2013年3月31日日曜日

大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)

大宰府政庁跡(だざいふせいちょうあと)

●所在地 福岡県太宰府市観世音寺4-6-1
●築城期 7世紀後半
●築城者 不明
●指定 特別史跡
●遺構 正殿跡、南門、礎石その他
●登城日 2013年2月4日

◆解説(参考文献『集英社版日本の歴史 王朝と貴族』等)
 福岡市の南東16キロには、古代の行政組織をもった九州の都・大宰府がある。日本の西の玄関としていわば中央朝廷の出張所のような役割をもった政庁跡がこの地に残っているが、実は具体的にいつの時期に造られたかはっきりしない。

 現在の大宰府にある政庁跡は初期の位置にあったものでなく、その前はもう少し博多より、すなわち海岸部に近かったものと推定されている。
 現在の大宰府に移ったのは、以前にも紹介した白村江(はくすき)の戦いのため、のちにより内陸部に移設したことによるといわれている。
【写真左】大宰府政庁跡遠望
 岩屋城(大野城)から見たもの。
 岩屋城については、後日アップする予定だが、戦国期に築城された岩屋城は、元々古代山城としてあった巨大な大野城の中に含まれる。

 この古代山城・大野城も大宰府政庁といわばセットのような役割を持っていたのではないかと考えられる。


 大宰府の遺跡保存の活動が始まったのは、江戸時代の福岡藩の頃からだという。その後現代に至り、大規模宅地開発という時代の流れの中で、文化財保護・遺跡保存をどのように進めるべきか、住民を含めた議論が根気よく続けられたという。こうして、指定区域の拡張を中心として今日の特徴ある古代文化都市としての顔を持った太宰府市が今によみがえっている。
【写真左】南門付近・その1

 











現地の説明板より その1

“古都大宰府保存への道

 はじめに
  ようこそ古都大宰府へ。四季の彩りが美しい四天王寺を望むこの場所は、万葉集にも詠まれているいにしえの西の都の跡です。
 「遠の朝廷(とおのみかど)」として、繁栄を誇った大宰府も平安時代末頃(約900年前)にはその役割を終え、田畑と化してしまいました。
 ところが、昭和30年代からは、歴史的価値をもった貴重な遺跡として、再び脚光を浴びることになりました。
 ここで、みなさんに古都大宰府が歩んできた保存への道のりを簡単に紹介し、大宰府理解の一助にしていただければと思います。
【写真左】南門付近・その2












保存の歴史

 大宰府跡の保存は、江戸時代に福岡藩(黒田家)が行った建物礎石の調査に始まります。明治・大正・昭和と時代が変わっても、保存の精神は継承され、大宰府を顕彰する石碑が建てられたり、簡単な保存整備が正殿跡を中心に行われてきました。
【写真左】南門の平面図・復元模型など
 上段の写真は昭和43年の発掘調査のもので、右に出土品などが掲載されている。




 昭和30年代後半、この地が福岡市に近く、住宅地に適していることもあって、大規模な宅地開発の計画が持ち上がりました。開発の波から地下に眠る文化財を守るために、文化財保護委員会は指定区域拡張の方針を示し、保存に乗り出します。ところが、地元は自分たちの生活と深くかかわりのある問題として、慎重な態度を示します。昼夜と問わず行政との話し合いが続けられ、やっとのことで指定区域拡張に対する理解と協力が得られました。

 それからもう30年余りの歳月が経ちました。この間、発掘調査と保存整備が地域の人々と共に進められ、今日に見る大宰府政庁の姿ができあがりました。
【写真左】中門付近













大宰府のこれから

 文化財の保存は、人とのかかわりをぬきにして語ることはできません。地元をはじめ、いろんな人たちの苦労と努力が刻まれている古都大宰府も同じことだといえます。これからもみなさんと共に大宰府のこれからを考えていきたいと思います。”
【写真左】回廊跡
 中門から東に延びる回廊











現地の説明板より その2

“特別史跡 大宰府跡
     大正10年3月3日 史跡指定
     昭和28年3月31日 特別史跡指定
     福岡県太宰府市大字観世音寺 坂本

 古代、西海道と呼ばれた九州一円を統轄していた大宰府は、外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていた。その機構は中央政府に準じ、地方機関としては最大規模の行政組織を有していた。
 発掘調査によると、7世紀後半に掘立柱建物が建てられ、8世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備される。この建物は藤原純友の乱によって焼き打ちされたが、10世紀後半には立派に再建された。
【写真左】礎石
 東脇殿のもので、これとほぼ同じような礎石が左右対称に西脇殿にも残る。





