2014年8月15日金曜日

毛利元秋墓所・宗松寺跡(島根県安来市広瀬町広瀬富田)

毛利元秋墓所・宗松寺跡
(もうりもとあきぼしょ・そうしょうじあと)

●所在地 島根県安来市広瀬町広瀬富田
●創建 不明
●遺構 石垣・溝
●備考 宝篋印塔
●遺物 陶磁器・瓦
●探訪 2014年2月23日

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
 今稿も前稿に続いて新宮谷に残る史跡を取り上げる。

 新宮谷に入ってしばらくすると、左側の農道脇に「毛利元秋の墓」と書かれた案内板がある。この場所は、宗松寺跡といわれ、この地に毛利元秋の墓が祀られている。
【写真左】毛利元秋の墓・その1
 宝篋印塔の形式で、小ぶりな墓石である。









 現地の説明板より

“毛利元秋公墓所(宗松寺跡)
 
 1566年(永禄9年)尼子義久が毛利の軍門に降ったのち、2年間余、毛利方の武将天野隆重が城督として城を預かっていたが、隆重の懇請により、1569年(永禄12年)毛利元就五男元秋が入城した。
 没年は、1585年(天正13年)34歳。この地に葬られた。”
【写真左】宗松寺跡・その1
 新宮谷に入って、新宮党方面に向かうと、途中で農道わきに標識があり、田圃の西側に当寺跡が残っている。
 ここをまっすぐに進むと、元秋の墓が見えてくる。



毛利元秋

 毛利元秋はこれまで、神魂神社(島根県松江市大庭町)満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)・その2、などで紹介しているが、元就の五男といわれ、母は側室で三吉氏から嫁いできたといわれている。

 弘治元年(1555)10月、陶晴賢を厳島に破ったあと、元就はしばらく防長の平定に奔走するが、弘治3年(1557)3月にはほぼ両国をその支配下に治めた。この戦いで武功を挙げた者の中に、周防国の国人領主・椙杜(すぎもり)隆泰(鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)参照)がいた。
【写真左】宗松寺跡・その2
 奥に進んで行くと、最初に元秋の墓が右側にあり、その西側には3段程度の削平地が残る。

 おそらく、これらの段に宗松寺関連の寺坊が建っていたものと思われる。



 隆泰には嫡男が居なかったため、元就は五男・元秋を養子として送り込んだ。そして元秋は、椙杜元秋と名乗ることになる。

 その後、元就が月山富田城を攻略した永禄9年(1566)の11月21日、尼子氏に代わって、当城を守備したのが天野隆重(財崎城(広島県東広島市志和町志和堀)参照)である。因みに、前城主であった尼子義久兄弟が富田城を下城するのは、それから5日後の28日だったとされている(「萩閥108」)。

 月山富田城の城番・天野隆重はその後、永禄11年(1568)6月ごろまで守城しているが、隆重はその頃齢65を数えていた。また、富田城にて尼子氏放逐をやり遂げたものの、その後の鹿助らの動きも不気味に感じていたのだろう。
【写真左】毛利元秋の墓・その2
 墓石はこの墓以外にも上の段に数基残っているが、近世のものがほとんどのようだ。






 この年の6月10日、毛利元就は椙杜元秋に富田城を守らせ、同国にて3,500貫の地を与えることとした(「萩閥30」)。元就のこの命はおそらく、隆重による懇請がその背景にあったものと思われる。ただ、実際に元秋が富田城に入ったのは、明くる永禄12年(1569)1月16日である(「萩閥3」)。

 富田城へ入城した椙杜元秋は、このとき椙杜氏から再び毛利氏へと姓を戻した。当時15歳前後であったといわれるから、加冠(元服)を兼ねた富田城新城番だったと考えられる。その後、隆重は元秋を補佐していくことになる。
【写真左】墓所から新宮谷を見る。
 丁度この辺りからこの谷が北と南に分かれる。
 中央の谷を進むと、鹿助屋敷跡へ、左側の方へ進むと新宮党屋敷跡にそれぞれ繋がる。




山中鹿助らによる富田城奪還の戦い

 元秋が富田城に入ったその年(永禄12年)の6月23日、山中鹿助幸盛は尼子勝久を擁して隠岐国から島根半島北岸の千酌浜に船を着け、そこから南方に聳える忠山に入った。尼子再興軍による出雲国における戦いの始まりである(忠山城(島根県松江市美保関町森山)参照)。

