2013年5月11日土曜日

鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)

鶴首城(かくしゅじょう)

●岡山県高梁市成羽町下原
●別名 成羽城
●築城期 文治5年(1189)
●築城者 河村四郎秀清
●城主 三村家親等
●形態 連郭式山城
●遺構 本丸・出丸・城井戸、石垣等
●高さ 338m
●登城日 2013年4月19日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 鶴首城は、前稿まで紹介してきた宇喜多直家と戦国期の永禄年間、備中兵乱を中心として争った三村氏の居城である。
【写真左】鶴首城遠望
 北麓を流れる成羽川を挟んで、北西にある「なりわ運動公園」から見たもの。
 東西に成羽川が流れ、左に下ると高梁川に合流する。


 所在地は、以前紹介した備中松山城(岡山県高梁市内山下)の西麓を流れる高梁川を3キロほど下ると、落合という箇所で支流の成羽川が合流するが、この成羽川を西に4キロほど上った所の鶴首山に築かれている。


 現地の説明板より

“鶴首城
 ここは標高338mの山頂、中世の連郭式山城鶴首城の本丸跡である。
 平安末期文治5年(1189)、当地の地頭職となった河村四郎秀清が築城したと伝えられ、鎌倉時代以降成羽の庄の支配治政の拠点となった。
【写真左】略測図
 中央に一ノ壇(主郭)を置き、その下には西側から東側にかけて二ノ壇を取り込み、南にはさらに三ノ壇が連続する。以下南に四ノ壇・五ノ壇が、そして二ノ壇の西には小規模な郭・六ノ壇がある。
 なお、中心部から北東に向かって尾根が続くが、この位置には七ノ壇があり、その先には鞍部を経て二の丸がある。
 なお、大手側の登城ルートで最初に現れるのが、太鼓丸である。

 戦国時代の天文2年(1533)、成羽へ進出した三村家親が、この城砦を堅固に増補構築し、当城を拠点として備中制覇をめざした備中兵乱は世に名高い。永禄4年(1561)、家親・元親父子が備中松山へ進出した後、三村親成・親宣父子が城主となる。

 関ヶ原戦(1600)後、岡越前守家俊在城。大坂の陣後、元和3年(1617)に、成羽藩主となった山崎甲斐守家治の時「一国一城」の定めにより廃城となった。
 本丸(東西33m、南北23m)をめぐり、全7壇で構築されており、往時を偲ぶ貴重な史蹟である。

 平成19年(2007)3月
  鶴首城址へ登ろう会”
【写真左】登城口付近
 成羽小学校の南側に道があり、途中で鋭角に左に枝分かれした道が登城道となる。
 なお、駐車場は成羽総合福祉センター付近に広い駐車スペースがあり、道路脇には観光案内所もあり、ここで鶴首城の資料も頂いた。

 

三村氏

 鶴首城の築城者は、説明板にもあるように平安末期に当地地頭職であった河村四郎秀清とされている。ただ、この点に関しては『日本城郭体系第13巻』によると、否定的な見解が出ていると記されている。

 現在残る鶴首城の基礎を築いたのが三村氏といわれ、事実上三村氏が築城者ともいわれる。そして、当城の城主としてもっとも有名なのが、三村家親である。家親の父は三村宗親とされ、備中国人であった三村氏の一族とされる。
【写真左】太鼓丸
 登っていくと最初に現れるのが、太鼓丸である。北側に突出した奥行20m×最大幅10mの三角形の郭で、物見櫓があったと思われる。


 この三村氏は元々信濃三村氏の傍流が鎌倉時代に備中星田郷の新補地頭となって当地に在住したことに始まる。

 このため、当時この鶴首城の所在する成羽は勿論だが、初期はこの地から南方約20キロほど下った星田(現井原市美星町)を中心に支配していたといわれる。

 この星田については、以前紫城(岡山県高梁市備中町平川後北)でも紹介したように、星田姓を名乗る星田内蔵助が、戦国末期(文禄5年)、備中国川上郡平川村から出雲国仁多郡小馬木に800石で入っているが、元は三村内蔵助親貞と名乗っていたという点もでも頷ける。
【写真左】太鼓丸から眼下に成羽の町並みを見る。
 北方は勿論だが、当時は東西の視界も広かったものと思われる。