 現在見ることのできる礎石は、この再建期のもので、左上図は発掘調査の成果をもとにして復元したものである。これらの建物は藤原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」とうたっているように壮大なもので、当時としては中央の都の建物にも劣らぬものであった。
 正殿は重層風につくられ、屋根は入母屋ないしは寄棟造りであったと思われる。
 このような政庁を中心にして周囲は、数多くの役所が配置され、その規模は平城・平安の都に次ぐ「天下の一都会」であった。
    昭和61年3月 福岡県教育委員会”
【写真左】正殿付近・その1
 北側には正殿があり、この位置は少し高くなっている。
 礎石はさらに一回り大きいようだ。






現地の説明板より その3

″特別史跡 大宰府跡
大宰府政庁南門跡

南門とは

 南門は政庁の南に開かれた正門である。両側には東西に延びる築地塀が取りつき政庁全体を囲んでいた。要人や外国の使節を応接するにふさわしい威容を誇っていたであろう。
 なお、役人の日常の出入りには築地塀に設けられた脇門を利用していたと考えられる。
【写真左】正殿遺構配置図と復元模型図
 東西に繋がる回廊や正殿母屋はほとんど第Ⅲ期の遺構とされている。







発掘調査でわかったこと

 南門は中門跡とともに、昭和43(1968)年に大宰府跡で最初の発掘調査がおこなわれた場所である。この調査によって地表面に見える礎石群は奈良時代(政庁第Ⅱ期)のものではなく、平安時代後半(政庁第Ⅲ期)に建て替えられた時のものであることが判明した。

 建物の平面形は変わらないが、基壇(建物土台)は拡張されており、Ⅱ期に比べて大きくなっている。基壇の中央部から水晶や琥珀を納めた鎮壇(ちんだん)の須恵器壺が完全な形で出土した。この壺はⅡ期の門の築造年代を知る有力な手がかりとなった。
 礎石は11個残っていた。調査結果をもとに平面復元を行った。現在見えている礎石は右図のように本来の位置のもの、移動されたもの、コンクリートで新しく作ったものの3種類がある。なお両側の柘植は築地塀を表示している。
【写真左】正殿付近・その2
 正殿付近には石碑が建っている。










南門の復元模型

 これまでの発掘調査の成果と、現存する古代建築の構造・意匠を参考にして、想定復元した模型が右の写真の建物である。復元された南門建物は、高さ18.2m、正門5間(21m)、奥行2間(8.2m)の規模を誇り、正面入口には3か所の扉が設けられていた。また、大宰府の玄関口としてふさわしく、2階建で入母屋造りの屋根をのせた、壮麗で堂々とした門だったようである。

現地の説明板より その4

“特別史跡 大宰府跡
大宰府政庁正殿跡

正殿跡とは
 大宰府の長官である帥(そち)が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要な役割を果たした場所が正殿である。大宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統轄していた。宮都での元旦拝賀を参考にすれば、大宰府でも元旦には管内諸国から国司らが集い、正殿に坐した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。
【写真左】後殿及び東楼・西楼の礎石
 正殿の北側には後殿と東西楼があり、その中央奥には北門が控えていた。





発掘調査でわかったこと

 政庁の建物群は3期(Ⅰ~Ⅲ期)にわたって変遷し、Ⅰ期は掘立柱建物、Ⅱ・Ⅲ期は礎石建物が採用され、中・南門の建物についてはⅡ期とⅢ期がほぼ同じ規模と構造だったことが判明している。近年の調査では、正殿も他と同様にⅡ・Ⅲ期の基壇(建物の基礎)が同一規模で建替えられていたことが明らかになった。この建替えの原因となった941年藤原純友の乱による火災を示す焼土や炭をⅢ期整地層の下部で確認した。さらに、基壇の下層でⅠ期の掘立柱建物・柵・溝等を発掘した。これら建物群はいずれも規模が大きく整然と配置され、周囲を柵と溝で区画していることが判明した。すでにⅠ期の段階から儀礼空間を意識した配置だったと考えられる。
【写真左】蔵司地区官衙(くらつかさちく かんが)
 政庁跡の西側に残るもので、蔵司は西海道(九州)9国3島(後に2島)の綿・絹などの調庸物(税)を収納管理する役所で、ここで集められた調庸物は一旦ここに納められ、その後一部が進上されたという。


正殿の建物

 残された礎石からⅢ期の建物は正面7間(28.5m)、奥行4間(13.0m)の平面規模がわかっている。また基壇の正面と背後には3つの階段が取付き、正面を除いた周囲の礎石には壁を設けるための加工が施してある。柱は直径が75cm、これを乗せる礎石は巨大で、しかも円形の柱座を3重に削って装飾している。こうした調査成果と正殿の役割から考えると、建物は寄棟の大屋根と庇を別構造で組合せ、朱塗の柱と白壁で仕上げた外観、そして内部を吹抜けのホールのような空間にした建築だったことが想定できる。屋根には左のような恐ろしい形相の鬼瓦が飾られていた。”
【写真左】政庁跡から北方に岩屋城を見る。
 この日は雨が降っていたため、ほとんど霞んで見えなかったが、時折岩屋城の本丸が顔をのぞかせた。

