2014年4月30日水曜日

安芸・出張城(広島県安芸郡府中町宮の町)

安芸・出張城(あき・でばりじょう)

●所在地 広島県安芸郡府中町宮の町3
●別名 府城・国府城・芸府城
●高さ 35m(比高25m)
●形態 丘城(水軍城)
●築城期 応永年間(1394~1428)
●築城者 白井加賀守胤時
●城主 白井氏
●遺構 郭等
●備考 長福寺、多家神社
●登城日 2014年1月11日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 安芸・出張城(以下「出張城」とする)は、前稿でとりあげた仁保城(広島県広島市南区黄金山町)から北東方面へ約4キロほど向かった多家神社えの宮の南方に所在した丘城(水軍城)である。

 築城期・築城者は、仁保城と同じく応永年間に下総国(現在の千葉県北部)から下向してきた白井氏(胤時)といわれている。
【写真左】出張城遠望
 ご覧の通り現在は周囲の住宅に囲まれて本丸付近のみがかろうじて残る。







 現地の説明板より

“出張城跡と白井氏

 出張城跡は、室町時代中頃の応永年間(1394~1427)に下総国から安芸国に移り、瀬戸内海水軍となった白井氏の城跡と伝えられている。

 出張城の呼称は、現在の宮の町一丁目と同三丁目境の古山陽道沿いを出張市と呼んでいたことから、字の名にちなんで近世に命名されたものと思われ、中世の史料には府城・国府城・芸府城などと記されている。
【写真左】出張城位置図
 左図では出張城の規模は長径100m足らずのものとなっているが、当寺は東側(右)の丘陵地も何らかの遺構があったものと思われる。

 北方には下段で紹介する白井氏の菩提寺といわれる長福寺があり、その北に多家神社がある。



 城は本丸を中心として数段の郭を設けていますが、現在では宅地や畑となって往時の面影はつかめません。

 城主の白井氏は、初め守護武田氏に属していました。そのため出張城は一族の拠る仁保城(広島市黄金山)とともに、広島湾頭において銀山城の防禦線の役割を果たしていた。ところが、周防大内氏の支配権が及んできた大永年間末(1527)にはその支配下となり、佐東郡牛田・山本などに領地を与えられ、海上でも一層活躍しています。
 しかし、天文20年代以後(1551~)は、次第に毛利氏に領地を奪われ、活動の拠点もこの地から離れていったものと思われます。
   府中町教育委員会”
【写真左】五輪塔
 登城口は南側と北側の二か所あるが、いずれも標識らしきものはない。この日は、地元の御婦人に入口を尋ね、南側の住宅の路地からむかった。

 なお、付近は住宅が建て込んでおり、駐車スペースはほとんどない。このため、北側の多家神社境内の駐車場においてから向かった。


安芸・白井氏

 出張城の築城者白井氏については、すでに前稿仁保城でも少し述べているが、同氏が最初に安芸国に下向して築いたのがこの出張城といわれている。

 なお、後段で紹介している田所氏は、白井氏が当地に下向する前の在庁官人であったというから、おそらく平安後期から鎌倉期に当地に赴いた一族だったのだろう。

 応永年間(1394~1427)、下総国から下向した白井加賀守胤時が築き、以後同氏は8代170年にわたって府中地域を支配したといわれる。
 応永元年は、丁度足利幕府第3代将軍・義満が征夷大将軍を辞任し、代わってその子・義持が任命されたときである。しかし、これは形式的なもので、実態は義満が隠然たる権力をしばらく誇示していくことになる。白井氏が室町幕府(足利氏)の御家人であったことは確かのようだが、下総国から安芸国に下向した経緯ははっきりしない。
【写真左】登城口付近
 上記五輪塔がある個所から見たもので、付近は畑地になっている。おそらくこの辺りも郭があったものと思われる。

