2014年7月7日月曜日

中道子山城(兵庫県加古川市志方町岡)

中道子山城(ちゅうどうしさんじょう)

●所在地 兵庫県加古川市志方町広尾
●別名 赤松城・志方の城山
●高さ 272m
●築城期 至徳年間(1384~86)
●築城者 赤松氏範(氏則)
●城主 赤松氏
●遺構 郭・堀切・土塁・井戸・石積等
●登城日 2014年3月4日

◆解説
 中道子山城は、加古川市志方町広尾に所在する山城で、先月取り上げた志方城から東北東へ約5キロほど隔てた標高272mの城山に築かれている。
【写真左】中道子山城遠望
 南西麓からみたもので、当城が所在する城山は東西約3キロ、南北2キロに及ぶほぼ独立峰となっている。
【写真左】ハイキングコースの地図
 西側からスタートして城山(中道子山城)を経由し、東側の権現ダムに至るコースが描かれている。




現地の説明板より

“中道子山城跡

 播磨国守護赤松氏範(氏則)によって築かれ、本丸・二の丸・三の丸から構成され、東播磨で最大の約66,000㎡の広さがあります。

 山城跡には、城攻めの時に、斜面に竹の皮を敷いたが火をつけられた、坂の上から鯛をかかげ食料があると見せつけたなどの伝説があります。
【写真左】駐車場近くにある登城入口
 車で行けるのはこの手前にある駐車場までで、ここから歩いて向かう。写真中央の道で、車道としての幅員は十分あるが、現在は入口に5本ぐらいのポールが立っており、ここから徒歩でしばらく歩くことになる。


 本丸は、標高271mの山頂にあり、土塁囲いが残っています。本丸入口の米倉跡は、三方を土塁で囲み、内側には石垣を積み上げています。
 二の丸には、大手門と櫓門が造られました。大手門は、四脚門の構えをもつ山城跡最大の門です。櫓門は、本丸への通路に2か所あります。
 三の丸には、搦手となる裏門があります。
【写真左】磨崖毘沙門天
 舗装された坂道をしばらく進むと、旧城山道といわれている毘沙門天が祀られた奇岩の場所が見える。
 ここから直接登ることもできるが、今回は下山道として利用した。


 山城跡北側には、尾根を2本の堀切で切断しています。また、谷間には井戸を造り、堤を築いて貯水池にしています。今も井戸の水は涸れません。
 山城跡は、大永年間(1521~27)までに築城され、火災後規模を大きくして再築城しています。これが現在の中道子山城跡です。この山城跡は、近世城郭へと移り変わる過渡期の姿を残しています。

  平成13年3月  加古川市教育委員会”
【写真左】縄張図
 三方向の尾根を基軸としてY字状に城域が構成されている。
 南側(今回の登城コース)に二の丸が控え、その脇に大手門を置き、そこから北に向かって、行くと、西側に伸びる尾根には三の丸が控え、東側には二つの城門に挟まれた米蔵をおいて、その奥に本丸が配置されている。

 三の丸と本丸の間にある谷間には井戸が設けられている。
 なお、搦手は北側になっている。
 この縄張を見ると、相当長い期間の籠城(居住)が可能な設計といえる。


    
赤松氏範(氏則)

 赤松氏範は、前稿白旗城で紹介した赤松円心の四男である。また、置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも列記したように、円心の子には、長子・範資をはじめとし、二男・貞範、三男則祐、及び五男・氏康と5人の男子がいた。
【写真左】大手門付近
 最初に見えてくるのが大手門で、この辺りに櫓門も設置されていた。








 これら兄弟の大半は父・円心に従って尊氏方に付いたが、氏範は兄たちと意見が合わず、足利直義が南朝に降り、高師直・師泰討伐に動いた観応の擾乱(1350年)の際は、南朝方に属した。

 その後、南朝方の硬派・四条隆俊に属して足利義詮を破るが、同方のリベラル派であった楠木正儀や石塔頼房らとは同一行動はとっていない。
【写真左】二の丸
 手前の標柱が立っている箇所が二の丸とされている。
 奥にはさらに二段の郭が控えているが、広義的にはこの郭段も二の丸の一部と考えられる。




 このころから山名時氏(山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)参照)は、足利直冬(足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町)参照)と連合し、京都をめざし、正平10年(1355)1月16日、桃井直常も与同して氏範ら南朝軍は京都を回復した。ところが、それもつかの間で、3月12日になると、足利尊氏・義詮ら幕府軍が再び南朝軍を破り、義詮は入京を果たした。これによりまたもや南朝軍は京を離れることとなった。
【写真左】櫓門
 櫓門は二の丸側にもあるが、この写真のものは、城門・米倉側のもので、ここから右に向かうと本丸に繋がり、入ってまっすぐ進むと三の丸に繋がる。