備中兵乱

  さて、備中国における戦国期中葉の争いは、以前にも紹介したように備中松山城主の上野氏を打ち破った猿掛城(備中・猿掛城・その1(岡山県小田郡矢掛町横谷)参照)主・庄氏と、鶴首城主三村氏との争いが発端になる。

 そして両者の背後にはそれぞれ出雲の尼子氏と、安芸の毛利氏が手を結んでいた。三村氏は家親の代になって毛利氏と結んで、庄氏を追いやり、鶴首城から備中松山城に移った。永禄4年(1561)のことである。このとき、鶴首城には三村親成・親宣父子が入り、城主には親成となった。

 この親成は、家親の弟(別説では甥)であるが、のちに一族から離反することになる。
【写真左】ピーク
 左に向かうと、二の丸に繋がり、右に向かうと本丸へ向かう。
 帰りに二の丸へも向かうつもりだったが、時間がなく取りやめてしまった。





三村家親暗殺

 永禄9年(1566)、家親は宇喜多直家によって突然謀殺された。家親はその頃、備前に侵入し、特に松田元賢の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)を攻略し始めていた。

 このころ陣所を弓削荘籾村(久米南町下籾)の興善寺に定めていたが、軍評定後酒を飲み、酔いがまわり寝入った家親は、直家から命を受けていた鉄砲の名手・遠藤兄弟の二連短筒によって絶命した。
 至近距離であったため、家親の頭蓋に命中、あっという間の出来事だった。同年2月5日の夜のことである。
【写真左】稲荷神社
 登城道の途中で枝分かれし、尾根上に建立されている。









 戦国期における直家のこうした行動は、今でいうテロ行為というものだろうが、目的のためには手段を択ばない調略が多くなっていく。


三村親成・親宣の離反

 さて、家親が謀殺された三村家では、あとを元親が継いだ。しかし、その後三村家にとって不倶戴天の宇喜多直家が毛利氏についたことにより、三村元親らは毛利氏から離れ、織田方につくことになった。

 しかし、鶴首城主であった親成は、この決断を不満とし、元親ら袂を分かち離反、毛利軍につくことになる。そして、毛利軍の先陣として、皮肉にも同族の諸城を攻め落としていくことになった。親成・親信父子が三村氏の諸城を攻め行ったものは次の通り。
  1. 国吉城(岡山県高梁市川上町七地)
  2. 鶴首城
  3. 楪城(岡山県新見市上市)
  4. 荒平山城(岡山県総社市秦)
  5. 備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)
  6. 常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)
  7. その他
翌永禄10年(1567)、元親は父家親の弔い合戦として、約2万の兵を引連れ、備前の明禅寺において直家と戦う。その後の経緯については、既に明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)で紹介しているので、ご覧いただきたい。
【写真左】さらに進む。
 この辺りからの登城道は、尾根の南側をほぼ直線に進むコースとなっており、途中で大きく右に旋回して、一気に高度を稼ぐ。

 この先100m進むと、下段写真で示した「馬場」に出る。
【写真左】馬場跡
 冒頭で示した「七ノ壇」といわれているところで、北東に延びる尾根の先端部に当たる。

 規模は幅20m×奥行15m前後のもの。
 ここから反対の北西方向に延びる尾根に進むと、城域中心部に向かう。
【写真左】二ノ壇
 前記したように、一ノ壇を取り囲むように西・北・東面で構成され、南側は三ノ壇が連続する。
【写真左】石積み
 二ノ壇と一ノ壇の高さは1.5~2,0mあるが、一部にはこのような石積が残る。
【写真左】虎口
 現地には「虎ノ口」と表記されているが、虎口のことで、二ノ壇の東面の一角に認められ、ここから一ノ壇に向かう。

