2014年12月26日金曜日

佐井田城(岡山県真庭市下中津井)

佐井田城(さいたじょう)

●所在地 岡山県真庭市下中津井
●別名 斉田城、才田城
●高さ 332m(比高120m)
●指定 真庭市指定史跡
●築城期 鎌倉時代又は戦国時代
●築城者 山田重英、又は植木秀長
●城主 山田氏・植木氏・三村氏など
●遺構 郭・堀切・石垣等
●登城日 2014年5月18日

◆解説(参考文献 『日本城郭体系第13巻』等)
 佐井田城は備中国の中間部の北方にある山頂に築かれた城砦で、特に北の伯耆国とを結ぶ現在の国道313号線を東麓に臨む位置に所在する。ちなみに、この313号線は、南は広島県福山市から北上し、備中を経由し、鳥取県東伯郡北栄町に至るルートで、佐井田城は、いわゆる要所の位置であった。

【写真上】佐井田城の鳥瞰図
 当城要図を参考に描写してみた。
 山城の詳細な遺構を表現するには縄張図がもっとも相応しいが、とても測量などするような技術がないため、踏査したときの記憶を頼りに描いてみたものである。

 典型的な連郭式山城で、東に伸びる尾根伝い先端部に出丸を設け、そこから上に向かって五ノ壇から二ノ壇まで連続の郭段を配し、本丸(二ノ壇)の向背に一ノ壇を接続させ、奥の尾根には二条の堀切を設けている。

【写真左】佐井田城遠望
 北側から見たもの。
 この谷筋が大手になる。










現地の説明板より

“佐井田城跡
 標高332mの山上にある山城跡です。鎌倉時代初期の築城で文治2年(1186)山田駿河守重英の居城であったといわれています。
 その後戦国時代に庄氏の一族植木秀長、孫下総守秀資へと受け継がれました。戦乱の続く中、備中北部攻防の中心城で、津々の加葉山城と連携し、要害堅固な備中三名城のひとつと称えられました。
   町指定史跡”
【写真左】願成寺
 北東麓には願成寺という寺院がある。山号は佐井田山となっているので、当城もしくは城主・植木氏と何らかの関係のある寺院だろう。



築城期と築城者

 現地の説明板では鎌倉時代初期の築城とされ、山田駿河守の居城とされているが、『日本城郭体系第13巻』では、断定する根拠に乏しいとしている。ただ、山田駿河守が源平合戦の軍功によって当地・上房郡北房町中津井郷に入部したことは事実としている。
【写真左】佐井田城登り口の石碑
 願成寺の脇道を少し進むと、途中で左側に向かう道があり、その分岐点には石碑が建立されている。





佐井田城と備中国の戦い
 
 当城を取り巻く戦国期の動きについては、『日本城郭体系第13巻』で詳細が述べられているが、極めて波乱と変化にとんだ戦いが記録されている。
 なぜなら、当時佐井田城の四周には、西に毛利、北西に尼子、東に宇喜多・浦上、南に三好一族といった強豪がひしめき、城主であった植木氏(庄氏)らは、止む無く彼らの力関係に頼らざるを得なかった背景があったからである。
【写真左】登城口
 先ほどの道を進むと、途中で奥に鳥居が見えるが、ここから登城道となる。
 5月だったこともあり、このあたりは雑草が繁茂しているが、次第に歩きやすくなる。

 なお、この鳥居の脇に「佐井田城跡 山田方谷先生ゆかりの地」とかかれた標柱が建ててある。
 山田方谷は、江戸末期から明治にかけて活躍した儒家・陽明学者で、備中聖人と呼ばれた人物で、現在の佐井田城のある真庭市の西隣・高梁市中居町西方で生まれている。



第1期 不明~永正14年(1517) 佐井田城の築城

  『上房郡史』によれば、「秀長初め植木の城主たり」と記されているが、この植木氏は当初平城であった「植木城」に拠っていたとされる。植木城とは呰部(あざえ)(現・備中川)川左岸の河岸丘陵上にあったとされ、永正14年(1517)に、植木秀長が畿内の戦いで軍功を挙げ、植木城から才田に移り、佐井田城を築城したとされる。
【写真左】城山稲荷の鳥居
 後段で紹介するように、佐井田城本丸跡には城山稲荷神社社殿が祀られている。

