2014年2月28日金曜日

鳥坂城(愛媛県西予市宇和町久保)

鳥坂城(とさかじょう)

●所在地 愛媛県西予市宇和町久保
●別名 岩の森城
●築城期 戦国時代
●築城者 村上吉継
●高さ 330m(比高60m)
●遺構 郭・土塁・堀切・竪堀・井戸等
●登城日 2014年1月28日

◆解説(参考資料「サイト「愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』、永禄期の南伊予の戦乱をめぐる一考察 川岡勉(日本史学研究室)等)

 大洲市と南の西予市を結ぶ国道56号線(宇和島街道)の境には鳥坂峠がある。現在国道は鳥坂隧道という長さ凡そ1キロ余りのトンネルが両市を繋ぎ、便利にはなっている。しかし、それでも車で大洲側からこの峠を越えるときは、急坂・急カーブなどが多い。
 ましてや中世戦国期では、このトンネルの上にあった峠道をこえることはかなりの負担が伴っただろう。現在、その旧道は遍路道となっており、最高地点は標高470mである。
【写真左】鳥坂城遠望
 東麓側から見たもので、高くなったところが主郭部分に当たる。
 







 鳥坂隧道トンネルを抜けると、すぐに右手に杉山となった小丘が見える。鳥坂城である。

伊予宇都宮氏と西園寺氏

 永禄9年(1566)11月、毛利氏が山陰の雄・尼子氏の居城・月山富田城をついに陥落させた。このころ中央では尾張の織田信長が美濃を攻め寄せ、あくる10年、斉藤龍興を稲葉山城に破り、岐阜城と名を替え入城した。

 こうした戦国期東西の騒乱の中で、四国の伊予国における版図もまた大きな変化を迎えていた。伊予国の盟主といわれた河野氏は、本拠地中予・東予はかろうじて支配下に治めていたものの、南予に至っては、支配はおろか逆に土佐国一条氏などからの脅威に晒されていた。
【写真左】鳥坂峠を遠望する。
 手前に見える道が旧道(遍路道)で、鳥坂城の東麓を回り込むように繋がっている。
 写真奥の山を越えると大洲市に至る。


 ところで、伊予の河野氏と土佐の一条氏の間に挟まれていたのが、大洲を本拠とする宇都宮氏とその南方の宇和を支配していた西園寺氏である。

 両者は弘治2年(1556)ごろ、領土を巡って争いを起こしている。この戦いは河野氏(通宣)の仲裁で一旦和睦を結んでいるが、一時的なもので、この対立もまた永禄年間における毛利氏の伊予出兵の直前まで続くことになる。
【写真左】大洲藩鳥坂口留番所跡
 西予市側の旧道麓には藩政時代の番所跡が残されている。
 戦国時代鳥坂城が要衝であったように、江戸時代になっても重要な場所であった。写真の左奥にはその建物が残されている。


 きっかけとなったのは、記録上永禄9年(1566)土佐一条氏が豊後の大友氏の支援を受けて、宇和の西園寺氏を攻略したことからとされている。

 このため、土佐国と境を接する南予(現在の北宇和郡・松野町、鬼北町)の広見川(四万十川支流)沿いには、以前紹介した河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)をはじめとして、夥しい中小の城砦が残っており、その激しさを物語る。
【写真左】四国のみち 案内板
 この坂(旧道)を1.3キロ登ると鳥坂峠にたどり着く。

 鳥坂城の登城案内などは全くないので、とりあえず負担のかからない旧道を進む。


 さて、翌10年(1567)、豊後大友氏の支援を受けて北進してきた一条氏が、敵対する西園寺氏を攻略してきたことに意を強くしたのだろう、大洲宇都宮氏が河野氏に対し、明確に敵対する構えを見せた。

 こうなると、西園寺氏は北から宇都宮氏、南からは一条氏によって挟み撃ちにされる構図となる。そして、西園寺氏が攻略されると、河野氏は完全に伊予において孤立することになる。
【写真左】旧道側の登城開始ヵ所
 東麓の登り坂となった旧道を進むと、今度は左に旋回し、再び鞍部となった箇所から右へと道は回り込むようになっている。

 鳥坂城側はこの写真の左側になるため、この附近からなだらかな斜面を探しながら登城を開始した。

 なお、鞍部となった旧道の北(西側)には広大な削平地が確認できた。鳥坂城の主郭付近はさほど大きなものでないことから、陣所跡であったかもしれない。

河野氏の南予攻め

 河野氏はこのため急きょ阻止すべく兵を挙げた。動いたのは河野氏重臣・来島通康と平岡房実である。この時の最初の戦略は、武力よりも調略、すなわち宇都宮氏等に対して、内部を混乱させるべく、内応や誘降といった懐柔策を主体とするものであった。

