2014年1月21日火曜日

久礼田城(高知県南国市久礼田字中山田)

久礼田城(くれだじょう)

●所在地 高知県南国市久礼田字中山田
●築城期 不明
●城主 久礼田定祐
●高さ 168m(比高130m)
●指定 南国市指定史跡
●遺構 空堀、土塁、郭その他
●登城日 2013年12月25日

◆解説(参考サイト『城郭放浪記』等)
 高松方面から高知自動車道を南下していくと、南国ICの手前で、谷を隔てた左手に段差の多い丘陵地を使って造られたゴルフ場(パシフィックゴルフクラブ)が見えてくる。
【写真左】久礼田城の空堀と土塁
 当城の見どころの一つである。












 南北に伸びた高知自動車道は、距離は短いものの、上下とも40本前後というトンネルだらけの道で、後半の土佐山田町(香美市)にある曽我部トンネルを抜けると、やっと解放された気分になる。

 この辺りから道は南進から西進へと少し向きを変え、このゴルフ場を含めた丘陵地はいわば間口となって、次第に大きな開口部を見せ始め、東西に広く伸びた高知平野と、天気のいい日には土佐湾を介した太平洋の大海原(おおうなばら)が迎えてくれる。

【写真左】久礼田城南麓から広がる高知平野
 南南西の方向を俯瞰した景観で、おそらくこの中に長宗我部氏居城の岡豊城が入っていると思われる。
 その奥に見える地平線の先は土佐湾。

 
 さて、件のゴルフ場に山城・久礼田城があることは知っていたが、当城に登城するためにはゴルフ関係者でないと入場できないだろうと半ばあきらめていた。その後、しばしば参考にさせていただいている桁外れの登城記録を持つサイト・「城郭放浪記」氏の投稿によって、部外者でも立ち入ることができることが分かった。いつもながらの感謝である。
【写真左】ゴルフ場から見た久礼田城
 ゴルフ場の駐車場に停めて、すぐに向かうことができる。
 登城口はこの写真の左側にある。




現地の説明板より

“久礼田城跡

 久礼田氏の先祖は、長宗我部氏と同じ秦氏であるといわれ、長宗我部三代忠俊の弟忠孝が分かれて久礼田に住み、久礼田氏を名乗ったのが始まりとされているが、定かでない。築城年代も不明である。しかし、城跡は往時のままに残され、中世の山城の原型を今によく伝えている。

 元親の時代になって久礼田城の城主として久礼田定祐が登場してくる。久礼田定祐は、元親とは一族の間柄でもあり、元親の信頼も厚く重臣として活躍したことがうかがえる。
【写真左】縄張図
 下方が北を示す。
およそ長径100m×短径50m程度と小規模な城砦であるが、周辺部がほとんどゴルフ場のため改変されているので、当時はこの周りにも多数の郭などがあったものと思われる。



 長宗我部検地帳によると、久礼田氏は、455筆、39町6反20代4、5分の土地を給され、久礼田村の検地地積70町のうち過半数を領し、近隣にもかなりの土地を所有している。また定祐は「土佐物語」や、「元親記」の中に連歌の上手、和歌の達人とも記述されている。

 長宗我部元親は、天正2年(1574)土佐一条家4代兼定を豊後に追放したのち、その子内政を大津城に迎え、自分の娘を内政の妻にした。そして、大津城で政親が生まれた。のち天正8年(1580)の波川玄蕃による謀叛に加担した疑いにより、元親は内政を伊予に追放した。
【写真左】登城口付近
 北端部にあり、左側にある説明板の横から登っていくが、すぐに城域に入る。







 元親は一条家の家督を継いだ幼い政親を久礼田定祐の一族に養育させた。母と共に久礼田に移り住んだ政親は「久礼田御所」と呼ばれた。館は現久礼田小学校の敷地、中の土居と呼ばれるあたりだったと伝えられている。政親は慶長5年(1600)長宗我部氏の滅亡によって、20年を過ごした久礼田から京か大和に退去したといわれているが、消息は不明である。久礼田城の歴史と共に土佐一条家もここに消え去った。
【写真左】土塁と空堀・その1
 登るとすぐに土塁と空堀が控えている。北側面はこうした空堀と土塁を駆使して次第に登り勾配となっている。

