2014年10月25日土曜日

伯耆・岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)

伯耆・岩倉城(ほうき・いわくらじょう)

●所在地 鳥取県倉吉市岩倉
●別名 小鴨城
●高さ 247m(比高154m)
●築城期 寿永・元歴年間(1182~85)
●築城者 小鴨左衛門尉元兼
●城主 小鴨氏基・之基・元清など
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2009年5月2日、2013年10月30日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 伯耆・岩倉城(以下「岩倉城」とする)については、これまで草畿山城・関金要害山城(鳥取県倉吉市関金町)打吹山城(鳥取県倉吉市)羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)でも紹介しているが、打吹山城から西麓を流れる小鴨川沿いを7キロ余り遡った岩倉の地に築かれた城砦である。
【写真左】岩倉城遠望
 この写真は2009年に探訪したもので、登城口が分からず、西麓から写真のみを撮ったもの。




現地の説明板より

“小鴨氏と岩倉城

 小鴨氏は、律令時代-奈良・平安時代-すでに名があり、伯耆国庁につとめた在庁官人の家柄と考えられている。平安時代の末期に、寿永元年(1182)小鴨基保(もとやす)が西伯耆の豪族紀成盛と戦った記録がある。

 鎌倉時代に、小鴨氏は岩倉山(海抜247m)の山上に砦を築き、ここを代々の居城とした。
 元弘3年(1333)後醍醐天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略されたという記事もあるが、よくわからない。
 天皇が京都へ還幸になるとき、小鴨氏基は供奉したといわれる。
【写真左】岩倉城・概要図
 現地に設置されているものだが、塗料が大分薄くなっているため、分かりずらいが、本丸はほぼ中央部に描かれている。









 応仁の乱(1467~77)には、伯耆守護山名教之に従い、小鴨安芸守之基(ゆきもと)は、主人に代わって防戦し、船岡山の戦いで討死した。

 大永4年(1524)5月、尼子経久が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆のすべての城が陥落し、小鴨氏の岩倉城も落城の憂き目にあった。

 永禄4年(1561)西国より起こった毛利氏が強くなり、羽衣石城の南条氏と共に毛利氏に加担して尼子氏に反攻。永禄9年(1566)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南條氏と共に吉川元春の配下となった。
【写真左】登城口
 岩倉城の北麓に林道のような道があり、道路脇の斜面に「岩倉城」と記された標柱がある。もっとも、周囲の草に覆われていて、時期によってはこの標柱は見えないかもしれない。

 また、入口付近の道は狭い坂道で、最初に足を踏み入れた時は、この先の道は消滅しているのではないかと不安になった。しかし、除草していないのは前半だけで、その先ははっきりとした踏み跡があり、迷うことはない。

 なお、この標柱には登城道とは別に、もう少し林道を進んだ上の方に「大手門跡へ」と記されたものもあり、登城前にその箇所を捜してみたが分からなかった。


 元亀元年(1570)、山中鹿助の配下に一時奪われたが、因幡の湯原氏の応援を得て奪還した。
 天正7年(1579)、小鴨元清は南条元続(もとつぐ)と共に毛利氏から離れ、織田氏に帰属することになった。毛利氏は吉川元長を長として、圧倒的な軍勢を以て、岩倉城に猛烈な攻撃をしかけてきた。天正10年(1582)5月のことである。忠勇十二勇士の誓願盟約による奮戦も空しく、遂に落城した。城主小鴨元清は、南条氏を頼って羽衣石に逃れ、ここに岩倉城の歴史は幕を閉じた。
 
   小鴨地区総合開発協議会”
【写真左】堀切
 郭段などが現れる箇所より大分手前に設置されたもので、このあたりから登城道は傾斜がきつくなる。





小鴨基保と紀成盛

 平安時代末期の公卿で、後の鎌倉幕府において初代関東申次となった吉田経房が残した日記『吉記(吉戸記)』によれば、

 “寿永元年(1182)8月20日、伯耆国の紀成盛と小鴨基保の合戦に雲石等国々与力する。”