 その標的とされたのが、前稿で紹介した大野直之や、地蔵ヶ嶽城(大洲城)から北へ約6キロほど向かった山間地・上須戒を治めていた土豪・城戸孫三郎一族らである。
【写真左】主郭北端部の岩塊
 縄張は主郭を北端に配置した梯郭式に近い。

 この日は東側(旧道側)の斜面まで回り込み、上を目指したが、この面には郭の痕跡はあまり認められず、むしろ切崖だったせいか、踏み込む場所がなく、結局南側までまわってから主郭を目指した。



鳥坂城(峠)・高島山の戦い

 そしてその年(永禄10年)の秋ごろになると、河野氏(来島・平岡氏)はさらに南下し、喜多郡(大洲市)、宇和郡(西予市)の境目となる鳥坂峠の西麓に鳥坂城を築いた。これに対し、一条氏側は鳥坂峠東方の高島山に陣を布いた。

 河野氏の中心人物であった村上通康はこの年の9月、現有の戦力で一条氏側と戦うことに限界を感じ、安芸の毛利氏に使者を送り、支援の要請を行った。しかし、これに対し毛利氏側ではすぐに伊予にむけて一族が出陣することはできなかった。豊後の大友氏との戦いが行われていたからである。
 最終的には毛利氏(小早川隆景ら)が出陣することになるが、支援を要請した村上通康は陣中で急病に罹り、ほどなくして急逝してしまった。
【写真左】南側の郭段
 この位置からは比高の低い郭段が連続していたため、比較的容易に進むことができる。
 竹林がないともう少し形状が分かりやすいのだが。


 結局毛利氏の伊予出陣の態勢が整ったのは、豊後で戦っていた乃美宗勝(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)が安芸に戻り、さらに来島村上氏の主将・村上吉継らと協議することができたその年(永禄10年)の晩秋である。

 毛利氏のこうした遅延の間に、土佐一条氏は着々と南予に侵攻、国境沿いの三間・両山の国人衆らを味方につけ、さらには圧迫をうけていた西園寺氏を従属させた。そして、一条氏は、前記したように毛利・河野氏の本陣とした鳥坂城から東方へ直線距離で4キロ余り離れた(徒歩では10キロ以上の距離になる)タイマツ峠の北方に聳える高島山(H:572m)に陣を構えた。
【写真左】主郭付近
 主郭としての区画部分は、およそ10m四方の規模だが、周辺部と若干の比高を持たせた低い郭がつながっている。

 おそらくこれらも一体のものとして使用されたものだろう。


 一方、毛利方はいち早く伊予に入った村上吉継が鳥坂城を守備し、高島の陣から度々攻撃を受けながらもなんとか持ちこたえていた。この頃、主に鳥坂城を攻めたてていたのは、前稿菅田城(愛媛県大洲市菅田町菅田)城主であった菅田(大野)直之や、土佐の幡多衆の重鎮津野定勝らであった。もちろん鳥坂城側が常に守勢に立たされていたわけではなく、緒戦では一条氏側の高島の陣を攻めたが、戦力の差はいかんともしがたく、撃退された。
【写真左】石碑
 主郭付近には下記の碑文が刻まれた石碑が建立されている。

“ 寄付者 梶原タヨ
 同意者 古谷綱左衛門
 昭和13年3月5日
 久保正信青年會”



 こうした形勢の中、永禄11年2月4日、一条氏軍は遂に鳥坂城に向けて総攻撃を開始した。劣勢の鳥坂城は、落城寸前まで陥ったものの、村上吉継の度重なる奮闘でこの時も持ちこたえたという。このためその後はしばらくこう着状態が続き、両陣営のにらみ合いとなった。
【写真左】仏像
 奥には仏像が祀られている。








毛利氏の伊予上陸

 毛利氏の主力部隊が伊予に上陸したのはこの年の3月中旬から下旬とされている。ただ、その前に小早川隆景の命を受けた軍が先に伊予に入り、一条氏側の要衝とされていた大洲城(愛媛県大洲市大洲)や、八幡山城を攻略している。おそらく大洲侵攻のルートは村上水軍といった水軍領主を使い、肱川を遡ってきたものだろう。

 毛利氏の伊予出兵が整いかけた矢先の4月、豊後の大友氏が豊前・筑前方面へと北進を開始した。このため、毛利氏側は一部を伊予に残し、主力は一旦安芸に戻り、再び九州へ出兵することになる。
【写真左】土塁
 主郭の北側を中心として残っているもので、高さは50cm前後だが、当時はもう少し高く構成されていたものと思われる。




 伊予における毛利氏側の動きは、おそらく常に豊後の大友氏に知らされていたものと思われる。 一条氏側が劣勢になると、豊後の大友氏が九州で兵を挙げることによって、毛利氏は伊予と豊後の両方に対処せざるを得なくなる。伊予国における河野VS一条氏の戦いではあるが、実態は豊後の大友氏による巧みな攪乱、揺動作戦に毛利氏が対応した戦いであったかもしれない。
【写真左】井戸跡
 直径1m足らずの小規模なものが主郭に残る。主郭を中心とした部分には枯葉が覆っているため、この箇所以外に発見できなかったが、この他にも井戸や水の手遺構があるかもしれない。