 この付近で以前数多くの瓦片が出土したという。
【写真左】一ノ壇
 不定形な六角形の形をなし、広さは約700㎡あるという。

 なお、ほぼ全周囲に低い土塁跡が確認できる。
 
【写真左】三ノ壇
 一ノ壇から南西に延びる尾根筋に沿って構築され、幅17m前後×奥行27m近くの規模となっている。

 一ノ壇からは2.5m程度低い。
【写真左】四ノ壇
 四ノ壇及び五ノ壇は三ノ壇と同じ幅だが、規模が小さく、いずれも10m未満である。
【写真左】五ノ壇
 この写真には写っていないが、ほぼ中央部に直径約3m程度の比較的大きな窪みが認められた。井戸跡だろうか。
【写真左】堀切
 五ノ壇を過ぎると、その先は切崖となっている。
 滑るように降りていくと、ご覧の比較的大きな堀切がある。

 なお、この先に「武士池」があるということで、更に進んでみたが、道は整備されておらず、断念した。

2013年5月9日木曜日

新庄山城(岡山県岡山市竹原)

新庄山城(しんじょうやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市竹原
●別名 奈良部城
●築城期 天文初年
●築城者 新庄助之進
●城主 新庄氏・宇喜多直家
●高さ 127m(比高117m)
●遺構 土塁・堀切など
●登城日 2013年4月27日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 新庄山城は、前稿「乙子城」のある乙子から吉井川を西に渡り、百間川の支流砂川を遡った現在の岡山市竹原にある新庄山に築かれた城砦である。乙子城からは、北に約8キロ余り向かった位置に当たる。
【写真左】新庄山城遠望
 北西麓にある上道公園(小鳥の森・三徳園)から見たもの。
 駐車場は公園内にある駐車場が利用できるが、時間制限があるので注意が必要。
 

現地の説明板より

“新庄山城跡(別名 奈良部城)

 頂に本丸を構え、尾根筋に郭を縦列に配し、先端に堀切のある連郭式の山城。築城年代は不詳であるが、亀山城主中山備中守信正の臣新庄助之進の居城と伝えているので、16世紀前葉であろう。ただし、現在の城跡は宇喜多時代に改修された跡

 天文18年(1549)春、乙子城主宇喜多直家は、砥石城主浮田大和が主君浦上宗景に背いたとし、宗景の軍勢と協力し砥石城を攻め、大和を敗死させた。このときの恩賞として宗景から新庄山城が与えられ、乙子城から移ってきた。
【写真左】案内図
 麓の公園からハイキングコースが整備され、北東端(左)と、西端(右)の両方から尾根伝いにたどる。
 この日は、左側(ゴルフ練習場側)から向かった。
 
 平禄2年(1559)、亀山城主中山備中守と砥石城主島村豊後守とが、主君宗景に対し謀叛の噂があった。宗景は直家に命じてこれを誘殺させた。この功により直家は亀山城を賜り、新庄山城から移った。

 新庄山城は家臣に守らせていたが、直家が岡山城主となったとき、この城は役目を終え廃城となった。なお、本丸跡から焼麦が現在も出土する。”
【写真左】石碑
 北東端の登城口付近に建立されている。
こちらから向かうと、最初から傾斜が険しいが、最短距離で本丸側にたどり着く。

 土曜日だったこともあり、道中で3,4人の下山者とすれ違った。地元ではハイキングコースとしてかなり利用されているようだ。


直家、舅の謀殺と、祖父能家仇討たす

 直家が乙子城から奈良部の新庄山城に移ったのは天文18年(1549)である。前稿「乙子城」で述べたように、砥石城を陥れたものの、宗景の恩賞としてこの城は受けなかった。砥石城の西隣の高取山城には、宿敵島村豊後守(観阿弥)がいたからである。

