2014年6月13日金曜日

篠ノ丸城(兵庫県宍粟市山崎町横須)

篠ノ丸城(ささのまるじょう)

●所在地 兵庫県宍粟市山崎町横須
●築城期 南北朝期
●築城者 赤松顕則
●城主 宇野満景・黒田官兵衛か
●高さ 標高324m
●遺構 畝状竪堀群・三重堀切・土塁・郭その他
●登城日 2014年5月5日

◆解説(参考資料 「パンフレット 官兵衛 飛躍の地 宍粟(しそう観光協会事務局編」等)
 出雲から関西方面に向かう際、管理人はよく中国自動車道を利用する。兵庫県に入って佐用ICを過ぎると、次第に上り坂となり、宍粟市山崎町の切窓峠でピークになり、そこから一気に山崎ICに向かってほぼ直線の下り坂となる。
 そして、次の山崎IC手前辺りで道は殆ど平坦面となり、このICを降りると、但馬・播磨国境に聳える藤無山(1,139m)を源流とする揖保川が車窓から見え、因幡国(鳥取)から南下してきた因幡街道(国道29号線)が合流している。
【写真左】篠ノ丸城遠望
 揖保川を挟んで東方の聖山城から見る。
※聖山城は次稿で紹介する予定。





 篠ノ丸城はこの揖保川と、中国自動車道と並行して流れる菅野川(揖保川支流)の間に挟まれた最上山に築かれている。


現地の説明板より

“篠ノ丸城址
   【所在地】宍粟市山崎町横須(しそうしやまさきちょうよこす

 赤松一族の西播磨守護代宇野氏は、宍粟郡広瀬(山崎町中心部)に居館を置いた。その背後の山上に築かれた城が篠ノ丸城である。『赤松家播備作城記(あかまつけばんびさくじょうのき)』は、南北朝期に赤松貞範の長男顕則が初めて当城を築いたとする。
【写真左】篠ノ丸城配置図
 文字が小さいため分かりずらいが、左図の中で朱文字で書かれた史跡は、江戸期に築かれた近世城郭・山崎城の城郭内にあるもので、篠ノ丸城は左上の最上山に築かれている。


 城は、北西から延びる山塊の東端(篠山・標高324m)に長方形の主郭(東西40m、南北50m)を置く。主郭は南西側に土塁と堀を備え、現状では南側の土塁中央が開口し「出入口」となっている。

 主郭西側の尾根上には、南北両側を通路に取り囲まれた方形郭が連なり、尾根西端を三重の堀切で遮断している。主郭から北側へも尾根上に二列の方形郭を段々に連ね、その東西両側に通路を設けている。
【写真左】登山口
 登城コースとしては色々あるが、この日は最上山公園の西にある駐車場に車を停め、そこから歩いて向かった。

 短距離で向かうには、上図にもあるように最上山公園の北方を走る道路を使って、遊歩道出入口附近の駐車場に停め、そこから歩くと距離は700m余りと短い。


 
 当城の最大の特徴は、北端の出入り口から西端三重堀切の間の緩やかな北側斜面が、畝状竪堀群で覆い尽くされていることである。竪堀群の上には横堀、土塁、通路が対応して城の北西面の守りを固めており、他に類例を見ない仕様となっている。このような竪堀群は本城の長水城には見られない一方で、篠ノ丸城では長水城のような石垣の使用は確認されていない。

 戦国期には宇野政頼の嫡男満景が城主となったが、天正2年(1574)、父子の不和から政頼は満景を廃嫡し殺害したと伝わる。その後、家臣の内海左兵衛が城代となったが、天正8年(1580)羽柴秀吉の攻撃により長水城と共に落城した。
【写真左】もみじ山の脇道
 途中でもみじ山公園の脇道を通るが、公園内に「千畳敷」及び「百畳敷」といった平坦地がある。
 おそらく戦国期にはこの公園内も出城の役割を担った遺構があったのかもしれない。

 黒田家の正史『黒田家譜』は、宇野氏滅亡後に黒田官兵衛が「山崎の城」に居城したと記しており、これを篠ノ丸城にあてる説がある。確実な史料から官兵衛が宍粟を領有するのは、天正12年(1584)7月のことで、同15年(1587)7月に豊前へ移封となるまでこの地を治めた。

 なお、江戸前期に成立した『宍粟郡守令交代記』には、「役人・奉行、当地に居住といへり」とあり、平素は多忙な官兵衛に代わり代官が在城していたと考えられる。

  参考文献
    兵庫県教育委員会編集”
【写真左】登山道階段
 車で直接登った箇所から少し歩いた位置の写真だが、この位置から凡そ700m程で本丸にたどり着く。

 この日は終日雨が降り、決していいコンディションではなかったが、道が整備されていたおかげで登城は苦にならない。

 左側には「官兵衛飛躍の地 宍粟」と書かれた幟が建つ。


官兵衛 飛躍の地

 地元宍粟市(山崎町)では、当地を「黒田官兵衛の飛躍の地」として紹介している。登城したのは5月5日だが、今回の登城の目的はその前日訪れた赤穂郡の「白旗城」が主で、当城を下山した後、下半身を含め久しぶりに体力を消耗したため、この日は日帰りする体力もなく、急きょ山崎の街まで足を伸ばし、地元の旅館に泊まった。
 そして、その旅館に置いてあったのが、パンフレット 「官兵衛 飛躍の地 宍粟(しそう観光協会事務局編」である。
【写真左】パンフレット「官兵衛 飛躍の地 宍粟(しそう観光協会事務局編」
 このパンフには、城跡として篠ノ丸城をはじめ、聖山城、長水城、塩田城などが紹介されている。今回長水城は登城していないが、他の2城を次稿で紹介したい。