 7月初旬、元就は直ちに富田城に対し、主だった銃兵を派遣させ防備を固めさせた。富田城を中心として出雲国内における尼子再興軍は神出鬼没というべきゲリラ戦法で毛利方を攪乱した。富田城を守備する元秋・隆重らは手薄ながら頑強に戦い、尼子方を退けた。

 その後元亀2年(1571)まで尼子再興軍による戦いが断続的に行われていくが、遂にこの年(元亀2年)8月、伯耆国末吉城で鹿助を捕え(後に逃走)、最期の砦であった尼子氏の真山城(島根県松江市法吉町)が落城し、尼子勝久は敗走、事実上出雲国における尼子再興軍の戦いは終結を迎えた。
 ところで、この戦いの終結の朗報を聞く2か月前の6月14日(元亀2年)、元就は安芸吉田の郡山城の邸で、波乱にとんだ75歳の人生を終えた。
【写真左】月山富田城と毛利元秋墓所を遠望する。
 月山富田城の西方に聳える京羅木山からみたもの。





元秋の事績

 さて、富田城番を務めた元秋であるが、その後の意思決定や裁断は事実上吉川元春に委ねられている。
 おもな事績は次のようなものであった。

  1. 元亀2年(1571)8月28日、真山城落城を祝し、神馬を神魂神社に奉納す(「神魂神社文書」)。
  2. 同年11月27日、出雲国荒島の土地を安芸国厳島社に寄進す(「野坂文書」)。
  3. 元亀3年(1572)6月20日、別火(べっか)七郎に揖屋社別火職を安堵す(「井上文書」)。
  4. 天正9年(1581)10月24日、出雲国荒島の土地を一畑寺に寄進す(「一畑寺文書」)。
そして、このあと元秋が一時富田城を離れた節が見えるのが次の史料である。
  1. 天正11年(1583)6月、毛利元秋、富田城に移る(「寛政諸家譜」)。
 これはおそらく、この前年備中高松城攻めにおいて、秀吉軍と毛利軍が対峙した際、元秋も当地に従軍していたと思われる。

 一旦富田城に帰還したものの、その2年後の天正13年(1585)5月3日、病気により34歳で夭逝した(「吉川家文書」)。

2014年8月13日水曜日

山中鹿助屋敷跡(島根県安来市広瀬町富田)

山中鹿助屋敷跡(やまなかしかのすけ やしきあと)

●島根県安来市広瀬町富田
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 山中鹿助幸盛
●高さ 38m(比高10m)
●遺構 石積、排水溝等
●登城日 2014年2月23日

◆解説(参考文献 サイト『城郭放浪記』等)
 尼子再興軍の旗手として、これまで何度も紹介した山陰の麒麟児・山中鹿助が生まれたとされる屋敷跡である。
【写真左】鹿助屋敷跡遠望
 農道から枝分かれした箇所にご覧の標識が建っている。ここから小道を進むが突き当りの民家の動線と兼ねているので狭い。
 さらに駐車スペースも写真に見える民家の所有地のような場所だったので、邪魔にならない場所に停めた。

 そして、その家まで行き一言声をかけようとしたが、生憎留守だったのでそのまま向かった。おそらくこの家の方が駐車スペースを提供されているのだろう。有り難いことである。


 ところで、鹿助の生誕地はこの広瀬の地でなく、現在の出雲市別所町(旧平田市)にある古刹・鰐淵寺で生まれたという説(『雲陽軍実記』)もある。

 今稿で紹介する屋敷跡の所在地は、新宮党で紹介した新宮谷にあるが、この谷は下流から進むと、途中で中央に伸びてきた舌陵丘陵が谷を分断し、事実上二つの谷で構成されている。このうち、新宮党館跡は北側の谷に、鹿助の屋敷跡は南側の谷に所在している。
【写真左】屋敷跡・その1
 上の写真にもあるように、駐車した場所から少し上の方に登っていくと、ご覧の石碑が見える。


【写真左】石碑
「山中鹿介幸盛 屋敷跡」と刻銘された石碑が建立されている。








 ただ、この屋敷跡については、『島根県遺跡データベース』に登録されていないことや、前記したように別説もあるため公式には認知されていないようだ。その理由としては、鹿助の出自がはっきりしないこともその原因かもしれない。

 伝承などによれば、鹿助は天文14年(1545)8月15日、当地広瀬新宮谷に生まれたといわれる。父は山中三河守満幸(久幸とも)といわれ、鹿助が生まれた翌年27歳で夭逝した。このため、鹿助は母の手によって育てられたという。この母は立原佐渡守綱重の娘・なみ、といわれている。
【写真左】礎石建物跡か
 現地は狭い谷間になっており、2段程度の段差が設けられている。
 敷地は奥行30m程度で、北東方向に解放されている。
【写真左】屋敷跡から新宮谷を望む。












