2014年10月28日火曜日

伯耆・市場城(鳥取県倉吉市小鴨)

伯耆・市場城(ほうき・いちばじょう)

●所在地 鳥取県倉吉市小鴨
●築城期 不明(鎌倉末期~南北朝期頃か)
●形態 平山城(居館跡)
●高さ 70m(比高20m)
●遺構 郭・空堀・土塁
●城主 岡田氏
●登城日 2011年10月15日及び2014年10月26日

◆解説(参考文献「サイト『城郭放浪記』」、『県史 鳥取県の歴史』山川出版社等)
 本稿では前稿でとりあげた伯耆・岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)の城主・小鴨氏の居館といわれている市場城を取り上げたい。
【写真左】市場城遠望・その1
 東側から見たもの。
 手前は田圃が広がり、市場城の西側に出ると、再び隣の谷が北東方向に伸びている。




現地の説明板より

“市場城跡

 小鴨氏の居城であった岩倉城の出城で、小鴨氏の家来・岡田某氏がいた、ということである。
 天正10年(1582)5月、吉川軍に攻められて落城し、本城の岩倉城と共に廃城となった。(伯耆民談記による)

 文政元年(1818)鳥取藩が調査して作成した古図が残っている。
 市場村古城跡
 高6間位(約10m)
 天神野ノ裾通リニシテ松林有
 當時山上ハ社地也”

【写真左】市場城遠望・その2
 小鴨氏の居城・岩倉城から見たもの。
 左(南側)から細い丘陵が伸びているが、その一角に築かれている。


小鴨氏

 ところで小鴨氏の出自については、前稿でも述べたようにその出自は平安末期に遡る地元在庁官人とされている。

 小鴨氏はその後戦国期にいたると、伯耆国における国人衆「伯耆衆」の一人とされている。ちなみに、伯耆衆とは、
  • 小鴨・越振・塩冶・遠藤・長(ちょう)・山口・広瀬・野津
の諸氏である。
 小鴨氏はその後、山名氏の衰退にともない南条氏と結び、南条宗元(入道宗勝)の次男・元清が小鴨氏に養子として入り、小鴨元清と名乗った。元清の兄は南条元続(勘兵衛・直秀)(羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)参照)であるが、彼ら兄弟は、当初毛利方に属していたものの、その後信長の西進に従い、毛利氏を離れ、秀吉方についた。
【写真左】入口付近
 東麓を流れる用水路を渡ると、4m前後の高さ(土塁跡か)の坂があり、それを登ると最初の小郭がある。

 現在はこの箇所から入るようになっているが、主要な入口としての虎口は、後段で紹介する西側の土塁群の一角だったと思われる。


市場村古城跡図

 現地の説明板には、「文政元年(1818)鳥取藩が調査して作成した古図が残っている」、と記され、それをもとにした図が描かれている。


【写真左】市場村古城跡図



 これを見ると、市場城は二つに区分され、

(1)横三十間(約55m)×長百間位(約182m)
(2)横四十間(約73m)×長七十間(約127m)

の二つが並んでいることになる。

 そして(2)の方には西側(上段)に土手が描かれ、その先には堀切を介して「表夘四間四方(8×8m)」のものがあったとされている。
 この古図の描き方には、平面図的な作図と、立体的な書き方が混ざったもので、すこし混乱するが、概ね配置状況は同図でいえば、右が北を示し、上が西を示すものだろう。

 そして、上段にかかれている「表夘四間四方(8×8m)」には、付記されている「山上ハ社地」すなわち、小鴨氏が崇拝した神社が祀られていたものだろう。

 また、現在畑地となっているところが、左側のもの、即ち(2)の箇所と思われ、(1)は現在、野地(一部畑地)となった低地付近と思われる。
【写真左】東麓部
 市場城の東面で、北側から見たもので、境には現在農道や用水路などが並行して走っているが、当時はこの周囲には濠が巡らされていたと考えられる。


