2014年8月13日水曜日

山中鹿助屋敷跡(島根県安来市広瀬町富田)

山中鹿助屋敷跡(やまなかしかのすけ やしきあと)

●島根県安来市広瀬町富田
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 山中鹿助幸盛
●高さ 38m(比高10m)
●遺構 石積、排水溝等
●登城日 2014年2月23日

◆解説(参考文献 サイト『城郭放浪記』等)
 尼子再興軍の旗手として、これまで何度も紹介した山陰の麒麟児・山中鹿助が生まれたとされる屋敷跡である。
【写真左】鹿助屋敷跡遠望
 農道から枝分かれした箇所にご覧の標識が建っている。ここから小道を進むが突き当りの民家の動線と兼ねているので狭い。
 さらに駐車スペースも写真に見える民家の所有地のような場所だったので、邪魔にならない場所に停めた。

 そして、その家まで行き一言声をかけようとしたが、生憎留守だったのでそのまま向かった。おそらくこの家の方が駐車スペースを提供されているのだろう。有り難いことである。


 ところで、鹿助の生誕地はこの広瀬の地でなく、現在の出雲市別所町(旧平田市)にある古刹・鰐淵寺で生まれたという説(『雲陽軍実記』)もある。

 今稿で紹介する屋敷跡の所在地は、新宮党で紹介した新宮谷にあるが、この谷は下流から進むと、途中で中央に伸びてきた舌陵丘陵が谷を分断し、事実上二つの谷で構成されている。このうち、新宮党館跡は北側の谷に、鹿助の屋敷跡は南側の谷に所在している。
【写真左】屋敷跡・その1
 上の写真にもあるように、駐車した場所から少し上の方に登っていくと、ご覧の石碑が見える。


【写真左】石碑
「山中鹿介幸盛 屋敷跡」と刻銘された石碑が建立されている。








 ただ、この屋敷跡については、『島根県遺跡データベース』に登録されていないことや、前記したように別説もあるため公式には認知されていないようだ。その理由としては、鹿助の出自がはっきりしないこともその原因かもしれない。

 伝承などによれば、鹿助は天文14年(1545)8月15日、当地広瀬新宮谷に生まれたといわれる。父は山中三河守満幸(久幸とも)といわれ、鹿助が生まれた翌年27歳で夭逝した。このため、鹿助は母の手によって育てられたという。この母は立原佐渡守綱重の娘・なみ、といわれている。
【写真左】礎石建物跡か
 現地は狭い谷間になっており、2段程度の段差が設けられている。
 敷地は奥行30m程度で、北東方向に解放されている。
【写真左】屋敷跡から新宮谷を望む。












山名鹿助幸盛関連の投稿リスト

 鹿助の活躍などについてはこれまで度々述べてきたので、今稿では省略させていただき、彼に関連した投稿を国別に整理し、リストアップしておきたい。

(1)出雲国



【写真左】山中鹿助像と月山富田城
 月山富田城の麓には鹿助の像が建立されている。

鹿助が拝む方向は、上弦の月の一つ「三日月」がかかる三笠山方面である。


(2)伯耆・因幡国



(3)播磨国
上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その1
上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その2
上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その3

(4)備中・美作国
幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)
経山城(岡山県総社市黒尾)
美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1

(5)但馬国
津居山城(兵庫県豊岡市津居山)

(6)備後国
釜峰山城(広島県庄原市口和町湯木)・その1

(7)長門国
尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)

(8)近江国
太尾山城・その5



塩冶掃部介墓所

 ところで、鹿介とは直接関係ないが、当地新宮谷には塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)の墓所も近くに祀られている。
場所は、鹿助屋敷跡から奥に向かったところにある。
【写真左】塩冶掃部介の墓・その1












現地の説明板より

“塩冶掃部介墓所

 尼子経久が守護代の職務を怠ったとして、罷免、追放された後目代として富田城に入城していた塩冶掃部介は、文明18年(1486)尼子経久の奇襲を受け討死した。
 土地の人は、この墓を「荒法師」と呼び、みだりに荒らすと、たたりがあると言い伝えている。”

 経久が富田城を追放されたのは文明16年(1484)11月ごろであるが、その理由は経久が段銭を納めず、寺社本領を押領したということからである。このため、出雲守護職であった京極政経が、当時尼子氏に隣接していた牛尾・三沢・三刀屋氏らに対し、経久を富田城から追放させる命を下した。
【写真左】塩冶掃部介の墓・その2
 五輪塔形式よりも宝篋印塔の形式に近い墓石だが、高さ4,50cm程度の小さなものである。




 これら三氏はその軍功によって何某かの恩賞を受けているが、これらとは別に、経久が富田城を奪還するその年(文明18年)の2月、三木義勝はその軍忠によって、同国小山村の田地20丁を与えられている(「三木家文書」)。
 この小山村というのは現在の出雲市小山町に当たるところで、三木氏は南北朝時代から当地の地頭職としてこの付近を支配していた。
【写真左】塩冶掃部介の墓・その3
 ご覧のように農道脇の畑に祀られている。なお、写真の道を下っていくと、鹿助屋敷跡に繋がる。



 尼子経久が追放されたそのあと、目代として入ったのが塩冶掃部介であるが、その名前から分かるように、鎌倉時代末期から塩冶郷を守護所として支配してきた佐々木頼泰を始祖とする塩冶氏の末孫である。

 掃部介は結局、経久に代わって富田城に在城したのは2年ほどである。

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