山名鹿助幸盛関連の投稿リスト

 鹿助の活躍などについてはこれまで度々述べてきたので、今稿では省略させていただき、彼に関連した投稿を国別に整理し、リストアップしておきたい。

(1)出雲国



【写真左】山中鹿助像と月山富田城
 月山富田城の麓には鹿助の像が建立されている。

鹿助が拝む方向は、上弦の月の一つ「三日月」がかかる三笠山方面である。


(2)伯耆・因幡国



(3)播磨国
上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その1
上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その2
上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その3

(4)備中・美作国
幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)
経山城(岡山県総社市黒尾)
美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1

(5)但馬国
津居山城(兵庫県豊岡市津居山)

(6)備後国
釜峰山城(広島県庄原市口和町湯木)・その1

(7)長門国
尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)

(8)近江国
太尾山城・その5



塩冶掃部介墓所

 ところで、鹿介とは直接関係ないが、当地新宮谷には塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)の墓所も近くに祀られている。
場所は、鹿助屋敷跡から奥に向かったところにある。
【写真左】塩冶掃部介の墓・その1












現地の説明板より

“塩冶掃部介墓所

 尼子経久が守護代の職務を怠ったとして、罷免、追放された後目代として富田城に入城していた塩冶掃部介は、文明18年(1486)尼子経久の奇襲を受け討死した。
 土地の人は、この墓を「荒法師」と呼び、みだりに荒らすと、たたりがあると言い伝えている。”

 経久が富田城を追放されたのは文明16年(1484)11月ごろであるが、その理由は経久が段銭を納めず、寺社本領を押領したということからである。このため、出雲守護職であった京極政経が、当時尼子氏に隣接していた牛尾・三沢・三刀屋氏らに対し、経久を富田城から追放させる命を下した。
【写真左】塩冶掃部介の墓・その2
 五輪塔形式よりも宝篋印塔の形式に近い墓石だが、高さ4,50cm程度の小さなものである。




 これら三氏はその軍功によって何某かの恩賞を受けているが、これらとは別に、経久が富田城を奪還するその年(文明18年)の2月、三木義勝はその軍忠によって、同国小山村の田地20丁を与えられている(「三木家文書」)。
 この小山村というのは現在の出雲市小山町に当たるところで、三木氏は南北朝時代から当地の地頭職としてこの付近を支配していた。
【写真左】塩冶掃部介の墓・その3
 ご覧のように農道脇の畑に祀られている。なお、写真の道を下っていくと、鹿助屋敷跡に繋がる。



 尼子経久が追放されたそのあと、目代として入ったのが塩冶掃部介であるが、その名前から分かるように、鎌倉時代末期から塩冶郷を守護所として支配してきた佐々木頼泰を始祖とする塩冶氏の末孫である。

 掃部介は結局、経久に代わって富田城に在城したのは2年ほどである。

2014年8月11日月曜日

新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)

新宮党館(しんぐうとうやかた)

●所在地 島根県安来市広瀬町広瀬新宮
●別名 にいのみや とうやかた・太夫成
●築城期 室町時代
●築城者 尼子国久
●高さ 高さ48m(比高10m)
●種別 居館跡
●遺構 礎石建物・柵列・溝など
●指定 島根県指定史跡
●備考 太夫神社
●登城日 2007年7月25日、2011年9月12日、2014年2月13日

◆解説(参考文献「日本城郭体系第13巻」「尼子物語」等)
 尼子氏本拠城・月山富田城の北麓には新宮谷と呼ばれる谷がある。ここに尼子経久の次男であった紀伊守国久と、その子式部大輔誠久(まさひさ)、及び同左衛門大夫敬久(よしひさ)の父子が率いる尼子氏最強軍団新宮党の館があった。
【写真左】新宮党館遠望
 新宮谷は途中から二つの谷に分かれるが、その中の北の谷を進んだところの棚田の北側丘陵にある。
 手前に見える石碑は、「尼子家 新宮党之霊社」すなわち太夫神社を示したもの。