 その後の詳細な動きについては今一つ整理しきれないが、徐々に毛利氏側(河野氏)が優勢となり、特に吉川元春・小早川隆景らの本隊が伊予に入ってからは、戦況は一挙に変わり、地蔵ヶ嶽城(大洲城)を陥れたのを皮切りに、上須戒・下須戒・登議城山など一条・西園寺・宇都宮諸勢の諸城は次々と陥落、宇都宮豊綱は遂に開城・降伏することになった。
【写真左】南側の郭段
 主郭から南にかけては3,4段の郭が連続している。主郭の大きさよりも広い。
 ここからさらに南側の尾根筋を辿りながら降っていく。
【写真左】切崖
 南尾根の途中にあるもので、比高差7,8m程度の規模を持つ。
【写真左】堀切
 南尾根の途中には規模の大きな堀切跡が見える。
 ただ、相当底部が埋まったためか、一見すると郭にも見えるが、両端部の尾根高が確保されているので、南からの攻撃に対し、ここで断ち切るため設置されたのだろう。
【写真左】竪堀
 東斜面には一条の竪堀が見える。
因みに反対の西側斜面を踏査してみたが、もともと険峻な斜面となっているため、あえてこの箇所には設置されていないようだ。
【写真左】南側から遠望する。
 登城始点はこの写真の右側にある。

 また、以前紹介した肱川の源流は、鳥坂城の左側奥から流れている。

2014年2月24日月曜日

菅田城(愛媛県大洲市菅田町菅田)

菅田城(すげたじょう)

●所在地 愛媛県大洲市菅田町菅田
●築城期 戦国時代
●築城者 大野上総介直之
●高さ 200m(比高130m)
●城主 大野(菅田)直之
●遺構 郭、空堀、石積み等
●備考 大野神社
●登城日 2014年1月28日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 菅田城は、前稿大洲城から東方へ約6キロ向かった神南山の尾根筋西端部の中腹に築かれた山城である。
 築城期は確定はしていないものの、大洲城の支城として戦国期、大野直之が築城したといわれる。
【写真左】登城口付近
 登城口は神南山権現駐車場という所にあるが、ここまでの道が大分狭く、小回りの利かない車では相当難儀するだろう。

 菅田五郎停車場線という狭い道から、さらに狭くなった脇道なので、分からなくなったら地元の方に聞くのが一番いいかもしれない。


伊予・大野氏

 伊予・大野氏の名が出てくるのは南北朝期である。正平23年(1368)、丹波・丹後守護であった仁木義尹が、武家方(幕府)として伊予に入った時、南朝方として義尹と戦ったのが、大野氏や吉岡・森山氏といわれている。

  大野氏らはこの戦いで敗れることになるが、この時期すでに南朝方の勢威は消滅した情況で、同年末にいたると、幕府(武家方)では、その前年足利義詮が、嫡男義満に政務を継承させ、執事に細川頼之がつき、あくる年(正平23年)、義満が第3代室町幕府征夷大将軍の座についている。
【写真左】宗教法人 神道大成経大洲布教所
 登城口の脇に立っている施設。








 伊予での戦いの場所は、現在の内子町東部小田川周辺部であったといわれているため、久万高原町地域を本拠としたのはその後と思われる。

 下って室町期に至ると大野氏は、隣接して支配していた森山氏と共に、細川氏に与し、伊予河野氏と対峙していた。
【写真左】登城口
 この写真の右側に上掲した施設が建っており、その脇にトンネルのような登城道が見える。
 道は雨水で中央部がクレパスのように抉られた状況のため、しばらく跨ぐような恰好で歩く。



大野直之

 さて、戦国末期における直之が当初、本拠としたのがこの菅田城である。大野直之については、これまで土佐の波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)などでも触れてきたが、戦国期における下剋上のもっとも殺伐とした時代を代表するような、残忍・冷酷な首領であった。この点から言えば、西国では備前の宇喜多直家と双璧の梟雄といえるだろう。
【写真左】登城道
 やっとこの辺りからまともな道となる。全体に緩い坂道のため、九十九折はほとんどなく、道なりに進む。






 直之は浮穴郡久万山の大除城主・大野利直の六男といわれている。大除城(おおよけじょう)というのは、大洲から東へ60キロ余り登った現在の久万高原町菅生にあった城砦で、管理人は登城はしていないが、麓を走る国道33号線からその姿を以前遠望したことがある。

