2014年5月6日火曜日

宇土古城(熊本県宇土市神馬町)

宇土古城(うどこじょう)

●所在地 熊本県宇土市神馬町
●指定 国指定史跡
●形態 丘城(H40m/39m)
●築城期 永承3年(1048)
●築城者 菊池氏一族
●城主 菊池氏、宇土氏、名和氏
●遺構 郭、石垣、虎口、空堀、礎石、その他
●登城日 2013年10月12日

◆解説
 宇土古城は、本稿では初めて取り上げる肥後国の城砦で、歴代城主の中には伯耆の名和長年を祖とする名和氏の名が記録されている。
【写真左】宇土古城
 現地の説明板からのもので、空から見た宇土古城。
 上の海は有明海。







 現地には大変に詳細な説明板が設置されている。少し長いが全文を掲載しておく。

現地の説明板より

“国指定史跡 宇土城跡

位置と歴史
 中世宇土城跡は、通称「西岡台」と呼ばれる標高約39mの小高い丘陵上にあります。西岡台の東約500mにはキリシタン大名・小西行長が16世紀末に築城した近世宇土城跡(城山)があるため、西岡台の宇土城跡を「中世宇土城跡」や「宇土城跡(西岡台)」、「宇土古城」などと呼んで区別しています。
【写真左】宇土古城 案内図
 右方向が北を示す。


 中世宇土城跡南側に位置する西岡神宮の古い記録によれば、平安時代の永承3(1048)年に宇土城が造られて以後、菊池氏の一族が代々城主であったとされています。室町時代には、宇土氏と名和氏が宇土城主となりました。

 宇土氏は、宇土庄(現在の宇土市街地周辺)の荘官の地位にあり、筑地氏の一族と伝えられる武家領主です。古くから宇土に勢力をおいていましたが、文亀3(1503)に守護職・菊池氏との争いに敗れて滅びました。

 一方、名和氏は室町時代の初め頃から八代市附近に勢力をおき、古麓城(八代市古麓町)を本拠としていましたが、文亀4(1504)、相良氏と菊池氏に攻められ、八代を出て宇土へ移り宇土氏滅亡後の宇土城に入城しました。

 以来、80年余り名和氏は宇土城主になりましたが、名和氏が宇土を拠点としてからも、相良氏とは豊福城(宇城市松橋町)をめぐって何度も争いました。
【写真左】北東側
 駐車場が設けられている北東部周辺で、後段で紹介されている「千畳敷」がこの左側の段をあがった所にある。





 相良家の古文書『八代日記』によれば、宇土城跡は天文7(1538)年と同11(1542)年の2度にわたって火災が発生したことが記録されています。

 また、天正3(1575)年に薩摩(鹿児島県)の島津家久公が京都への旅の途中、松橋から道を北へと進んでいるとき、左の方角に「宇土殿の城みえ侍(はべ)り」(宇土殿〔名和氏〕の城が見える)と言ったことが『家久君上京記』に記されています。城を使わなくなった時期は、行長公が近世宇土城の築城を開始した16世紀末頃と考えられます。
【写真左】虎口
 千畳敷側に入っていく入口部分で、南東隅に設けられている。
 手前には堀が巡らされているが、先ず中の方に入る。




名和氏

 肥後の宇土城(古城)を訪ねる動機となったのが、前掲の説明板にもあるように、室町初期から約80年間城主として名和氏が記録されていたからである。
 名和氏については、これまでの投稿(下段参照)をご覧いただきたいが、伯耆国(鳥取県)の名和長年がもっとも有名である。

名和氏先祖墓所・長田城跡(神社)付近(鳥取県西伯郡大山町長田)
再び冬の名和氏館跡を訪ねる
凸富長城・荒松氏(名和町)
「司馬遼太郎 因幡・伯耆のみち檮原街道 街道をゆく27」より
名和長年(3)三人五輪・名和一族郎党の墓
加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)
名和長年(2)名和神社
小波城・三輪神社(米子市淀江町)
名和長年(6)富士名判官義綱古墓
名和長年(5)船上山周辺の動き
【写真左】虎口を抜ける。
 虎口に入ると、途中で右に直角に曲がる。
ここからが千畳敷となる。







 さて、宇土古城に入る前に名和氏が居たのが、宇土より南方にある八代市の古麓城であったとされる。

 当城の初代城主は、名和長年の長男・義高といわれている。義高が肥後八代荘の地頭に任じられたのは建武元年(1334)正月とされる。任じたのは後醍醐天皇と思われるが、当初義高は直ぐには肥後に渡らず、重臣の内河彦三郎義真(よしさね)を代官として派遣している。従って、最初に築城を手掛けたのはこの内河彦三郎義真となる。

 翌2年5月15日、まだ伯耆国にあった義高は、杵築大社(出雲大社)に対し、肥後国八代荘高田郷の土地を寄進している(『千家文書』)。
【写真左】千畳敷・その1
 文字通り広々とした郭で、当城の中心部の遺構である。








縄張り-城の構造-

 戦国時代(15世紀後半から16世紀後半)を中心に、日本列島に数多く造られた中世城は、自然地形をできる限り活かし、重要な場所や守りが弱い場所に堀や土塁などを造って敵の侵入を防いでいました。熊本城のように石垣を備える近世城は「石造りの城」と呼ばれるのに対し、中世城は「土造りの城」と呼ばれる理由となっています。