 写真左奥に白い小さなものが見えるのが、案内板で、その箇所から登り口がある。

 ただ、最近は余り管理されていないようで、竹などが増え藪化してきている。


 安芸・白井氏はその後、太田川河口・広島湾頭に支配を広げ、さらに西の周防、南の伊予灘方面にも進出、瀬戸内西方の水軍領主として君臨し始める。説明板にもあるように、当初同氏は安芸守護職であった武田氏の麾下にあったようで、海上権益の取得は武田氏の支援があったことが大きく影響していると思われる。
【写真左】武田元信知行安堵状


 現地には、明応4年(1495)時の安芸守護・武田元信が白井光胤に宛てた知行安堵状が記されているが、これには、仁保島海上における公事徴収権や、大河・府中・古市等の支配権を認めるというものが記されている。

 その後、大永年間以降になると、大内氏に属し活躍することになるが、厳島合戦の際は大内義長、すなわち陶晴賢に与していたため、敗戦後毛利氏によって所領を奪われるものの、許されて毛利氏の配下になったといわれている。
【写真左】登城道
 ご覧の状態だが、比高があまりないため、すぐに本丸にたどり着く。
【写真左】本丸・その1
 長径30m×短径20m程度のもので、予想以上に大きい。
【写真左】本丸・その1
 写真では分からないが、歩いてみるとほぼフラットな削平地となっており、加工精度は高いようだ。
【写真左】北側斜面
 本丸から北側に降りてみる。南側に比べ傾斜はこちらの方がきつい。

 北東麓にも小郭跡らしき削平地が残るが、大分改変されているようで、はっきりしない。
【写真左】長福寺
 白井氏の菩提寺といわれている寺院で、山号は天龍山。

 この写真では、出張城は左側にあり、本堂裏の林の裏には多家神社がある。


 現地の説明板より

“長福寺と田所墓所

 長福寺は天龍山と号し、曹洞宗国泰寺末である。本尊は阿弥陀如来で、昭和初年頃まで釈迦灌仏会(甘茶祭)、孟蘭盆会(うらぼんえ)などがおこなわれていた。本堂、開山堂、禅堂、鎮守堂、庫裡および築山庭園などがあった。
【写真左】長福寺から南方の丘を見る。
 この写真でいえば、出張城は右側になるが、写真奥の丘状の辺りも当時の城域ではなかったかと思わせる雰囲気がある。

 ちなみに、この写真の左側にも尾根筋状に伸びた丘陵部があり、現在残る出張城は西端部の出丸のような役目をもった部分ではなかったかと思われ、このことから当時はこの位置から東にむかって城域を構成していたのではないかと想像される。

 


 寛政3年(1791)頃に鋳造の梵鐘は戦時中に供出し、今はない。本堂は明和元年(1764)に一度焼失し、天明7年(1787)国泰寺座主智外和尚が再建し、曹洞宗となる。
 再建を記念した際の開山塔がある。現在の本堂は平成11年(1999)に再建され、平成12年(2000)に落慶法要が営まれた。

 長福寺は田所氏の菩提寺であり、田所氏の墓は一族の石井、三宅氏らの墓とともに境内の東方に数十基ある。”
【写真左】仁保城遠望
 長福寺から見たもので、肉眼でもはっきりと見える。
【写真左】多家神社
 長福寺の北方に鎮座する社で由緒は次の通り。









“安芸国開祖
 多家神社(埃宮(えのみや))

主祭神 神武天皇
      安芸津彦命
相殿神 神功皇后
      応神天皇
      大己貴命
摂末社  貴船神社

由緒
 この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられたと伝わる。古事記(712年完成)に阿岐国(安芸国)の多祁理宮に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が7年坐すとあり。日本書紀(720年完成)には埃宮(えのみや)に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。

 平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。
【写真左】多家神社の宝蔵





 当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。

 中世になると、武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分かれ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。そこで明治6年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。明治7年県社となった。

 その後、多くの村内小社を廃して多家神社に合祀した。大正4年(1915)9月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正11年4月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。

 なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。

 たれその森について   「誰曽廼森」と記されている。神武天皇が当地の者に「曽は誰そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。”

2014年4月27日日曜日

仁保城(広島県広島市南区黄金山町)

仁保城(にほじょう)