近年採石によって当時の面影が大分消失しかけているようだが、『城郭放浪記』氏の写真を見る限り、石積みなどは残っているようだ。

 直之は後に大洲城主であった主君宇都宮豊綱の娘を妻として迎え、豊綱に見込まれて家老となった人物である。直之の生誕年ははっきりしないが、豊綱が永正16年(1519)生まれであることを考えると、天文年間(1532~54)の初期ごろと思われる。
【写真左】郭段か
 登っていくと、左手に段が見え始める。ただ、以前が畑地だったような形跡にも見える。もっとも郭だったものを畑地としたのかもしれない。


 永禄10年(1567)11月、毛利氏が伊予に向けて動き出した。河野氏の支配力は次第に低下し、南方の喜多郡の宇都宮氏、さらに宇和郡の西園寺氏らが河野氏から離れ、土佐一条氏(兼定)と手を結ぼうとしていた。
 さらには一条氏は九州豊後の大友氏と密接な関係を持っていた。このため、毛利氏としては、一条氏らによって河野氏が駆逐されることは、豊後の大友氏が伊予においても勢力を拡大することになり、看過できない状況が生まれてきたからである。
【写真左】石積みの郭
 下段に示す詰の段(本丸)と思われる箇所から下にかけては、およそ5段程度の郭段がなだらかな尾根上に築かれている。

 そのうち、何か所かはこうした石積みが確認できるが、在城期間が短かったのか、保存状態はあまりよくない。


 このため、毛利氏は河野氏を背後で支援しつつ、一条氏(大友氏)との間に挟まれていた宇都宮氏と西園寺氏に対して盛んに調略の手を企てていった。
 このころ、河野氏を事実上支えていたのは、来島通康(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)と、平岡房実(荏原城(愛媛県松山市恵原町)参照)である。
 
 地蔵ヶ嶽城の城主であった宇都宮豊綱の家老・大野直之のこの頃の動きは、波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)で粗方紹介しているが、最終的には長宗我部氏に属し、最期には天正7年(1579)に河野氏に攻められ地蔵ヶ嶽城(大洲城)で自刃したというのが定説になっている。
【写真左】詰の段(本丸)
 この写真の右側も尾根が伸びているが、詰の段の後ろ(右)に基壇のような高まりを残し、その先では尾根を大胆に切り落とした堀切(空堀か)がある。

 その堀切から改めて上に延びる尾根を辿ってみたが、それ以上の遺構は確認できなかったので、城域としてはここまでと思われる。
 写真左側には約2m程度下がった位置に長く伸びた郭が構成されている(下の写真)。
【写真左】詰の段の下にある郭
 尾根の下がりをあまり修正しないまま、下に伸びる。








 ただ、『伊予温故録』という史料では、山中に逃れて家臣に殺されたのだが、その際三歳の女児を抱き、命乞いをしたものの、願いは聞き入られず諸共刺殺されたと伝えている。どちらにしても、下剋上のこの時代といえども、度し難い豹変・変節を繰り返してきた者に対する末路は、なんとも哀れである。
【写真左】大野直之の石碑
戒名「高徳院殿徹山是心大居士」「前大洲城主 菅田隼人正直之…」と刻銘された石碑が建立されている。
 平成元年に14代当主大野氏が施主とある。

2014年2月18日火曜日

大洲城(愛媛県大洲市大洲)

大洲城(おおずじょう)

●所在地 愛媛県大洲市大洲
●指定 国重要文化財(台所櫓・南隅櫓・高欄櫓・芋綿櫓)
     愛媛県指定史跡
●別名 地蔵嶽城・比志城・亀ヶ岡城・大津城
●形態 平山城、天守(複合連結式層塔型)
●高さ 23m
●築城期 元徳3年(元弘3年・1331)
●築城者 宇都宮豊房
●城主 宇都宮氏、大野直之、加藤泰興等
●遺構 本丸・二の丸・三の丸、石垣、内堀、台所櫓等
●登城日 2006年3月18日、及び2014年1月28日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 大洲城は、伊予国(愛媛県)の中央部より少し下がった南予地方の北部大洲市に築かれた平山城である。

 麓を流れる肱川によって、旧喜多郡といわれた山間部にありながら、広大な盆地を形成した大洲盆地は、紀元前1万年ころから人々が住み始めたといわれている。
【写真左】大洲城
 平成6年から天守復元工事が始まり、平成16年9月に竣工している。

 史料・史実に基づき当時の姿に復元したもので、外観はもとより、内部の建築構造などにも伝統工法にのっとった造りとなっている。


肱川(ひじかわ)

 山間部に人が住む場合、生活の条件としてもっとも必要なものは、安定した水の供給と確保である。この川が大洲地方にもたらした恩恵は、水を中心として住民の生活・文化に多大なものを育んできた。
【写真左】肱川
 大洲城から見たもので、当城の東麓を流れている。
なお、写真中央にみえる丘は八幡神社が祀られているが、この場所でも永禄年間に宇都宮氏と河野氏が激しい戦いをしたところで、砦跡(八幡城)が残る。