 奥に最近建立された鳥居が見える。ここからまっすぐに農道を進む。


現地の説明板より

“島根県市指定史跡
 新宮党館跡

 新宮党は尼子経久の次男である国久の一族衆である。その名称は一族が新宮谷周辺に居住したことに由来する。

 新宮党は尼子氏における軍事の中核を担った集団であったが、天文23年(1554)11月、主君である尼子晴久によって滅ぼされた。
 昭和54年に行われた発掘調査では、礎石建物跡や溝跡などが見つかっており、青磁や染付など中国産の陶磁器類の他、将棋の駒など、戦国時代の武士の暮らしぶりが窺える遺物が出土している。
 また、敷地内には、国久とその子である誠久(さねひさ)、敬久(たかひさ)の墓と伝わる石塔群があり、肥前有田の久富二六によって、昭和12年に修復されている。また、新宮党一族を祀った太夫神社がある。

    平成21年10月  安来市教育委員会”
【写真左】館麓の鳥居
 館跡に祀られている太夫神社の鳥居で、平成20年11月に氏子によって移転建立されたと記されている。





尼子国久

 新宮党の党首である。国久が生まれたのは、明応元年(1492)といわれ、父・経久34歳の時の子である。以前にも述べたように、経久の子には男子では、長男・政久、二男・国久、そして三男は塩冶氏に養子に入った興久の3人がいた(甲山城(広島県庄原市山内町本郷)参照)。
【写真左】館に向かう階段
 太夫神社参道と兼ねたもので、6,7m程度高くなっている。







 幼名は孫四郎と名乗っている。一説ではこの頃、経久は孫四郎を月山富田城の東方・吉田荘を支配していた出雲・吉田氏に養子として送り込んでいる(川手要害山城(島根県安来市上吉田町)参照)。
 
 その後の永正8年(1511)すなわち、国久19歳のとき、父・経久に従い京都船岡山の戦いに参陣した(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)。これは細川高国・大内義興連合軍が、細川政賢らの軍を破り、細川澄元らを摂津に敗走させた戦いだが、大内義興に従った経久はじめ、出雲・石見の諸将はこの勝利に大きく貢献したといわれる(益田藤兼の墓(島根県益田市七尾町桜谷)参照)。
 この戦いで、孫四郎は大内義興を通じて、幕府管領・細川高国から翌永正9年、偏諱を受け「国久」と名乗ることになる。
【写真左】太夫神社
 神社というより祠に近い小さい社だが、館跡の西側に祀られている。








新宮党

 新宮党については、これまで笹向城(岡山県真庭市三崎)宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)の稿などで少し紹介しているが、改めて述べてみたい。

 国久が新宮党を率いて本格的に活躍し出すのは、大永4年(1524)のいわゆる大永の五月崩れ辺りからと思われる。
【写真左】尼子国久父子の墓・その1
 館跡の片隅に建立されている。
三基あるので、国久・誠久・敬久のものだろう。
【写真左】尼子国久父子の墓・その2
 三基の墓とは別に無記銘の円柱型の墓も祀られているが、国久あるいは誠久・敬久の正室のものかもしれない。


 以前にも述べたように、晴久の父で、国久の兄になる政久が永正15年(1518)大東の阿用城の戦いで不慮の死を遂げたため、経久はその後80歳になるまで一族を率いていくことになる。

 しかし、80歳という当時としては長寿であった経久もさすがに限界を感じたのだろう、また孫の晴久が23歳になっていたため、晴久に家督を譲った。

 そして、この年若い孫に家督を譲るにあたっては、彼を補佐させる人物二人を宛がった。一人は政務担当として、経久の弟久幸(義勝)を、もう一人は軍事担当として次男・国久に指名した。
【写真左】館跡・その1
 東側から見たもので、長径100m×短径50m前後の規模。
 近代になって要所に排水路が設置されている




 国久はこのころから既に尼子氏の中では抜きんでて武功の誉れ高く、父経久も合戦の際は国久に一目置いていたようである。さらには国久の子・誠久(さねひさ)、敬久(たかひさ)も父譲りの力量を持ち併せていた。また、晴久の正室には国久の娘を嫁がせていたので、一族結束の形としてはこれ以上にない体制を敷いていた。

 ところが、新宮党の力が尼子氏一族内で高まるにつれ、その専横ぶりが顕著となり、他の諸将から次第に怨嗟の声が上がり始めた。こうした情報を耳にした毛利元就は、尼子氏の調略を画策した。
 それは、新宮党・国久が毛利氏(元就)と結託し、尼子氏惣領・晴久謀殺を企んでいるという虚偽の密書を作成し、利用するというものである。
【写真左】館跡・その2
 東側付近
 館は南側を開口部とし、館の西・北・東側はご覧のように山に取り囲まれている。
 礎石建物などがあるかと踏査してみたが、かなり整地されたようで、確認できなかった。
 ただ、北側の谷筋から常に水が流れていたので、これらが飲用水として使われていたと考えられる。