●所在地 広島県広島市南区黄金山町(黄金山)
●形態 海城(島城)
●築城期 不明(15世紀か)
●築城者 不明
●城主 白井氏、三浦元忠
●遺構 郭・石垣等
●高さ221.7m
●登城日 2013年11月30日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 仁保城については、以前発喜城(広島県広島市安芸区矢野町)の中でも紹介したように、現在の広島平野の南東部湾岸地域に所在する黄金山に築かれた城砦(海城)である。
【写真左】仁保城遠望・その1
 南東の発喜城側から見たもの。
 北麓には現在マツダ自動車の宇品工場がある。







現地の説明板より

“数々の伝説を持つ黄金山
 黄金伝説の地

 広島市内のシンボルとして親しまれている黄金山。この山の名前は古くは城山と呼ばれていました。

 山頂付近い城お主要な部分があり、広島湾内を一望できる山頂は戦において重要な位置を占めており、何度となく局地的な戦場ともなりました。
【写真左】配置図
 少し文字が小さいが、中央の赤字「現在地」付近が城域で、北側に「一の丸」南に「二の丸」があり、一の丸から北西へ約500下がった所には、「出丸」があったとされる。



 厳島の合戦の前哨戦として行われた弘治元年(1555年)7月、陶晴賢の武将・三浦房清が攻めてきたとき、城将香川光影が防戦し、撃退したと伝えられています。

 「黄金山」という名前の由来は、観音寺の山号が「黄金山」といったこと、このあたり一帯の麦畑が黄金色に輝いて見えたこと、夕日に黄金色に染まって見えたことなど様々です。地元の古老の中には、白南天の木の根元を掘ると黄金が出るという伝説まで伝わっています。”
【写真左】一の丸跡
 南側の頂部に当たり、現在電波塔や展望台などが設置されている。
 なお、この写真の手前は駐車場となっているが、当時はこの付近が駐屯地となっていたものと思われる。

 先ず一の丸から向かう。


安芸・武田氏と白井氏
 
 仁保城の築城期ははっきりしないが、『白井家文書』によると、明応4年(1495)に白井光胤が、武田元信から仁保島近海における海上諸公事の徴収権を安堵されている。武田元信は、銀山城(広島市安佐南区祇園町)でも紹介したように、仁保城のある位置から北北東へ約11キロ上った太田川の西岸武田山・銀山城を本拠とする鎌倉期から安芸国守護職であった。

 おそらくこの頃(明応4年)当時、白井氏はこの安芸・武田氏の家臣であったと思われ、主に海上権益の守備を任されていたものと思われる。
【写真左】帯郭か
 大幅に改変されているため、遺構の確認は困難だが、一の丸に向かう坂道の下あたりは郭跡ではなかったかと考えられる。




大内氏の進出

 大内氏が仁保城を含む広島湾岸に進出し始めたのが、大永2年(1522)頃といわれている。このころの大内氏とは義興であるが、安芸守護職であった武田氏とは度々対立し、同年3月義興は多賀谷武重・能美弾正らに命じて、仁保島の攻略を開始した。しかし、この戦いでは武田氏(白井氏ら)が防戦し、一旦兵を引いた。

 ところで、之より先立つ永正5年(1508)、周防の大内義興に従って前将軍足利義稙を擁して上洛した際、随従した元就の兄・興元が、同13年、24歳で急死し、急きょ家督を継いだ嫡男・幸松丸もまた大永3年(1523)急死することになる。毛利一族はこうした不安定な状況の態勢ながら、元就がこの年の8月、家督を継いだ。そして、その2年後の大永5年(1525)1月、改めて元就は大内氏と盟約を結んでいる。
【写真左】一の丸から保喜城・矢野城を遠望する。
 一の丸からは南東方向に発喜城・矢野城などが遠望できる。






 大内氏としては、いずれ武田氏の本拠・銀山城を北方の安芸吉田郡山城の毛利氏の支援を受けていわばは挟み撃ちにする計画もあったのだろうが、このころは毛利氏自身は一族の支配体制が脆弱なため、具体的に大内氏の命によって兵を動かす余裕はなかった。