市場城の周辺

 前回の登城(2011年)の際、東側から入って現在畑地となっている館跡付近しか踏査していなかったが、『城郭放浪記』氏など他のサイトを確認したところ、周囲に空堀などがあることが分かり、今回(2014年)再登城した。

 市場城のある位置は、南西部から伸びた長い低丘陵の中にある。いわゆる山城的な要害性を持たせた性質のものでなく、比高もさほどなく、館跡としての機能が優先された城館である。しかし、周囲にこれだけ大規模な空堀と土塁を駆使していることは、防御の面においてかなり意を用いたものといえるだろう。
【写真左】土塁
 入口から少し入った所で、東側に残る土塁。
 左側は小郭となっており、ここからさらに西に向かって5m程度高くなった上段の郭がある。
【写真左】上段の郭
 現在一部がこのような畑地となっているが、奥に見える野地となった箇所も郭跡と考えられ、おそらく小鴨氏(家臣・岡田某氏)の居館などが建っていたものと思われる。

 中央や左側も藪化しているが、この郭(居館跡)の北・西・南側はほぼ土塁で囲繞されている。

 なお、右側の藪は切崖となっており、奥に進むほど(北方向)比高が高くなり、切崖の様相を呈している。
  規模は上掲した市場村古城跡図の(2)に該当する場所と思われ、横約73m×長約127mの大きさだろう。
【写真左】北端部の切崖
 北に向かうにつれ、麓の農道と市場城郭天端との比高差が高くなっていく。

 おそらくこの位置では10mを測るだろう。急傾斜の切崖である。
【写真左】南端部
 一旦城域から外に出て、南側に回り込むと、丁度城域の境に当たる位置には西に向かって登り坂が敷設されている。
 左の竹藪が城域になるが、実はこの道路側から土塁が道路に沿って下まで伸び、その土塁の中側には長大な空堀が敷設されている。
【写真左】東西に伸びる空堀と土塁
 道路側のもので、右の土塁を超えるとすぐに道路となっており、左側の土塁を登ると、市場城の館・郭に繋がる。

 なお、右側の土塁天端から堀切底部までは3~5m、左側の土塁天端から堀切底部までは最大で8m前後の比高差がある。

 この箇所における空堀総延長は東端部から西端部(1郭まで)で約40m前後。

 次に、もう少し坂を上った所から改めて向かう。
【写真左】西端部の堀切
 西側の堀切で、驚異的な孟宗竹の繁茂のため写真では分かりづらいが、中央部が堀切底部で、右の土塁の上が市場城館になる。

 なお、左の土塁を登るとさらに高い郭跡があるようだが、おそらくこの上に「社」があったものと思われる。
 奥行は、従って130m前後あるだろう。
【写真左】東西の空堀と西側の南北の空堀が交差する箇所
 写真右が道路側に当たるが、竹がなければ見事な空堀を見ることができるだろう。
【写真左】西端部境
 城域の西側境を過ぎると、傾斜を保ったまま、現在ナシ園となった畑地が続く。
【写真左】市場城から南東方向に岩倉城を遠望する。
 市場城から岩倉城方面を見ると、手前左右の山が若干遮ることになり、岩倉城の全景は見ることができないようだ。
【写真左】市場城から打吹城を遠望する。
 小鴨氏の元主君であった山名氏の居城・打吹山城はどの方向からでも流麗な山容を見せてくれる。

2014年10月25日土曜日

伯耆・岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)

伯耆・岩倉城(ほうき・いわくらじょう)

●所在地 鳥取県倉吉市岩倉
●別名 小鴨城
●高さ 247m(比高154m)
●築城期 寿永・元歴年間(1182~85)
●築城者 小鴨左衛門尉元兼
●城主 小鴨氏基・之基・元清など
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2009年5月2日、2013年10月30日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 伯耆・岩倉城(以下「岩倉城」とする)については、これまで草畿山城・関金要害山城(鳥取県倉吉市関金町)打吹山城(鳥取県倉吉市)羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)でも紹介しているが、打吹山城から西麓を流れる小鴨川沿いを7キロ余り遡った岩倉の地に築かれた城砦である。
【写真左】岩倉城遠望
 この写真は2009年に探訪したもので、登城口が分からず、西麓から写真のみを撮ったもの。




