2013年6月28日金曜日

鷹の条山(広島県広島市東区福田町 市森林公園)

鷹の条山(たかのじょうやま)

●所在地 広島県広島市東区福田町 市森林公園
●高さ 438m
●備考 再現された山城
●登城日 2013年3月11日

◆解説
 本ブログで取り上げている城砦は、歴史的にも実際に遺跡として残るものを取り上げてきているが、今稿では番外編として、戦国期築城された山城を再現したものを紹介したいと思う。

 ところで、近世城郭などでは全国にも模擬天守で再現された城館などは多くあるが、鷹の条山(城)は、「山城」を再現した全国でも珍しいものである。
【写真左】鷹の条山遠望
 右側に模擬櫓(展望台)が設置してある。







 所在地は、広島市東区の福田というところで、広島市森林公園の一角にある。同公園には「昆虫の森」「ピクニックの森」「子供の森」などといった親子で楽しめる施設がまとまって設置され、そのうちの一つが「山城展望台」を中心として再現された鷹の条山である。
【写真左】ハイキングコース案内板
 麓にはご覧の案内板が設置してある。
 ※この地図は左側方向が北を示す。

 この付近は、呉娑々宇山(ごさそうざん)・高尾山といった地元登山者にかなり人気のある山があり、鷹の条山はそれらの山並みの北側に突出した山である。

 なお、この地図には描かれていないが、鷹の条山の北麓には東西に走る山陽自動車道と、広島湾方面に向かう広島高速1号線が交わる広島東ICがある。


 現地の説明板より

“毛利元就時代の山城を再現
      (広島市森林公園山城展望台)
 この山城展望台は、戦国時代の智将毛利元就が活躍していた頃の山城を時代考証し再現したものです。
【写真左】第一駐車場から遠望する。
 ここまで専用の道路が設置され、車でたどり着けるが、この日は閉門直前だったこともあり、下のゲート脇にあった空き地に車を停め、30分程度かけてここまで登ってきた。


 元就時代の中世の山城は、山の頂上付近を段々畑状に造成して築かれ、その一つずつの壇を曲輪といいます。山城は一般に数個の曲輪でできており、要所には掘立柱で建てた小屋や木の柵が配置されていたようです。

 広島城のように平野に築かれた近世の城郭は、広い水堀・高い石垣・壮大な天守を構え、城内には城主が居城する御殿も設けられていましたが、元就の時代には石垣や天守はありませんでした。
【写真左】再現された絵図
 少し暗い彩色のためわかりずらいが、雰囲気は出ている。





 こうした山城は、平時は少人数の番兵を置くだけで、敵の大軍が来攻した有事の際にだけ城主以下多くの城兵が籠城したようです。

 この山城展望台には、自然の地形を生かしながら、中世の山城の雰囲気が感じられるよう山頂部に甲丸(つめのまる)を、少し下がった場所に二の壇、三の壇、番小屋を設け、周囲を柵で囲い、出入口には、櫓門、冠木門(かぶきもん)を配置しています。
     平成9年 広島市”
【写真左】番小屋
 現地の説明板より












“番小屋
 中世の城郭を発掘すると、掘立柱の小屋がいくつも出てきます。番兵の居所・武具や兵糧の収納などに使われ、屋根は薄い板を用いた柿葺(こけらぶき)、壁は土壁で、内部は竹製の低い簀子(すのこ)敷となっていたようです。
 杮葺の屋根の上面に横桟を打つのは、元就の時代に広島県西部で使われた古い手法です。  平成9年 広島市”

 
 中世山城を理解するには、これまで紹介してきたような、本当の山城を実際に登城・探訪することが一番いいかもしれない。しかし、鷹の条山のように、親子・家族で森林や昆虫なども含めた自然に接する施設の中に、こうした模擬的な歴史遺跡サンプルを併設していることは特異であり、面白い試みである。

 そして、特に子供たちに近世城郭とは別に山城に興味を持ってもらう試みとして、さほど体力的にも負担をかけない比高でもあり、大人の初心者などにもいいサンプルになるのではないだろうか。
【写真左】甲丸(つめのまる)・その1
現地の説明板より











“甲丸

 山頂にあり、山城の中心となる曲輪です。近世以降は本丸と呼ばれましたが、毛利家の外交を努めた安国寺恵瓊は、広島城本丸を「甲丸」と記しています。

 当時は掘立柱の二階楼の建物で、階上には板の垣立(かきたつ)が巡らされていたようです。中世の絵巻物『秋夜長物語絵巻』には、そのような櫓が描かれています。
【写真左】甲丸(つめのまる)・その2