 上掲した説明板にもあるように、天正8年(1580)5月、毛利方として最期まで抵抗を続けたのがこの宍粟郡を治め、居城・長水城にあった宇野祐清(すけきよ)である。そして宇野氏攻略に活躍した一人が黒田官兵衛である。

 合戦後の天正12年(1584)、秀吉から「宍粟郡一職」を与えられ1万石を授かることになる。文字通り戦国大名としてのスタート地点でもあったわけである。そして、この地では後に非業の死を遂げる次男・熊之助が生まれた場所ともいわれている。
【写真左】篠ノ丸城要図
 現地に設置された地図だが、全体にぼやけていたため、管理人によって修正を加えている。

当城の特徴である「畝状竪堀群」は、左側(北西部)、「三重堀切」は三の郭の西(左)に図示されている。






 ただ、残念ながら官兵衛の事績を伝えるものは当地にはほとんどない。もっとも当地にあった期間が僅か3年であり、しかもこのころは鳥取城攻め(天正9年)をはじめとし、本能寺の変・山崎の戦い(天正10年)、賤ヶ岳の戦い(天正11年)、小牧・長久手の戦い(天正12年)、四国征伐(天正13年)など、もっとも秀吉・官兵衛らにとって転戦の連続で多忙を極め、宍粟に在城する暇などなかっただろう。
【写真左】伐採された展望箇所
 上の要図の右下に「展望箇所・幟設置」と記した箇所で、最近伐採されたらしく、この位置から東麓の山崎の街並みが俯瞰できる。ただ、この日は雨が降っていた為全体に靄がかかり明瞭ではなかった。

 二の郭側の最下段に当たる郭だったと思われ、この位置からは南北に流れる揖保川沿いの街道筋が見えることから、物見櫓などがあったものと思われる。

 なお、この写真には写っていないが、四つ目結の家紋が入った幟が建ち、これには「佐々木大明神」と記されていた。秀吉らに攻略された宇野氏は村上源氏赤松氏庶流で、家紋は三つ巴であるため、この幟の由来は分からない。
【写真左】聖山城遠望
 愛宕山という山に築かれた城砦で、秀吉が宇野氏を攻め落とした際、向城(陣城)として本陣を置いたといわれている。
【写真左】大手道からの出入り口付近
 先ほどの箇所から少し登っていくと、主郭(本丸)の出入り口(虎口)が現れる。
 右側には二の郭をはじめ、下方に向かって4,5段の郭が連続している。

 ご覧のように、左右には土塁が構築されており、この左(西方)に向かうと、三の郭に繋がる。

 先ずは主郭に向かって北に進む。
【写真左】本丸(主郭)
 東西40m×南北50mの規模を持つもので、ほとんどフラットになっており、奥には以前(江戸期か)社が祀られていた。

 おそらく戦国期には館(屋形)があったかもしれない。
【写真左】本丸北の段
 本丸北側すなわち、搦手道から本丸に至る間には中小の郭段が連続しているが、この写真は本丸直下の段。

 本丸からの比高差は2~3m程度。一段目はそのまま西側に回り込み、更に南に下がって西の三の郭(丸)まで繋がっている。帯郭と犬走りの役目を兼ねた段になる。
【写真左】畝状竪堀群
 篠ノ丸城は南側の険峻さに比べ、北西側の傾斜は比較的緩い。このため、夥しい畝状竪堀群が残されている。

 ただ、現地は遺構部分である法面は余り伐採・整備されていないため、明瞭には確認しがたい。
【写真左】三の丸(郭)付近
 西に伸びる三ノ丸先端部には現在ご覧のような展望施設が建っている。
 ここからさらに西に進み、尾根を寸断した三重の堀切に向かう。
【写真左】堀切・その1
 堀切は三の丸西端部から急激に降るようになっているため、ロープが設置してあり、これに捕まりながら降りる。
【写真左】堀切・その2
 一条目の堀切
 ここが最も深い。
【写真左】堀切・その3
 二条目の堀切
現在は土橋のようなもので繋がれている。
【写真左】堀切・その4
 三条目の堀切
 この堀切は大分埋まっている。
【写真左】三ノ丸から中国自動車道を見る。
 靄がかかっているため明瞭でないが、三の丸跡の展望台側には南側の樹木を伐採し、南麓を望む箇所が確保されている。

0 件のコメント:

コメントを投稿