現地の説明板より

“小鴨氏と岩倉城

 小鴨氏は、律令時代-奈良・平安時代-すでに名があり、伯耆国庁につとめた在庁官人の家柄と考えられている。平安時代の末期に、寿永元年(1182)小鴨基保(もとやす)が西伯耆の豪族紀成盛と戦った記録がある。

 鎌倉時代に、小鴨氏は岩倉山(海抜247m)の山上に砦を築き、ここを代々の居城とした。
 元弘3年(1333)後醍醐天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略されたという記事もあるが、よくわからない。
 天皇が京都へ還幸になるとき、小鴨氏基は供奉したといわれる。
【写真左】岩倉城・概要図
 現地に設置されているものだが、塗料が大分薄くなっているため、分かりずらいが、本丸はほぼ中央部に描かれている。











 応仁の乱(1467~77)には、伯耆守護山名教之に従い、小鴨安芸守之基(ゆきもと)は、主人に代わって防戦し、船岡山の戦いで討死した。

 大永4年(1524)5月、尼子経久が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆のすべての城が陥落し、小鴨氏の岩倉城も落城の憂き目にあった。

 永禄4年(1561)西国より起こった毛利氏が強くなり、羽衣石城の南条氏と共に毛利氏に加担して尼子氏に反攻。永禄9年(1566)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南條氏と共に吉川元春の配下となった。
【写真左】登城口
 岩倉城の北麓に林道のような道があり、道路脇の斜面に「岩倉城」と記された標柱がある。もっとも、周囲の草に覆われていて、時期によってはこの標柱は見えないかもしれない。

 また、入口付近の道は狭い坂道で、最初に足を踏み入れた時は、この先の道は消滅しているのではないかと不安になった。しかし、除草していないのは前半だけで、その先ははっきりとした踏み跡があり、迷うことはない。

 なお、この標柱には登城道とは別に、もう少し林道を進んだ上の方に「大手門跡へ」と記されたものもあり、登城前にその箇所を捜してみたが分からなかった。


 元亀元年(1570)、山中鹿助の配下に一時奪われたが、因幡の湯原氏の応援を得て奪還した。
 天正7年(1579)、小鴨元清は南条元続(もとつぐ)と共に毛利氏から離れ、織田氏に帰属することになった。毛利氏は吉川元長を長として、圧倒的な軍勢を以て、岩倉城に猛烈な攻撃をしかけてきた。天正10年(1582)5月のことである。忠勇十二勇士の誓願盟約による奮戦も空しく、遂に落城した。城主小鴨元清は、南条氏を頼って羽衣石に逃れ、ここに岩倉城の歴史は幕を閉じた。
 
   小鴨地区総合開発協議会”
【写真左】堀切
 郭段などが現れる箇所より大分手前に設置されたもので、このあたりから登城道は傾斜がきつくなる。





小鴨基保と紀成盛

 平安時代末期の公卿で、後の鎌倉幕府において初代関東申次となった吉田経房が残した日記『吉記(吉戸記)』によれば、

 “寿永元年(1182)8月20日、伯耆国の紀成盛と小鴨基保の合戦に雲石等国々与力する。”

と記されている。
【写真左】「頂上まで80m」と記された箇所。
 城域に向かう道は北側から東に回り込むコースがとられている。
【写真左】登城道を塞いでいる大岩
 この箇所は土砂が崩落し、その上にあった大岩が落ちてきたものだろう。軟弱な土質のようだ。