2013年3月28日木曜日

糸田城(福岡県田川郡糸田町)

糸田城(いとだじょう)

●所在地 福岡県田川郡糸田町
●築城期 永仁5年(1297)ごろ
●築城者 北条政顕か
●城主 糸田(北条)貞義
●形態 丘城(館跡か)
●遺構 ほとんど消滅
●高さ 標高20m(比高10m)
●登城日 2013年2月4日

◆解説
 福岡県のほぼ中央部で、やや北方には標高30~40mほどの丘陵地を含む田川盆地がある。旧国名でいえば、筑前国と豊前国が隣接し、かつては繁栄を極めた筑豊炭田があった。

 糸田城のある糸田は明治の終わりごろまで、糸田村としてあり、戦前に町制が敷かれたとき、糸田町となった。現在の飯塚市と田川市のほぼ中間点にあたり、面積は8キロ㎡余りで、町民人口も1万人を切ったが、平成の大合併の際も、あえて隣接自治体と合併せず、自立した自治体として今日まで来ている。
【写真左】糸田城遠望
 西側から見たもので、低丘陵地に築かれている。周辺部は畑地や団地などが立ち並び、当時の面影を残すものは少ないが、現地を見る限り、要害性にとんだ山城というより、城館跡であったことが想像される。



現地の説明板より

“糸田城主糸田貞義

 糸田城主北条貞義は、糸田に住したので糸田姓を名乗った。
 貞義の曽祖父にあたる北条実時(1224~76)は、蒙古襲来に揺れ動く激動の時代に鎌倉幕府の要職を歴任し、政治面で活躍する一方、学問の分野にも力をつくし、神奈川県の現存する中世歴史博物館・金沢文庫の礎を築いた。
【写真左】登城口
 後段でも示すように、城跡は畑地や墓地などとなっており、実質は墓地参拝用の道が主になっているようだ。




 文永・弘安の蒙古襲来の後も、日本は蒙古対策を中心として防御をかためるため、1297年実時の子実政(貞義の祖父)が鎮西探題(鎌倉幕府の九州全地域の政務、訴訟、軍事を司る要職)として博多に下向してくる。

 ここに九州全体を統治する最高機関が設立し、鎌倉幕府が滅亡するまで九州沿岸の異国警固体制を維持した。

 実時の子政顕(まさあき)(貞義の父)は、第2代鎮西探題を務め、貞義は豊前国守護(地方の軍事、警察などを担当する職)として探題を補佐する重要な役割を果たした。
 しかし、約1世紀半にわたる鎌倉幕府による支配体制が崩壊するや、博多の探題城も反北条勢の攻撃を受けて落城した。
【写真左】屋敷の段跡か
 現在このように畑地となっている箇所で、この左側が高くなり、その中央部に石碑が建っている。

 この箇所もおそらく屋敷跡地と考えられる。
 向こう側にせり出した墓地があるが、そこからは西方の睨みがきく箇所となっている。



 貞義は兄高政と呼応し、堀口城(場所不明)に立て籠もったが、大友勢により包囲され、貞義はじめ一族郎党ことごとく討死(1334)、前後して糸田城も落城した。

 糸田が豊前国守護の所在地として重要視されたのは、治安維持の任務を担う守護が、幕府の地方支配の中心であり、平家支配が深く浸透していた豊前、特に豊前と筑前両国にまたがる平家武士団を統率するのに一番適当な地であったからと推測される。”
【写真左】石碑付近
 この箇所は畑地となっていない。約15m前後の大きさ。









糸田氏(北条氏)

 説明板にもあるように、糸田城主であった糸田貞義の曽祖父は北条実時である。現地にある説明板の裏には、糸田(北条)氏の系図が掲載されている。これをもとに糸田氏に繋がる系譜を整理すると、次のようになる。
  1. 北条時政 (1138~1215)  鎌倉幕府初代執権、北条政子の父
  2.    義時 (1163~1224)  鎌倉幕府第2代執権 
  3.    実泰 (1208~63)   金沢流北条氏祖(別名金沢実泰)
  4.    実時 (1224~76)   金沢流北条氏第2代(実質初代)
  5.    実政 (1249~1302)  初代鎮西探題(元寇の乱時、日本軍総司令官)
  6.    政顕 第2代鎮西探題(期間:1305~15)博多に駐留。永仁2年(1294)肥前国守護兼任。
  7. 糸田貞義 糸田城主 豊前国守護職期間(1323~33) 建武元年(1334)討死。
【写真左】石碑
 糸田城と刻銘されている石碑が建つ。










