見たもので、奥には中央部に高くなった櫓(土壇)が見える。
 土壇から南方向に延びる郭の長さは凡そ25m前後ある。
 ここからさらに北に進む。



 さらには、生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)でも触れているが、1361年(康安元・正平16)、師光は嫡男貞光を従え、出羽弾正左衛門尉実祐を二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)で討ち、出羽氏を君谷へ追放しているが、この命を出したのは尊氏でなく、足利直冬といわれる。

 というのも、すでに足利尊氏は正平13年(1358)に死去しており、直冬が石見国でもっとも勢威を拡大している時期でもあったからである。因みに、二つ山城を陥落させた直後、師光は鱒淵(旧瑞穂町)に本城を築いている。
【写真左】本丸・その2 櫓(土壇)
 南北に延びる本丸のほぼ中央に設置されているもので、規模は東西幅10m×奥行2m×高さ2m前後のもの。
【写真左】本丸・その3
 櫓台から北側に延びる郭を見たもの。南側より若干長く、30m近くあるかもしれない。
【写真左】本丸・その4
 北側から櫓台を見る。
 なお、現在本丸からの眺望は周囲に雑木があるため、あまり期待できない。
 


高橋氏の領域

 上掲した説明板や、岸田裕之氏の講演でも紹介されていたが、1470年(文明2)ごろ、毛利氏との争いから、大九郎久光は、引退して幼い命千代に家督を譲り、その幼主を支えるべく、一族16名が笠連判状を残している。その内訳は次の通りである。

 岸田氏も述べているように、この名簿から分かることは、その姓名が殆ど当時各々が領地していた土地名を名乗っていたことから、この時期高橋氏が治めていた支配地域が確認できることである。具体的にこの名簿の右側にその地区を付記して置く(管理人による)。

石見国内(島根県)
  1. 雪田民部少輔 光理     邑智郡邑南町雪田
  2. 上出羽◇ 光教        邑智郡邑南町出羽
  3. 下出羽藤兵衛尉 光明     邑智郡邑南町出羽
  4. 口羽下野守 光慶       邑智郡邑南町上・下口羽
  5. 与次郎 清光          邑智郡邑南町阿須那与次郎山
  6. 長田備前守 光季      邑智郡邑南町上田長田市
  7. 井戸大膳助 光益     飯石郡飯南町井戸谷井戸(井戸城主か) ⇒北端(井戸は厳密には出雲国になるが、石見国との国境に当たる)
安芸国内(広島県)
  1. 山形河内◇ 光朝     北広島町の壬生   ⇒西端
  2. 重延大和守 光秀      安芸高田市美土里町横田重信
  3. 北越後守 光康       安芸高田市美土里町北 
  4. 横田常陸守 朝光      安芸高田市美土里町横田(松尾城主)  ⇒南端
  5. 生田右馬助 秀光      安芸高田市美土里町生田(生田・高橋城主か)
  6. 岡長門守 光基      三次市作木町森山の岡  ⇒東端
その他
  1. 山城守 光直           不明
  2. 繁安筑後守 光通          不明
  3. 新見◇後入道 浄鳳        不明
※ ◇印は判読困難

 上記のうち、下段の「その他」で示した三人の武将は、おそらく備中高梁時代から高橋氏を支えてきた譜代家臣と思われ、特に新見某などは、楪城(岡山県新見市上市)の新見氏の庶流と考えられる。
【写真左】二の丸・その1
 本丸北端から険しい切崖を下ると二の丸が控える。
 写真は、二の丸側から本丸の切崖をみたもので、伐採など整備はされていない。


 またこの連判状とは別に、以前紹介した面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)の佐々部氏もまた高橋氏に仕えている。

 その時期は文明年間の久光時代よりもかなり遡った南北朝期と考えられ、芸石・高橋氏が尊氏派又は直冬派となって活躍していた段階ですでに麾下となっていた可能性もある。従って、文明年間ごろの高橋氏の支配領域は、東端部は佐々部氏領地(高宮)まで拡大していたと考えられる。
【写真左】二の丸・その2
 ご覧のように熊笹などが繁茂しているため、遺構の状況が明瞭でないが、尾根幅は次第に細くなるものの、長さは本丸の約半分程度ある。