と記されている。
【写真左】「頂上まで80m」と記された箇所。
 城域に向かう道は北側から東に回り込むコースがとられている。
【写真左】登城道を塞いでいる大岩
 この箇所は土砂が崩落し、その上にあった大岩が落ちてきたものだろう。軟弱な土質のようだ。




 紀成盛は元々朝廷から遣わされた官人であったが、伯耆守として当地に下向したいわゆる在庁官人である。その後土着して伯耆国会見郡東部を本拠に勢力を拡大していった紀氏の一人である。
 紀氏は一時は伯耆国西部から出雲国東部まで所領を拡大していたといわれ、以前紹介した松江市の宍道湖北岸に所在する本宮山城(ほんぐうざんじょう)の大野氏も、元は紀氏である。

一方、小鴨基保の小鴨氏もまた同国久米郡小鴨郷を本拠として、国府在庁官人を努めた一族である。
【写真左】曲輪配置(推定図)
 現地に設置されているもので、右側が登城コースとなっている。

 主な遺構としては、右(北)から二の曲輪(二の丸)・主郭(本丸)があり、その西(上)に井戸曲輪が描かれている。


 両氏は互いの支配地が隣接していたため、度々衝突が起きていたようで、源平合戦が行われた寿永元年(1182)、紀氏は源氏方に、小鴨氏は平氏方に分かれ壮絶な戦いが繰り広げられた。伯耆国におけるこの戦いは、西隣の出雲国にも及び、両氏はそれぞれの与力一族に支援を求めたとされる。

 さて、源平合戦において平氏は滅びることになるが、平氏に与していた小鴨氏は、その後源氏に帰順したようで所領地小鴨郷を保持した。
【写真左】北側の腰郭
 二の丸の手前には2段の郭があり、そのうち下段のもの。幅は狭いが、東西に長い。








南北朝期から室町期

 現地の説明板では、「元弘3年(1333)後醍醐天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略された…」とあるものの、よく分からない、と記されている。

 『日本城郭体系 第4巻』では、小鴨入道の時、名和長年に味方して船上山に馳せ参じた、と記されているので、どちらが真実であったか分からない。別説では、これは小鴨氏内部において後醍醐派と幕府方に分裂していたのではないかとされている。
【写真左】石積
 上記の腰郭東部に残るもので、土塁の一部と思われる。









 さて、後醍醐天皇による建武の新政は破たんを来し、尊氏は後醍醐と袂を分かち、南北朝時代へと突入するが、正平8年・文和2年(1353)6月、南朝方の楠木正儀らが京都を奪還した際、佐々木道誉の嫡男で近江守・侍所であった秀綱は、同月13日、近江堅田に討死した。

 この勲功に対し、翌文和3年尊氏は秀綱跡に出雲国安来荘をはじめ山陰の数か所の土地を宛行している。その中には、「伯耆国小鴨次郎・同庶子等跡幷蚊屋荘・神田荘・因幡国私都郷」が記録されている(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照)。
 このことは、小鴨次郎をはじめとする一族が当時南朝方であったことを示している。
【写真左】二の曲輪(二の丸)
 北西方向に伸びるもので、長径50m×短径20m前後の規模を持つ。








 下って応安4年(1371)2月、鎌倉幕府倒幕から南北朝末期まで波乱にとんだ活躍を見せた山名時氏は、丹波・但馬・因幡そして伯耆国をその傘下に治め73歳の天寿を全うした(山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)参照)。

 時氏死後も伯耆国は山名氏が守護職として治めるが、小鴨氏はそのころから山名氏の臣下として活躍することになる。嘉吉元年(1441)に勃発した嘉吉の乱の際も、山名軍の主要な重臣として活躍し、論功行賞では山名氏庶流の教之とともに、小鴨之基は備前国の守護代として赴くことになる。
【写真左】二の丸西端部
 西側は要害性に富んだ切崖となっている。
 このあと、本丸側へ向かう。






戦国期

 主君山名氏はその後、家督及び所領地などを巡って一族内で内紛がおこり、次第に統率が乱れ始めていく。この隙をついてきたのが、出雲の尼子氏である。尼子氏が伯耆国周辺を攻略したのが大永年間とする定説がこれまであったが、最近ではこれを訂正する動きもある。