 説明板や糸田氏関連の系譜にもあるように、糸田氏が滅ぶのは後醍醐天皇の倒幕によるものだが、糸田城の落城並びに糸田貞義討死は、建武元年(1334)2月に起こった筑前・築後における北条氏残党の蜂起と同じころと思われる。
【写真左】説明板
 この裏には北条氏(糸田氏)の系図が掲載されている。








 貞義の兄は説明板にもあるように、高政と名乗り、別名規矩(きく)高政とも名乗った。彼は後に赤橋流北条氏の執権北条守時の弟英時の養子となったが、中央における六波羅探題や鎌倉の滅亡の報を聞くと、北九州において北条氏の残党を糾合し蜂起した。

 建武元年(1334)1月、高政は豊前遠賀郡帆柱山城(福岡県北九州八幡西区)に籠り、大友氏や少弐氏ら倒幕方と抗戦、7月に鎮圧されたという。

 なお、説明板にある堀口城とは、この帆柱山城のことと思われる。当城についても、サイト『城郭放浪記』氏が既に登城報告されているのでご覧いただきたい。
【写真左】供養塔と祠
 石碑の近くには、「糸田貞義 供養之塔」と刻銘された供養塔並びに、祠が祀られている。
【写真左】西方を眺望する。
 西端部から見たもので、この方向は博多方面になるが、現在見えている畑・田圃などは当時壕の役目をしていたのかもしれない。

 なお、この突端部と下段の畑地との比高差は約7,8m程度である。

2013年3月25日月曜日

亀尻城(鳥取県鳥取市青谷町亀尻)

亀尻城(かめじりじょう)

●所在地 鳥取県鳥取市青谷町亀尻
●別名 亀後城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 石田主膳
●高さ 標高50m前後(比高40m前後)
●遺構 郭・堀切
●登城日 2013年2月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 鳥取県は旧国名でいえば、因幡国と伯耆国の二国で成り立っている。伯耆・因幡両国を往来する道は、現在山陰道(青谷羽合道路)が繋がり、短時間でいけるようになったが、伯耆側の湯梨浜町から因幡側の青谷町に向かう道としては、日本海側の入り組んだ海岸部をくねくねと走る山陰道(国道9号線)が示すように、中世には難所の一つでもあった。

 しかも、伯耆側から因幡側の青谷町に入ってからも、さらに、夏泊の峠を越える道が控え、陸路での往来は困難を極めていたという。
 このため、上述した夏泊などは江戸時代には北前船の寄港地としても利用されるように、船舶による海上交通が盛んになっていった。
【写真左】亀尻城遠望
 北東部にある日本海に突出した長尾鼻展望台から見たもの。
 手前に夏泊の港があり、青谷海水浴場の西側に注ぐ勝部川をさかのぼっていくと、亀尻城が東側に突出している。


 さて、今回取り上げる亀尻城はその因幡国西端部の青谷町に築かれた小規模な城塞であるが、同町にはこのほかにも下記の山城が確認されている。

  1. 露谷城 同町露谷 別名北鼻城・鉢伏山城。城主・石田氏
  2. 蔵谷城 同町善田 別名奥谷城
  3. 国屋城 同町青谷 国屋氏居城
  4. 早牛城 同町早牛 早牛集落の下供養塚の上にある。
  5. 不動山城 同町鳴滝 勝部谷の不動山に築城
【写真左】亀尻城近影・その1
 西側を流れる勝部川対岸から見たもので、南側から伸びた丘陵部先端部に築かれていることがよく分かる。
【写真左】亀尻城近影・その2
 上の写真の続きで、南に延びる尾根部分。
写真ではわかりにくいが、中央やや左側には堀切があり、現在その箇所は公園化された施設に向かう道に改変されている。



このほか、青谷町外のもので、既に紹介した近隣のものとしては次のものがある。
  1. 勝山城(鳥取県鳥取市気高町勝見)
  2. 河口城(鳥取県東伯郡湯梨浜町園)
さて、亀尻城も含め、青谷町にある城砦に関しては残念ながら手元に全く資料がないため、詳細は不明だが、唯一当城の城主が石田主膳なる武将であったという記録が残る。
【写真左】登城道
 本丸跡まではこのような簡易舗装が途中まで施工されている。
 堀切とされている箇所は、この写真の左側で、手前にはもう一つ分岐した林道が南に向かっている。
【写真左】貯水タンク
 下段で紹介するように、城域の南側には貯水タンクが設置され、周辺部もこの施設のために大幅に改変されている。
【写真左】城山公園化推進事業協賛者の看板
 平成15年の日付で、青谷町長はじめ、地元の方々の芳名が列記されている。
【写真左】北側からタンク方面を見る。
 手前の削平地も公園化のため改変されたものと思われ、さらにそこから南に向かって盛り土が施工されている。
 この辺りは殆ど遺構は消滅しているようだ。
【写真左】小郭
 北側には2,3段の郭らしき箇所が見えるが、明瞭でない。
【写真左】露谷城遠望
 前記したように、亀尻城の東方に延びる尾根には亀尻城より標高の高い露谷城が見える。登城道など不明だが、遠望する限り亀尻城より規模が大きいようだ。
 この城の城主も「石田氏」という記録が残ることから、亀尻城の詰城だった可能性もある。