 この先の尾根を下っていくと、一旦鞍部となった先に小郭群が連続し、櫓状の頂部があるようだが、藪コギのため断念した。


 次稿では、藤掛城周辺部、及び戦国期毛利氏の調略によって当城で自刃した城主高橋興光の墓などを紹介したいと思う。

2015年11月29日日曜日

安芸・亀居城(広島県大竹市小方)

安芸・亀居城(あき・かめいじょう)

●所在地 広島県大竹市小方
●別名 小方城
●形態 平山城
●築城期 慶長8年(1603)
●築城者 福島正則
●遺構 郭・堀切・石垣・井戸
●指定 大竹市指定史跡
●登城日 2008年4月11日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 亀居城を訪れたのは2008年で、7年も前になる。当城は本ブログのテーマとしているいわゆる「山城」ではないため、おそらくアップするのを控えていたものと思う。
【写真左】亀居城
 当城は下段に示すように、城主福島正則にとって不運な歴史を持つ城址だが、遺構として残った石垣には見るべきものがある。

 ただ、後年(近代か)相当な修復がなされているようだが、具体的にどの部分なのか管理人は把握してない。


 もっとも、写した写真を見てみると、桜見物が目的のような絵柄が大半となっている。そんなわけで、遺構の方はあまり期待しないでいただきたい。

 なお、写真の日付には2007年1月1日と表示されているが、これは管理人の設定上の不手際で、実際に登城したのは2008年の4月11日である。
【写真左】亀居公園案内図
 現地に設置してある案内図に、管理人が追記したもので、今では市民の憩いの場として公園となっている。

 左図の赤字で示したところは現在消滅しているが、当時「妙見丸」と「鐘の丸」という郭があった。


現地の説明板
“市指定史跡 亀居城跡
  慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は、領国8ヶ国の内、防長2ヶ国を与えられ、その本城広島を去り、東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が芸備2ヶ国を与えられて、そのあとに入りました。

 広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。
 このとき小方の城将には、甥の福島伯耆(1万石)を配備して、慶長8年(1603)から築城をはじめました。築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。
【写真左】亀居城・その1
 7年も前のことなので、写真の箇所がどこなのか全く思い出せない。







 5年の歳月を経た慶長13年(1608)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島正則は完成の前年他界したので、これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました。

 海に面したこの城の規模は、面積10町歩(992アール)、周囲18町(1,960メートル)におよび、山頂に本丸・これに二の丸・三の丸・有の丸・なしの丸・松の丸・名古屋丸・捨の丸の8台が続き、本丸と有の丸の横に詰の丸、その下に鐘の丸・妙見丸があって、合計11台よりなり、また海に面しない部分の周囲には、新町川の流水や海水を導入した堀や、から堀が巡らされていたといわれています。
 なお、この城が亀居城と称されたのは、城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します。

 かくして亀居城は、広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃正則に対する幕府の圧力は非常に厳しく、完成後間もない慶長16年(1611)、この城は取り壊される運命となりました。

 大竹市教育委員会”
【写真左】亀居城・その2
 本丸付近か











福島正則

 築城者福島正則は、賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)でも紹介したように、賤ヶ岳の戦で勇名をはせ、加藤清正らとのちに「賤ヶ岳の七本槍」の1人とも称された武将である。文字通り秀吉を支えた人物で、秀吉亡き後、次第に石田三成との不仲が決定的となり、関ヶ原では東軍(家康方)についた。
【写真左】亀居城・その3













 新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)や、千手寺と長尾隼人五輪塔(広島県庄原市東城町)でも述べたように、秀吉に対する熱い忠義が家臣にも伝わったらしく、有能な家臣も多く仕えた。
【写真左】亀居城・その4