 ところで、以前にも四国を流れる主だった大河が、それぞれ特徴的な水系をもっていることを紹介したが、この一級河川肱川もその例外ではない。

 源流は、いずれ紹介する予定にしている大洲市の南隣西予市宇和町久保の鳥坂城の西方にある。この位置から北の大洲市中心部までは直線距離でわずか6キロほどである。
【写真左】鳥坂峠付近
 西予市宇和町久保。源流のある位置はこの写真には入っていないが、左側の山脈に当たる。





 ところが、源流は鳥坂峠側分水嶺の南側にあるため、ここから宇和川と名乗って南下し、西予市役所の脇を通り、次第に東に向きを変え、途中で南北の谷から流れてくる中小河川と合流しながら、次第に北進し、肱川町の鹿野ダムで東方から流れてきた黒瀬川と合流、そして鹿野川ダムで水を貯め、肱川となって放流され大洲市街地に注ぐ。
【写真左】大洲城と肱川遠望
 東方にある富士山(とみしやま:H320m)から見たもので、肱川はこの辺りで何度も蛇行を繰り返し、下流(右)部長浜に注ぐ。



 大洲市街地に至るまでも数多くの蛇行を繰り返すが、更にこの町部では根太山や、富士山(とみしやま)などの岩山が流れを南麓面で阻み、このため大洲市街地では時計回りに大きな蛇行を描き、やっと北西方向の伊予長浜の河口方向を向いて流れ出す。

 そして、さらに興味深いことは、大洲市街地を流れる川面と、伊予灘にそそぐ長浜での川面の高低差は極めて少なく、普段は極めて穏やかな流れである。このため、肱川の川岸に築かれた大洲城は中山間地の山城であるものの、標高はわずか23m前後という低さである。
【写真左】大洲城遠望
 大洲城に訪れたのは2回目で、前回は2006年で既に復元工事は竣工していたが、今回(2014年1月28日)は本丸の付近で発掘調査などが行われていた。


地蔵嶽城

 大洲城は、別名地蔵嶽城ともいう。元徳2年(1330)、宇都宮豊房が伊予国の守護職に任ぜられ喜多郡を領し、翌年地蔵嶽に新城を築き、この城を「地蔵嶽城」と命名したといわれる。

 宇都宮氏は元々下野国(栃木県)宇都宮氏が本流だが、平家追討の任を源頼朝から受けた宇都宮信房が、鎮西奉行として、薩摩に奔走した平家を喜界島(鬼界ヶ島)で討伐し、その功績によって所領を豊後・日向国に与えられたのに始まる。時に頼朝が征夷大将軍となった建久3年(1192)といわれ、豊前宇都宮氏の祖となった。
【写真左】大洲城全景
 天守を含めた建物は規模はさほど大きなものではないが、黒と白が織りなすモノトーン風の色彩美は大洲の街並みとフィットしている。


 信房から数えて4代後の頼房のとき、冬綱(養子か)は豊前宇都宮氏(城井氏)を継ぎ、次男・豊房は、元徳2年(1330)鎌倉幕府から伊予国守護職を与えられた。その翌年大洲に入り現在の大洲城がある場所の地蔵嶽に城を築き、「地蔵嶽城」と命名した。

 宇都宮氏はその後下段にも示すように、8代(約240年)に渡って当城の城主となる。
  1. 豊房
  2. 宗泰 豊綱には嫡子がおらず、筑後国にあった宇都宮泰宗の子・貞泰四男の宗泰が養子として伊予宇都宮氏を継ぐ。
  3. 泰輔
  4. 家綱 家綱からも泰輔嫡男ではなく、養嗣子の可能性が高いが、詳細は不明。
  5. 安綱
  6. 宣綱
  7. 清綱
  8. 豊綱 (1519~85) 伊予宇都宮氏最後の当主
【写真左】発掘調査の現場
 天守閣の裏側で行われている。いずれまとまった調査報告が発表されるだろう。






大野(菅田)直之

 戦国末期地蔵嶽城(大洲城)主であった宇都宮豊綱には、大野直之という家老がいた。彼については、以前波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)でも紹介しているが、伊予戦国期の梟雄といわれ、主君豊綱を陥れ、当城を乗っ取りした人物である。次稿で彼の本拠城・菅田城で改めて述べたい。
【写真左】大洲城から富士山(とみしやま)を遠望する。
 大洲城の東方にあって、静岡県の富士山に似ていることから、富士山と命名された。ただし、読みは「とみしやま」という。