2013年3月22日金曜日

本願禅寺及び衆楽園(岡山県津山市山)

本願禅寺及び衆楽園
        (ほんがんぜんじ および しゅうらくえん

本願禅寺
●所在地 本願禅寺:岡山県津山市小田中1373
●前身 南北朝期(興国元年:1340)旧西々条郡神戸村(現津山市神戸)に創建された美作国安国寺
●開基 津山藩初代藩主森忠政(現在地に移転)
●本尊 釈迦如来
●宗派 臨済宗
●参拝日 2013年1月7日

衆楽園
●所在地 岡山県津山市山北628
●別名 旧津山藩別邸庭園
●作庭期 明暦年間(1655~58)
●作庭者 津山藩2代藩主・森長継
●指定 国指定名勝
●探訪日 2013年1月7日

◆解説(参考文献「サイト・津山瓦版」「サイト・宮本武蔵 資料編」等)
 今稿は津山藩初代藩主森田忠政が開基し、以後森氏の菩提寺とされた本願禅寺及び、津山城の北方に作庭された江戸初期の庭園「衆楽園」をとりあげたい。

本願禅寺

 津山市街地には津山城を中心として東西に多くの寺院があるが、その中でも城西地区は特に多い。江戸中期には、城西地区に24ヶ寺、城東地区には10ヶ寺あったという。
 今稿で取り上げる本願禅寺は城西地区あるものだが、津山城を築いた森忠政は、そのころ当時院庄近くの神戸村にあった安国寺を菩提所とするため、先ず小田中村に移し、海晏禅師を迎え安国寺中興の祖とした。その後、慶長12年当地に移し、龍雲禅寺として新たに建立した。
【写真左】本願禅寺境内にある森家大名墓・その1
 墓石はいずれも巨大なもので、見上げるような大きさである。
 この墓所及び霊廟は一般公開はされておらず、たまたま津山城で受付の方から事前にお願いし、ご住職の案内で参拝することができた。
【写真左】森忠政の墓
 右側の墓で、左は妻(智勝院殿)の墓。

 なお、これらの墓(五輪塔)の材料となっている石は近隣で採石されたものではなく、六甲山山麓にある岩と同質のものだという。
 当時、六甲から美作までこれだけの巨石を運ぶこと自体驚きである。

【写真左】森家大名墓・その2 説明板
 説明板の上下継ぎ目付近の文字がかすれて判読できない箇所があるが、主だった戒名は次の通り。





  • 光徳院殿 関成次、美濃国鴻野城にいたが、忠政に従い美作国に移住。妻が忠政の二女で長男長継は森家二代藩主を継いだ。
  • 瑝松院殿 忠政の姉、美濃国鴻野城主関共成の妻で関成次の母。
  • 霊光院殿 森忠継、二代藩主森長継の長男で、4代藩主森長成の父。延宝2年(1674)津山で死亡。享年38歳。
  • 前武州殿 森長可の次男で忠政の兄、天正12年(1584)尾張長久手の戦いで死亡。忠政が美作入国後に墓を建立。享年27歳。
  • 本源院殿 森忠政。可成の六男で慶長8年(1603)2月美作国初代藩主として入国。寛永11年(1634)京都で死亡。享年65歳。
  • 智勝院殿 森忠政の妻・岩。尾張の名護屋氏の出で大和大納言羽柴秀長の養女。慶長12年(1607)津山で死亡。
  • 晃昌院殿 森忠政の娘。鳥居左京亮恒の妻。江戸で死亡。享年55歳。

 寛永11年(1634)忠政は京都で急逝(65歳)、さらに延宝2年(1674)二代長継の嫡男忠継が亡くなり、忠継の長男長成が幼少のため、叔父の長武が長成元服まで12年間藩主を務めた。
 そして、天和3年(1683)忠政の50遠年忌に当たり、戒名「本源院殿前作州太守先翁宗進大居士」からちなんで、寺名を龍雲禅寺から現在の「本願禅寺」に改めた。なお、呼称を「ほんがんぜんじ」としているが、あるいは「ほんごんぜんじ」かもしれない。
【写真左】その3
 東端部からさらに東方に目を転ずると、津山城の備中櫓がかすかに見える。