 徳川幕府が彼に対し執拗なまでの圧力をかけていたのは豊臣恩顧の家臣で、しかも彼の母が秀吉の叔母という間柄という濃い親族であったことも理由だろうが、やはり百戦錬磨の実績を誇った武将であり、家康が亡くなったあと、幕府としては清正と同じく、もっとも脅威を感じた人物であったことが大きな理由であろう。
【写真左】石垣の刻印
 亀居城の特徴の一つとされるのがこの刻印である。

現地説明板より

“亀居城の石垣の刻印(その1)

 城は「建てる」とはいわずに「築く」といいます。城の威力は建物よりも、石垣の要害に負うところが大きいからです。
 その石垣の石に、刻印を付けたものが慶長~寛永(1603~1642)の頃の築城に、著しく見受けられます。

 刻印の目的は、種々考えられますが、亀居城の場合は、石の出荷を厳しく督励するために仕事を請けたグループごとに、目印のマークを彫りつけさしたものと思われます。

 石垣は、花崗岩で築かれていますが、山そのものは、堆積岩(水成岩=玖珂層群)で出来ています。
 この石垣のすべての石が、島や海岸からばくだいな労力で運び上げられたものです。
 亀居城の刻印は、42種類-264個が発見されており、このうち広島城の刻印と同型のものが、21種類もあります。
 このことは、両城とも福島正則が普請したという、一つのあかしとなります。

 「三の丸」の刻印は左記のように16種類・54個あります。
 ※印は広島城と同じ型です。

    大竹市教育員会”
【写真左】亀居城・その5
【写真左】亀居城・その6
【写真左】亀居城・その7
 奥に見えるのは、広島湾(安芸灘)に突出した大竹市の街並みと工場地帯。
【写真左】亀居城・その8
 左に見えるのは厳島と思われる。
【写真左】亀居城・その9
【写真左】亀居城・その10

2015年11月26日木曜日

阿用城(島根県雲南市大東町東阿用宮内)

阿用城(あようじょう)

●所在地 島根県雲南市大東町東阿用宮内
●別名 磨石城・蓮花(寺)城
●築城期 南北朝期
●築城者 土屋氏(桜井氏)
●城主 桜井(阿用)宗的
●高さ 309m
●遺構 郭・堀切・土塁・帯郭・虎口
●備考 明峰山 蓮花寺
●登城日 2014年10月24日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系第14巻』『石見町誌』等)
 前稿まで九州地区の山城を取り上げてきたが、今稿は久しぶりに管理人の地元・出雲の山城を取り上げたい。
【写真左】阿用城遠望
 西側から見たもので、北(左)側には蓮花寺が所在する。









 阿用城は別名磨石城(とぎしじょう)とも呼ばれ、現在の雲南市大東町阿用地区に築かれた城砦で、この近くには以前取り上げたものとしては、丸子山城(まるこやまじょう)跡・島根県雲南市大東町大東や、佐世城(島根県雲南市大東町下佐世)などがある。

現地説明板より

“阿用城由来記

 阿用城は、14世紀から16世紀、南北朝時代から室町時代にかけて阿用を支配していた土豪桜井氏の居城跡である。桜井氏は京極氏の家臣であったが、15世紀の終わりに京極氏に代わって出雲の覇者になった尼子氏に従わなかったため滅ぼされたと伝えられている。
【写真左】登城口始点
 蓮花寺に向かう道の途中で道が分岐し、右に向かうと阿用城(とぎし城)へ、左に向かうと蓮花寺にたどり着く。

 車はこの付近の空き地に1台程度は留めることができる。


 城跡は、標高309mの通称磨石山(とぎしさん)の頂部から延びる尾根上や、枝尾根上に延600mにわたり大小60余りの郭(平に加工された区画、曲輪)が配置された大きな山城跡である。
 しかし、郭面は自然地形のままのところも多く、土塁も明確なものは山頂の主郭の一部のみである。また斜面に竪堀(敵の移動を防ぐための竪状の堀)は見当たらず、城の縄張り(構造)としてはややまとまりを欠く。
【写真左】登城道
 林道として使われているせいか、しばらく歩きやすい道となっている。