 紀成盛は元々朝廷から遣わされた官人であったが、伯耆守として当地に下向したいわゆる在庁官人である。その後土着して伯耆国会見郡東部を本拠に勢力を拡大していった紀氏の一人である。
 紀氏は一時は伯耆国西部から出雲国東部まで所領を拡大していたといわれ、以前紹介した松江市の宍道湖北岸に所在する本宮山城(ほんぐうざんじょう)の大野氏も、元は紀氏である。

一方、小鴨基保の小鴨氏もまた同国久米郡小鴨郷を本拠として、国府在庁官人を努めた一族である。
【写真左】曲輪配置(推定図)
 現地に設置されているもので、右側が登城コースとなっている。

 主な遺構としては、右(北)から二の曲輪(二の丸)・主郭(本丸)があり、その西(上)に井戸曲輪が描かれている。


 両氏は互いの支配地が隣接していたため、度々衝突が起きていたようで、源平合戦が行われた寿永元年(1182)、紀氏は源氏方に、小鴨氏は平氏方に分かれ壮絶な戦いが繰り広げられた。伯耆国におけるこの戦いは、西隣の出雲国にも及び、両氏はそれぞれの与力一族に支援を求めたとされる。

 さて、源平合戦において平氏は滅びることになるが、平氏に与していた小鴨氏は、その後源氏に帰順したようで所領地小鴨郷を保持した。
【写真左】北側の腰郭
 二の丸の手前には2段の郭があり、そのうち下段のもの。幅は狭いが、東西に長い。








南北朝期から室町期

 現地の説明板では、「元弘3年(1333)後醍醐天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略された…」とあるものの、よく分からない、と記されている。

 『日本城郭体系 第4巻』では、小鴨入道の時、名和長年に味方して船上山に馳せ参じた、と記されているので、どちらが真実であったか分からない。別説では、これは小鴨氏内部において後醍醐派と幕府方に分裂していたのではないかとされている。
【写真左】石積
 上記の腰郭東部に残るもので、土塁の一部と思われる。









 さて、後醍醐天皇による建武の新政は破たんを来し、尊氏は後醍醐と袂を分かち、南北朝時代へと突入するが、正平8年・文和2年(1353)6月、南朝方の楠木正儀らが京都を奪還した際、佐々木道誉の嫡男で近江守・侍所であった秀綱は、同月13日、近江堅田に討死した。

 この勲功に対し、翌文和3年尊氏は秀綱跡に出雲国安来荘をはじめ山陰の数か所の土地を宛行している。その中には、「伯耆国小鴨次郎・同庶子等跡幷蚊屋荘・神田荘・因幡国私都郷」が記録されている(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照)。
 このことは、小鴨次郎をはじめとする一族が当時南朝方であったことを示している。
【写真左】二の曲輪(二の丸)
 北西方向に伸びるもので、長径50m×短径20m前後の規模を持つ。








 下って応安4年(1371)2月、鎌倉幕府倒幕から南北朝末期まで波乱にとんだ活躍を見せた山名時氏は、丹波・但馬・因幡そして伯耆国をその傘下に治め73歳の天寿を全うした(山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)参照)。

 時氏死後も伯耆国は山名氏が守護職として治めるが、小鴨氏はそのころから山名氏の臣下として活躍することになる。嘉吉元年(1441)に勃発した嘉吉の乱の際も、山名軍の主要な重臣として活躍し、論功行賞では山名氏庶流の教之とともに、小鴨之基は備前国の守護代として赴くことになる。
【写真左】二の丸西端部
 西側は要害性に富んだ切崖となっている。
 このあと、本丸側へ向かう。






戦国期

 主君山名氏はその後、家督及び所領地などを巡って一族内で内紛がおこり、次第に統率が乱れ始めていく。この隙をついてきたのが、出雲の尼子氏である。尼子氏が伯耆国周辺を攻略したのが大永年間とする定説がこれまであったが、最近ではこれを訂正する動きもある。