新宮党の誅滅

 この計画はまんまと成功し、晴久はその密書を信じてしまった。そして、晴久は叔父である国久率いる新宮党の誅滅を決行した。天文23年(1554)11月1日のことである(別説では同年の正月元旦、年賀の挨拶に登城したときともいわれている)。

 党首・国久と嫡男誠久が富田城登城途中にて若党20余名とともに、晴久らによって謀殺された。
 父及び兄の謀殺を聞いた弟・敬久は、父兄と同じく登城途中であったが、後から来ていたため、急ぎ新宮党の館に立ち返り、手勢2千余騎共に立て籠もって、晴久らと抗戦する態勢を敷いた。

 これに対し、晴久は予想していたのだろう、すぐに5千の軍勢を陣立てし、一気に新宮党の館を取り囲んだ。父国久に劣らぬ武勇を誇った敬久は、瞬く間に晴久方の2,30人を刃に下したが、勝敗は明らかであった。晴久らが見守る中で、もはやこれまでと、敬久は腹を掻き切った。
【写真左】南側付近
 現在は2段程度の段差を設けた斜面になっている。
 館といえども城郭の機能を持たせていたはずである。おそらく麓を流れる現在の用水路などは水濠として機能していたと考えられる。



 ところで、父国久とともに謀殺された長男・誠久には5人の男子(別説では3人)がいた。このうち五男・孫四郎は、家臣・小川重遠が戦火の最中助け出し、しばらく吉田永源寺に匿った。その後、京都東福寺に入って出家することになる。これが後の尼子再興軍旗挙げの際、還俗して山中鹿助らと行動を共にすることになる尼子勝久上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その3参照)である。
【写真左】川手要害山側から永源寺方面を見る。
 右手の山が川手要害山で、左奥にみえる山が永源寺方面になる。





 なお、吉田の永源寺という寺院は現在残っていないが、おそらく2001年に報告された「永源寺要害・宮谷1号墳」(島根県松江農林振興センター・安来市教育委員会編)の箇所と思われる。ちなみに、この場所は前述した川手要害山城の吉田川を挟んだ対岸(西方)の丘陵地で、新宮党のある新宮谷の裏手に当たる。

2014年8月7日木曜日

高尾城(島根県安来市伯太町下十年畑)

高尾城(たかおじょう)

●所在地 島根県安来市伯太町下十年畑
●高さ 270m(比高90m) 
●築城期 不明
●築城者 不明(高尾氏か)
●城主 足立(高尾)右馬允
●遺構 郭・堀切・竪堀・櫓台等
●備考 尼子十砦、城福寺
●登城日 2014年4月12日

◆解説(参考文献 「出雲の山城」、サイト「城郭放浪記」・「島根県遺跡データベース」等)

 高尾城は以前取り上げた赤屋城山城(島根県安来市伯太町赤屋)や、前稿川手要害山城(島根県安来市上吉田町)でも紹介したように、「尼子十砦」の一つで、十砦の中でも最も南方に配置された城砦である。そして、高尾城の支城とされるのが、赤屋城山城である。
【写真左】高尾城遠望
 東麓を流れる伯太川対岸から見たもので、高尾城の登城口付近となる個所には高尾氏(足立氏)ゆかりの城福寺がある(後段参照)。



境目の城

 高尾城の東麓を走る県道9号線を4キロほど南下していくと、分岐点となり、西に向かう258号線を進むと比田に繋がり、奥出雲すなわち当時の三沢氏の支配地にたどり着く。

 これに対し、9号線をそのまま南下していくと、寺坂峠を越え伯耆国に繋がり、そのままJR伯備線沿いにコースをとれば、寺坂峠から約25キロ余りで備中国(岡山県)に繋がる。まさに境目の城である。
【写真左】城福寺
 登城口は城福寺山門をくぐり、境内左側の位置にあるが、山門の右側には「高尾城跡」の石碑が建立されている。

 当院は後述する高尾城主であった足立右馬允が尼子氏滅亡直前に小庵を建てたのに始まるという。
【写真左】歴代住職の墓と宝篋印塔
 登城口手前には墓地があり、歴代住職の墓と並んで脇に宝篋印塔一基が祀られている。高尾氏(足立氏)のものだろう。


高尾氏

 当城の城主は足立右馬允(うまのじょう)といわれている。

 天文10年(1541)1月13日、安芸吉田郡山城にて尼子・毛利軍が激突した。大内方の陶晴賢の援軍を得た毛利方は、猛攻してきた尼子氏を降し、詮久(後の晴久)の叔父・久幸は討死した。