 当院境内西には森家累代を祀る霊廟「方四間御霊屋」が建立され、その後ろには歴代城主及び奥方の墓が祀られれいる。


長尾氏の墓

 当院には津山城主森家の霊廟とは別に、西の墓地付近には家老職であった長尾氏の墓も並んでいる。実は、津山城を訪れたのは、長尾氏の墓を訪ねることも目的の一つであった。

 長尾氏については、以前備後の千手寺と長尾隼人五輪塔(広島県庄原市東城町)で取り上げているように、東城町の五品嶽城(広島県庄原市東城町川西)の城主として活躍した長尾隼人を紹介している。
【写真左】長尾氏の墓・その1
 長尾氏の墓は当院境内墓地の西側入り口にある。
 4基のうち、長尾勝行とその妻のものと思われるが、その子勝明は松江藩で没しているので、勝明は供養塔かもしれない。



 なお、この日、本願禅寺のご住職に長尾氏のことについていろいろご教示を受けた。この場を借りて改めて御礼申し上げたい。

 ご住職も長尾氏の事績については前からいろいろと研究しておられるようで、家老職であった長尾氏がもう少し評価されてもいいのではないかとの言に管理人も思わず首肯した。

 本名は長尾一勝で、官途名では長尾隼人正一勝、又は長尾隼人佐一勝である。関ヶ原の合戦の功によって備後入封を果たした福島正則に従い、備北の東城を任された。広島領主として入った正則であったが、元和5年(1619)江戸幕府から改易を命ぜられ、この年の7月信濃国高井郡高井野村に蟄居を命ぜられた。一勝はその直前の元和5年1月15日没している。
【写真左】長尾氏の墓・その2













 一勝の子・勝行は、父のあとを受け継ぐが、勝行にとっては、皮肉にも主君であった福島正則の居城明け渡しが最初で最後の仕事となった。この広島城明け渡しについては、主君正則の失態は実際はほとんどなく、幕府方の計画的な排斥行動と見られている。

 さて、広島城開城による城受取りの任に当たったのは、安藤対馬守重信である。彼は上野国高崎藩主で、この5年前の慶長19年(1614)にも、大久保長安事件で改易された大久保忠隣の小田原城受取り役を務めている。

 このとき、安藤重信と一緒に受取りの任に当たり、後に丸亀藩主となる山崎甲斐守家治は、勝行の立派な態度に心を打たれ、自ら長尾勝行一族の扶養を申し出ている。しかし、勝行は山崎甲斐守に感謝するものの、津山藩主森家に家老職として4000石で召し抱えられ、以後代々長尾隼人と名乗ることになる。

 なお、広島城改易による城明け渡しにおいては、この他中国地方からも幕命によって他の藩主も当地に赴いている。管理人の地元・出雲国松江藩では、藩主堀尾忠晴が同年6月16日に「出陣」の形をとって警備に当たり、翌7月6日に広島から松江へ戻っている。
【写真左】堀尾忠晴墓所
 所在地・島根県松江市栄町 円城寺
 松江市指定文化財

 寛永10年、同市荒隅にあった瑞応寺から現在地に移し、円城寺と改めた。松江藩の基礎をつくった堀尾氏三代を讃え、毎年11月6日当山で堀尾公の法要が行われている。

 なお、荒隅の瑞応寺とは、荒隅城(島根県松江市国屋町南平)の場所である。



 さて、津山藩に召し抱えられた勝行は、父一勝の菩提を弔うため、備後東城の千手寺に供養塔を建立した(千手寺と長尾隼人五輪塔(広島県庄原市東城町)参照)。

 また、勝行の子と思われる勝明は、元禄2年(1689)地元作州を中心とした地誌作成の編纂に着手している。内訳は作州西部六郡と、東部六郡に分担し、それぞれの担当者に命じた。西部の方は2年後の元禄4年にまとめられたが、東部については担当していた川越某なる者が、理由は不明ながら、それまで収集していた資料を悉く焼却してしまったという。勝明がその後、東部の担当者を新たに任命したという記録はないため、この地誌作成事業は完成を見ず頓挫することになる。
【写真左】長尾氏の墓・その3












 その後、主君である森長成が元禄10年に病死し、嗣子衆利(あつとし)が継ぐも、暗愚の主であったため、この年の8月、津山藩主森家は断絶してしまう。このため、代々家老職を務めてきた長尾隼人正勝明は失職、主君の位牌を抱いて出雲へ向かい、松江藩主松平家に500石で仕えたという。

 勝明がなぜ松江藩松平氏に仕えることになったのか、その経緯はわからないが、勝明は宝永3年(1706)に当地(松江)で亡くなっている。当時松江藩主は、延宝3年(1675)松平綱隆が没すると、甲斐守綱近が襲封、出羽守となって以後宝永元年(1704)まで藩政を運営している。

 晩年は眼病が災いして吉透に譲ったが、あくる宝永2年(1705)に、綱近は「雲陽誌」の編纂に取り掛かり、黒沢長顕・斉藤豊仙らにその作業を命じている。おそらく、綱近は、長尾勝明が津山において地誌作成に係っていたことを知っていたのだろう。津山藩時代における勝明の実績・経験を買われ「雲陽誌」の作成に当たって、黒沢・斉藤両名に協力させたことは想像に難くない。