 また要所ごとにこうした案内標識が立っているので分かりやすい。


 城主の居館跡については、平成元年多量の埋納銭貨(せんか)が発見された南西側東上集落の山麓区域が考えられる。また下方の福富集落東側低丘陵上には、福富城跡があり、阿用城の支城跡の一つと考えられる。

 阿用城の城攻めについては、軍記物の『雲陽軍実記』及び『陰徳太平記』に独特の文学的表現で劇的に語られている。即ち寄せ手の大将尼子政久(経久の嫡男)が夜、向城の櫓上で笛を吹いていたところ、阿用城主桜井宗的に向いの竹やぶから矢を射掛けられるという奇襲攻撃を受けて殺された。この事件の後、阿用城は尼子軍の総攻撃を受け落城したと記されている。
【写真左】ここから急坂となる。
 幅員が結構あるので、おそらくここまで軽トラックで登れるかもしれない。
 ここまで遺構らしきものは見いだせない。


 また『佐々木系図』(佐々木寅介蔵原本・県立図書館写本蔵)には、政久の死について次のように記している。
 「政久 又四郎 民部少輔 永承十年(1513)癸酉九月六日於雲州阿與城当流矢卒歳廿六 法名 華屋常心」。

 落城の時期については、雲陽軍実記は1508年(永正5年)、陰徳太平記は1518年(永正15年)とする。これら三資料から阿用城落城は1510年前後と考えられるが、あるいは佐々木系図の1513年が当たっているかもしれない。

 平成22年10月 阿用地区振興協議会”
【写真左】土塁
 登城途中の右側に土塁が見える。
この辺りから郭群が散見されるが、いずれも小規模なものや、劣化のため自然地形に近いものが多い。


蓮花寺(曹洞宗 明峰山)

 阿用城の所在する磨石山に向かうには、北側の谷を挟ん隣接する尾根に建立された古刹・蓮花寺を目指す。先ずはこの寺院について先に紹介しておきたい。

 『島根の寺院 第3巻』(有賀書房)によると、寺伝によれば、奈良時代後期の天平年間(749~766)、行基菩薩又は延暦年間(782~805)、伝教大師の開基ともいわれる。また、出雲観音霊場第14番の札所でもある。
【写真左】蓮花寺
 参拝日 2007年12月26日











 南北朝時代の正平年間、大東庄南北を領していた土屋氏の一族・土屋四郎左衛門尉、及び伊藤弾正左衛門尉が、伯耆の名和氏と呼応し、蓮花城に拠って勤王の兵を挙げたと伝えられている。

 元は天台宗であったが、応永年間(1394~1428)に本院開山融山大祝禅師が再興し、以来曹洞宗として法灯絶えることなく今日に至っている。
【写真左】「くのじ展望台」から阿用城を遠望する。
 蓮花寺側から東に少し登っていくと、「くのじ展望台」があるが、ここから南方向を眺望すると、阿用城が見える。

 なお、「くのじ展望台」については下段の方で紹介している。




土屋氏

 さて、上掲した説明板には、阿用城を居城としたのは、土豪桜井氏とあり、元は京極氏の家臣であったとしている。これに対し、「蓮花寺」の項では、土屋氏としている。

 土屋氏と桜井氏、この両氏がどういう経緯で当地に入ったのか、詳細な記録はない。
【写真左】このあたりから左右に小郭の段。
 説明板にもあるように、中小60前後の郭が点在していると書かれているが、ほとんど明瞭でない。





 そこで、まずは土屋氏という姓名を一つの手がかりとして推考してみたい。出雲国という西国における当時の国人領主や土豪といった一族の出自を思い浮かべるとき、一般には東国御家人が考えられる。土屋氏もその例外でなく、やはり鎌倉期における地頭補任がもっとも可能性が高いだろう。
 