 ただ、流れとしては尼子氏による伯耆国侵攻があったことは事実で、その後、小鴨氏は羽衣石城の南條氏らとともに尼子氏の攻撃に対し抗戦を続けた。
 その後の経緯については、説明板の通りである。
【写真左】二の丸と本丸の間の郭群・その1
 二の丸と本丸を連絡する郭群は、4,5段の小規模な郭で構成され、幅は一旦この間で狭くなっている。
 ただ、東側の下には小規模な腰郭が付属している。
【写真左】二の丸と本丸の間の郭群・その2
 次第に登り勾配となり本丸に連絡されているが、それぞれの郭段は全体に中央部に窪みの痕跡があり、もともと西側に土塁が敷設されていたのではないかと思わせる。
【写真左】本丸・その1
 本丸北端部で、中央には祠のようなものがある。
【写真左】本丸・その2
 本丸北端部から奥に進むと、一旦中央部で細くなっている。ただ、このあたりから右側下には井戸郭などがある。
 本丸平面は平滑で施工精度が高い。
【写真左】本丸・その3
 この辺りが最も広い箇所で、特に北西方向に長く伸びている。
 その先を降りて、井戸郭に向かう。
【写真左】井戸跡か
 あまり明瞭でないが、二本の木の間が極端に窪んでいたのでこれだろうか。
【写真左】二の丸付近から北北東を見る。
 山名氏の居城・打吹城が見えるかと期待したが、登城時期が悪かったのか見えない。
 おそらくこの写真の右側辺りだろう。
【写真左】岩倉城から市場城を望む。
 市場城は次稿で予定しているが、岩倉城の出城とされ、小鴨氏家臣の岡田某氏が在城していたといわれる。
 天正10年5月、吉川軍に攻められて落城したといわれる。

【写真左】永昌寺十三重塔
 岩倉城の麓には古刹・永昌寺が建立されている。当院の縁起などは分からないが、ここに県指定保護文化財の「永昌寺十三重塔」がある。



 現地の説明板より

“県指定保護文化財

 永昌寺十三重塔(昭和31年5月30日指定)

 もと岩倉城跡付近から出土したもので、この城を居城としていた小鴨氏との関係も考えられる。
 笠石の軒のそり返り、上と下の笠石の長さの違いなどが、極端すぎることなく、全体的に美しく安定している。
 形などからみて、鎌倉時代から室町時代初め頃までに造られたと思われるが、県内では、十三重塔でこの時期のものは他になく、貴重な資料である。
  昭和59年7月
     鳥取県教育委員会”
【写真左】永昌寺石造宝塔
 同じく永昌寺には、三基の石造宝塔が残されている。


現地の説明板より

“市指定有形文化財(建造物)

 永昌寺石造宝塔 三基

所在地 倉吉市岩倉
構造及び形式又は寸法
(第1号)
寸法 高さ48.8cm 塔身幅40.0cm
材質 凝灰岩

(第2号)
寸法 高さ51.5cm 塔身幅40.4cm
材質 凝灰岩

(第3号) 
寸法 高さ44.5cm 塔身幅34.8cm
材質 凝灰岩

建築の年代又は時代 鎌倉時代
指定年月日 昭和61年8月1日

 宝塔は「法華経」に基づいて、造立されたものである。基礎・塔身・笠・相輪の各部からなる。基礎と笠の平面形は方形、塔身の平面形が円形で上部にやや細い首部が造られているのを特色とする。
 永昌寺の石造宝塔は三基とも、岩倉字奥新田(通称奥の院口)の水田から出土したもので、塔身以外は失われている。いずれも鎌倉時代に造られたものである。三基の中で、1号塔にだけ仏菩薩や経典を表す梵字が彫られている。梵字で表されているのは、釈迦如来と多宝如来の二仏を中心に諸尊を配した法華曼荼羅と、密教の経典に基づいた胎蔵界曼荼羅の大日如来、金剛界曼荼羅の四仏である。法華曼荼羅と密教の二つの曼荼羅が一つにまとめられている例は全国的に少なく、当時の仏教の状況を知ることのできる貴重な資料であるとともに、倉吉の密教文化の水準の高さを示すものである。
   倉吉市教育委員会”