 近世の城郭では、石垣上に建つ瓦葺の立派な櫓に発展しました。この公園では、中世の櫓の面影を持つ展望台として建てられています。  平成9年 広島市”

【写真左】甲丸から二ヶ城山を見る。
 写真中央の山が二ヶ城山(483m)で、名前から察するに山城と思われるが、詳細は不明。
【写真左】広島東ICなどを見る。
 手前の樹木で遮られているが、北麓を見たもの。
【写真左】麓の石碑
 下山したとき、たまたま目に留まった石碑で、甲斐の武田信玄家老の末裔と刻銘されている。以下抄出しておく。

“武田信玄家老
一世和田氏次郎左衛門源之丞
右乃人ヨリ武田ヲ出当村小右山長円寺龍謄院ト申真言寺エ洛入其後福島氏乃代ニ百姓ニ相成明治五年姓を小川と改ム。以下略”

2013年6月26日水曜日

真庭市の宝篋印塔(岡山県真庭市田口)

真庭市宝篋印塔(まにわしのほうきょういんとう)

●所在地 岡山県真庭市田口
●種別 古墓
●形態 宝篋印塔
●建立期 不明
●指定 真庭市指定文化財 建造物
●探訪日 2011年8月5日

◆解説
 前稿まで紹介してきた出雲街道(国道181号線)沿いに、真庭市の文化財として指定を受けた宝篋印塔がある。
 所在地の位置については、あまり自信がないが、前々稿麓城から181号線を真庭市役所方面におよそ4キロほど南下した田口という場所である。
【写真左】宝篋印塔と五輪塔・その1












 道路の西側には太井ノ坂集会所があり、181号線は少しカーブして、その両側に東西を横断する旧道が走る。おそらくこの道が出雲街道ではなかったと思われる。

 宝篋印塔は、このうち東側に延びる旧道と181号線に挟まれた幅20mほどの丘状になった位置に建立されている。

 181号線を普通に走っているとなかなか分かりずらいが、秋から冬にかけた時期になると、周囲の樹木が枯れて、その隙間から一部を見ることができる。
【写真左】宝篋印塔と五輪塔・その2













 規模は高さ2m余りのもので中規模だが、特徴的なのは、中央部の「塔身」部に仏像が彫られていることである。今までこうしたものは見たことがなく、実に珍しい。

 宝篋印塔の傍らには、小規模な五輪塔が6~7基付き従うように並んでいる。おそらく殉死した家臣たちのものだろう。
【写真左】塔身部
 四面とも仏像が彫られている。
【写真左】周辺部
 写真中央部上に宝篋印塔が見える。

 下の道が旧出雲街道と思われる。手前に100m程度戻ると181号線に繋がり、逆にこの道を向うへ下っていくと、一旦新庄川を渡り、おそよ1キロほど進むと、再び181号線に繋がる。



首切峠

 ところで、この宝篋印塔のある個所から麓城のある美甘方面に2キロほど下っていくと、「首切峠」という箇所がある。

 初めて通った時、その名前に少なからずショックを受けたことを覚えている。その峠は、現在の181号線から少し逸れて、今ではあまり使われていないような細い道だが、この峠も当時の出雲街道のルートだったと思われる。
【写真左】この道を美甘方面に進むと「首切峠」に繋がる。











 この峠の由来については二つの説があるという。

  1. 江戸時代中期に勃発した美作地方における「山中一揆」という農民一揆で、多くの農民がこの場所でさらし首になったというもの。
  2. 戦国期における高田城主・三浦氏と出雲の尼子氏の戦いで、この地が古戦場となり多くの首級が残ったというもの。
 2.の説でいけば、本稿の宝篋印塔がすぐ近くにあることから、例えば「首切峠」で斬首、又は自刃した名のある武将が後にこの田口にある場所で手厚く葬られたとも考えられる。
 1.の「山中一揆」については、美作地方でかなり広範囲に拡がったもので、同国にはこのほか数か所に慰霊碑や墓などが残る。

2013年6月25日火曜日

沢城(岡山県真庭郡新庄村)

沢城(さわじょう)

●所在地 岡山県真庭郡新庄村 新庄村役場
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 吉田修理
●形態 平城
●高さ 標高480m(比高0m)
●登城日 2013年6月10日

◆解説
 前稿麓城で紹介した新庄村にある平城である。
【写真左】沢城跡・その1
 遺構は消滅し、跡地附近には幼稚園(保育園か)や、役場の付属設備などが建つ。







現地の説明板より

“沢城跡

 戦国時代の頃は、この辺り一帯は沼であり、ここに沢の城がつくられていた。
 戦国時代には、珍しい平城であり、三浦・高田(勝山)の出城であった。

 出雲の尼子の軍勢は四十曲峠を越えてここを襲撃したのである。時に天文17年(1548)のことであり、その時ここは落城したのである。
 最後の城主は吉田修理という。落城後のことは不詳である。”
【写真左】説明板