 出雲国において最初に土屋氏の名が出てくるのは、土肥実平の弟・土屋宗遠(むねとお)が大原郡福田荘に補任されたという記録がある。もっとも、この地頭記録はその後代官の濫妨行為によって、文治2年(1186)に停止されている。
【写真左】主郭・その1
 尾根の最初のピークを過ぎるとその後は平坦な道となるが、そのまま北に進んで行くとご覧のように伐採整備された主郭が見えてくる。



 福田荘というのは阿用城の所在する大東町の西隣加茂町にあった荘園で(下段写真参照)、文治2年の地頭停止の際、土屋氏は福田荘から大東町阿用に移った可能性もある。また、少し時代は下るが、天福元年(1233)ごろ、宍道湖の北岸にあった秋鹿郷には土屋氏が地頭となっている。
【写真左】主郭から北西に旧福田荘などを見る。
 主郭から眺望が利くのは、北西方向だが、ここから旧福田荘があった加茂町や、以前取り上げた高瀬城(島根県斐川町)や、葛西氏・城平山城(島根県斐川町上阿宮)その1などが見える。

 また、斐川町を挟んでその奥には、通称北山に聳える旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)も眺望できる。


 ところで、土屋宗遠の兄・土肥実平はこれまで何度も登場してきているが、安芸・高山城の城主沼田小早川氏の始祖である。実平の弟とされる土屋宗遠は、兄実平と同じく相模国の出で、現在の神奈川県平塚市土屋を本拠とした。頼朝の鎌倉開幕に貢献し有力御家人となった人物であるが、晩年は承元3年(1209)梶原景時の孫を殺害した咎などで歴史の表舞台から姿を消すことになる。
【写真左】主郭の北側切崖
 主郭の北西側は全体に急傾斜となっているが、その上段部には高さ3m前後の切崖があり、一段ほどの腰郭状のものが付随している。



南北朝期

 上掲した蓮花寺の寺伝にもあるように、南北朝期におそらく阿用城と思われる蓮花城があり、時の城主が土屋四郎左衛門尉(以下「土屋四郎」とする)などとなっている。このことから、鎌倉期に当地に下向して以来、同氏はその地に根を張っていったのだろう。
【写真左】竪堀
 本丸の西側斜面に残るもので、大分劣化した遺構だがこの箇所の竪堀は比較的分かりやすい。





 土屋四郎が伯耆の名和氏と呼応し、当城に拠って勤皇の兵を挙げたというのは、後醍醐派に与したことでいわゆる南朝方(宮方)として戦ったということである。
 当然、これに対する北朝方の攻防もあったわけで、これを示したのが、諏訪部扶貞(貞扶)の軍忠による文書である(『三刀屋文書』)。
【写真左】腰郭
 主郭から北東に延びる尾根を少し進んで行くと、細長い腰郭がある。
 当城の北端部に当たる個所で、この付近には櫓に使われたと思わる巨石が2,3点在していた。


 このことについては、すでに瀬戸山城で紹介しているが、出雲部における戦いは、正平5年・観応元年(1350)が最も激しい。この年の8月下旬、諏訪部扶貞は下記の場所での軍忠を書き上げ、高師直の証判を受けた。
  1. 7月8日、阿用荘蓮花城
  2. 7月12日、来島荘由木城(由来城) 飯南町頓原
  3. 7月13日、来島荘野萱・下小城(下古城か)
  4. 8月8日、安来津
  5. 8月13日、富田関所
  6. 8月14日、平浜八幡宮
丁度この頃、畿内では北朝方の足利直義と高師直両者の対立が生じ始め、京の都は騒擾し始めていた。そして、師直は直義を討つため、尊氏の館(直義がこの館に逃げ込んだ)を囲んだ。

 またこれとは別に、正平4年(1349)の9月10日、足利尊氏は中国探題として備後にあった直冬を討伐することを決意、直冬は四国に奔り、さらには九州へ一旦逃れた。その後直冬は石見国へ向かうことになる。
【写真左】蓮花寺本堂の屋根
 主郭から尾根を更に進んで行くと、北東方向には蓮花寺の屋根が見える。
 当院との間に登城道(参拝道)があり、当城とは谷を介している。



