2014年4月30日水曜日

安芸・出張城(広島県安芸郡府中町宮の町)

安芸・出張城(あき・でばりじょう)

●所在地 広島県安芸郡府中町宮の町3
●別名 府城・国府城・芸府城
●高さ 35m(比高25m)
●形態 丘城(水軍城)
●築城期 応永年間(1394~1428)
●築城者 白井加賀守胤時
●城主 白井氏
●遺構 郭等
●備考 長福寺、多家神社
●登城日 2014年1月11日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 安芸・出張城(以下「出張城」とする)は、前稿でとりあげた仁保城(広島県広島市南区黄金山町)から北東方面へ約4キロほど向かった多家神社えの宮の南方に所在した丘城(水軍城)である。

 築城期・築城者は、仁保城と同じく応永年間に下総国(現在の千葉県北部)から下向してきた白井氏(胤時)といわれている。
【写真左】出張城遠望
 ご覧の通り現在は周囲の住宅に囲まれて本丸付近のみがかろうじて残る。







 現地の説明板より

“出張城跡と白井氏

 出張城跡は、室町時代中頃の応永年間(1394~1427)に下総国から安芸国に移り、瀬戸内海水軍となった白井氏の城跡と伝えられている。

 出張城の呼称は、現在の宮の町一丁目と同三丁目境の古山陽道沿いを出張市と呼んでいたことから、字の名にちなんで近世に命名されたものと思われ、中世の史料には府城・国府城・芸府城などと記されている。
【写真左】出張城位置図
 左図では出張城の規模は長径100m足らずのものとなっているが、当寺は東側(右)の丘陵地も何らかの遺構があったものと思われる。

 北方には下段で紹介する白井氏の菩提寺といわれる長福寺があり、その北に多家神社がある。



 城は本丸を中心として数段の郭を設けていますが、現在では宅地や畑となって往時の面影はつかめません。

 城主の白井氏は、初め守護武田氏に属していました。そのため出張城は一族の拠る仁保城(広島市黄金山)とともに、広島湾頭において銀山城の防禦線の役割を果たしていた。ところが、周防大内氏の支配権が及んできた大永年間末(1527)にはその支配下となり、佐東郡牛田・山本などに領地を与えられ、海上でも一層活躍しています。
 しかし、天文20年代以後(1551~)は、次第に毛利氏に領地を奪われ、活動の拠点もこの地から離れていったものと思われます。
   府中町教育委員会”
【写真左】五輪塔
 登城口は南側と北側の二か所あるが、いずれも標識らしきものはない。この日は、地元の御婦人に入口を尋ね、南側の住宅の路地からむかった。

 なお、付近は住宅が建て込んでおり、駐車スペースはほとんどない。このため、北側の多家神社境内の駐車場においてから向かった。


安芸・白井氏

 出張城の築城者白井氏については、すでに前稿仁保城でも少し述べているが、同氏が最初に安芸国に下向して築いたのがこの出張城といわれている。

 なお、後段で紹介している田所氏は、白井氏が当地に下向する前の在庁官人であったというから、おそらく平安後期から鎌倉期に当地に赴いた一族だったのだろう。

 応永年間(1394~1427)、下総国から下向した白井加賀守胤時が築き、以後同氏は8代170年にわたって府中地域を支配したといわれる。
 応永元年は、丁度足利幕府第3代将軍・義満が征夷大将軍を辞任し、代わってその子・義持が任命されたときである。しかし、これは形式的なもので、実態は義満が隠然たる権力をしばらく誇示していくことになる。白井氏が室町幕府(足利氏)の御家人であったことは確かのようだが、下総国から安芸国に下向した経緯ははっきりしない。
【写真左】登城口付近
 上記五輪塔がある個所から見たもので、付近は畑地になっている。おそらくこの辺りも郭があったものと思われる。