 所在地である新庄村は、美作国(岡山県)の北西端に位置し、伯耆国および備中国とも接する地域で、戦国史的にいえば、この辺り全体が境目の要衝といえる箇所でもある。

 近年の市町村合併の流れの中、小規模ながら自立自治体としてあえて合併をせず、村民人口わずか1,000余人ながら、独自の自立自治体として改めて歩み始めている。村の面積67K㎡に対し、林野面積が61K㎡であるから、ほとんど山の村である。

 前稿麓城(岡山県真庭市美甘)でも紹介したように、この村の南方を東西に走るのが旧出雲街道である。
【写真左】沢城跡・その2
 周辺部は田圃や建物が建っている。
 役場周辺は現在でも低地にあるため、当時は湿地帯のような箇所に沢城が築かれていたものと思われるが、形態を考えると館(やかた)跡の可能性が高い。そして、天然の水濠を四周に巡らしていたものと思われる。



沢城の落城期

 現地の説明板にもあるように、天文17年に出雲の尼子氏が四十曲峠を越えて襲撃、落城したとある。そして、最後の城主が吉田修理と記されている。

 ただ、前稿麓城でも述べたように、尼子氏がが初めて美作国に攻め入ったのが、永正17年(1520)で、しかも天文元年(1532)には、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1が尼子晴久によって攻められ、高田城主三浦貞国が戦死しているので、沢城が落城した最初の時期はこのころと思われる。
【写真左】歴史民俗資料館
 おそらくこの辺りも沢城があった場所と思われるが、江戸時代中期の建物を復元した入母屋造りの資料館が建っている。
 民具などが約500点収蔵展示されている。




 その後尼子氏の脅威に晒されながらも、三浦貞久の活躍によってしのいでいる(一説には、一時的に尼子氏の麾下にあったというのもある)。

 しかし、その貞久が天文17年(1548)に病死すると、その喪に乗じ尼子の将・宇山飛騨守久信が沢城のある新庄村及び美甘の麓城などを攻め落とし、さらに高田城を攻め、貞久の子・貞勝は岩屋城(岡山県津山市中北上)・その1に逃れた。

 そのあと尼子氏が支配し、永禄2年(1559)ごろ再び三浦貞勝が高田城を家臣らの働きによって奪還し、貞勝が高田城に入るので、現地にある最後の城主吉田修理とは、尼子氏の部将と思われる。
【写真左】五輪塔
 沢城跡から東に約100mほど向かった田圃の脇に墓地があるが、この中に五輪塔が数基建立されている。
 おそらく、沢城に関係した武将のものだろう。
【写真左】墓地側から沢城跡を遠望する
 沢城の西側及び、北側の小丘部には2か所の城砦があったとされている。おそらく当城の支城の役割を持ったものだろう。



愛宕山

 新庄村は「がいせん桜」で有名になったが、この新庄の宿場の街並みから少し南に逸れて、切り立った山に愛宕山という現在では公園化した場所がある。
【写真左】愛宕山遠望
 麓の家並みは新庄の旧宿場街












 由来などは解らないが、この山の展望台に立つと、出雲街道の東西往来を俯瞰することができる。もちろん、沢城のあった役場も眼下に見える。
【写真左】愛宕神社本殿
 現在山の中腹部に建立されているが、往時はもう少し上に登った所に祀られていたのかもしれない。
【写真左】愛宕神社から新庄の街並みを俯瞰する。
 がいせん桜は町の中を走る旧出雲街道沿いの両脇に植わっているが、最近これとは別に新庄川沿いにも新たな桜が植えられ、多くの観光客を招いている。
【写真左】新庄川と土手の桜並木













 このことから、この場所は物見台もしくは、砦的な機能をもった場所ではないかと想像される。それを裏付けるものかどうかわからないが、写真で示したように、麓に五輪塔が一基祀られていた。
【写真左】小さな五輪塔
 愛宕山の北側斜面は急傾斜のため、現在は東西に長く崩落防止のための側壁が設置されている。






後鳥羽上皇旧跡
 
 ところで、戦国期の話から大分遡る話になるが、承久の乱において隠岐へ配流となった後鳥羽上皇が、この地(新庄村)を通ったとする史跡がある。
【写真左】現地の案内板










 現地の説明板より

“後鳥羽上皇旧跡
 承久の乱によって後鳥羽上皇は隠岐の島へ配流となり、承久3年(1221)7月13日に、都を出発されここを通られました。

 美作と伯耆の境であるこの地で休息され、遥か向うの山に細い道を見られました。お側の者が、あれは都へ通った古い道で、今はだれも通りませんと申し上げると、都の熱い想いを、歌によまれたというところです。
 付近には上皇ゆかりの伝説をもつしだれ栗、硯岩があります。”
【写真左】御水池
 後鳥羽上皇が立ち寄って飲んだといわれる箇所。