 この戦いで高尾久友という武将も戦死しているが、おそらく久友は経久から偏諱を受けていた家臣と思われ、久友の一族には高尾縫殿允(ぬいどのじょう)がいた。縫殿允の子には、右馬允がいたが、この右馬允が高尾(足立)右馬允と考えられる。
【写真左】登城道
 先ほどの墓地の左側から道があるが、案内板などはない。城福寺の裏側の崖の上を道なりに進む。

 定期的に整備されているせいか、傾斜はあるものの登城にはさほど難はない。



 また、米子城(鳥取県米子市久米町)でも紹介したように、元亀年間、毛利方吉川元春の家臣・福頼元秀が守備していた湊山城(後の米子城)を、尼子方の和久羅山城主・羽倉孫兵衛が大将となって攻めているが、この中に目加田采女・同弾右衛門と併せ、高尾右馬允等の名が見えている。

 さらに、永禄年間になると山中鹿助はじめ尼子勝久らが尼子再興を期して、中海の北方に聳える忠山城(島根県松江市美保関町森山)に兵を挙げた時、高尾右馬允らも馳せ参じた。
【写真左】堀切
 登城口からおよそ15分程度で城域に入るが、途中で左手に見える傾斜地側に堀切が見える。

 これは後ほど下山したときのコースで紹介するが、この右側にも堀切があるので、二重堀切の一つ。

 先ずは主郭方面を目指して進む。かなり傾斜がきつくなる。
【写真左】主郭・その1
 登りつめていくと、堀切の延長部となった小規模な平坦地があるが、そこから右(東側)に角度を変えると、さらに傾斜を伴った踏み跡がある。この辺りから砂礫を多く含んだ土質になっており、結構足元が救われる。

 登りつめるとご覧の最高所・主郭にたどり着く。長径20m×短径10m規模のもの。片隅には祠が祀られている。
【写真左】主郭・その2
 主郭の南側下段には小郭が確認できる。

 ここから、東側に見えた堀切に向かう。
【写真左】堀切
 滑るように降りると、予想以上に保存状態のいい堀切が残っている。

 この堀切はそのまま北に伸びて、タタラ跡とされる遺構部まで繋がる。
【写真左】タタラ跡
 堀切の北端部から西側にかけて残るもので、一見堀切のように見えるが、野ダタラ操業のための採石・砂跡。

 この地域(上・下十年畑)だけでも、少なくとも10か所以上のタタラ跡や鍛冶屋跡などが伯太川沿いに残っている。

 そもそも野ダタラの歴史は、戦国時代以前から始まっているので、高尾城が築城される以前からあった可能性もある。
 そうなると、城主高尾氏は武士でありながら、鉄山師という二つの顔を持つ領主であったかもしれない。
 ここから再び主郭側に戻り、登城途中に見えた二重堀切に向かう。
【写真左】主郭の東側郭に向かう。
 本来はこちら側から進んで主郭に向かうルートのようだが、主郭下で屈曲した道に枝分かれしていて、初めて来た者にはこのルートは分かりづらい。
【写真左】小郭の祠
 最初に登りきると小郭があるが、ここにも祠が祀られている。

 さらにここから下山方向に進む。
【写真左】振り返る
 少し段がついた2,3段の小郭が連続している。
【写真左】3番目の祠がある郭
 2番目からこの3番目の祠まで凡そ50m程度の距離で、元々尾根状となっていた部分を加工している。

 このあと、尾根先端部で道は180度折れて尾根の北側斜面にある郭に向かう。
【写真左】尾根下の腰郭
 当城の中ではもっともまとまった規模の郭で、手前を頂点とした細長い三角形のもの。長径30m程度。

 このあと、最初に主郭に向かった登城道との合流点に向かって下山する。
【写真左】下山道
 左側斜面の上に城域があるが、比高の低さの割に急傾斜となっており、天険の要害ともいえる。

2014年8月5日火曜日

川手要害山城(島根県安来市上吉田町)

川手要害山城(かわてようがいさんじょう)

●所在地 島根県安来市上吉田町
●高さ 50m(比高30m)
●築城期 鎌倉期か
●築城者 吉田氏か
●城主 吉田氏、毛利氏か
●遺構 土塁・虎口・郭・堀切・横堀
●登城日 2014年4月12日

◆解説(参考文献「安来市誌上巻」「出雲の山城」、サイト「城郭放浪記」・「島根県遺跡データベース」等)