 肱川は富士山の右側(南)を通り、手前の大洲城の東麓を抉って再び東方に注ぐ。


大津城から大洲城へ

 秀吉が四国平定した際、小早川隆景は伊予国35万石を与えられたが、居城は湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)とし、当時大津城といわれた大洲城は枝城とした。2年後隆景が九州へ転封となると、戸田勝隆が入城、宇和・喜多両郡16万石を与えられた。しかし、朝鮮の役で勝隆が亡くなると、文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和郡板島7万石で入国したが、併せて隣接する宇和・喜多・浮穴郡も領地し、板島城(宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)参照)に城代を置き、大津城(大洲城)を居城とした。
【写真左】台所櫓付近から石垣を見る。
 本丸の東端部が肱川と接しているが、今のように上流部にダムなどがなかったため、この地区は大洪水に度々見舞われたという。

 従って、石積みにもその経験からより堅牢な施工がなされたと考えられる。


 その後関ヶ原の戦いが終わると、高虎は今張(今治)も追増され国分山城(霊仙山城(愛媛県今治市旦・宮ヶ崎字上成乙)参照)を本拠とするもすぐに、今治城の普請に取り掛かり、大津城には養子である高吉を城代とした。

【写真左】今治城
 所在地:愛媛県今治市


 高虎のあと入ったのが、脇坂安治で、慶長14年(1609)のことである。高虎が大洲城にあったころ、城下町としてのハード面が整備されたといわれ、脇坂安治の代では、経済活動の基盤などソフト面がこの段階で確立したといわれている。
【写真左】慶長年間後の大洲城
 復元写真でも分かるように、肱川から水を取り入れた堀の様子が再現されている。
【写真左】米子城
 所在地:鳥取県米子市


 その後、元和3年(1617)になると、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で入城、このころには既に城名は大津城から大洲城へと変えていたものと思われる。以後加藤氏は江戸末期まで代々当城の城主として続くことになる。なお、貞泰が米子城にあったのは、慶長5年(1610)からだが、その後大坂の陣によって戦功を挙げ、7年後大洲藩に入ったものである。

中江藤樹

 さて、近世の話題となるが、大洲藩には一時期、「近江聖人」といわれた陽明学の中江藤樹が暫くこの地で過ごしている。
【写真左】中江藤樹銅像
 西側に建つ。











現地の説明板より

“近江聖人 中江藤樹先生(1608~48)
 先生の名は原、通称は世右衛門、生家は近江の小川村(滋賀県)、屋敷内に大きな藤の木が生い茂り、その下で学問を積み、敬い集まる人々を導いたので、藤樹先生と呼ばれ、後の世の人々からは近江聖人と敬慕されてきた。

 大洲は、先生が10歳から27歳まで過ごされた立志・感恩・勉学の地である。大洲の人々は、先生ゆかりの地として、その学徳を追慕し、藤樹先生の心をいつまでも継承しようと、この城山に銅像を建立した。
 ☆教え―「孝」「致良知」「慎融」「知行合一」など
 ☆著書―「翁問答」「鑑草」「春風」「捷径医筌」など
     平成9年11月吉日 記 大洲藤樹会”
【写真左】藤樹神社
 所在地 滋賀県高島市安曇川町上小川
 2005年7月参拝
藤樹は晩年生誕地である近江高島に戻り、自宅を開放して塾を開いた。

 地元には、神社のほか、中江藤樹記念館、陽明園、私塾として使われた藤樹書院などゆかりの史跡がある。


 上掲した説明板には書かれていないが、藤樹は米子城から大洲城に移った加藤貞泰と動きを共にしている。藤樹は、9歳のとき(別説では6歳)米子藩主加藤家に150石取りとして仕えた祖父・中江徳左衛門吉長の養子となった。現在米子市の9号線沿いの加茂町2丁目に藤樹の石碑が祀られており、米子城の東麓に住まいをしていた。
【写真左】米子市(鳥取県)にある「中江藤樹先生成長之地」の石碑

 現地の顕彰碑由来より

“世に近江聖人と仰がれる中江藤樹先生は幼少の頃米子城主加藤貞泰に仕えた。祖父吉長とここに住み学問に励んだ。
 明治42年この旧邸跡に就将校が開校され、昭和37年愛宕町に移転されるまで50余年間知行合一の藤樹精神は就将教育の根幹となり今に至るまでうけつがれている。
 由緒あるこの地の忘れさられることを惜しみ藤樹先生の遺徳を偲び就将校父母と先生の会思い出会自治連合会相図り碑を建て以て後世に伝える。
   昭和45年 12月
   中江藤樹先生遺徳顕彰会”


 元和2年から3年にかけて、当主加藤貞泰が伊予大洲に国替えとなると、祖父母と一緒に移住する。その5年後に祖父が死去したため、家督(100石)を相続。このあとしばらく大洲において学問に勤しむことなる。その後、郷里の近江高島で私塾を開くが、大洲時代に指導を受けた門下生も、彼を慕って近江まで講義を受けに上ったという。