衆楽園

 津山城の北方に作庭された庭園で、当時の大きさより三分の一に縮小されているが、当時の面影をよく残している。
 京都より小堀遠州流の作庭師を招いて築かれたとあるので、備中松山藩主2代小堀遠州(政一)が作庭した高梁市の頼久寺の庭園もおそらく参考にされたものと思われる。
【写真左】衆楽園入口付近
 手前に4,5台の駐車スペースがある。









 現地の説明板より

“旧津山藩別邸庭園(衆楽園)
    国指定名勝(平成14年9月20日指定)

 衆楽園は、津山藩主森 長継が明暦年間(1655~58)京都から小堀遠州流の作庭師を招いて築いた大名庭園です。当時の面積は23,504坪と現在の3倍近い広大なもので、御殿が造られ城主の清遊の場となっていました。津山藩では防備のうえから城内に他藩の使者を入れず、ここで応対したので、「御対面所」と呼ばれました。
【写真左】衆楽園・その1


 その後、森氏にかわって入封した松平氏に引き継がれましたが、明治3年正月、時の藩主松平慶倫(よしとも)が「衆楽園」と命名し公園として一般に公開しました。明治4年の廃藩後、多くの建物が取り壊され規模も縮小して一時「偕楽園」また「津山公園」と改称されましたが、幸いにして園地の主要部分は残り、大正14年再び「衆楽園」と改称し現在に至っています。
【写真左】衆楽園・その2


 この庭園は京都の仙洞御所を模したもので、明暦の創園当時から伝わる建物としては余芳閣が残っています。南北に長い池に大小四つの島を配し、周囲の中国山地を借景とした構成は、近世池泉廻遊式(ちせんかいゆうしき)庭園の典型であり、江戸時代初期の大名庭園のおもかげをよく残しています。”
【写真左】衆楽園・その3

2013年3月14日木曜日

津山城(岡山県津山市山下)

津山城(つやまじょう)

●所在地 岡山県津山市山下
●別名 鶴山城(かくざんじょう)
●築城期・その1 嘉吉年間(1441~44)
●築城者・その1 山名教清(山名忠政)
●築城期 その2 慶長8年(1603)~元和2年(1616)
●築城者 その2 森忠政
●城主 森氏・浅野氏・松平氏
●遺構 石垣・堀・櫓など
●指定 国指定史跡
●形態 平山城・独立式層塔型4重5階
●登城日 2013年1月7日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 岡山県美作に残る現在の津山城は、中世山城の形式のものではないが、最初に築かれたのは嘉吉年間(1441~44)とされている。しかし間もなく当城は廃城となり、江戸期に入って改めて近世城郭として森氏によって築かれた。現在残る石垣群などはその当時のものとされている。
【写真上】津山城遠望・その1
 南側を東西に流れる吉井川対岸から見たもの。
【写真上】津山城遠望・その2
 上の写真とは別に、こちらは反対側の北から見たもの。
 第1期の嘉吉年間、山名氏が築いた鶴山城時代の姿が彷彿とされる。



現地の説明板より

 津山城跡
        国指定史跡(昭和38年9月28日指定)

 津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長9年(1604)に起工し、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
【写真左】津山城案内図
 上が北を示す。











 往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落とし等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものでした。
 また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には70余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
【写真左】薬研堀付近
 北西部に当たる個所で、「厩堀」と同じく、嘉吉年間山名氏が鶴山城を築いたころの形状が残っているという。





 この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期に当たり、津山城の縄張の巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。
 明治6年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌7年から8年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。
 その後、明治33年(1900)、城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和38年に国の史跡に指定されました。
【写真左】登城道
 南側の駐車場に停めて、北に向かい階段を少し上り、右に曲がると入口が見える。
 大手門に当たる個所である。




山名教清と忠政

 前稿まで紹介した置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも述べたように、嘉吉の変(嘉吉元年・1441)によって山名一族は赤松氏の旧領播磨・美作・備前の守護職を与えられた。津山城のある美作国では、山名教清が守護職として補任された。
【写真左】鶴山館(かくざんかん)
  入口の冠木門から入り、右側の階段を進むとこの建物が見える。位置的には当時の三の丸の東端部に当たり、塩焇拵所があったところになる。
 津山藩の学問所(文学所)として明治3年(1870)に着工され、以後北条県立津山中学校などと変遷した。


 教清は次代の政清と共に岩屋城・小篠山城・鶴山城(津山城)を築くことになる。このうち、鶴山には、教清の叔父忠政が守護代として鶴山城に拠った。

 それから約25年後の応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発すると、守護職山名政清は京に上った。おそらく、鶴山城(津山城)主であった忠政も一緒に京都へ従軍していったのだろう。この隙を狙って、旧領奪回を目指す赤松氏は美作に進攻、守護に任じられた。そして3年後の文明2年(1470)頃には美作は赤松氏の支配下となった。
【写真左】表中門付近
 三の丸から二の丸に繋がる個所で、左側の階段が二の丸に向い、右の小さい階段は見付櫓方面に繋がる。