 ところで、直家が新庄山城に入ってから最初に行ったのは、乙子城在城時代から小競り合いを続けていた瀬戸内諸島に介在していた海賊衆との和睦である。

 当時、児島湾に最も近い現在の玉野市日比の海賊頭領であった四宮隠岐守は、配下に3千もの屈強の軍兵を擁し、下津井の吉田右衛門と児島沿岸部を争っていた。更に、児島湾の南東に浮かぶ犬島を拠点としていた海賊衆日本佐奈介とは、直家が瀬戸内を使って回遊する際、大きな障害となっていた。
【写真左】最初のピーク
 15分程度きつい斜面を登ると、ご覧のピークが現れる。20m程度平坦な箇所だが、おそらく北の守りとしての郭跡だったのだろう。





 この年(天文18年)9月、四宮隠岐守の仲介によって、直家は佐奈介と和睦、三者は一先ず与同の契りを結んだ。直家が海賊衆とこうした和睦を結んだことによって、その後備前から備中方面へ進出する際、海路を使った戦略は大きな役割を果たしていくことになる。

 さて、直家が新庄山城に入る前は、説明板にもあるように、当城の城主は、中山備中守信正の家臣・新庄助之進とされている。中山備中守は、備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)の稿でも述べたように、直家の正妻・奈美の父である。奈美が直家に嫁いだのは、天文20年(1551)である。

 そして、二人が結ばれてからしばらくは平穏な月日が続いた。しかし、8年後の永禄2年(1559)の早春、主君・浦上宗景から直家に天神山城に出仕せよとの命が下った。
【写真左】本丸・その1 石鉄神社
 本丸は幅約8m×長さ20m程度の規模で、中央には石鉄神社本殿があり、元の城主新庄助之進と伊予前神寺の分霊を祀るという。

 なお、この後は祠も鎮座している。



 登城した直家は、宗景から驚くべき密書を見せられた。それは、宗景に恭順を示していた砥石山城の島村観阿弥が、宗景と敵対する御津の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)主・松田氏と結びつこうとしていることだった。

 さらに、直家を最も驚かせたのが、直家と同じく浦上氏を支えていた直家の舅・中山備中守が、前者二人と結びつき、謀叛を企んでいるとの内容だった。
【写真左】本丸・その2 北方を俯瞰する。
 奥に見える山並みを超えると、赤磐市に繋がる。








  直家と奈美の間には双子の娘がさずかり、仲睦まじい夫婦生活を送っていた。舅の備中守はそうした娘婿を実の息子のように可愛がっていた。直家が浦上家中で重きをなしていったのも、備中守の後ろ盾があったこともまた事実である。

 しかし、その備中守が実は浦上氏の転覆を謀っていたことを知るにおよび、宗景の前で直家は舅の謀殺を決意することになる。勿論直家にとって、舅を殺害するという行為は避けなければならなかった。

 しかし、主君宗景からのこの命を断れば、逆に宗景によって直家は打果されることになる。このことは、祖父能家から宇喜多家一族の再興と延命を誓った一族の長としてその義務を全うできなくなることになる。
【写真左】南側の郭群
 史料では、尾根筋に郭を縦列に並べ、さらに二段の郭云々と記されているが、現地は大分ハイキングコースとして改変されているようだ。