 登城道はこのあたりから、尾根の背面を九十九折するようになっている。



第2期 永禄11年~12年(1568~69) 佐井田城の兵糧攻め

 永禄11年8月、備前宇喜多直家(天神山城(岡山県和気郡和気町田土)参照)は、弟忠家に命じて佐井田城を攻撃、秀長らは毛利氏に援軍を要請するも、当時毛利氏は九州の大友氏と交戦中で、その結果佐井田城は宇喜多氏の軍門に降った。翌12年、毛利元清(備中・猿掛城・その1(岡山県小田郡矢掛町横谷)参照)は三村元親・穂田実親らを従え、後月・小田両郡を押さえ、佐井田城を包囲した。

 これに対し、宇喜多氏の麾下となっていた植木氏(秀長ら)は防戦に努め、その間、宇喜多直家は峰本与一兵衛の報告を受けて、後詰として水田荘に着陣、この結果、毛利軍を撤退させた。これは後に「佐井田城の兵糧攻め」と呼ばれた。
【写真左】石垣
 暫く進むと、次第に岩塊の多い箇所が増えてくるが、その一角にはご覧の石垣が見える。
 保存状態は良好である。



第3期 元亀元年~翌2年(1570~71) 尼子再興軍の南下政策

 第2期で記したように、永禄年間植木氏は宇喜多氏の支援を受けていたが、元亀年間になると、植木氏は宇喜多氏と袂を分かつことになる。

 ところで、元亀元年から始まる山中鹿助や尼子勝久ら尼子再興軍の主力部隊は、この時期、主な舞台を備中に移している(経山城(岡山県総社市黒尾)参照)。
 備中攻めで最初に盟約を結んだ相手が、宇喜多直家である。直家もまた備前から備中へ版図を広げようと画策していたため、両者の思惑が一致した。
【写真左】尾根先端部に近づく。
 途中からほぼ一直線に尾根東端部に向かって道が進み、尾根の先端部に繋がる。






 直家は尼子氏の支援を受けながら、先ず幸山城(岡山県総社市清音三因)の石川氏を落としたのを皮切りに、石蟹山城の石蟹氏、甲籠城の伊達氏を落とし、彼らを案内人にたて、佐井田城を攻めた。

 これに対し、城主植木秀資はよく防戦し、猿掛城主庄元祐も二千余騎の兵を率いて救援に向かった。しかし、庄元祐が討死すると衆寡敵せず、ついに秀資は尼子・宇喜多両氏の軍門に降った。
【写真左】下段の出丸
 上掲した鳥瞰図でいえば登城道を挟んで上下に配置された出丸のうち、下段のもの。
 半楕円形のもので、奥行は10m前後か。



 その後、佐井田城には、尼子方の大賀駿河守(経山城(岡山県総社市黒尾)参照)以下一千余騎を駐屯させ、残りの尼子軍は地元出雲における戦いのため帰還した。

 なお、この他尼子氏(宇喜多氏)らが同国諸城を陥れたものとしては、備中松山城(岡山県高梁市内山下)の庄高資をはじめとし、その子勝資・同右京進・植木秀資・津々加賀守・福井孫六左衛門らが、鴨方の細川氏(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)などを破った。一時期とはいえ、尼子再興軍の戦果は著しいものがあったといえよう。
【写真左】上段の出丸
 登城道から見上げたもので、比高8m前後か。

 このあと登城道は尾根の南側に回り込み、上部郭段の左側に取り付いていく。


第4期 元亀2年~天正3年(1571~74) 毛利氏の反撃

 尼子再興軍が備中国を押さえて間もない翌年の元亀2年、毛利氏は再度備中国の奪取に動いた。先鋒を努めたのは毛利元清である。

 このころ、備前の浦上宗景と宇喜多直家が讃岐の三好衆と与同し、南から備中国の侵攻を企てていた。毛利の小早川隆景はこれに対し、清水宗治(備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)参照)に命じて当地に赴かせた。そして、宗治による南方の阻止を維持しながら、元清は三村元親らと佐井田城に籠る植木秀資を包囲した。
【写真左】五ノ壇
 本丸(二ノ壇)以外の郭はご覧の通りの状態で、整備されてはいないが、地面の状況はほぼ確認できる。