厳島合戦

 天文20年(1551)8月、大内義隆の重臣・陶晴賢は大友晴英を擁し、ついに主君義隆追討の兵を挙げた。このとき、毛利元就は一応晴賢に協力する態度を示している。しかし、元就は晴賢に対し具体的な行動は直ぐにとらなかった。この時の判断が、後に中国の雄となる最大の分岐点となることになる。
【写真左】仁保城から厳島を遠望する。
 南西方向を見たもので、仁保城から見ると、以外と厳島が近くに見える。

 厳島の合戦は陸上戦もあったが、兵力の優位性は決定的に水軍力の確保に懸かっていた。
 広島湾岸を夥しい軍船が往来していたことだろう。



 2年後の天文22年(1553)11月、陶晴賢は石見津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)主・吉見正頼を攻めたてた。晴賢が吉見氏を攻撃するきっかけとなったのは、その前月晴賢の兵が吉見正頼らによって破られるという戦があったためであるが、吉見氏はもともと陶晴賢とは遺恨があり、さらに正頼の妻は大内義隆の姉であった。
【写真左】二の丸方面に向かう。
 一の丸から降りて、南側の二の丸に向かう。
この先にもご覧の通り電波塔関連の施設が建っている。




 そして、晴賢は吉見氏討伐の命を芸備の諸領主に発し参陣を促した。しかし、この命に対し毛利家中では何度も軍議を開いたが、なかなか結論が出なかった。
 当初、元就は自ら晴賢の下に参陣する意思を表明したが、嫡男隆元がそれを諌めた。それは次の二つの理由があったからである。

 一つは、毛利氏が石見吉見氏討伐に向かえば、出雲の尼子(晴久)が南下してくることが予想された事。二つ目は、晴賢が参陣を促してから一向に毛利氏が動かないことから、元就に対し晴賢がすでに疑いを持ち始めていたこと、そのため吉見氏討伐後、晴賢が元就を拘束するのではないか、という危惧などがあった。
【写真左】二の丸
 この階段を上がると二の丸頂部になるが、上にまで上がっていない。電波塔関係の施設しかないため、省略してしまった。

 なお、この位置から頂部までの比高が当時のままとすれば、7,8m程度はあったものと思われる。
 現地には、「ここには、城主が住む館や、親族の屋敷が置かれていた云々」と書かれた説明板が設置してある。

 このあと、さらに南側にある三の丸に向かう。


 そうこうしているうちに、陶晴賢が毛利氏へ参陣を促してからすでに足かけ3年の歳月が流れた。この間、晴賢は吉見氏との戦いが膠着状態になっていた。天文23年(1554)3月、晴賢は再び吉見氏討伐に向けて動き出した。おそらく晴賢にとってこの頃の精神状態は、業を煮やした憤りと焦りがあったのだろう。元就はじめ芸備の主だった諸将に対し、晴賢は使僧をそれぞれ遣わし督促した。

 この中で、平賀氏に遣わされた使僧は、平賀氏に拘束され、あげく毛利氏に引き渡された。平賀氏は、以前にも紹介したように、父子対立の結果、父方(広相)が勝利し毛利氏に帰属していた。
【写真左】三の丸跡・その1
 改変されているため、当時の規模は不明だが、幅10m前後×奥行20m程度の大きさが残る。





 この平賀氏の行動は、結果として元就が晴賢に決別することを意味した。

 事ここに至って、元就はついに立ち上がることになる。同年(天文23年)5月11日、元就は嫡男隆元と連名の書状「防芸引分(ぼうげいひきわけ)」、すなわち陶晴賢と全面対決する意志を安芸国人領主たちに送り、すぐさま吉田を出立した。
【写真左】三の丸跡・その2
 南側から見たもので、三の丸南端部にはさらに2m程下がった削平地があり、手前の箇所も腰郭だった可能性がある。