2014年10月21日火曜日

佐和山城(滋賀県彦根市佐和山町)

佐和山城(さわやまじょう)

●所在地 滋賀県彦根市佐和山町・古沢町
●築城期 建久年間(鎌倉時代:城館)
●築城者 佐々木時綱
●城主 佐保氏、磯野氏、堀秀政、堀尾吉晴、丹羽氏、石田三成、井伊氏など
●高さ 233m
●遺構 郭・土塁・石垣・堀切・竪堀・堀等
●指定 なし
●登城日 2014年9月10日

◆解説(参考文献「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編等)
 彦根市といえば、彦根城が有名だが、その築城者であった井伊直政・直継父子が当城に移る前に居城としていたのが、JR東海道本線をはさんで東方に聳える佐和山に築かれた佐和山城である。
【写真左】佐和山城遠望
 この日泊まった南側にあるホテルの部屋から撮ったもの。








現地の説明板・その1

佐和山城跡
 佐和山のある湖東地方は、東山道・北国街道そして琵琶湖をひかえた交通の要衝であり、戦略上の拠点として、古来から幾度となく戦乱の舞台となりました。

 中世に入り、近江を治めた佐々木氏が、近江南部の六角氏と近江北部の京極氏に分かれると、両雄の勢力の境に佐和山にも要害の地として城が築かれ、武士化した在地の小領主を巻き込んだ攻防戦が繰り返されました。
【写真左】東麓から見上げたもの
 この日の登城口は、東麓の龍澤寺と清涼寺の間を通るハイキングコース入口からで、午後4時前ということで急ぎ足で向かった。


 そして戦国時代、京極氏の被官から勢力を伸ばした浅井氏と、尾張から天下をめざした織田信長との間で、佐和山城争奪戦が展開されます。その後、信長と豊臣秀吉の下でしばしの小康状態を迎え、石田三成が城主(1595~1600)となって城の規模も拡大されますが、関ヶ原の戦い後に落城し、やがて廃城と化しました。”
【写真左】西側からの登山ルート
 西側の東海道本線側からのルートを示したもので、現在地という箇所には広い駐車場やトイレなどが完備されていて、多くの人がハイキングコースとして楽しんでいるようだ。

  
現地の説明板・その2

“『佐和山城から彦根城へ
  • 鎌倉時代初期 佐々木定綱の六男時綱、佐保と号し、佐和山付近に館を設ける。
  • 天文10年(1541) 京極高広、執権浅井氏の専横を怒り、これを除こうとする。浅井久政、六角定頼に援助を求める。定頼、家臣の進藤貞晴を佐和山に遣わし久政と互いに謀って、人質をとる。この時、坂田・犬上両郡の人質は佐和山に収容された。その後、高広と久政は和睦する。
  • 天文21年(1552) 京極高広、佐和山城を攻撃、六角義賢、荒神山に本陣を置いて高広軍に対峙するが敗れ、高広方は佐和山城を占領する。
  • 永禄2年(1559) 浅井長政、家臣百々(どど)内蔵介に佐和山城の城代を命じる。
  • 永禄4年(1561) 六角義賢、佐和山城を攻める。百々内蔵介戦死。浅井長政、佐和山城を奪い返し、磯野員昌を城代とする。
  • 元亀元年(1570) 浅井長政、同盟関係を破る。姉川の合戦。磯野員昌、佐和山城に籠城。
  • 元亀2年(1571) 磯野員昌ら籠城衆、信長に降伏して佐和山城を開城する。丹羽長秀、佐和山城に入る。
  • 天正10年(1582) 清洲会議により、秀吉の将堀秀政、佐和山城主となる。
  • 天正13年(1585) 堀尾吉晴、佐和山城主となる。
【写真左】石田三成像
 ハイキングコースに入ると、すぐに左手に石田三成の銅像が見える。