 このまま時計方向(左方面)へ進み、先ず二ノ段に向かう。


 久礼田城は標高168mの山頂に、卵型の相当広い詰めの段があり、その西と南に狭長な腰曲輪がある。さらにその東から北にかけて、空堀や堀切が確認される。
 詰の段の下には二の段が築かれ、共に塁跡が囲んでいたとおもわれる。久礼田城は、詰めを中心に部分郭が隣接する連立式山城で、中規模クラスの相当堅固な構えであり、戦国動乱期には本山氏の南進を拒む重要な役割を担っていた。
【写真左】土塁と空堀・その2
 一般的な山城の空堀はかなり埋まっているものが多いが、久礼田城は当時の状況に近いものを残している。

 深さは高いところでは5m位あるだろうか、見ごたえがある。
 写真の右側には二ノ段が控えている。


 久礼田寺山の在天寺跡の近くに久礼田定祐夫妻の祠が残されて、位牌が安置されている。定祐の位牌には、天正6年戌寅2月13日卒去 戒名 法号『在天定祐禅定門』と記されている。

 久礼田城跡は、久礼田部落とパシフィックゴルフ場の援助によって保存されています。なお今回の整備は「高知NPO地域社会づくりファンド」の助成によるものです。

  平成23年1月”
【写真左】二の段に向かう。
 土塁の天端を進んでいくと、このエリアの空堀は終わり、少し下がってから再び上に登っていくと二ノ段に向かう。

 なお、この位置は東の角に当たるところで、左側に二条の竪堀遺構があるということだったが、木立に囲まれて明瞭でない。

土佐秦氏

 説明板にもあるように、久礼田城の城主久礼田氏の祖は、長宗我部氏と同じく土佐秦氏の流れを組むという。

 土佐秦氏は、その名が示す通り中国始皇帝秦王朝という古代支族が源流となり、大和飛鳥時代に至って秦河勝が聖徳太子の任を受け、蘇我馬子が物部守屋を倒した際、その武勲によって信濃国に領地を宛がわれた。これが信濃秦氏の始まりで、その後信濃更級にあった秦能俊が土佐国に入り、長宗我部能俊と名乗り長宗我部の始祖となったといわれる。
【写真左】二ノ段
 左側の主郭との間には浅い堀が巡らされている。5,6m四方の規模で北側を扼する位置になる。

 なお、二ノ段の北西端からは、土塁が主郭北側まで約40m伸びている(下の写真)。
【写真左】二の段から主郭北側に伸びる土塁
 この辺りの堀は浅いものとなっているが、当時はもう少し深かったものと思われる。





 長宗我部の姓は、当時あった土佐国岡郡宗我部の地名から来たものといわれているが、確証はない。

 また土佐国に入った時期についても諸説紛々である。
 古いものでは、延久年間(1069~73)ごろ、さらには保元の乱において敗れて讃岐に配流された崇徳天皇(崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)参照)に属した者の一部が土佐国に入ったという説や、さらに下った鎌倉期の承久の乱において、後鳥羽上皇に与した仁科氏を当地(信濃国)で降した際、その功によって土佐国地頭として下向したという説などが挙げられている。
【写真左】詰ノ段・その1
 いわゆる主郭となる箇所で、中央部平坦地の規模はさほどないものの、周囲を取り巻くなだらかな土塁部も含めると、長径25m×短径20m程度は確保されている。




一条内政(ただまさ)