 翌正平5年:観応元年(1350)6月21日、尊氏が担ぎ出した北朝方天皇・光厳上皇は、院宣によって足利直冬の追討を命じ、高師泰が石見国へ向かった。

 これに対し、直冬は鰐淵寺に祈祷を命じ(「鰐淵寺文書:7月20日条」)、8月13日には出雲国の佐々木信濃五郎左衛門尉らが直冬に応じて挙兵した。おそらく、阿用城(蓮花城)にあった土屋四郎左衛門尉、及び伊藤弾正左衛門尉らもこれらに与していたものと思われる。また、同月19日には小境元智(檜ヶ仙城(島根県出雲市多久町)参照)が直冬方として挙兵し、翌20日には多久中太郎入道らも参戦して、白潟橋で終日戦闘している(『萩閥66』)。
 こうしたことから、阿用城における両者も含めこのころの反北朝方は、宮方というよりも直冬に集結していたと考えられる。
【写真左】主郭・その2
 探訪したこの日、幸いにも主郭付近はきれいに伐採され、ここから麓の大東の街並みをはじめ、西隣の加茂町、斐伊川沿いの山並みや宍道湖を挟んで北側の北山連山などが俯瞰できた。
 なお、この位置からこれまで取り上げてきた山城数か所も確認できる(下段写真参照)。



石見土屋氏桜井氏

 さて、次に桜井氏だが、土屋氏と桜井氏両名の姓名を調べていくと、意外なことに、この二つの姓名を名乗る一族が実は隣の石見国に記録されている。

 特に土屋氏は平安末期ごろより、江の川の中流域にあった桜井郷に居住し、海外貿易を盛んに行っていた一族で、桜井郷を苗字にとって桜井氏とも名乗っている。そして桜井郷というのは、現在の江津市桜江町地域である。従って、桜井氏とは土屋氏のことである。
【写真左】主郭から岩熊城を見る。
 岩熊城(いわくまじょう)で、すでに紹介しているが、阿用城主桜井氏は経久によって攻略されたものの、同氏庶流及び、馬田氏はその後忠山城(島根県松江市美保関町森山)でも紹介したように、山中鹿助らと共に永禄年間尼子氏再興をめざし奮闘している。


桜井宗直宗信

 応永13年(1406)、周布兼宗の所領であった邇摩郡井尻村を桜井宗直が横領するという事件が起こった。兼宗は幕府に訴えたが、驚くことに幕府はそれを退け、宗直の領有と認めた。そして兼宗にはその替え地として同郡福光上村の土地を与えた。その理由は桜井氏(土屋氏)が海外貿易で蓄えた莫大な財力を背景に、幕府にいわば賄賂的なものを提供して了承を得たものであろうとしている。
【写真左】主郭から北方に丸倉山城・大平山城・八重山(城)を遠望する。
 阿用城のある磨石山から北方に目を転ずると、幡屋三連山とわれる三山が見える。
 これらも既に、丸倉山城跡大平山城跡八重山城跡で紹介済みである。



都治騒動

 その後桜井宗直の嫡男宗信の代になると、那賀郡都治の都治家(佐々木)から娘を貰い受けるが、かねてから日本海側の領地取得を画策していたのか、宗信は妻の実家都治家の乗っ取りを図った。応永20年(1413)、「泊り狩り」に都治家八人衆を謀殺、翌21年正月には年賀に出かけた義兄都治弘行及び妻を殺害した。
【写真左】主郭から高麻城を遠望する。
 高麻城跡(島根県雲南市加茂町大西)ですでに紹介しているが、旧福田荘(加茂町)に所在する山城である。