 永禄3(1560)年2月、直家はその頃恒例となっていた舅備中守との狩りで獲った鴨を主肴として、酒宴の席を設けた。場所は亀山城の近くに直家が造らせた東屋である。

 備中守は直家の歓待によほど嬉しかったのか、したたかに酔い酩酊した。直家は備中守を介抱し寝床まで連れて行くと、その瞬間背中へ抜き打ちの一刀を浴びせた。

  直家は備中守及びその警固をしていた数人の家臣をも殲滅させたあと、天神山城に向かって烽火を挙げた。これは事前に宗景と作戦を練っていた行動で、この烽火を合図に宗景は、使いを砥石城に向かわせた。砥石城の観阿弥はこの使者から「謀叛の首謀者・中山備中守を直家が討ち果たした故、すぐさま亀山城に赴き直家に合力せよ」との命を受けた。
【写真左】展望台(高尾山)に向かう。
 ハイキングコースをさらに進むと、途中で分岐して北に向かうと高尾山がある。
 この頂部に展望台が設置されている(下段写真参照)



 観阿弥はこのとき、自らの謀が宗景に知られたものと肝を冷やしたが、この知らせを聞き安堵した。そして、急ぎ亀山城に駆けつけた。

 城門前にたどり着き、到着した旨を大きな声で伝えた。すると、門扉は開かれたものの、さしたる騒動もなく、静まり返っている。 しばらくすると、
 「主・直家は本丸にてお待ちしております。奥へお入りくだされ」
 と、闇夜の門前から声がした。

 観阿弥はこのときわが身が取り囲まれていると察知した。そして
 「どうやら成敗のあと、合力に駆けつけたが何事もないようなので、儂は家来どもとこのまま砥石に帰るから、三郎佐(直家)にその旨伝えておいてくれ」
 と馬に跨った。その直後暗闇からどっと観阿弥らに向かって鈍い光を放つ刀槍がみえた。観阿弥の跨った馬は既に前を塞がれ、身動きの取れない観阿弥にいちどきに数十本の矢が射られた。馬上の観阿弥は脆くも地面にたたきつけられた。宇喜多の数人の兵がすかさず押さえつけ、観阿弥の首級を獲った。
【写真左】展望台
 高尾山という山の頂部に設置されており、標高137mの高さを持ち、新庄山より10mほど高い。






 天文3年(1534)直家の祖父能家が島村観阿弥に謀殺されてから、26年の歳月を経て、ここに仇討ちを成し遂げたわけである。

 この結果、宗景は直家に対し、亀山城をはじめ、中山備中守及び島村観阿弥の所領を与えた。しかし、我が夫が父を殺したことにより、新庄山城にあった直家の妻奈美は、余りの凄惨な出来事に動転し自害してしまった。
【写真左】展望台から北東方面に新庄山城を遠望する。
 文字通り眺望は新庄山城の本丸より、此方の方が大分良い。






 その後、直家は亀山城へ移り、新庄山城は家来に守備させ、砥石城には異母弟の春家を、乙子城には末弟の忠家を入れた。

 この結果、直家は南備前の4か所の城を支配し、家臣を数千人を擁する浦上氏筆頭の武将となった。こうした直家の隆盛は、主君宗景にとっては逆に脅威となり、後に二人が敵対する下地ともなっていくことなる。
【写真左】展望台より乙子城を遠望する。
 乙子城は新庄山城の南方にあり、直家は常にこの城を確認できたと思われる。
【写真左】展望台より北西方面を見る。
 手前の山を超えると、亀山城(沼城)がある。
【写真左】展望台より北東方面に大日幡山城を遠望する。
 新庄山城の東を流れる沼川を挟んで、対岸には大日幡山城が見える。
 高さ157mで、文明年間には赤松氏の一族が居城したと伝えられる。

2013年5月3日金曜日

乙子城(岡山県岡山市乙子)

乙子城(おとごじょう)

●所在地 岡山県岡山市乙子●築城期 天文13年(1544)
●築城者 宇喜多直家
●城主 宇喜多直家・忠家
●形態 平城(海城か)
●高さ 標高・比高47.8m
●遺構 郭・土塁等
●登城日 2011年10月9日及び、2013年2月23日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 乙子城は、岡山市の東部を流れる吉井川河口に突出した丘陵地に築かれた小規模な平城で、天文13年当時若干16歳だった宇喜多直家が築いたものである。
【写真左】乙子城遠望・その1
 児島湾航行の岡山~土庄(小豆島)フェリー船上から遠望する。
【写真左】乙子城周辺図
 現地の説明板にあるもので、乙子城は中央部に図示されている。

