2014年10月9日木曜日

近江・小谷城・その2(滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山)

近江・小谷城(おだにじょう)・その2

●所在地 滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山
●築城期 永正13年(1516)ごろ
●築城者 浅井氏
●城主 浅井亮政・長政、羽柴秀吉
●指定 国指定史跡
●備考 日本五大山城
●高さ 495m(比高450m)
●遺構 郭・土塁・石垣・堀切・石垣その他
●登城日 2014年9月10日(前回2008年3月19日)

◆解説
 近江・小谷城については既に小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)で紹介しているが、実はこのときかなりの雨が降っていたため、先端部の出丸までしか登城していなかった。今回、6年ぶりに再び当地を訪れ登城したので改めて紹介したい。
 なお、当城の由来などについては、前回の投稿で概略は述べているので、遺構の紹介を重点としたい。
【写真左】小谷城遠望
 小谷城西麓から見たもの。
【写真左】小谷城絵図
 登城者が少ない場合は車で、番所と金吾丸の手前まで向かうことができる。

 本丸を含む尾根伝いには、主だったものとして、下から金吾丸・番所・御茶屋・御馬屋・馬洗池・首据石・桜馬場・黒金門・大広間・赤尾屋敷・本丸・帯曲輪・中丸・御局屋敷・京極丸・小丸・山王丸と続き、そこから尾根を下ると、六坊・月所丸となって、再び登ると大嶽に繋がる。


【写真左】小谷城戦国歴史資料館
 朝早かったため、未だ開館していなかった。
【写真左】前記した絵図の「現在地」付近
 金吾丸と番所の間になる。
【写真左】番所・絵図
“番所(番所)
 小谷城の主要部への入口に位置する。通常、番所があった所といわれる。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、周辺には腰曲輪が点在する。
 北側の石垣上に一段高い平地がある。現在、北谷から登る林道(自家用車なら通交可)は、この番所跡まで通じている。”


【写真左】番所
 ここから本丸までは400mの距離。
【写真左】御茶屋・絵図
“小谷城主郭部最先端の曲輪である。中央にあるL型の土塁が特徴であるが、その内部には小規模な御殿があったと思われる。
 西側の隅には庭が存在したと考えられる。”
【写真左】御茶屋
【写真左】御馬屋(おう・まや)絵図
“高い土塁が三方を囲んだ特徴的な構造を持つ曲輪である。名称通り馬小屋があったかどうかは意見の分かれるところである。

 北東にある馬洗池は、文字通り馬を洗った池と解するよりは、桜馬場下の石垣に取り付くことを防ぐための水堀と考えた方がよい。中央に井戸があったことが確認されている。”
【写真左】馬洗池
 現在でも水が溜っている。
【写真左】御馬屋跡
“…ここから清水谷側の斜面に本丸跡後方まで帯曲輪が設けられている。”
【写真左】首据石
“黒金門跡の手前にあり、天文2年(1533)1月、初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り、神照寺に誘殺し、首をここにさらしたと伝えられる。”

 神照寺というのは、小谷城から南に7キロほど下った長浜市新庄寺町にある寺院で、平城形式の城郭寺院で、別名「新庄寺城」とも呼ばれている。
【写真左】赤尾屋敷入口
“赤尾屋敷
 浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝えられている。家臣の屋敷では最も本丸に近く、また浅井長政最期の地となったことから、赤尾氏の浅井家における重臣としての地位がうかがわれる。”

 ここから160mと書かれた標柱があったが、かなり下っていく道だったこともあり、今回は現地まで向かっていない。
 このまま右側の登城道を進むと、左手に長い郭段が見えてくる。桜馬場である。
【写真左】桜馬場(さくらのばば)・絵図
“桜馬場
 大広間黒金門の南に存在した曲輪。南北に長い曲輪で、東西2段で構成される。西側の細長い曲輪は特徴的で、その南西端は、信長の本陣があった虎御前山を見張る最適の地であった。

 また、馬洗池周辺は石垣が突出しており、横矢懸けの構造を持っていた。東側の登城道からは、赤尾屋敷方面に向かう道が分岐し、その手前には今井秀信の首を据えたという首据石が存在する。”
【写真左】桜馬場・その1
 先端部に向かう。
【写真左】桜馬場から西方を俯瞰する。
 奥に琵琶湖が霞んで見えるが、その手前には信長・秀吉らが小谷城を攻めた時の向城などが見える。

 信長が本陣を構えた虎御前山城については、左側に少し見えているが、全景は下の写真参照。
【写真左】虎御前山城遠望
 標高219m(比高110m)の山城。この日は時間がなく、遠望しただけだったが、当城には信長をはじめ、秀吉・柴田勝家・堀秀政・滝川一益・佐久間信盛などが陣を構えたという。

 なお、この写真は桜馬場から見たものでなく、下の御茶屋側から撮ったもの。
【写真左】桜馬場・その2
 北側から見たもの。なお、この写真の下には細長い帯曲輪が伸びている(下段写真参照)
【写真左】帯曲輪
 冒頭で紹介した絵図には次の郭段・大広間から伸びたように描かれているが、実際にはその手前の桜馬場から伸びており、最終的には中丸下の御局屋敷へと連続している。
【写真左】黒金門
 桜馬場の上段にある大広間(千畳敷)の入口となる虎口で、黒金門といわれている。

“黒金門跡
 大広間に設けられた重要な門である。「黒金門」と呼ばれているところから、鉄を打ち付けた扉であったと考えられる。”


※次稿へ続く
 小谷城は日本五大山城の一つともいわれている巨大山城である。2回の投稿では主だった遺構写真を全て紹介できないので、このあとの本丸を含めた遺構については、次稿に譲りたい。

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