 ただ、流れとしては尼子氏による伯耆国侵攻があったことは事実で、その後、小鴨氏は羽衣石城の南條氏らとともに尼子氏の攻撃に対し抗戦を続けた。
 その後の経緯については、説明板の通りである。
【写真左】二の丸と本丸の間の郭群・その1
 二の丸と本丸を連絡する郭群は、4,5段の小規模な郭で構成され、幅は一旦この間で狭くなっている。
 ただ、東側の下には小規模な腰郭が付属している。
【写真左】二の丸と本丸の間の郭群・その2
 次第に登り勾配となり本丸に連絡されているが、それぞれの郭段は全体に中央部に窪みの痕跡があり、もともと西側に土塁が敷設されていたのではないかと思わせる。
【写真左】本丸・その1
 本丸北端部で、中央には祠のようなものがある。
【写真左】本丸・その2
 本丸北端部から奥に進むと、一旦中央部で細くなっている。ただ、このあたりから右側下には井戸郭などがある。
 本丸平面は平滑で施工精度が高い。
【写真左】本丸・その3
 この辺りが最も広い箇所で、特に北西方向に長く伸びている。
 その先を降りて、井戸郭に向かう。
【写真左】井戸跡か
 あまり明瞭でないが、二本の木の間が極端に窪んでいたのでこれだろうか。
【写真左】二の丸付近から北北東を見る。
 山名氏の居城・打吹城が見えるかと期待したが、登城時期が悪かったのか見えない。
 おそらくこの写真の右側辺りだろう。
【写真左】岩倉城から市場城を望む。
 市場城は次稿で予定しているが、岩倉城の出城とされ、小鴨氏家臣の岡田某氏が在城していたといわれる。
 天正10年5月、吉川軍に攻められて落城したといわれる。


【写真左】永昌寺十三重塔
 岩倉城の麓には古刹・永昌寺が建立されている。当院の縁起などは分からないが、ここに県指定保護文化財の「永昌寺十三重塔」がある。



 現地の説明板より

“県指定保護文化財

 永昌寺十三重塔(昭和31年5月30日指定)

 もと岩倉城跡付近から出土したもので、この城を居城としていた小鴨氏との関係も考えられる。
 笠石の軒のそり返り、上と下の笠石の長さの違いなどが、極端すぎることなく、全体的に美しく安定している。
 形などからみて、鎌倉時代から室町時代初め頃までに造られたと思われるが、県内では、十三重塔でこの時期のものは他になく、貴重な資料である。
  昭和59年7月
     鳥取県教育委員会”
【写真左】永昌寺石造宝塔
 同じく永昌寺には、三基の石造宝塔が残されている。


現地の説明板より

“市指定有形文化財(建造物)

 永昌寺石造宝塔 三基

所在地 倉吉市岩倉
構造及び形式又は寸法
(第1号)
寸法 高さ48.8cm 塔身幅40.0cm
材質 凝灰岩

(第2号)
寸法 高さ51.5cm 塔身幅40.4cm
材質 凝灰岩

(第3号) 
寸法 高さ44.5cm 塔身幅34.8cm
材質 凝灰岩

建築の年代又は時代 鎌倉時代
指定年月日 昭和61年8月1日

 宝塔は「法華経」に基づいて、造立されたものである。基礎・塔身・笠・相輪の各部からなる。基礎と笠の平面形は方形、塔身の平面形が円形で上部にやや細い首部が造られているのを特色とする。
 永昌寺の石造宝塔は三基とも、岩倉字奥新田(通称奥の院口)の水田から出土したもので、塔身以外は失われている。いずれも鎌倉時代に造られたものである。三基の中で、1号塔にだけ仏菩薩や経典を表す梵字が彫られている。梵字で表されているのは、釈迦如来と多宝如来の二仏を中心に諸尊を配した法華曼荼羅と、密教の経典に基づいた胎蔵界曼荼羅の大日如来、金剛界曼荼羅の四仏である。法華曼荼羅と密教の二つの曼荼羅が一つにまとめられている例は全国的に少なく、当時の仏教の状況を知ることのできる貴重な資料であるとともに、倉吉の密教文化の水準の高さを示すものである。
   倉吉市教育委員会”

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