 不定型な細長い郭で、長軸はおよそ20m、面積は220㎡の規模を持つ。



 この戦いは一進一退を繰り返していたが、毛利氏の包囲網が整備されてくると、宇喜多直家は備前に帰還、城主・秀資や庄勝資らは出雲に退いた。何故、秀資や勝資が出雲に退いたのか詳細は不明だが、佐井田城には植木資富が守城することになった。
【写真左】四ノ壇
 四ノ壇は比較的なだらかな状態となっている。
17m×11.3mの規模を持つ。







 ところで、佐井田城を預かった資富の系譜ははっきりしないが、おそらく名前から考えて秀資および勝資と同族(植木氏・庄氏)の者だろう。

 その後、備中国が殆ど毛利氏の手によって掌中されたころ、毛利元清から資富に対し、招待状が届いた。佐井田城内では当然ながらこれは毛利氏の謀略であり、元清が在陣する猿掛城に行くべきでないとの声があがったが、城主資富はこれを聞き入れず、元清と直接会って結着をつけたいとして猿掛城に向かった。

 果たせるかな資富は猿掛城に入城した直後、斬殺されてしまった。このため、佐井田城の城主には三村兵衛尉が務めることになった。
【写真左】三ノ壇
 奥に見える鳥居の手前までが三ノ壇にあたる。17.8m×21mの規模を持つ
 







第5期 天正2年~13年(1574~85) 植木氏の佐井田城回復

 この時期は毛利氏が完全に備中国を支配したころであるが、それに併せて、三村氏が没落していった時期でもある。

 また、出雲に逃れていた庄勝資や植木秀資らは、その後尼子再興軍が播磨上月城にて誅滅されたこともあって、毛利氏に属した。庄勝資はその後戦死するものの、植木秀資は再び佐井田城主として返り咲いた。その時期は天正8年(1580)とされている。
 そして、関ヶ原の戦いのあと、西軍(毛利氏)の敗戦によって、当城は廃城になった。
【写真左】本丸(二ノ壇)を下から見上げる。
 奥には城山稲荷神社が見える。
【写真左】本丸南の武者走り
 城郭体系では「武者走り」と命名しているが、最大幅6mもあり、三ノ壇と連絡しているので、帯郭といえるだろう。

 このあと本丸に上がる。
【写真左】本丸北側
 本丸の規模は、不整六角形で、面積は350㎡。
 写真の北端部は切崖となっている。
【写真左】本丸の狐像と灯篭
 昭和46年に寄贈された人の石碑が残る。
【写真左】本丸裏の祠
 社殿の裏(西側)には、祠と石碑が祀られている。
 ここからさらに西の一ノ壇に向かう。
【写真左】一ノ壇
 長さ37.5m×幅14~19mの規模。西方に向かうにつれて細くなっていく。また、東西中央部の南側一角には、さきほどの武者ばしり(帯郭)と連絡する箇所がある。

 写真は北側の一部で、この付近だけ縁部が盛り上がっていたので、おそらく土塁を構築していたのだろう。

 このあとさらに西に向かう。
【写真左】最初の堀切・その1
 佐井田城には一ノ壇西端部に二条の堀切が残る。
【写真左】最初の堀切・その2
 横から見たもの。
【写真左】二条目の堀切
 西に続く尾根との間に明瞭に残っているが、この辺りは尾根幅が細くなっているので、堀切を構築した際、尾根幅も削ったように思われる。

2014年12月21日日曜日

鬼ノ城(岡山県総社市奥坂鬼城山)

鬼ノ城(きのじょう)

●所在地 岡山県総社市奥坂鬼城山
●別名 鬼城山
●高さ 400m
●築城期 不明(660年ごろか)
●築城者 不明
●城主 不明
●指定 国指定史跡
●遺構 土塁・城門・水門・石垣等
●登城日 2007年6月20日、2014年6月24日

◆解説(参考資料 岡山県古代吉備文化財センターHP等)
 前稿備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)でも少し触れているが、鬼ノ城は高松城から北西へやく9キロほど向かった吉備史跡県立公園に所在する古代山城である。
【写真左】鬼ノ城
 復元された西門。