 川手要害山城は、月山富田城の東方を流れる吉田川沿いに築かれた小規模な城砦である。
【写真左】川手要害山城遠望
 西側から見たもので、登城口はこの写真の右側にあり、入口には鳥居が設置されている。






吉田荘

 川手要害山城のある吉田の地域は平安末期から鎌倉期において、摂関家の一つ近衛家領(冷泉宮領)の荘園で吉田荘といわれた。

 その後、承久の乱が勃発した後、いわゆる新補地頭として佐々木氏の一族である佐々木四郎左衛門尉が、恩賞地として吉田荘内に140丁余りを賜った。ちなみに安来地域ではこのほかに、因幡左衛門大夫が宇賀荘を、松田九郎の子息が安来荘などを賜っている。
【写真左】鳥瞰図
 資料『出雲の山城』に掲載されている縄張図を基に、作図してみたもの。
 小規模な割に複雑な縄張りである。
【写真左】登城口
 当城の西南付近にあり、入口には鳥居が建っている。これは後に紹介する主郭に祀られた祠(社)があるためである。





出雲・吉田氏

 先ごろ発刊された「出雲の山城」でも当城が紹介されているが、同書によると当地吉田の谷を領有していた吉田氏は、戦国期尼子氏との間に婚姻関係を進めたとされている。

 この吉田氏が前記した佐々木氏の系譜で、佐々木義清(玉造要害山城(島根県松江市玉湯町玉造宮の上参照)の弟・厳秀(別名・佐々木六郎)が、吉田に住して吉田六郎と名乗り、出雲吉田氏の始祖となった。
 実際に当地に赴いたのが、六郎の子で前記した佐々木四郎左衛門尉、すなわち、吉田四郎左衛門泰秀である。
【写真左】西側の郭段
 川手要害山城は、比高はわずか30mで、東西およそ300m、南北150m前後の小規模な城砦であるが、変化に富んだ構造となっている。

 また、東西に郭群が伸びているが、中央の鞍部となった空堀及び削平地で二つに区画された郭群として配置されており、主郭にあたる部分は西側の郭群に配置されている。


 下って室町期に起こった明徳の乱(1391)において、幕府方に属して功を挙げた京極高詮が出雲守護となったとき、高詮は弟の高久の子・持久を守護代として出雲に下向させたが、このとき吉田荘地頭吉田氏も尼子氏(持久)に臣従していたといわれる。その後吉田氏は代々尼子氏の家臣として活躍していくことになる。

 後段で紹介している永禄年間における毛利氏による尼子攻め(富田城三面攻撃)の際、その末孫・吉田八郎左衛門は、「お子守口」の前線で活躍し、永禄9年(1566)の富田城落城後、尼子義久三兄弟が毛利方によって杵築まで護送されるときには、随行者の名簿に吉田八郎右衛門、吉田三郎右衛門兄弟らの名も見える。
【写真左】主郭に向かう坂道
 登城道は予想以上に傾斜があり、従って途中の各郭面から上部の郭までは切崖状となっている。






尼子十砦

  ところで、以前にも紹介したように、尼子氏の本拠城・月山富田城の周辺には、本城を守備する支城などが配置されているが、これらを称して「尼子十砦(じっさい)」といった。

 尼子十砦は配置された地域によって、次の2つに分けられる。

(1)飯梨川(月山富田城の西麓を流れる川)沿いに分布するもの。
  1. 神庭横山城
  2. 勝山城(出雲・勝山城(島根県安来市広瀬町石原)参照)
  3. 三笠山城
  4. 寺山城
【写真左】主郭・その1
 最高所に当たる位置で、祠のある郭の廻りには、北~西~南に小郭が取り巻き、東側には土塁が囲繞する(下の写真)。
【写真左】主郭・その2
 東側の土塁
 写真左側にあるが、土塁のさらに下方は切崖となって堀切が南北を横断している(下の写真)。



 これら二つの川は、月山富田城を挟むように流れている。ただ全体には東方若しくは南東部を扼する位置に築かれている。このことから、尼子氏としては敵の侵入経路は中海を伝った日本海側や、隣国・伯耆国及び、南東方向にあたる美作国からの攻めを意識していたものと思われる。
【写真左】主郭側から空堀を見る。
 この辺りの切崖は急傾斜となっており、弱点である比高の低さを補っている。
 のちほどこの箇所を紹介する。