 陶晴賢と最後の攻防となったのが、厳島合戦(宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)だが、その前哨戦の一つとなったのが、今稿の仁保城である。ちなみに、周辺で同じく繰り広げられた戦いは、発喜城(広島県広島市安芸区矢野町)・草津城・己美城などが挙げられる。
【写真左】仁保城遠望・その2
 西麓の宇品方面の市街地から見たもの。

2014年4月19日土曜日

安芸・高塚城(広島県東広島市福富町上戸野)

安芸・高塚城(あき・たかつかじょう)

●所在地 広島県東広島市福富町上戸野
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 鷹司大膳か
●高さ 350m(比高30m)
●遺構 郭・堀切等
●史跡 福富町史跡
●登城日 2010年10月10月26日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 安芸・高塚城(以下「高塚城」とする)は4年も前に登城した城砦である。
 ところで、当ブログに投稿する城館の選定や順番などは決まったものはない。強いて言えば、できるだけ登城後直近の時期にアップするようにしているが、登城後の印象が薄いと、知らぬ間に忘れてしまうことがある。
【写真左】高塚城遠望
 南側から見たもの。
中央部(主郭)に展望台が見える。









 高塚城の記憶もそんな印象があったようで、今回登城記録データを確認しているとき、思い出したものである。

 現地の説明板より

“高塚城跡
   賀茂郡福富町上戸野(別名 菊ヶ城 標高350m)

 河内町から福富町にかけての沼田川上流の戸野郷は、14世紀代に園城寺や東寺に寄進され、室町期には小早川則平、煕平の所領となっていたが、次第に南から大内・平賀氏の支配力がのびた所だった。城主は「芸藩通誌」によると鷹司大膳としているものの、史料的裏付けがなく、築城年代も明らかでない。
【写真左】配置図
 ご覧のように現在は公園として整備されている。
 現地には当時の遺構などを示す標識などはほとんどない。
 この図では上段にある「山頂 展望台」付近が本丸跡になる。


 ただ、城の所在するここ上神一帯は、戸野郷のうちでも南端に位置する狭い谷間なので、支配範囲はあまり広くなく、南接する造賀保(東広島市高屋町)の方面を強く意識した選地になっている。
【写真左】入口付近
 しっかりした標識が設置されている。
近くには、石材店のような資材置き場がある。






 城の西側麓は沼田川が半周するようにとりまいて、天然の堀の役目を果たし、東側は谷が入り込んで屋根を切断して、独立丘陵状になった部分に郭が配置されている。太尾根頂部には東西55m、南北40mの長円形郭と、その中心部分に一段高い18m×15mのほぼ円形郭があり、二重になった広い郭は城の中核となっている。

 長円形郭の6m下がった所は、通路状の堀切が一周し、その外側に竪堀で区切られたほぼ10m×10mぐらいの小郭が「菊ヶ城」の別名のごとく、あたかも菊の花弁のように17ほど取り巻いている。”
【写真左】城域(公園)入口
 左側に「高塚城跡入口」と書かれた看板が見える。








平賀氏と小早川氏

 説明板にもあるように、高塚城の築城期・築城者及び城主名など詳細な記録は残っていない。

 さて、上掲した説明板では、高塚城の西麓には沼田川が流れ、天然の堀の役目をしていた、と記されている。詳しく言えば、この川は沼田川の支流・造賀川で、南方の高屋町(東広島市)稲木と造賀の境に聳える鷹巣山付近を源流として一旦北進し、高塚城の北方1キロに所在する堀城(下段の写真参照)の北麓で本流沼田川と合流し、そこからやや南に向きを変えながら東進し、平賀氏の居城・頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)の北麓を流れていく。
【写真左】航空写真
 昭和58年頃撮影されたもので、この写真に管理人がトレース追記した。

なお、この上部には現在の福富ダムがあるが、このときは未だ出来ていない。

【写真左】石碑
 入口右側に設置されている。










 堀城も造賀川と並行している国道375号線と県道33号線の分岐点にある城砦で、おそらく高塚城の支城的役割を担った城砦だったと考えられる。

 さて、当城が所在する福富町上戸野や東隣の河内町が、南北朝期には、園城寺・東寺といった寺領地であったことが分かっている。その後室町期に至るとは小早川氏の所領になったとある。