 土佐一条氏についてはこれまで度々取り上げてきているが、前稿波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)でも触れたように、長宗我部元親が一条氏の領地であった土佐西部である幡多郡・高岡郡を凌駕しつつあったころ、一条兼定は長宗我部氏と最後まで一戦を交えようとしたが、利あらずとみて、和睦を勧めていた家臣らによって隠居させられ、代りにその子・内政が家督を継いだ。その処置の裏では当然ながら長宗我部氏の意向が働いている。
【写真左】詰ノ段・その2
 虎口付近の箇所で、西側の土塁は特に高く構成されている。







 隠居を余儀なくされた兼定ではあったが、その後復権をめざし舅であった豊後の大友宗麟(臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)を頼るべく豊後水道を渡った。

 宗麟は婿である兼定を後押しすべく、地元豊後の水軍(浦辺水軍など)に命じて渡海させ、さらには南予で兼定に味方する法華津氏・御庄氏らを糾合、天正3年(1575)7月、当時渡川と呼ばれていた四万十川において兼定軍と、長宗我部軍が激突することになる。
【写真左】詰ノ段・その3
 当該郭の片隅には「久礼田城」の石碑が設置されている。








 戦いは渡川を挟んで、西岸に一条氏側が3,500、東岸には長宗我部軍が7,300余騎の陣を構えた。戦力に勝る長宗我部軍は、寄集めで指揮系統も乱れがちな一条氏軍をわずかの期間で打ち破ったという。

 こうして兼定まで続いた土佐の公家大名・一条氏は、事実上の没落を余儀なくされた。その後、元親は説明板にもあるように、娘を内政に嫁がせ、長宗我部氏の居城・岡豊城(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)から南に約4キロ下った大津御所(大津・天竺城(高知県高知市大津)参照)に入れ置き、代わりに実弟吉良親貞を一条氏の居城であった中村城に入城させた。
【写真左】詰ノ段から南方を俯瞰する。
 久礼田城は標高170m弱の比較的低い山城だが、眺望は頗るよく、展望エリアが広い。

 このことから東方の安芸氏などと戦っていたころは、岡豊城の物見櫓的役目があったものと思われる。


 これらの処置がほぼ完遂したことにより、元親は土佐国を平定し、その後阿讃方面への侵攻が始まることになる。

 ところで、大津御所に入った内政であったが、前稿波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)で紹介した波川玄蕃が長宗我部氏に対し謀叛を企てた際、この内政も加担したと嫌疑をかけられ、伊予に追放された。

 元親は、敵対する一族には徹底的に誅滅する手法をとっている。他の戦国領主は硬軟織り交ぜ、武力・調略・和睦などといった手法をとっている場合が多く、敗れた者でも能力のある武将は被官として召し抱え、戦力として使っていった。しかし、元親には長宗我部氏一族のみが信頼たるものと見ていた節がある。
【写真左】パシフィックゴルフ場
 久礼田城の位置はゴルフ場の入口付近にあり、主郭(詰ノ段)からは、東方に向かってゴルフ場が伸びている。

 おそらく場内の頂部にも物見櫓的な遺構があったかもしれない。


久礼田城の位置

 冒頭でも紹介した通り、当城の位置は南国土佐の平坦部に差し掛かる入口付近にあたるが、添付写真にもあるように、長宗我部氏の居城・岡豊城の北方に位置している。

 元親が後に阿讃攻めを行う際、阿波の白地大西城(白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)参照)に在陣することになるが、その往来として現在の徳島北街道(R32 )が使われたと思われ、久礼田城はおそらく岡豊城の補助的な役割を担ったものと考えられる。
【写真左】帯郭
 詰ノ段の南端部隅から急傾斜の道を降りていくと、東側から回り込んでいる帯郭に至る。

 この郭はこのままぐるっと詰ノ段を囲繞しながら、最初の登城口まで伸びる。
【写真左】空堀と土塁
 当該遺構部で最大の規模を誇る個所で、空堀底部から詰ノ段までの比高は20m以上あるものと思われる。

 この写真では右側が詰ノ段切崖、左側は巨大な土塁となった箇所。

 なお、この箇所手前にはさらに低くなった箇所に小規模な郭が堀を介して残っているようだが、木立に囲まれ明瞭でない。

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