 昭和初期に生まれた現在の85歳前後の方々は、修身で彼の事績を学んだらしいが、管理人の知る限り最近では学校教育で取り上げていないようだ。

松根東洋城 大洲旧居

 大洲城の二の丸金櫓跡に建てられたもので、江戸時代の武家屋敷遺構の一部が残る。
【写真左】松根東洋城大洲旧居
 現在は個人の方が住まいをして居られるようだ。








 松根東洋城、一見すると城名かと勘違いしそうだが、実は人物名で、俳人である。

 管理人は中学から高校にかけて、明治時代の文学に興味をもったが、その中でも特に夏目漱石の作品を愛読した。おもだった彼の作品はほとんど読んだが、漱石の親友で俳人正岡子規との交友は余りにも有名で、漱石の作品には子規から影響を受けたものも多い。

 子規の弟子のなかで、高浜虚子、河東碧梧桐と並んで有名なのが、松根東洋城である。東洋城は東京生まれだが、父が明治23年(1890)当地大洲の区裁判所判事として赴任すると、彼もこの地に転校することになる。その時の住まいが、この二の丸金櫓跡に建てられた裁判官判事の宿舎である。
 東洋城はその後松山の中学校に入学、4年のとき夏目金之助(漱石)がこの学校に英語教師として赴任、それ以来師弟の間をこえた付き合いが始まることになる。いわずもがな、この時の経験が漱石の小説「坊ちゃん」の誕生を生むことなる。

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2014年2月13日木曜日

由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘)

由並・本尊城(ゆなみ・ほぞんじょう)

●所在地 愛媛県伊予市双海町上灘
●築城期 南北朝期
●築城者 不明
●城主 合田貞遠・由並(得能通遠)・由並氏
●廃城年 天正14年後
●高さ 180m(比高170m)
●遺構 郭・石塁・堀切
●登城日 2014年1月27日

◆解説(『日本城郭体系 第16巻』等)
 前稿までは燧灘沿岸部の城砦を取り上げてきたが、今稿は伊予灘に面した山城・由並城(本尊城)を取り上げる。

 伊予の高嶺といわれる四国の名峰・石鎚山があるように、当城(当山)もまた、標高は低いものの、その険阻な姿は伊予灘海岸部の山々の中でもひときわ異彩を放つ。
【写真左】由並・本尊城遠望
 当城の西麓を走る国道378号線は、通称「ゆうやけこやけライン」と呼ばれる夕日スポットのエリアで、下山したおり、麓にある道の駅「ふたみ」では、伊予灘の西の彼方に沈む夕日にシャッターを切る多くの人がいた。

 管理人は彼らとは全く反対の方向のこの山を写したが、本尊山も夕日に照らされていた。



【写真左】双海町(ふたみちょう)案内図
 本尊山城はこの図の左上に描かれている。






 登り口西麓に当たるところには南北朝期、得能通時が造営したとされる「天一神社」が祀られ、当城との関わりについて次のように記されている。

現地の説明板より

“由緒

 太古、大己貴命(おおなむちのみこと)、小彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱が神が、国内御巡歴の際、本尊山に登られたという故事にちなんで、伊予の国造が神籬を立てて灘浦鎮守の神、本尊の宮としてお祀りしたが、六百余年後の元徳2年(1330年)2月、伊予守得能通時がこの山を居城とするに当たって、社殿を造営したのが、天一神社の起こりである。
【写真左】天一神社参道の階段
 由並城はこの社の向背に繋がっているが、現在は社の後ろにJR予讃線が走っているため、尾根が分断されている。

 当時はこの社の後ろから続く尾根伝いを使った登城道があったものと思われる。


 それから360年を経て、元禄4年(1691)9月、現在の位置に奉遷し、明治43年1月5日、稲荷神社を合祀して天一稲荷神社と改号して現在に至っている。

安産御祈祷の由来
 大洲藩主加藤遠江守通遠の奥方御懐妊に当たり、神官武智肥後が安産御守を謹製して献上したところ、御安産なされたという功績によって大洲候の御祈願所と定められ、安産守護神として崇敬されている。”
【写真左】天一神社本殿
 沿革によれば、、元徳2年(1330年)、伊予守得能通時が造営した社殿(本尊の宮)は本尊山山頂に設置され、元禄4年(1691)に至って、現在の麓に奉遷したとされる。


南北朝期

 上掲の説明板にもあるように、元徳2年(1330)、伊予守得能通時が居城したとされている。ただ、『日本城郭体系 第16巻』では当城の築城期・築城者は不明であるとされている。

 これは、建武2年(1335)7月、諏訪頼重らが武蔵国に進軍し足利直義を打ち破ったいわゆる「中先代の乱」における戦功によって、河野通時(通有の孫・得能通時)が、由並及び中山地方を賜わり領有したことから築城したのではないかというものであるが、時系列的にも符合しないため、想像の域を出ないようだ。
【写真左】天一神社から伊予灘を望む。
 かなり急な階段を上がった所に当社があるため、境内から北の方向に上灘の港や伊予灘、そして対岸の山口県周防大島の島影が見える。