現地の説明板より

“国指定史跡
 鬼城山(きのじょうさん)(鬼ノ城)
    昭和61年3月25日指定

 鬼ノ城は標高約400mの鬼城山に築かれた壮大で堅固な古代山城です。
 吉備高原の南端に位置しており、眼下の総社平野には集落が営まれ官衙(かんが)(役所)、寺院などが造営されました。また、古代の山陽道が東西に走り、吉備の津(港)から瀬戸内海への海上交通も至便であり、まさに政治、経済、交通上の要地を一望できます。
【写真左】案内図
 鬼ノ城に向かう手前にウォーキングセンターという施設があり、そこに車を停めていく。

 またこの周りには鬼ノ城を中心とする文化財や豊かな自然環境が残されていることから、「自然と歴史あふれるフィールドミュージアム」として位置づけされている。
【写真左】鬼ノ城配置図
 文字が小さくで分かりにくいが、左のコースから進んで行くと、最初に角楼や西門が見えてくる。







 鬼ノ城の山容は擂鉢を伏せたような形状をし、山頂付近はなだらかな斜面となっていますが、山の8~9合目より以下は著しく傾斜しています。この山頂部との傾斜が変化する部位に城壁が築かれ、全周約2.8kmに及んでいます。

 城壁は版築(はんちく)工法により築かれた土塁が主体をなし、城門が4ヵ所、排水機能をもつ水門が6ヶ所、また石垣などにより構成されています。
【写真左】西門が見えてくる。
 しばらく歩いていくと、最初に目にするのが西門である。






 特に復元整備を実施している角楼(かくろう)から第0水門までの城壁は、巨大な西門や、ゆるぎなく突き固められた土塁が復元され、当時の雄大な姿や精緻な築城技術を窺うことができます。
 城内はおよそ30haという広大な面積があり、これまでに礎石建物跡、溜井(水汲場)、土取場などが見つかっていますが、今後の調査によりさらに新たな発見が期待されます。
 
【写真左】西門・その1
 西門跡は復元する前、良好な状態で遺構が残っていたらしく、その結果、12本の柱とその位置・太さ、柱間の寸法なども知ることができたという。
 
【写真左】西門・その2
 こうした記録を基に復元されたもので、この建物はそうした点からも注目される。

 このあと、時計回りに北門に向かう。


 
 築城の時期については諸説ありますが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のために出兵した白村江(はくすきのえ)の海戦(663年)において、大敗した後、唐、新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の一つと考えられています。鬼ノ城は当時の東アジア情勢を鋭敏に反映した遺跡といえます。

 平成16年1月
   総社市教育委員会”
【写真左】北門・その1
 現地の説明板より

“北門跡

 唯一背面側にある城門です。
 基本的な構造は他の西門・南門・東門と同じ掘立柱城門で、通路床面には大きな石を敷いています。規模的には大型の西門・南門に対し、東門とともにやや小型の城門です。
 通路床面とその前面の地面に1.7m~2.3mの段差があり、こうした城門を朝鮮半島では「懸門(けんもん)」と呼んでいます。
 門柱は本柱のみ角柱で、他は丸柱であり、柱間の寸法も異なるなど特異な組み合わせです。
【写真左】北門・その2
 なお、北門に向かう途中の分岐点から右に進むと、礎石建物群跡があるが、この日は折からの雨と雷が次第に強くなってきたため向かっていない。


 通路床面下には「排水溝」が設けられており、これは日本の古代山城では初の発見例です。類例に高松市の屋島城があります。
 上屋については検討中であり、柱の高さは仮のものです。
  平成20年3月
     総社市教育委員会”
【写真左】土塁
 北門からさらに北に向かったところにある。
 長さは約50m近い規模のもので、大きな石が散在しているが、当時はこれらも石積されていたものだろう。
【写真左】北端部から北方を俯瞰する。
 鬼ノ城の東西南北は谷を形成しているので、独立した大型の独立山塊である。





謎の鬼ノ城

 当城をこれまで調査研究してきた地元にある岡山県古代吉備文化財センターによれば、当城が初めて古代山城として認識されたのは、昭和46年(1971)高橋護氏によって発表されたことによる。