 当時は現在の児島湾の南北幅が約3倍の距離を持ち、沖新田や幸島新田なども広大な児島の海となっていた。



 現地の説明板より

“乙子城

 宇喜多直家が乙子山に構えた連郭式の小型山城。後に備前・美作一帯を統一した直家の最初の居城で、「国とり」はじまりの地といえる。

 乙子城は、当時の吉井川河口付近に位置し、邑久郡の穀倉地帯である千町平野の南側を画する山々の西端にある乙子山山頂にあった。北には西大寺の門前町など上道郡南東部を望み、また、南から西に拡がる児島湾を隔てて、児島郡の山々を遠望できた。かつての児島湾は広大で、後の新田開発によりその大半が干拓され、幸島新田、沖新田などの美田にかえられた。
【写真左】乙子城・その2
 東方から見たもので、手前の川は千町川の支流。
 乙子城の後に見えるのは吉井川







 戦国時代後期に天神山城(佐伯町田土)を根拠地に備前国東半を支配した浦上宗景は、上道郡を領する松田氏、児島郡を領する細川氏、さらには、瀬戸内海の海賊からの攻撃を防ぐため、天文13年(1544)、領地南西端に乙子城を築き、知行三百貫、足軽30人をつけて直家に守らせた。

 邑久郡乙子城古図によると、城は本丸(頂上)と二の丸(乙子大明神境内)を構え、腰曲輪、出曲輪が配されている。
 曲輪は、ともに土段築成で、高石垣は認められない。本丸には当時の土塁の痕跡が見られる。”
【写真左】登城口
 登城口は、西側と東側の2か所が設けられている。
 この日は吉井川と千町川の合流部である西側から向かった。写真にある鳥居は中腹に祀られている大国主神神社のもの。




阿部善定

 宇喜多八郎すなわち後の直家が父興家とともに、砥石城(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)を追われたのち、二人を匿っていたのが備前福岡の市の豪商阿部善定である。砥石城で自刃した祖父能家とは旧知の間柄で、生前能家から宇喜多家に変事が起きたら、合力せよとの命を受けていた。
【写真左】大国主神神社
 途中に当該神社が祀られている。











 前々稿でも述べたように、最初に逃げ込んだ場所が鞆の浦であるが、この地は善定が廻船業を営んでいた本拠地でもあり、宇喜多父子は彼の庇護の下でしばらく暮すことになる。

 鞆の浦において八郎(直家)が目にしたものは、逞しい海の男たちの生き様であり、時には海賊衆とも渡り合うという荒々しい世界でもあった。こうした経験は後に戦国武将の中でも特筆された梟雄の一人としてなる基礎ともなった。
【写真左】本丸付近
 比高50m弱であるため、すぐに本丸頂部にたどり着く。15m~20m四方の本丸周辺部には、東に向かって3,4段の腰郭があり、東に向かって尾根筋と思われる箇所に連郭が伸びている。
  



 善定は単に宇喜多父子の庇護だけではなく、同家の再興を支援したのち、さらなる商いの拡大をももくろんでいた。

 当時備前国は浦上氏が勢威をもっていたため、戦となればすぐさま軍資金を調達し、武器・具足なども廻船業の強みで瀬戸内を使って東西を往来し、さらには金貸しも行うといった今でいえば総合商社のような商いをしていた。

 このうち、地元で有名な備前刀である長船刀剣は、鎌倉期から既に製造され、戦国期には「束刀」として大量生産体制が敷かれていたので、善定はこれらを大量に扱っていたものと思われる。
【写真左】南端部の郭から吉井川河口を見る。
 小規模ながら南側は天険の切崖となっているが、その先端部からは千町川支流と吉井川の合流部が見え、さらにその先には児島湾が望める。