 
 これに対し、今稿で取り上げる川手要害山城は、二つの河川に挟まれた吉田川の上流部に築かれた城砦である。
 吉田川沿いには当城・川手要害山城とは別に、近接して甲山城、田中要害山城、正福寺裏城といった城砦も築かれていた。これら諸城が前記した吉田氏時代にすべて築城されたかどうかはっきりしないが、要所であった当城・川手要害山城は吉田氏によって築城された可能性もある。
【写真左】井戸跡か
 主郭から少し南方へ移動したところ、ご覧の陥没したような穴があった。
 直径4m前後はあるだろう。ただ、井戸にしては内部の施工が粗雑である。「出雲の山城」では、井戸もしくは狼煙の施設の可能性もあるとしている。

 このあと、南側から直下の郭群に降りて、主郭を取り巻くように、西側から北側へと移動する。


 ところで、吉田川と並行して走る現在の布部・安来線(257号線)を遡り、峠を越えると宇波に至り、ここから布部に繋がる。そのため、上吉田町側から月山富田城の東方に聳える独松山の南麓を越え新宮党が本拠とする新宮谷に侵攻することができる。つまり、尼子十砦が防御するラインだけでは十分でないことがわかる。

 おそらくこうした弱点をカバーする目的として、特に川手要害山城を含めた上・下吉田町の城砦は、当初宇波の宇波城(うなみ)跡・島根県安来市広瀬町宇波と常に連絡を取りながら、月山富田城の裏手に当たる南東方面の守りとしての役目を負っていたのではないかと考えられる。
【写真左】主郭から下に降りて空堀に向かう。
 写真右側の斜面の上に主郭があるが、空堀の最低部から主郭の土塁天端まではおそらく10m前後はあるだろう。
 見ごたえがある。
【写真左】空堀
 南側から見たもので、主郭は左にある。なお、この空堀は長大なもので長さ100m近くはあろうか。

 このあと、空堀を横断して東側の郭群に向かう。
 


永禄年間の毛利氏による尼子攻め

 永禄3年(1560)、月山富田城の城主・尼子晴久が急逝した。晴久の跡を継いだのが嫡男・義久である。これまで度々述べたように、義久の代になると尼子氏は急激に勢威が衰えていく。月山富田城を中心としてきた支配地の地元出雲国東方部は堅持するものの、東隣伯耆国においては日野郡の江尾城主・蜂塚右衛門尉(江尾城(鳥取県日野郡江府町江尾)参照)や、東伯郡の八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)の吉田源四郎を除いて、他は悉く毛利方に属するようになった。
【写真左】削平地
 東西20m×南北10mの規模を持つもので、当城の郭の中でもっとも整地された箇所。
 ここから東に向かうと、次の郭が続く。




 永禄8年(1566)8月6日、尼子氏譜代の家臣でもなかったが、最期まで忠義を尽くした蜂塚右衛門尉は、毛利方による強力な鉄砲攻撃によって大敗、江尾城は落城、自刃した。

 ところで、江尾城の攻防が繰り広げられていたころ、毛利方はほとんど石見国を押さえ、益田藤兼らに富田城攻めを催促し、さらなる富田城包囲網を形成しつつあった。江尾城落城の17日後、安芸吉田で療養中であった元就は、富田城の攻略の目途が立った報せを受け、元春・隆景らに対し、最後まで手抜かりなきよう、包囲の強化を命じた(「萩閥53」)。
【写真左】東郭群の切崖
 先ほどの削平地から比高5m前後の高さをもっているが、切崖は険しくない。






 今稿の川手要害山城もこの永禄7,8年頃には既に毛利方の手中に入っていたものと思われ、富田城落城後は廃城になったものと思われる。
【写真左】更に高くなった郭段
 上に辿りつくと、さらにもう一段高くなっている。
 ここから北に向かって細く伸びているので、そのまま進む。
【写真左】堀切・その1
 この箇所は北に向かって尾根が伸びているが、ここで鋭角に切り取られた見事な堀切が見える。
【写真左】堀切・その2
 小規模な城砦だが、遺構の密度が高く、整備されればもっと見どころの多いものになるだろう。


【写真左】南側から遠望する。
 おそらく中央の低くなったところで、西郭群と東郭群に分かれていると思われる。
 
 なお、周辺部は土地改良された田園が拡がっているが、荘園時代から、この手前の小川と、北側にある小川などが水運の役目をしていたのではないかと考えられる。
 そして、これらの川を使って本流吉田川に入り、そのまま船で中海・日本海まで船によって往来していたのではないかと考えられる。

 同じような状況としては、戦国期尼子氏の居城・月山富田城の西麓を流れる飯梨川がその役割を果たしていた。


◎関連投稿
黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)