 小早川氏とは安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1で紹介した沼田小早川氏である。
小早川氏が上戸野地域まで扶植していくことができたのは、やはり沼田川があったからであろう。小早川氏の居城・高山城から沼田川を遡っていくと、高塚城までは18キロ余りであるが、当時は河川交通が主流だったこともあり、この川を使って往来されていたものと思われる。
【写真左】歩道
 公園となっているので、道は整備されている。しかし、この景色を見た途端、城跡としての遺構の確認は期待できないと感じた。




 その後、当城のある上戸野地区は、平賀氏の支配が及んでいく。南北朝期から室町期に至る時期、沼田小早川氏は庶流・竹原小早川氏との確執が増大し、特に応仁の乱の頃、同氏一族内の争いはもっとも激しくなっていた。おそらくそうしたこともあって、代わって南方に本拠を持つ平賀氏が進出してきたのだろう。

【写真左】主郭跡の展望台
 立派な石碑は建立されているものの、現地は公園として整備することが目的だったようで、遺構の保存などは殆ど眼中になかったようだ。

 公園の出来栄えとしては満足するものだが、城跡としての保存意識がほとんど感じられない。


造賀の戦い

 頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)でも少し紹介しているが、天文4年(1535)、平賀一族の間で、大内氏と尼子氏のいずれに属するかを巡って、父子による対立が生じ、尼子派の息子・平賀興貞は、頭崎城に拠って、大内派の父・弘保と交戦した。この戦いは、当然ながら、それぞれの背後に尼子・大内両軍が援軍として参陣した。

 この戦いで、戦場の一つとなったのが、高塚城の南方にある造賀地域である。戦いの結果、頭崎城は父・弘保側の軍門に降り、敗れた興貞は出家し、興貞の嫡男隆宗が相続することなった。


 おそらく、この戦いにおいて高塚城付近も戦火を交えたものと思われる。
【写真左】主郭下の郭
 『日本城郭体系』によれば、当城の要図にも示されているように、楕円形の形をなして、ほぼ同心円状に帯郭が巻き付いていたという。




近在の山城形態

 ところで、こうした形態(円形もしくは楕円形)の城砦がこの近辺(福富町久方)では多くみられると記されている。

 参考までに、それら類似した城砦を下段に紹介しておく(ただし所在場所は不明)。

  1. 仏が丸城
  2. 狐が城(犬丸山城)
  3. 松田城(次郎丸城)
  4. 戌(いぬ)丸城
 これらについては管理人は登城・確認していないが、ひょっとして元々古墳の種類の一つである「円墳」であったものを城砦として再利用した可能性も考えられる。
【写真左】展望台から南方を見る。
 造賀方面をみたもので、奥の山をこえると、西条町(東広島市)に至る。

2014年4月18日金曜日

木之宗山城(広島県広島市安佐北区上深川町)

木之宗山城(きのむねやまじょう)

●所在地 広島県広島市安佐北区上深川町
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 吉川興経、奥西綱仲
●高さ 413m(比高390m)
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2013年11月11日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 木之宗山城は、現在の山陽自動車道広島東インターの北方に聳える木ノ宗山に築かれた城砦である。
【写真左】木之宗山城遠望
 西麓の木の宗山憩いの森公園側から見たもの。

 西麓には細い道ながら南北に走る道路があり、その道路の西側にはご覧の公園がある。車はここに停め、そこから歩いて道路を横断し、登城口から向かった。

 なお、この道路はせまく急カーブが多いが、地元では近道として利用度が高いのか、頻繁に車が往来する。



 現地の案内板より

“ 木の宗山城は、木の宗山の山頂を中心に東西に伸びる尾根の上に築かれていました。
 城兵がたてこもったり建物を建てたりする平らな地面を「郭」といいますが、城内にはそれが25か所あります。また敵の動きを封じるため、尾根を切った「堀切」と呼ばれる空堀も数か所設けられ、しっかりと守りを固めていたことがわかります。
 このように山頂や尾根を利用して築かれた城を「山城」といい、戦国時代ころまでに多くみられた城の形です。