 幕府は当然ながら宗信の不法を責めたが命に従わないため、山名氏明に命じて宗信討伐に向かわせた。このとき、氏明が率いた軍勢は、但馬・因幡・伯耆・出雲から参陣したもののほか、当地石見からは吉見・益田・三隅・周布・福屋・小笠原・佐波・河上(かわのぼり)など中小の国衆も集まったという。

 桜井一族の討伐のためこれだけ大勢の軍勢が向かったのは驚きだが、逆に言えば、桜井氏が財力と併せそれだけ強大なものだったのだろう。また、山名氏明側は当時石見守護であった山名教清(在職期間 1406~29)の威光も働いたのかもしれない。

 この戦いでは宗信の拠る要害堅固な鏑腰城(かぶらこしじょう(写真参照)の攻略はせず、氏明らは向城として市山江尾の小城、日和の金比羅山城(日和城)、谷住の宮山城に陣を構え、氏明自身は波積に本陣を構えた。戦いはいわば持久戦によって氏明らが勝利し、桜井(土屋)氏の領地は次の諸族に預けられた。また、氏明はこの戦いで石見守守護職に補せられたという。
【写真左】鏑腰城遠望
 所在地:島根県江津市桜江町川戸

 江の川を挟んで北側を走る国道261号線から見たもの。

 右に向かうと江の川河口(日本海)へ出る。
 当城の北麓直下はJR三江線が走っているが、麓からは見上げるような絶壁となっている。
 まさに難攻不落の山城といった感じで、現在も登城は不可能に近い。



●川戸・有福・波積   山名氏明
   ※桜井地方史によれば、敗れた土屋宗信はその後氏明の領地のうち、川戸と波積は再び手に入れている)

●市山・日貫   福屋(氏兼)

●日和・川越池内大貫   小笠原(長教)

●谷住郷・松川地内上津井  某(周布兼宗か)

●上都治・下都治  烏丸豊光
   ※桜井地方史によれば、これに河上を加えている。

 桜井宗直はこの結果ほとんどの領地を失ったが、対外貿易で莫大な富財を手にしていたことや、縁戚関係にあった周布氏の協力も得て、その後失地回復を図ることになる。戦いの2年後の応永23年(1416)7月、京都の後小松上皇の御所が火災に遭った。幕府はその修理費として諸国へ一郡100貫ずつの郡銭徴収を命じた。石見については幕府は宗直に対し、当地六郡分の郡銭600貫を納入させ、一定の免罪と併せ、一部領地を回復させたという。
【写真左】「くのじ展望台」
 蓮花寺から370m程北東部の尾根頂部に向かったところに設置されている。
 永正年間に尼子経久の攻略によって落城するが、おそらくこの展望台が尼子氏の向城として使われた可能性が高い。


阿用城桜井氏石見桜井氏

 さて、長々と土屋氏並びに桜井氏について述べてきたが、出雲阿用城の桜井氏と石見の桜井氏の接点は資料上いまのところ見出し得ない。しかし、冒頭でも紹介した戦国期尼子氏に討ち取られた桜井宗的という名前からいえば、「宗的」の「宗」は土屋氏時代の祖・宗遠からすでに、「宗」を名乗り、石見の桜井氏もまた、宗直・宗信と継承されている。
【写真左】尼子政久の墓
所在地 松江市八雲町熊野 常栄寺

 阿用城の落城期については諸説あるが、陰徳太平記によれば、経久嫡男の政久が亡くなったのは永正10年(1513)9月6日とある。
 政久の墓は、松江市八雲町の常栄寺に建立されている。



 そして、阿用城の初期は土屋氏を名乗り、戦国期に至って桜井の姓を名乗ったということから考えると、この石見の桜井氏が当地出雲に下向してきた可能性が十分に考えられる。逆にいえば、石見桜井氏が下向しなければ、阿用城の城主はそのまま「土屋」氏を永代名乗ったはずである。

 想像だが、石見桜井氏が都治騒動後、何らかの理由で当地を離れざるを得なくなり、また同族の大東阿用城主土屋氏も、継嗣上の都合が生じ、石見桜井氏を招聘したのではないだろうか。