 また、「曲輪」と呼ばれる堀や柵で防御された広場には、天守閣のような立派な建物はなく、瓦さえも使わない掘立柱建物が建てられているのが普通で、中世宇土城も例外ではありませんでした。
【写真左】千畳敷・その2
 千畳敷も含め、当城にはご覧のような掘立柱建物跡が20数棟残る。

 この写真はそのうちの17号建物跡で、桁行4間(総長8.0m)・梁行2間(総長4.4m)のもの。


 西岡台の頂上部には東西に並ぶ2つの曲輪があります。東側の曲輪は「千畳敷」と呼ばれており、周囲に人工的に削り出した切岸という崖や堀を配置し、敵の進入を防ぐ工夫をしています。

 同じく西側は「三城」と呼ばれ、堀は確認されていませんが、切岸で守りを固めています。また、三城の西側には幅約10m、深さ約7mの巨大な堀と、その西側に並行して土塁が築かれています。
【写真左】未完成の堀跡
 千畳敷上部から再び下の外周部に降りると、堀跡がある。
 興味深いことに、これらの堀は未完成の箇所があり、「小間割」と呼ばれる工区分けの掘削途中の姿を残している。

 現場ではこの姿を残すため、表面をモルタルのようなもので被覆し、劣化を防いでいる。

 
 西岡台の南側斜面は、幅広い平坦地が連続しており、「オオテ」(大手)と伝えられる地点や麓には中世以来の古道「三角道」があります。この周辺に、領主(殿様)や家臣が生活していたと考えられます。
【写真左】堀に残る石塔
 虎口付近の堀では、大量の石塔が発見されている。五輪塔や宝篋印塔などだが、これらが内堀から大量に出てきたという。

 説明板では、これは意図的に投げ込まれたものと推定され、石塔の投機は、「城破り(わり)」すなわち、「城の生命を断ち切る儀礼・儀式」がこの行為で示されたのではないかとしている。
 この発見は九州では初めてで、全国的にも数例しか確認されていない貴重なものである。


発掘調査からわかったこと

 中世宇土城跡は、昭和49年度から平成23年度まで計24回におよぶ発掘調査が行われ、多くの成果が得られています。

 千畳敷の調査では、掘立柱建物跡・柵列跡・門跡・井戸跡・横堀跡・竪堀跡が見つかりました。なかでも、千畳敷を囲む堀が未完成であり、小間割と呼ばれる掘削単位が残されていたことや、曲輪の出入口である虎口付近で、城の生命を断ち切る儀礼行為「城破り」を確認するなど重要な成果が得られています。三城の調査でも、掘立柱建物跡・門跡・道跡・溝跡などが見つかっています。
【写真左】南西部から千畳敷を見る。
 千畳敷の全周法面と手前の間には上掲した外堀が巡っており、そこから西に向かうと、少し下がる傾斜面が続く。
 さらに西に向かう。



 建物の柱穴や、堀に堆積した土の中から、土師質土器や擂鉢・火鉢などの瓦質土器、備前焼や瀬戸焼、中国で焼かれた白磁・青磁・染付などの13~16世紀を中心とする陶磁器が出土しました。

 これらの出土品から、中世宇土城における人々の生活の様子を思い浮かべることができます。また、中国製だけでなく、朝鮮半島やタイ製陶磁器の出土は、東アジア規模で行われた当時の交易を物語ります。その他の遺物として、鉄砲玉や鉛などの金属を溶かす容器の坩堝(るつぼ)などが出土しています。
【写真左】掘立柱建物跡(SB20)
 三城周辺に残るもので、ここからは瓦が出土していないことから、屋根は板葺か茅葺だったとされている。

 なお、この区域では柱穴が重なっている箇所があり、4つの時期(Ⅰ~Ⅳ期)にわたって建物群が存在していたという。

 この写真のSB20は、そのうち最も新しいⅣ期(16世紀後半)のもので、南北5.0m×東西5.6m(面積28㎡)のもの。
 特徴的なのは、「布掘り建物」で、当城で唯一確認されているもの。


 なお、古墳時代前期(4世紀)には、千畳敷に「首長居館」と呼ばれる、豪族の住まいがありました。周囲を断面「Vの字形」をした大きな壕で防御しており、敷地の広さは東西80m、南北約93mと九州の首長居館でも最大規模を誇ります。首長居館の壕からは、生活に使った土師器の壺・甕(かめ)・高坏(たかつき)などが出土しています。
【写真左】土塁と堀
 上掲の建物がある三城区域に残るもので、当城の中ではもっとも土塁の高さがある。
また、面白いことに、小規模な堀が内側に造られている。


 また、居館が使われなくなった5世紀には古墳が造られ、埴輪や副葬品とみられる鏡が出土しました。

 首長居館の建物跡や古墳は、中世の城造りで大規模に土地が削られたために無くなったと考えられています。西岡台の西の端には、西岡台貝塚(縄文時代)があり、発掘調査でドングリを貯蔵した穴が5基見つかっています。
  
     平成24年1月 宇土市教育委員会”
【写真左】三城の西端部
 三城からさらに西の方へ向かった位置で、左側に上掲の郭が見える。

 なお、三城の南西部に伸びる横堀・土塁遺構については夕暮れ時でもあったため、当日は探訪していない。

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