 写真左奥に白い小さなものが見えるのが、案内板で、その箇所から登り口がある。

 ただ、最近は余り管理されていないようで、竹などが増え藪化してきている。


 安芸・白井氏はその後、太田川河口・広島湾頭に支配を広げ、さらに西の周防、南の伊予灘方面にも進出、瀬戸内西方の水軍領主として君臨し始める。説明板にもあるように、当初同氏は安芸守護職であった武田氏の麾下にあったようで、海上権益の取得は武田氏の支援があったことが大きく影響していると思われる。
【写真左】武田元信知行安堵状


 現地には、明応4年(1495)時の安芸守護・武田元信が白井光胤に宛てた知行安堵状が記されているが、これには、仁保島海上における公事徴収権や、大河・府中・古市等の支配権を認めるというものが記されている。

 その後、大永年間以降になると、大内氏に属し活躍することになるが、厳島合戦の際は大内義長、すなわち陶晴賢に与していたため、敗戦後毛利氏によって所領を奪われるものの、許されて毛利氏の配下になったといわれている。
【写真左】登城道
 ご覧の状態だが、比高があまりないため、すぐに本丸にたどり着く。
【写真左】本丸・その1
 長径30m×短径20m程度のもので、予想以上に大きい。
【写真左】本丸・その1
 写真では分からないが、歩いてみるとほぼフラットな削平地となっており、加工精度は高いようだ。
【写真左】北側斜面
 本丸から北側に降りてみる。南側に比べ傾斜はこちらの方がきつい。

 北東麓にも小郭跡らしき削平地が残るが、大分改変されているようで、はっきりしない。
【写真左】長福寺
 白井氏の菩提寺といわれている寺院で、山号は天龍山。

 この写真では、出張城は左側にあり、本堂裏の林の裏には多家神社がある。


 現地の説明板より

“長福寺と田所墓所

 長福寺は天龍山と号し、曹洞宗国泰寺末である。本尊は阿弥陀如来で、昭和初年頃まで釈迦灌仏会(甘茶祭)、孟蘭盆会(うらぼんえ)などがおこなわれていた。本堂、開山堂、禅堂、鎮守堂、庫裡および築山庭園などがあった。
【写真左】長福寺から南方の丘を見る。
 この写真でいえば、出張城は右側になるが、写真奥の丘状の辺りも当時の城域ではなかったかと思わせる雰囲気がある。

 ちなみに、この写真の左側にも尾根筋状に伸びた丘陵部があり、現在残る出張城は西端部の出丸のような役目をもった部分ではなかったかと思われ、このことから当時はこの位置から東にむかって城域を構成していたのではないかと想像される。

 


 寛政3年(1791)頃に鋳造の梵鐘は戦時中に供出し、今はない。本堂は明和元年(1764)に一度焼失し、天明7年(1787)国泰寺座主智外和尚が再建し、曹洞宗となる。
 再建を記念した際の開山塔がある。現在の本堂は平成11年(1999)に再建され、平成12年(2000)に落慶法要が営まれた。

 長福寺は田所氏の菩提寺であり、田所氏の墓は一族の石井、三宅氏らの墓とともに境内の東方に数十基ある。”
【写真左】仁保城遠望
 長福寺から見たもので、肉眼でもはっきりと見える。
【写真左】多家神社
 長福寺の北方に鎮座する社で由緒は次の通り。









“安芸国開祖
 多家神社(埃宮(えのみや))

主祭神 神武天皇
      安芸津彦命
相殿神 神功皇后
      応神天皇
      大己貴命
摂末社  貴船神社

由緒
 この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられたと伝わる。古事記(712年完成)に阿岐国(安芸国)の多祁理宮に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が7年坐すとあり。日本書紀(720年完成)には埃宮(えのみや)に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。

 平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。
【写真左】多家神社の宝蔵





 当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。

 中世になると、武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分かれ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。そこで明治6年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。明治7年県社となった。

 その後、多くの村内小社を廃して多家神社に合祀した。大正4年(1915)9月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正11年4月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。

 なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。

 たれその森について   「誰曽廼森」と記されている。神武天皇が当地の者に「曽は誰そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。”

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