 さて、善定に匿われていた宇喜多父子のうち、父興家はその後天文9年(1540)に病没している。その間、正妻とは別に興家は善定の娘との間に二人の男子をもうけていた。

 興家の法名は露月光珍居士とされ、亡骸は吉井川を少しさかのぼった教意山妙興寺(長船町)に葬られた。そのあと、興家の正妻は一人離れて、天神山城の奥向き、すなわち宇喜多氏の主君である浦上氏に仕えることになる。これは母として宇喜多家再興を果たすため、浦上氏に懇請するためでもあった。
【写真左】宇喜多興家の墓
 興家の墓がある妙興寺は、乙子城から吉井川を少しさかのぼった長船町にある。なお、興家の死亡時期については、天文9年の他に、天文5年(1536)の二説がある。





 一方当時12歳だった八郎は、現在の邑久町下笠加の大楽院という尼寺に預けられた。この大楽院の庵主は八郎の伯母であった。


直家乙子城に入る

 それから3年の歳月が流れ、母の努力が報われ、晴れて和気の天神山城に赴くことになった。主君浦上宗景に対面した八郎は、その後小姓として仕え、宗景に気に入られるようになった。天文12年(1543)8月のことである。
【写真左】天神山城遠望
天神山城(岡山県和気郡和気町田土)その1参照。








 そして早くもその年の暮れ、播磨・置塩城の備前守護職であった赤松晴政が東備前に進攻すると、初陣の八郎は宗景に従い、敵方の冑首を討ち取った。

 翌天文13年、八郎は元服し宇喜多三郎左衛門直家と名を改め、小規模ながら乙子の城を預けられた。石高300貫であった。
【写真左】本丸から東方に二の丸跡を見る。
 本丸から東に向かうと次第に下っていき、二の丸方面に繋がる。ただ、現在はこの箇所は大きく改変され、墓地が建っている。
 墓地の先には二の丸跡といわれている乙子大明神境内がある。
【写真左】謎の石碑
 本丸から東に延びる数段の郭跡には現在墓地が建ち、その一角には「岡崎家奥津城之跡」と刻銘された石碑がある。

 寡聞にしてついこの間まで、この語句の意味を知らなかったが、奥津城とは、山城の意味でなく、別名「奥都城(おくつき)」といい、神道系の墓とのこと。地図を見ていると、全国に「奥津城」という文字が点在している。


尼子氏美作へ進攻

 天文13年(1544)12月8日、出雲の尼子晴久は田口志右衛門に対し美作国北高田荘を安堵した(『美作古簡集』)。出雲尼子氏が美作へ進攻したのは、永正17年(1520)頃が初期とされ、これと競合するするように、播磨の赤松氏及び、備前の浦上氏(村宗)が美作国へ動きを見せている。最終的にはこれら三氏のうち、尼子氏が美作西部を中心に支配をおさめ、天文17年(1548)の尼子氏重鎮宇山氏による岩屋城攻めが最も大きな戦果となった。

 当然この間、備前国でもこの動きはすぐさま知らされることになる。この年(天文13年)11月、当時浦上宗景の属将であった美作国英田郡妙見村の三星城主・後藤勝基からの急報が天神山城へもたらされた。
【写真左】三星城








 「尼子国久が出雲より兵を出し、作州へ近日発向の由とのこと。なにとぞ急ぎ御加勢を願い賜りたく存じます」
 尼子国久、すなわち尼子氏の中でも最強の軍団であった新宮党(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)の頭領である。
【写真左】乙子大明神・その1
 乙子城の東端部にあたり、現在ご覧の社が建つ。
 本丸はこの写真では左側になる。