 なお、左側には前記した二の丸の一部である楕円形の郭(管理人としてはむしろこちらが二ノ丸の主要部と思われるのだが…)に繋がる。


 この後、北朝方もそうであったように、南朝方も次第に内部に亀裂を生じ始めた。以前にも述べたように、南朝の精神的指導者・北畠親房が正平9年/文和3年(1354)に亡くなると、その兆候が現れ始めた。特に護良親王の子(後醍醐天皇の孫)であった赤松宮(陸良親王)は、南朝方にあって最も急進派とされ、ついには他の南朝方と対立、このとき氏範も赤松宮につき従った。しかし、最終的には南朝方主流派によって破れ、氏範は次兄の則祐を頼り播磨に戻った。
【写真左】空堀
 櫓門を過ぎて三の丸方面に向かう途中にあるもので、深さ2m前後。この空堀は三の丸と二の丸側を完全に分断するものでなく、北側には連絡路として道が残っている。


 播磨に一旦戻った氏範であったが、9年後の正平24年(1369)、再び南朝に帰順し、攝津国で挙兵した。このころ、南朝方は既に北朝方と和睦を図ろうとしていたため、氏範の行動は殆ど単独行動であったと考えられる。

 この3年前の正平22年、南朝方の葉室光資が使者として、北朝方に和睦を申入れをした際、足利義詮は同意せず、不調に終わっている。しかし、同年暮れ、義詮は政務を義満に譲り、翌年義満は征夷大将軍となり、しかも、氏範挙兵の正平24年1月には、南朝方の実力者・楠木正儀が義満と通じた(後に南朝に帰順)。
【写真左】三の丸
 北西にのびる尾根に築かれており、手前の郭の先にはさらに3m前後下がった位置に帯郭が取り巻く。
 さらにその先には二条の堀切が配されているが、この日はそこまで向かっていない。

 このあと、帯郭の先端部にある搦手門に向かう。


 おそらくそうした南朝方の一連の動きに対する反発が氏範の挙兵に繋がったものと思われる。
 氏範挙兵の報を受けた義満は、直ちに次兄の則祐や一族の一人赤松光範に討伐の命を下した。しかし、実弟追討の命を受けた則祐である。則祐には弟を誅滅する冷徹さはなかった。この結果、氏範は南朝の再興を願いつつ、しばらく播磨・摂津の間を潜伏することになる。そして、氏範最期の戦いが行われた。義満の命を受けた正平24年(1369)から17年後の元中3年/至徳3年(1386)9月のことである。
【写真左】搦手門・城門跡
 三の丸の北側にあるもので、この付近には小規模ながら長い空堀状の遺構が残り、しかも屈折した箇所が多い。
 敵の侵入を混乱させる目的にも見える。



 氏範討伐の幕命を受けたのは、細川頼元(鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)参照)、及び山名氏一族である。

 戦いの結果、氏範一族郎党合わせ100余名が、中道子山城から北東へ30キロほど向かった加東市平木の播州清水寺にて自害した。享年57歳。

 中道子山城の築城は、おそらく氏範最期の戦いとなったこの時期のことと思われる。
【写真左】井戸跡
 搦手門側からそのまま本丸西側斜面を過ぎると、谷間を利用した位置に井戸跡が残る。
 周囲は小規模な郭群で構成されており、この上には「米倉」などがあることから、数棟の建物などがあった可能性が高い。
【写真左】米倉
 本丸側に向かう途中にあるもので、三方は土塁が囲み、本丸側に向かって登り勾配の底面となっている。
 食糧保存のため、湿気対策が施されていたのだろう。
【写真左】本丸・その1
 当城最大の郭で、およそ長径100m×短径50mの楕円形のもの。
 底面も丁寧に仕上がりほぼフラット。
【写真左】本丸・その2
 一角には石碑が建立され「赤松城址」と刻銘されている。
 また、傍らには「平成26年 2014年 黒田官兵衛の当たり年! 官兵衛ゆかりの名山
志方の 城山」と書かれた幟が建っている。
【写真左】土塁
 本丸のほぼ全周に亘って土塁が巡らされていたようで、現在は特に北側に明瞭に確認できる。
【写真左】本丸から二の丸及び播磨灘を望む。
 本丸から南方を見たもので、手前に二の丸の一部が見え、さらにその先には加古川市・高砂市の市街地が眼下に広がり、播磨灘が霞んで見える。
【写真左】本丸から明石海峡大橋・淡路島を見る。
 鮮明な写真ではないが、少し東に目を転ずると、明石海峡大橋の橋脚と淡路島が確認できる。

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