 はっきりしているのは、その翌年(建武3年・1336)、由並城から北方10キロにあった松前城(まさきじょう)に籠城していた合田貞遠が、河野通朝・祝安親らに攻められ敗走して由並城に立て籠もり、最期は火を放たれて落城したという記録がある。この段階では合田貞遠を匿った段階で当城の城主がいたものと思われるが、詳細は不明である。

 なお、河野通朝は、道朝ともされ、当時讃岐の細川氏と激しい戦いを繰り返していた。おそらく合田何某は細川氏に与同していた武将かもしれない。
【写真左】登城開始
 境内の西脇を通っていくと、予讃線に出くわす。信号などない踏切で、左右を確かめ、渡りきると、いきなり登城コースの先端部になる尾根筋の道が待っている。

 周囲はご覧のように笹が繁茂し、道は笹竹のトンネルのような光景がしばらく続く。


由並通遠(得能通遠)

 文献史料で初めて当城主として出てくるのが、由並通遠である。別名得能通遠ともいい、得能氏は、鎌倉期の河野氏23代の通信の子・通俊が分かれて得能通俊を名乗ったのに始まる。

 得能通遠が由並城主となったのは、貞治4年(正平20年:1365)といわれている。このころは南北朝末期で、四国の支配は守護職として最大の勢力を誇った細川氏が支配していくことになる。
 以後、当城は由並氏というおそらく得能氏の後裔とおもわれる一族が代々受け継いでいくことになる。
【写真左】険しくなった尾根始点
 途中までは尾根筋となった道ながら、緩やかな傾斜が続くが、この写真あたりから途端に岩肌が露出し、傾斜がきつくなる。




戦国期

 元亀・天正年間(1570~84)のころ、城主由並通資が河野氏麾下となっていたが、以前にも紹介したように、天正13年(1585)6月、秀吉の四国征伐の命によって攻め入った小早川隆景により開城、暫くして廃城となった。
【写真左】頂上部が見える。
 この辺りで一旦傾斜が落ち着き、幅20m前後×長さ40m程度の郭が確認できる。おそらく三の丸といわれた箇所だろう。
【写真左】二の丸に向かう。
 さらに傾斜はきつくなり、息が荒くなる。
【写真左】鳥居のある郭
 途中までほとんど眺望が望めなかったが、この場所でいっきに伊予灘が眼下に広がった。

 おそらくこの鳥居がある場所が二の丸と思われる。
 前段で紹介した「本尊の宮」の鳥居だろう。
【写真左】本丸遠望
 ここからさらに本丸を目指すが、この段階で連れ合いが拒絶反応を示した。

 この先の道がさらに険しくなることを予想できたからである。

 しかも、その傾斜は下の写真にもあるように、ほぼ垂直となっている。

 さすがに当方も、ロッククライミング並の登城経験はないため、躊躇した。
【写真左】本丸の側壁
 登城道がまさかこんな箇所ではないと思いつつ、トライすることを決断する。

 連れ合いには、鳥居の所で待っているようにいうと、それはそれで心細いという。

 危なくなったら早めの判断で引き返すことを条件に、足を進める。
【写真左】本丸までの道
 上に行けばいくほど細尾根になっていることは予想できたが、左側(海岸部)側壁に生えている笹のおかげで、気分的に恐怖心が薄らぐ。
 ただ、油断すると一気に滑落する。

 連れ合いも恐る恐るついてくる。
【写真左】本丸
 なんとか本丸(詰の丸)にたどり着いた。

 写真の左右とも竹や樹木がなければ、石鎚山頂上の小形版といったところ。

 3,4人もおれば満席という狭い頂部である。
【写真左】三角点
 祠があったところだろう、鬼瓦のような像と、賽銭が積んである。我々も無事登城したのでお礼の賽銭を置く。

 今回も汗が出たが、後半は殆ど冷や汗のほうだ。

 サンドイッチと飲み物を飲みながらしばらく伊予灘を眺望する。
【写真左】右手(松前町方面)を見る。
【写真左】伊予灘を見る
 最近まで地元上灘の漁民の魚見台として使われていたという。正面は遮るものがまったくなく、ここから夕陽を眺めれば最高だろう。
 
 視界が良ければ、周防大島の他、山口県・本土や、九州・国東半島が見えるという。

 中世・戦国期にはおそらく大友氏や毛利氏などが多くの軍船を引連れ往来していたのだろう。
【写真左】明神山
 本尊山の尾根から東に尾根が伸び、約3キロ先に見えるのが標高630m余の明神山である。
【写真左】本丸の東側直下
 本尊山は東方の明神山から伸びた尾根が一旦この山の直前で鞍部を作り、そこから垂直に屹立しこの頂部を構成している。
 まさに天険の要塞である。
【写真左】夕日に染まる由並・本尊城
 麓には「道の駅ふたみ」があり、夕日スポットとして親しまれている。
【写真左】伊予灘に沈む夕陽