 この位置は、現在の181号線から北に少し逸れ、四十曲峠の北側の谷間になる。当時はこのコースが出雲街道として使用されていたのかもしれない。
【写真左】周辺部
 少しさみしいような箇所だが、秋になると紅葉が楽しめる(2007年11月探訪)。

2013年6月21日金曜日

麓城(岡山県真庭市美甘)

麓城(ふもとじょう)

●岡山県真庭市美甘
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 三浦忠近
●高さ 513m(比高140m)
●遺構 郭・堀切・井戸跡等
●登城日 2013年4月19日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 麓城は、現在の国道181号線、すなわち出雲街道が走る旧真庭郡美甘村美甘に所在した山城である。
【写真左】麓城遠望
 南側から見たもので、左側は伯耆・出雲方面、右に行くと美作・高田城へ向かう。
 この日登城した箇所は、写真の反対側すなわち、出雲街道から北の蒜山方面に走る447号線(県道か)脇から登った。


出雲街道

 古代の飛鳥・奈良時代よりこの道は出雲国から都へ往来する道として使われ、特に山陰から山陽に抜ける道としても利用された。
 中世・戦国期尼子氏が美作・備前・播磨に進攻する際も度々軍道としても利用されることになる。

 最大の難所となる峠は、鳥取県日野町と、岡山県新庄村の境をなす四十曲峠で、伯耆国と美作国との境でもある。現在の米子自動車道ができる前まで、この峠を持つ国道181号線が利用されてきたが、冬期になると度々大雪のため通行止めが行われた。
【写真左】登城始点
 この日探訪した際、麓城を含むこの山全体が大掛かりな伐採作業が行われていたため、直登できそうな箇所もあったが、邪魔になってはいけないと思い、北側に回り込んで尾根伝いから南下するコースを選択した。


 さて、麓城のある美甘は、「ミカモ」と呼称するが、四十曲峠のある新庄村を過ぎると、すぐにこの麓城にたどり着く。

 戦国期における当城の城主は、ここからさらに新庄川を下り、旭川と合流する地点で現在の真庭市役所にある美作・高田城(勝山城)(美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1参照)の城主三浦貞明の次男・忠近といわれている。
【写真左】一条目の堀切
 城域からおそよ300m程度北側に逸れた箇所から向かったため、途中から藪コギ状態となり、随従の連合いと四足の供を一旦下山させ、一人で向かった。

 最初に現れたのが、三条の堀切の内の一つで、大分埋まっているが原形は確認できる。


尼子氏の美作侵攻

 このことから麓城は、美作・高田城の支城の一つであり、特に伯耆・出雲国からの侵略を防ぐ前線基地の役割を持った城砦であった。

 美作・高田城の稿でも述べたように、尼子氏が本格的に美作に攻め入った時期は、天文元年・享禄5年(1532)である。西美作の中心地である高田城は、三浦氏が本拠とし、このころ尼子氏に抗戦した諸城は、今稿の麓城をはじめ、津山市の神楽尾城、同市吉見の医王山城、美咲町の稲荷山城、奈義町の細尾城などである。

【写真左】二条目の堀切
 二番目の堀切で、尾根幅10mはあるだろうか。

 深さ3m前後。
【写真左】三条目の堀切
 三番目の堀切で、当城で最大規模のもの。

 麓城そのものは小規模な城塞だが、この堀切は見ごたえがある。


【写真左】三条目の堀切底部から見上げる。
 整備されていないため、写真ではわかりにくいが、比高差約8m前後あるだろうか、手ごたえ、いや、「足ごたえ」十分な堂々たる堀切である。

 ここから強引によじ登っていく。足に草のツルがまとわりつく。


 『日本城郭体系第13巻』でも記されているように、城主・三浦忠近は尼子氏の攻撃に抗戦するも、落城し、忠近は自刃したとされ、その時期は天文年間(1532~55)とされている。

 特定した時期がこれでははっきりしないが、尼子経久が備中・美作の戦況を近江国の浅井亮政小谷城(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)に、報告した文書『江北記』が、天文5年(1536)12月26日付で出されているところを見ると、おそらくこれ以前と思われる。