  • 天正19年(1591) 4月、石田三成、代官として佐和山城に入る。
  • 文禄4年(1595) 8月、石田三成、湖北四郡19万4000石を治める佐和山城主となる。
  • 慶長4年(1599) 石田三成、佐和山に引退。
  • 慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦
  • 慶長5年(1600) 佐和山城落城。三成の父正継・兄正澄ら自刃して果てる。
  • 慶長6年(1601) 井伊直政、佐和山城主となる。
  • 慶長7年(1602) 井伊直政、関ヶ原合戦で受けた鉄砲疵が再発して佐和山城内で死去。
  • 慶長12年(1607) この頃、彦根城天守が完成し、直政の子直継、彦根城へ移る。佐和山城廃城となる。
【写真左】大洞弁財天と西の丸・本丸方面の分岐点
 暫く進むと最初のピーク尾根にたどり着くが、鳥居側から龍潭寺に向かう旧道の「龍潭寺越え」といわれる堀切である。


築城期

 上掲の説明板・その2にもあるように、佐和山城が築かれたのは、佐々木定綱の子時綱(佐保)が当城の麓に館を築いたのに始まるとしている。

 定綱については、これまで直近では米原市にある清瀧寺徳源院・柏原城でも紹介しているが、定綱の子には後に六角・京極氏などを輩出した信綱がいる。従って、佐和山城(館)を築いた時綱は信綱・広綱などと兄弟に当たる。
【写真左】塩硝櫓跡の発掘調査
 龍潭寺越えを過ぎると、すぐに西の丸のエリアに入るが、その先端部には塩硝(煙硝)櫓跡がある。

 丁度この箇所の発掘調査が行われていて、トレンチなどが露出していた。当城の発掘調査の進捗状況はよく分からないが、どうやら未調査箇所が相当あるようだ。今後の発掘調査が期待できそうである。
【写真左】土塁
 同じく煙硝櫓の場所で、通路は土塁の上を歩くようになっている。
なお、この箇所(西の丸)には西側斜面に中小の竪堀が三条認められる。


 承久の乱において、兄・広綱は後鳥羽上皇側に、弟・信綱は武家方に与し、広綱は敗れ、この結果近江守護職であった広綱は殺害され、弟・信綱が佐々木氏の家督を受け継ぐことになった。

 六男・時綱がこの乱の際、どちらに与していたか分からないが、こののち、信綱の子の代になって、泰綱が六角氏を、氏信が京極氏をそれぞれ興し、愛知川をはさんで対立していくことなる。
【写真左】北西にのびる郭方面
 同じく西の丸の一角だが、3条の竪堀のうち、南端部の箇所から降りていくと、約30mほどの長さを持つ郭がある。残念ながら日没が近づいてきていたため、この箇所には向かっていない。



境目の城

 以前紹介した彦根市の北隣米原市にある太尾山城でも述べているように、北近江は東隣に美濃国があり、中山道や北国街道が交差し、陸の交通の要衝であった。
 さらに佐和山城の西麓と現在の彦根城北方とに挟まれた松原町は、中世には松原内湖と呼ばれる潟があり、当時は長浜・米原と並んで彦根三湊の一つといわれた松原湊があった。つまり、水運交通の要衝でもあった。
【写真左】佐和山城概要図
 ※左方向が北を示す。
 現地に設置された絵図で、色が大分薄くなっていたものを参考に、管理人によって追加作成したもの。
 