 宗景は尼子が美作の三星城を落とせば、次には南下し備前に入ってくることを予知した。直ちに麾下諸将に陣触れを発し、作州へ発向する段取りを整えた。ところが、この頃播磨に忍び込ませていた宗景の冠者から、
 「浦上氏が美作へ向かえば、播磨から赤松晴政がその隙に、天神山城を奪取する動きがあります」
 という報がもたらされた。
 このため、宗景は一旦自らの作州支援を取りやめ、三石城(岡山県備前市三石)には百々田(どどた)豊前に守備させた。
【写真左】乙子大明神・その2
 おそらく、直家を祀るためや、船の航海安全を祈願したものだろう。







 浦上氏の支援がないことを知った尼子国久は、大軍を率いて作州へ入った。勝山の美作・高田城(岡山県真庭市勝山)、久世の笹向城(岡山県真庭市三崎)、鏡野の小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)、滝尾の医王山城など主だった諸城は次々と落ち、浦上氏の属将であった小瀬・今村・竹内・江原・大河原・草刈・市・玉串・芦田・牧・三浦・福田などといった小国人領主は尼子の軍門に降った。

 しかし、備前国の北の入口にあたる三星城の後藤勝基は、孤軍奮闘し尼子の侵攻をここで食い止めた。一方、東方から攻め入った播磨の赤松勢は、三石城の百々田豊前の前に撃退され、事なきを得た。


直家の砥石城攻め
 
 だが、出雲の尼子による美作攻めや、東方播磨からの赤松氏による侵略、さらには虎視眈々と備前攻めを目論む毛利氏の支援を受けた備中の三村氏など、浦上氏を中心とした直家の足場は不安を一層増幅させた。
【写真左】東方に砥石城方面を見る。
 乙子城の東にある神崎緑地公園の高台から見たもので、中央の千町川を登っていくと、高取山城や、砥石城に繋がる。
 おそらく戦国期には千町川はもう少し川幅の広い状態であったと思われ、陸上戦と、船戦が混在したものだったのだろう。



 こうした中、天神山城の宗景から直家に急報が告げられた。それは、砥石城主・浮田大和守国定が、備中の三村家親と内通し、宗景に謀叛を企てるというものだった。

 砥石城の浮田大和守は、直家の祖父能家の異母弟である。大和守も能家と同じく武勇に優れており、彼が謀反を起こせば、浮足立っていた備前の主だった地侍が動揺し、備前国内での版図が大きく変わる可能性が出てくる。

 直家の居城である乙子城と、大和守の砥石城とは千町川を介して僅か5キロの距離である。砥石城攻めを始めた直家ではあったが、この戦いは以後3年間にもわたった。この間、大和守も乙子城を再々攻めたが、直家の方も宗景から送られた援軍を得ていたため、落ちることはなかった。

 しかし、天文18年(1549)正月、直家の計画的な拙攻に油断した大和守は、砥石城での祝賀の宴を設けていた。家臣も含め酒に酔っていた砥石城の面々は、突如として直家及び援軍の天神山城の軍の乱入に慌てふためいた。大和守は薙刀を振りかざし、奮闘したがあえなく打ち果てた。
【写真左】再び登城口付近に戻る。
 写真の最高所が本丸跡になる。









 こうして、直家は祖父の居城であった砥石城を陥落させた。当然ながら、宗景は恩賞として当城を直家に与えようとした。しかし、直家はこの賞賜(しょうし)を辞退した。

 なぜなら、砥石城の西方には、祖父能家を謀殺した宿敵島村観阿弥の居城高取山城があったからである。砥石城に入れば、指呼の間にある高取山城の観阿弥の存在は直家にとっては最も警戒すべき相手となる。
【写真左】新庄山城から乙子城を遠望する。
 新庄山城の出丸と思われる現在の高尾山から見たもので、視界のいい時ならさらに鮮明に見えると思われる。



 このため、直家は吉井川を挟んだ北西の奈良部にある新庄山城(岡山県岡山市竹原)に入り、乙子城は異母弟忠家に譲った。