 なお、この城の城主として戦国武将・吉川興経や奥西綱仲の名が古記録にみえますが、詳細については明らかでありません。
  広島市”
【写真左】木の宗山ハイキングコース案内板
 登城ルートは左図のように3通りある。この図は下方が北を示し、この日は同図の右(現在地)という所から向かった。
【写真左】登城口始点付近
 整備されているのは前半の登城道だけで、後半は結構体力を消耗する。
 この位置から本丸まで約1キロの表示がある。



吉川興経

 木之宗山城の城主として吉川興経の名が残る。

 吉川興経については、以前小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)や、吉川元春館跡(広島県山県郡北広島町海応寺)日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)などでも紹介したように、安芸吉川氏の10代当主であったが、毛利氏と尼子氏の間をめぐって度々鞍替えしたため、最期は元就の手によって打果された武将である。
【写真左】展望広場(郭)
 登城途中には展望広場という箇所が2か所あるが、この写真はそのうち最初の場所。

 おそらく当城の西を扼する物見櫓などがあった郭だろう。

 奥には木之宗山城の頂部が見える。なお、この写真の右を降ると、銅鐸・銅剣が出土した箇所に至るが、この日は省略した。



 天文19年(1550)、興経が殺害される前に幽閉されたのが、この木之宗山城の麓・深川である。興経の母は元就の異母妹であり、おそらく当初元就は殺害までは考えていなかったのであろう。代々続いた安芸吉川氏の最後の居城・日野山城には、本来ならば興経が入る予定であった。
【写真左】直登の急坂道
 展望台後半の道はご覧の通り、急坂で岩が多くなる。一気に登ると息が切れるので、何度も休憩をとりながら進む。




 しかし、元就は興経のこれまでの行状を考慮し、これ以上本拠地である安芸山縣に据え置くことは得策ではないと考えたのであろう。

 併せて、西の守りを固めるためには、次男・元春が吉川氏を継ぐべきと考えたものと思われる。
【写真左】広島市街地・広島湾を見る。
 キツイ坂道だが、途中でこうした光景が眼下に拡がる。

 南西方向を見たもので、奥に見える海は広島湾で、中央には似島・江田島などが見える。
【写真左】さらに険しい急坂が続く。
 登城した最近の山城の中ではもっとも傾斜がきつい。
 麓から見ると、なだらかな山に見えていたが、実際は全く違う山である。

 管理人は体質的に大汗をかくため、最低でもペットボトル3本は常備しているが、この日はすべて飲み干した。
【写真左】主郭・その1
 やっとたどり着く。西側一画には7,8m四方の規模を持つものがあり、東側一画にも、一段下がった郭がある。
【写真左】説明板
 モノが当たったのか、2か所に穴が開いているため、分かりづらいが、この図でいえば、左側から登ってきたことになる。

 遺構としては、めぼしいものはないが、主郭から東に向かうと、まとまった郭が配置されている。
【写真左】主郭・その2
 東側にあるもので、西側との境にはご覧の大きな石が不揃いに残る。

 当時これらは石積されていたものかもしれない。
【写真左】主郭・その3
 東側からみたもの。
【写真左】主郭東端部から東に向かう犬走り
 主郭から東にはまとまった郭があるが、そこへ向かうには主郭南東部から犬走り状の道がある。
【写真左】主郭東面の切崖
 振り返ってみたもので、この位置から主郭までの比高差は約8m前後ある。
 さらに東に向かう。
【写真左】堀切
 遺構としてはこの堀切がもっとも明確に残る。


【写真左】郭群
 東に伸びる尾根に配置されている。多少の起伏はあるが、奥行は大分長く150m前後はあろうか。
【写真左】北西方面を俯瞰する。
 再び主郭にもどって広島市街地を見たもので、北西方面を見たもの。

 中央を流れる川は太田川で、右側の小丘は安芸・八木城、左側の丘には安芸・恵下山城が見える。



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