 戦国期の状況としては、西側(同図上段)を大手として、外堀が描かれているが、現在の小野川(本流・矢倉川)を通じて琵琶湖まで船で出入りしていた可能性が高い。


 このため、戦国期までは佐和山城の形態は山城を構成しつつ、水城(みずじろ)の機能も持ち合わせていた可能性が高い。
 そして、佐和山城の東麓、すなわち現在の鳥居本町側を大手として、三の丸と太鼓丸に囲まれた谷間に屋敷跡を構えていたのは、西麓である琵琶湖岸側から直接攻撃されるのを回避するためではなかったかと考えられる。
【写真左】堀切
 西の丸と本丸の間にあるもので、この先を降りて東の尾根伝いを進むと二の丸が配されている。
 ただ、現状は余り整備されていないため、その先には行かず、このまま本丸を目指す。


浅井長政と石田三成

 当地には佐和山城に関わった武将として、浅井長政と石田三成について次のように記された説明板がある。

現地の説明板・その3

“~佐和山城ゆかりの戦国武将~
浅井長政(1545~73)
…戦国時代になり、京極氏に代わり近江北部の戦国大名として台頭した浅井氏は、近江南部の六角氏と勢力を争い、佐和山城は両勢力の境目の城として争奪戦が繰り広げられました。
 佐和山城を奪い返した長政は、織田信長からの同盟の提案を受け入れ、信長の上洛を援護することにより、六角氏を退けることに成功しました。
【写真左】本丸・その1
 長径約50m×短径25m前後の規模で、東西に長く楕円の形をなしている。






 同盟を機に、長政は信長の妹である市を妻として迎え、茶々、初、江の三姉妹をはじめ、子宝にも恵まれましたが、元亀元年(1570)、信長が浅井氏の盟友である朝倉氏を攻めたことをきっかけに、長政は同盟を破棄。朝倉軍とともに姉川の戦いで織田徳川連合軍と戦いました。

 佐和山に配された磯野員昌らは善戦しますが、戦いに敗れ、翌年には信長に佐和山城を開城しました。天正元年(1573)、本拠の小谷城を織田軍に囲まれた長政は自害し、29歳の生涯に幕を閉じました。残された市と三姉妹は信長の元に置かれ、その後の豊臣や徳川の時代まで波乱に満ちた運命を辿っています。”
【写真左】本丸・その2
 北側の一角には「佐和山城址」と刻まれた石碑が建つ。








石田三成(1560~1600)
 …近江国坂田郡石田村(現在の長浜市)で生まれた三成は、羽柴秀吉が信長に仕えて長浜城主となった頃から、秀吉の側近として仕え、次第に能吏としての手腕を発揮しました。
 秀吉の天下となってからも、検地などで大きな役割を果たし、五奉行筆頭に数えられた三成は、佐和山城主に封ぜられました。
【写真左】本丸から西方に彦根城を俯瞰する。
 夕方だったため余り視界は良くなかったが、彦根城の天守が確認できた。
【写真左】本丸南端部から彦根市街地を俯瞰する。
 中世・戦国期のころはおそらくこの辺りは湖面もしくは深江の景色だったのだろう。




 三成の時代に、佐和山城は、城下とともに整備され、一説には、五層の天守を備え、松原内湖には松原まで百間橋を渡すなど、「三成に過ぎたるもの」とまで言われた城であったと伝わります。

 秀吉亡き後、三成は、天下を狙う徳川家康との対立を深め、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を立てます。家康が諸大名を従えて上杉家に征伐に赴いたのを機に、三成は挙兵を決意し、慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原で家康ら東軍との戦いが始まりました。
【写真左】千貫井戸
 石田三成時代の井戸とされているもので、本丸から南に下がった2,3段の郭があるが、その西側にある。





 戦いは、東軍の勝利に終わり、佐和山城も東軍の攻撃を受けて落城し、三成の父・正継を始めとする石田一族の多くが討死しました。

 三成は湖北に逃れますが、ほどなく捕縛され、斬首されました。三成の死後も、佐和山の領民はその遺徳を偲んで地蔵などを築いてその霊を慰めたといいます。”
【写真左】隅石垣
 本丸の南端部斜面に残るもので、このラインは本丸外周部の石垣基底部とされ、この他7か所でも確認されているという。