 ただ、次稿に予定している新庄村にあった「沢城跡」にある説明板には、当城を襲撃したのが天文17年(1548)、と記されているので、この説と合致しないが、このことについては次稿で述べたいと思う。
【写真左】本丸・その1
 堀切をよじ登ると、本丸に出る。
東西40m×南北最大幅18mの規模で、堀切は南北に連続しているが、この本丸からはL字状になって東に伸びている。

 南側には東西に10~15m程の土塁の高まりが残る。
 ここから、さらに東の段へ進む。
【写真左】中央部の郭
 西端部が本丸となっており、ここから東へ徐々に下がって郭段が続く。

 このあたりから急に整備され綺麗になっている。
【写真左】下の郭
 先ほどの郭を東に進むと、比高5m前後低くなった郭が見える。

 この付近から伐採用の重機の音が聞こえてきた。
【写真左】下から見上げる。
 東西に延びる郭の両側は天然の切崖となっており、斜面には加工のあとは見えない。
【写真左】東端部の郭
 この場所で伐採作業をしている人に出くわす。

管理人が下から上がらず、上から突然現れたものだから、驚かれてしまった。

 東麓部から伐採・搬出のため、重機でどんどん斜面に運搬道路が上の方へ伸びながら造られていく。そして、東端部の郭跡の直前まで来ている。

 作業員の方は、この山が山城であることは知らなかったという。事情を話し、麓城の遺構について、即席ウンチクを垂れたところ、結構興味を持っていただいた。

 そして、この箇所から上が麓城の重要な遺構部であることを説明した。幸い今回の伐採作業は、この地点までが運搬道路としての終点であること、またこれから上の方も間伐して、遺構部の見晴しもよくなるだろう、ということだった。


 おそらく、今回の作業のために造った道路(林道)は、今後麓城の登城道として再利用できると思われる。ただ、くれぐれも遺構部が伐採作業等のため、改変されないことを祈りたい。

2013年6月17日月曜日

杉山城(岡山県浅口市鴨方町大字小坂東)

杉山城(すぎやまじょう)

●所在地 岡山県浅口市鴨方町大字小坂東
●別名 要害山城
●築城期 建武年間
●築城者 小坂越中守
●城主 細川道董・河田紀伊守睦長、小坂宗右衛門経通
●高さ 226m(比高150m)
●遺構 本丸・出丸、馬場など
●備考 軍神社
●登城日 2013年5月11日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『「備前物語・宇喜多秀家」津本陽著、サイト『城郭放浪記』等等)

 杉山城は前稿経山城(岡山県総社市黒尾)でも紹介したように、元亀2年2月、宇喜多直家が尼子再興軍とともに攻め入った城砦である。
【写真左】杉山城遠望
 南方からみたもので、頂部はご覧の通り二つの峰を持ち、おそらく左側が出丸で、右(実際には奥になるが)に本丸跡があったものと思われる。



 所在地は、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)から直線距離で約2キロ北方にある小坂東という地区で、今回登城始点とした南麓部には宇月原地区という集落がある。

 ときの城主は、鴨山城の稿でも紹介したように、細川道董(みちただ)である。道董は、鴨山城を本城とし、周囲に支城を配置している。このうち、北東には西知山城、北西にこの杉山城を築城した。
【写真左】南側中腹部
 写真にみえる宇月原の集落は狭い道が多く、駐車できるスペースは殆どない。このため、県道脇の空き地を探し、そこに停めてから集落内の路地を進んだ。

 写真中央部には下段で紹介する「軍神社」が祀られている。


失敗した尼子式部による降伏の誘い

 このころ、備中の主だった国人領主は毛利氏の命によって、九州の大友宗麟との合戦に駆り出されていたため、この隙をついて美作側から尼子再興軍が、そして備前から宇喜多勢が侵攻してきた。

 前稿「経山城」と同じく、尼子式部は戦う前に道董に降伏を勧めている。当城に籠る細川氏らの軍勢もまた、九州への参陣のため、当然ながら手薄であった。このため、尼子式部は杉山城がすぐに陥落することを予期し、戦う前に降伏を勧めたわけである。
【写真左】軍神社・その1
 杉山城の築城期は建武年間、すなわち南北朝期といわれている。

 このころ、当社の位置はこの場所ではなく、主郭付近に祀られていたという。

 軍神社(ぐんじんじゃ)といういかにも武者の時代を彷彿とさせる名称だが、おそらく当城周辺も北朝方と南朝方による激しい戦いがあったものだろう。


尼子・宇喜多勢の攻囲

 しかし、道董は、降伏を勧めに来た尼子の使者を切り捨て、150余騎と雑兵2,000余をもって抗戦することを決断した。これに対し、尼子式部らは、当然ながら怒り、宇喜多勢と併せ7,000余騎を従え、杉山城を包囲した。細川勢は劣勢ながら果敢な反撃を繰り返し、津々加賀守・福井孫左衛門らを討取ったが、力尽き、幸山城へ奔った。
【写真左】軍神社・その2
 階段わきには「武運長久」と刻銘された石碑や、「征露紀念」という文字の入った石柱並びに、愛宕神社・毘沙門天・龍王神社などの小祠が境内に合祀されている。