 しかし、10年に及んだ応仁の乱が終わると、再び山名氏が美作奪回を目指し、当国全域を勢力下に置くことになった。だが、山名氏の支配にもかかわらず、守護職に任じられることはなかった。

 おそらく山名氏の支配は名目上のもので、実態は家勢が衰えていたため、忠政及びその子・惟重の2代による約30年の在城をもって、第一期の鶴山城(津山城)はここに幕を下ろすことになる。
【写真左】二の丸から備中櫓を見上げる。
 近年再現された櫓で、本丸の南西端に配置している。中には御茶席・御座の間、御上段といった間がある。



 ちなみに、その後の文明16年(1484)から明応5年(1496)の間は赤松氏が補任されている。これは以前にも述べたように、守護代であった浦上氏の強力な支援があったからである。

 なお、この山名氏時代の鶴山城の遺構概要ははっきりしない点が多いが、伝聞では現在も残る「厩堀」と「薬研堀」は当時のものとされる。
【写真左】切手門跡
 二の丸から再び方向を変えて東に向かうと、切手門がある。最初の階段を登ると右側には弓場(弓櫓)が控え、その東端には辰巳櫓がある。




森忠政

 さて、第二期の鶴山城(津山城)は、江戸期に入ってからである。この城を近世城郭として築いたのは森忠政である。

 彼は、美濃国金山城主であった森可成(よしなり)の六男として生まれた。忠政の名が知られるのは、津山城主としては勿論だが、むしろ織田信長に仕え本能寺の変で、信長共々討死した森蘭丸の弟としてのほうが知名度が高いようだ。
【写真左】辰巳櫓から宮川を見る。
 津山城の東側には北方から流れる宮川が南流し、吉井川と合流している。
 城域を巡る当時の水壕はほとんど宮川からの引込で、北から導水し、ぐるっと西側に回り、再び東に向かって宮川と合流していたようだ。

 また、合流する本流・吉井川と近いこともあり、この箇所には中国山地から大量の材木が集積され、今でもその箇所は「材木町」という地名が残る。
【写真左】粟住城遠望
 所在地 真庭市粟住

 なお、津山城の築城施工に使われた主だった材木は、吉井川を遡った蒜山方面からのもので、特に真庭市にある「粟住城」(未投稿)付近から多くの材木が吉井川を使って筏で運び込まれたという。


 ちなみに、忠政の兄弟については以下の通り。

  1. 長男 森 可陸(よしたか)  (1552~70) 信長に仕える。通称傳兵衛。越前敦賀・手筒山城にて討死。享年19歳。
  2. 次男 森 長可(ながよし)  (1558~84) 信長・秀吉に仕える。通称夜叉武蔵。尾張長久手にて討死。
  3. 三男 森 成利(なりとし)   (1565~82) 信長に仕え、本能寺にて信長と討死。通称蘭丸。
  4. 四男 森 長隆(ながたか)  (1566~82) 信長に仕え、本能寺にて兄蘭丸とともに討死。
  5. 五男 森 長氏(ながうじ)   (1567~82) 信長に仕え、本能寺にて二人の兄とともに討死。通称力丸。
  6. 六男 森 忠政(ただまさ)  (1570~1634) 通称千丸。長可のあとを受けて、秀吉・家康に仕え、信濃国川中島13万7千石の領主となる。
【写真左】太鼓櫓付近
 表鉄御門を過ぎると、東側に太鼓櫓が見える。この箇所にはこのほか、鼓櫓をはじめ、北に向かって走家・矢切櫓・月見櫓などが長く伸びている。


 以後森氏が当城を治めていくことになるが、元禄10年(1697)4代の長成が他界すると、嗣子がいなかったため同氏は95年間の在城を最後とし、その翌年(元禄11年)親藩松平越後守宣富が、同国のうち10万石を受領して当城を引き継ぐことになった。松平氏はその後9代95年間続くことになる。
【写真左】矢切櫓・走家
 上の写真でも紹介したように、本丸の東側には南北に延びる矢切櫓がある。
 現在この北側付近にかけて修復工事が行われている。
【写真左】腰巻櫓
 本丸の北西端にある櫓で、この右側の階段を下っていくと、北側の裏門に繋がる。
【写真左】常用の井戸
 本丸南側中央部に残るもので、現在は建物はないが、この北側には台所(流し・御賄の間)などがあった。
【写真左】天守閣入口付近
 登城したこの日、天守閣付近も改修工事が行われていた。このため、中央部までは向かっていない。





次稿では津山城関連の他の史跡について紹介したい。