 その後、昭和53年(1978)から本格的な学術調査が開始され、昭和61年(1986)には国の指定史跡に認定された。以来今日に至るまで調査が続けられてきたが、特に直近では、6年間に及ぶ発掘調査をまとめた2013年度発刊の『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告236史跡 鬼城山2』で一つの区切りを迎えている。
【写真左】高石垣付近・その1
 北門を過ぎて外周部を時計回りに進むと、東側に出てくるが、ここに「高石垣」及び「屏風折れの石垣」という箇所がある。
【写真左】高石垣付近・その2
 ご覧のように突出した形状となっており、その先端部は絶壁となっている。

 この箇所には次のような説明板がある。

“鬼ノ城
 千数百年前、温羅(うら)と呼ばれる一族が朝鮮より渡来し、居住したといわれており、付近の城塁は、当時の名残だともいわれております。
 また鬼ノ城一帯は、平安時代に新山、岩屋とともに山上仏教が栄え、大規模な伽藍が多数建ち並び、西方教化の中心地であったといわれています。
  総社市”
【写真左】高石垣付近・その3
 先端部から振り返って見る。
 ごらんのように露出した岩や小石が目立つ箇所である。
【写真左】切り立つ天険の斜面
 同じ場所から北東部を見たもので、左側斜面が鬼ノ城だが、この谷も深く天険の姿を見せる。



 古代山城については、これまで当ブログでも数例を紹介してきているが、これほど長い期間にわたって発掘調査をしてきたところは全国でも少ないと思われる。

 こうした地道な発掘調査などがされ、遺構などの概要が明らかになってきているが、残念なことに、当城の築城期が未だに確定していない。
【写真左】第5水門付近
 発掘調査後、埋戻しされていて分かりにくいが、この箇所には5番目の水門跡がある。
 長さ10.5m×高さ3.2mの規模を持つ。


 因みに、白村江(はくすきのえ)の海戦(663年)が行われた頃の白鳳時代において登場する主な古代山城は、諸説あるものの、次のものが挙げられている。
  1. 高安城(たかやすのき)      奈良県生駒郡平群町久安寺
  2. 屋島城(やしまのき)        香川県高松市屋島
  3. 長門城(ながとのき)             山口県下関市(比定地不明)
  4. 筑前・大野城・その1(福岡県大野城市・宇美町)
  5. 基肄城(きいじょう)               佐賀県三養基山町小倉基山
  6. 金田城(かねたのき)            長崎県対馬市美津島町黒瀬城山
  7. 鞠智城(熊本県山鹿市菊鹿町米原)                
  8. 茨城(いばらき)                   広島県福山市蔵王町(蔵王山地域)
  9. 常城(つねき)                     広島県府中市本山町(幡立山城参照)
  10. 三野城(みのじょう)             福岡県福岡市博多区美野島
  11. 稲積城(いなづみのき)          福岡県糸島市
  12. 永納山城(えいようさんじょう)  愛媛県西条市
【写真左】高石垣附近を遠望
 第5水門側からさきほどの高石垣付近を遠望したもの。
 石積の跡がよく分かる。

 このあと東門に向かう。
【写真左】東門・その1
 現地の説明板より

“東門跡
 東門は、西門や南門に比べるとやや小ぶりとなる間口1間(3.3m)、奥行2間(5.6m)の城門です。
 門の入口は2m以上の段差を設けた懸門構造とし、扉を入った正面には侵入を妨げる巨大な岩を利用して防御機能を高めています。
 
【写真左】東門・その2

 この城門は、他の3門が角柱を多用するのに対し、すべて丸柱が用いられるなど、やや異なった特徴を持っています。
 麓からの山道は今でも利用されていますが
鬼ノ城がつくられた当時の登城道と重複している可能性が高いようです。
   平成26年3月 総社市教育委員会”