毛利方備中勢、幸山城へ奔る

 この後、尼子勢は同国の国人衆らを幕下に従え、酒津城(倉敷市酒津)をも襲い、城番だった高橋玄蕃の弟・右馬充、庄九郎らも幸山城へ奔った。

 毛利氏に属し備中国で留守を預かっていた国人衆は、こうして殆どが幸山城へ逃げ込んだ。この結果、宇喜多・尼子再興軍は、幸山城に逃げ込んだ毛利方国衆との戦いを繰り広げることになる。
【写真左】崩落個所
 登城前、地元の宇月原集落の初老の方に登城道を尋ねたところ、以前はあったが現在はまったく整備されていないので、頂部(本丸)までは無理だろう、と教えていただいた。

 しかし、せっかくここまで来たこともあり、軍神社の東側に古い道らしきものがあったので、この道を進んでみた。


 幸山城の戦いについては、以前幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)でも述べたように、当城の城主であった石川左衛門尉(久式)も九州へ出陣していたため、留守を預かっていた城代・禰屋(ねや)七郎兵衛が懸命の防戦を行った。
 ちなみに、幸山城での緒戦は、浅原峠で行われ、三日の間に7度戦い、遂に禰屋七郎は尼子方へ降伏した。

 話が前後するが、前稿経山城(岡山県総社市黒尾)での戦いは、この杉山城の戦いが終わった2か月後のことである。
【写真左】採石跡・その1
 途中まで簡易舗装された古い道が続いていたので、これを頼りに向かったところ、ご覧の作業小屋風の建物があった。

 どうやら大分前までこの付近は採石場だったようだ。
【写真左】採石場跡・その2
 南東側の斜面に当たる個所だが、道はここで途切れた。
 本丸はこの写真の右の頂部付近と思われるが、ここで断念。

 帰宅してから、もう一度地図を見たところ、この箇所より北側の位置にも谷沿いに道らしきものが表示されているが、頂部の半分程度が採石されたように記されている。
 冬期だったらこの別の道を辿れば行けるかもしれない。

2013年6月15日土曜日

経山城(岡山県総社市黒尾)

経山城(きょうやまじょう)

●所在地 岡山県総社市黒尾
●別名 京山城
●築城期 天文年間(1532~55)
●築城者 大内義隆
●城主 二階堂近江守氏行・中島大炊介元行
●高さ 372m
●遺構 郭・堀切・虎口・石垣等
●登城日 2013年5月11日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『「備前物語・宇喜多秀家」津本陽著、サイト『城郭放浪記』等)
【写真左】経山城遠望
 北東部にある鬼城山ビジターセンター側に駐車し、そこから来た道を下っていくと、当城が見える。





 経山城は総社市の東方にある吉備史跡県立自然公園に向かう道の途中にあって、同公園の近くには古代朝鮮式山城とされる鬼ノ城(岡山県総社市奥坂鬼城山)がある。

 さて、経山城は元亀年間出雲の尼子氏と宇喜多勢が連合して、攻めたてた城砦である。
【写真左】宝篋印塔と五輪塔
 駐車場から登城口まで凡そ600mほどあるが、その途中の左側の高台に見える。二階堂氏または中嶋氏一族のものだろうか。






 現地の説明板より

“市指定史跡 経山城跡

 経山城は、守護大名の大内氏が天文年間に築いたといわれる山城です。天文12年(1543)に赤松春政、元亀2年(1571)に尼子晴久の城攻めがあり、天正10年(1582)の高松の役後に廃城となったと考えられます。
 城は、山頂の主郭を囲むように壇や郭、曲輪を配し、さらに石垣や石塁、堀切を備えるなど、城の形状がよく残されている山城です。

平成11年4月28日指定  総社市教育委員会”
【写真左】登城口
 道路脇にしっかりした案内板が設置されている。なお、この右に見える道路が鬼城山ビジターセンターに向かう道だが、坂道でしかも狭いため、駐車はできない。



元亀年間の尼子氏の備中攻め
 
 ところで、この経山城とは別に、以前投稿した同市内にある幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)で、元亀年間に尼子氏が当城を攻めたことを紹介している。この頃の尼子再興軍に動きについては、当稿でも述べたように、地元である出雲国においては、再興軍の勝久・鹿助をはじめとする主だった者の動きについては単発的な記録が多い。

 言いかえれば、彼らは出雲国に常駐せず、備中をはじめとして山陽側での転戦がむしろ多かったのではないかと考えられる。
【写真左】最初のピーク
 登城道はさほど険しいものでないが、一部渓流沿いを歩くので、夏場などは藪蚊などにやられるかもしれない。
 このピークから左側に回り込みしばらく尾根を進む。


 従って、今稿の経山城も幸山城と同じく、この頃再興軍が備中に転戦していたという説は信憑性が高いと思われる。その中でも元亀2年2月が最も具体的な事例で、尼子再興軍が出雲国と備中国の二手に分かれていたと考えられる。

 では、備中国における尼子再興軍はどのようなの動きをしていたのだろうか。断片的な記録しかないが、少し追ってみたい。
【写真左】城域入口付近
 この位置に至るまでも小郭らしき段が認められるが、明瞭な遺構が残るのはこの付近からである。




 永禄9年(1566)11月21日、尼子氏の居城月山富田城が落城、城主尼子義久・秀久・倫久ら三兄弟は、毛利元就に降服した。そして三兄弟は捕らわれの身となり、杵築(出雲大社)の港で、家臣山中鹿助らと最後の別れをした。その後鹿助らは畿内方面に潜伏、尼子再興のための企てを進めている。

 鹿助らが直家との接触を持ち始めたのは、翌10年の頃と思われ、そのころ京都にあった鹿助は、吉川某という使者を介し、当時備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)にあった直家に尼子再興の協力を要請している。
 これに対し、直家はのちに尼子再興の中心人物勝久が挙兵のとき、一気に毛利氏に背き、さらには次第に距離を置き始めていた直家の主君浦上宗景ともこの段階で、敵対する意志を固めている。
【写真左】北東方向に鬼ノ城を見る。
 城域に入ると、次第に視界が広がり、北東方面には古代朝鮮式山城である「鬼ノ城(鬼城山)」が見える。



 尼子再興軍と直家との密約は、この段階(永禄10年頃)では露見していなかったが、翌11年の初旬、宗景は両者の密約を知ることになる。

 直家に対する脅威と憎悪を次第に持ち始めていた宗景は、毛利氏に対し、「表裏ただならぬ直家を誅滅されるなら、自ら御先手つかまつる」と恭順の意を示した。
【写真左】北ノ郭~東ノ郭付近
 経山城はおよそ南北100m×最大幅60mとさほど大きなものではないが、特徴的な遺構が残っているとされる。

 残念ながら登城した時期がわるいため、いい写真が撮れていないが、北側から「北ノ郭」を置き、その南隣には、東西50mの間に、「東ノ郭」「中ノ郭」、そして西端部に一辺20mの正方形の主郭を置いている。
 そして、そこから南麓に向かって、「二ノ壇」「三ノ壇」を置き、東側には細長い帯郭を付帯させている。



 その後の動きについては詳細は省くが、直家が直接尼子再興軍と連携をとって動き出すのは、元亀元年(1570)である。この年の正月、再興軍の一人秋上綱平が2,000余騎を率いて、備中に入った(出典は不明だが、このとき鹿助の名は見当たらない)。秋上綱平は、神魂神社(島根県松江市大庭町)でも紹介したように、当社大宮司である。
【写真左】二ノ壇付近
 現地では南側付近がもっとも整備され、眺望も楽しめる。









 直家は事前に、尼子勝久から秋上綱平を介して、協力の要請をうけている。直家は、自ら3,000余騎を引き従い、秋上軍(尼子再興軍)と合流し、備中・幸山城を攻囲した。幸山城主・石川久貞は宇喜多・尼子再興軍の強力な攻勢に戦意を喪失し、軍門に降った。

 その後宇喜多勢は、秋上らと新見市石蟹の石蟹城に立て籠もる石賀氏や、同市唐松の甲籠城の安達氏をも攻め落とした。このころの宇喜多勢の勢いはすさまじく、さらに呰部(北房町)、上房郡の佐井田城(岡山県真庭市下中津井)の植木氏をも落とし、植木氏は宇喜多氏の麾下となった。
 佐井田城主であった植木秀資らはこの後、主として尼子方の配下となって、津々加賀守らと3,500余騎をもって、鴨方の杉山城を含め2,3か所の諸城を攻め落としていった。
【写真左】石碑
 「龍王権現」と刻銘された石碑があるが、おそらくこの箇所は「三ノ壇」の南西端にあったといわれる「虎口」付近とおもわれる。



 こうした宇喜多・尼子の動きを知った毛利元清(備中・猿掛城(岡山県小田郡矢掛町横谷)参照)は、8,000の大軍を率い、三村元親を先手として反撃を起こしたため、植木らは一旦出雲に逃れたという。