【写真左】第4水門
 現状は埋戻しされたことや、雑草が繁茂しているため分かりにくいが、長さ11.7m×高さ4mの規模を持つという。
【写真左】物見台か
 第4水門と第3水門の間にはごらんのような展望が利く箇所がある。
 標記された遺構名はないようだが、この箇所も南方の総社市街地や瀬戸内方面への視界が広がる。
 また、地面には明らかに敷石とおもわれるものが多数確認できる。
【写真左】第3水門
 長さ11m×高さ2.8mの規模を持つ。
この箇所は下流部の谷の形状がよく分かる場所である。
【写真左】敷石
 第3水門から南門に向かう途中にあるもので、平滑に仕上げられた方形の石が敷き詰められている。
 この箇所は若干崩れているが、当時はもっと精緻な施工がなされていたものと思われる。
【写真左】南門・その1

 現地の説明板より

“南門跡
南門は、間口3間(12,3m)、奥行2間(8.2m)の規模を持ち、一辺55cm前後の巨大な角柱12本で上屋を構成する大型の城門です。
 
【写真左】南門・その2
 平面図

 門の入口は2m近い段差を設けた懸門で、中央1間(約4m)を城内への通路としています。床には巨石を敷き、扉の据え付け開閉のために、丁寧に加工された門礎が両側に配されています。
【写真左】南門・その3

 この城門は、細部の違いがあるものの規模・構造ともに西門と同じくし、いずれが正門なのか興味をひかれるところです。
  平成26年3月
     総社市教育委員会”

 このあと、少し下っていくと第1,2水門がある。
【写真左】第1水門
 水門出口に直接向かう道があるようだが、この日は上の歩道からしか見ていない。
 水門排出口の周りに石積が残る。
【写真左】敷石と西門
 ぐるっと外周を回り、西門の手前まで戻ってくると、ご覧の敷石が現れる。

現地の説明板より

“敷石
 鬼ノ城では、城壁の下の面に接して板石を多数敷きつめています。幅は基本的に1.5m幅で、城内側の広いところでは5m幅になる所もあります。
 敷石は多くの区間に敷かれており、総重量は数千トンにもなります。 
【写真左】敷石と土塁
 左側が傾斜を持たせた敷石で、中央部が高くなっている箇所は土塁でその延長線上に城壁が繋がる。


 この石畳のような敷石は、通路としての役割もあるものの、敷石の傾斜などからみて、もともとは雨水等が城壁を壊すのを防ぐことを目的としたものと考えられます。
 敷石は、日本の古代山城では鬼ノ城にしかなく、朝鮮半島でも数例知られるだけの珍しいものです。
 特にこの区間の敷石は、鬼ノ城でも見事なところです。
    平成21年3月
       総社市教育委員会”
【写真左】城壁・その1
 復元された城壁

現地の説明板より

“城壁
 鬼ノ城は、頂上部から斜面に変わるあたりに鉢巻をしめたように2.8kmにわたって城壁が築かれています。
 城壁は直線を基本とし、多少の高低差はあるものの、下幅約7m、上幅約6m、高さ約6mの規模をもち、城壁で囲まれた城内面積は約30haに及ぶ大きさです。
【写真左】城壁・その2

 城壁の大部分は、土を少しずつ入れて突き固めた〝版築土塁″で、要所の6カ所には高い石垣を築いていますが、基本的には土城です。
 また、城壁の上面には板塀が巡らされており、城壁の高さと一体となって攻略の難しい一大防御壁となっています。
 ここには版築土塁・高石垣・水門があり、城壁の特徴をよく示している区間です。
   平成21年3月
    総社市教育委員会”
【写真左】城壁・その3
 石積と土の両方を使った箇所がよく分かる。
【写真左】城壁・その4
 振り返ってみる。
【写真左】城壁・その4
 西門から左側(西側)の城壁を見る。
【写真左】西門及び城壁を遠望する。
 

【写真左】西門から南方を見る。
 この位置からは視界が良いと、総社市街地をはじめ、西の高梁川から玉島・水島灘・福山城・瀬戸大橋・鷲羽山・讃岐富士(四国)・常山城・屋島・児島湾・小豆島・岡山市街地などが見える。
 以前にも述べたが、鬼ノ城が築かれた頃は勿論、中世戦国時代にも現在田圃や宅地となっている低地は遠浅の内海であったと考えられる。

 こうしたことから、鬼ノ城の目的はやはり海からの侵入を防ぐ目的で築城されたものだろう。