 元亀2年2月、宇喜多直家は尼子式部及び大賀駿河守と協力し、約6,000余騎を引き従え、再び浅口郡鴨方の杉山城を攻めた。

 杉山城については次稿で紹介する予定だが、当城の城主は当時細川下野守すなわち、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)主でもあった細川道董(みちただ)である。
【写真左】土塁
 南側にある三ノ壇付近には虎口跡があるが、その西側には高さ1mほどの土塁跡がある。
 






宇喜多・尼子勢による経山城攻め

 そして、この年の4月、宇喜多・尼子勢はさらに刑部郷(おしかべごう)の経山城を攻めたてた。当時の城主は、中島大炊介元行である。大炊介の始祖は二階堂為憲といわれ、毛利に与するまでは尼子の幕下にあった。このため、戦う前に尼子式部が大炊介に対し、誘降を促している。
【写真左】主郭北側
 主郭の北側には石塁のような形状を持った土塁が部分的に残っている。








 これに対し、大炊介は一応尼子氏に帰順する旨であると回答した。しかし、これは毛利氏の支援がくるまでの時間稼ぎするための方便であった。尼子式部らはこの言を信じ、一旦兵を引いた。その直後、大炊介は当時九州で大友宗麟と抗戦していた小早川隆景らに急使を送り、援軍を求めた。
【写真左】主郭
 ご覧のように余り整備されていないが、平坦部となっており、手前には二ノ壇が続く。







 その間、大炊介は経山城の防備を補強するため、突貫工事を行った。経山城の西方にある小寺村には南北三町、東西四町に渡って二重の壕を掘り、水濠を設置、二の郭には空堀、三方の矢倉門道には、落とし穴を数か所造り、城内に入る橋をすべて破壊し、一族の老若男女を城内に入れ、さらには地元の百姓らも中に入れた。文字通り長期戦覚悟の籠城戦を敷いたわけである。
【写真左】本丸跡から、南方に幸山城・備中福山城を遠望する。
 少し靄がかかっており、鮮明ではないが、両城を見ることができる。





 大炊介に騙された尼子式部は激昂し、直ちに宇喜多勢と1万の軍勢で南門から攻めたてた。しかし、大炊介の巧みな戦術によって、逆に寄せ手側に多くの負傷者を出してしまった。

 この時、特に尼子式部の率いる軍は強引な戦術がアダとなり、当初120余人が討取られ、それを見た宇喜多勢は途中から尼子勢の先手に積極的に加勢しなくなった。しかも、戦意を失っていた尼子勢に対し、大炊介は逆に敵陣に攻め込み、その結果、合計376の首級を討取った。尼子氏の完全な敗北である。
【写真左】本丸跡から、備中高松城及び、長良山城を見る。
 上記の位置から東に目を転ずると、両城が見える。
 





 因みに、この戦いでは経山城主・中島大炊介の計画的な戦術が功を奏したが、大炊介の母の働きも見事なもので、鎖帷子(くさりかたびら)に身を固め、太刀・薙刀を両手に持ちながら、女中らと昼夜問わず城中を見回った。そして城兵には飯や酒を配り、士気を高めたという。
【写真左】本丸跡から夕部山城を見る。
 今度は西に目を向けると、高梁川や夕部山城が見える。
 夕部山城は未投稿だが、備中兵乱のとき、毛利方の小早川隆景が陣を布いたといわれる。




尼子式部

 ところで、経山城や杉山城攻めを行った尼子式部という武将だが、実は主だった尼子氏一族の中にこの人物は記録されていない。

 上掲したように、月山富田城が落城した永禄9年(1566)、城主であった尼子義久・秀久・倫久は毛利氏に降服し、出雲における尼子氏はこの段階で途絶えることになる。また以前にも述べたように、三兄弟の父である晴久は、永禄3年(1560)12月24日に急逝している。

 天正6年(1578)、播磨の上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その3にて自害する勝久は、尼子再興を図る山中鹿助らに永禄11年(1568)、京都で出家していたとき、還俗させられている。情況を考えると、尼子氏を名乗る武将は、この段階で勝久しかおらず、おそらく尼子式部とは、勝久を示していると思われる。

 従って、幸山城の稿でも述べたが、現地の説明板にある「元亀2年(1571)に尼子晴久の城攻めがあり…という内容は、当然ながら錯誤であり、幸山城のものと併せて、管理主体と思われる総社市教育委員会において訂正されることを希望したい。

大賀駿河守

 彼については、以前取り上げた石見の針藻城(島根県浜田市三隅町古市場 古湊)の城主で、当城第5代の大賀道豊駿河守従大位下の事と思われる。