2013年2月26日火曜日

因島・青陰山城(広島県尾道市因島中庄町)

因島・青陰山城(いんのしま・あおかげやまじょう)

●所在地 広島県尾道市因島中庄町青陰・田熊町
●築城期 南北朝期か
●別名 青影城
●築城者 不明(今岡氏・伊予衆か)
●城主 伊予衆・因島村上氏など
●指定 広島県指定史跡
●高さ 標高275m(比高180m)
●遺構 郭・木戸跡など
●登城日 2012年11月25日

◆解説(参考文献(『日本城郭体系第13巻』『サイト「城郭放浪記」』等)
 瀬戸内海のしまなみ海道を繋ぐ島の一つ・因島の青影山に築かれた山城である。因島の山城については、これまで千守城跡(広島県尾道市因島三庄町千守)を紹介しているが、青陰山城は同島の中でも高い位置にあり、眺望は極めてよい場所に築かれている。
【写真左】青陰山城遠望・その1
 北側にある村上水軍城から見たもの。
2014年12月撮影
【写真左】青陰山城遠望・その2
 南西麓の金山フェリー前(三光汽船発着場)ふきんから見たもの。







 当城については、いつものように現地の説明板から紹介したいところだが、管理人が登城したとき、現場にはその説明板の枠が残るのみで、肝心の文面が消失してしまっていた。このため、サイト『城郭放浪記』氏の写真から転載させていただく。
【写真左】青陰城と千守城の位置
 青陰城は因島の西方にあり、以前紹介した千守城は東方に配置されている。








“青影城跡

 標高277mの青影山の頂にあり、元弘年間村上義弘が居城してから慶長元年第10代村上吉亮が世を終わるまで、約260年間村上家累代の城であった。

 当時をしのぶものとして、本丸跡と二の丸跡の平坦地、それをつなぐ通路が一段低くなって頂上を形成、本丸の下に武者走り、東に三の丸の城門、石風呂、井戸等の跡があり、昭和32年9月広島県史跡として指定された。”
【写真左】登城口付近
 登城道は複数あるようだが、この日は南麓部からのコースを使った。

 写真に見える箇所には車1台分のスペースがあり、平日だったこともあり何とか停めることができた。

 余談ながら、瀬戸内の島独特の大変に狭い道で、対向車が来たら相当難儀することを覚悟しなければならない。


築城期と築城者

 上記の説明板によれば、元弘年間村上義弘が居城云々とある。しかし、これについて『日本城郭体系第13巻』は、村上海賊衆が瀬戸内海で水軍として活動し始めるのは、室町期も後期のことであり、村上義弘在世の貞治4年(正平20年・1365)頃には、のちの能島・来島・因島の三島村上氏のような海賊衆の組織化は見られない、としている。
【写真左】登城途中から青陰山城を見る。
 登城口から本丸まではおよそ600m程度で、道の方も整備されている。
 写真左側に見える岩は、下段に紹介する仙龍寺・奥ノ院に付属する仁王像が描かれているもの。
【写真左】仙龍寺の向背に描かれた仁王像
 この岩とは別にもう一つ絵が描かれているものがある。磨崖仏のようなものではなく、色を塗布したような仕上げになっている。



 この島に城郭を構えてくる必要が出だしたのは、南北朝期と考えられ、康永2年、青陰山の北麓から東に拡がる中庄町(かつては広い入江だった)の東南端の堂崎山城で、南北両軍の激しい戦いが繰り広げられており、青陰山城もこのころ築かれたものと推察される、としている。

 このころ因島を押さえていたのは、南朝方であった伊予衆で、北方から安芸・小早川氏が北朝方として南下してきている。その際、北朝方の攻めを最初に阻止するために築かれたのが、上述の堂崎山城である。

 当城については管理人は未登城だが、『城郭放浪記』氏が既に登城報告されているのでご覧いただきたい。この城の築城者は、南朝方の広沢五郎と大館右馬亮といわれ、当城における最も激しい戦いが、康永2年といわれている。
【写真左】石積みされた段
 登城途中、右側にあったもので、当時のものか、最近のものかわからないが、眺望が楽しめる。






今岡氏

 青陰山城の南麓部には館跡があり、そのうち南麓には「今岡氏屋敷跡」と伝承されるものがある。残念ながら現地でその場所は確認できなかったが、今岡氏は南北朝期に活躍した伊予衆といわれ、おそらく南朝方で当城の築城者ともいわれている。

 その後、村上氏が同島を支配下に治め、長崎城・青木城・余崎城(広島県尾道市向島町立花)などを支城として構えることになったと考えられる。
【写真左】分岐点
 青陰山城の東方にある鞍部で、この箇所で北側から登ってきた道と合流し、西(写真の正面)に進むと青陰山城へ、手前に行くと、風呂山方面に向かう。













城の構成

 青陰山を囲むような形で、東には風呂山、西に山伏山などが連なっているが、このうち三の丸は山伏山との間を介在する位置にあり、東には風呂山との間を掘りきった二の木戸(城門跡)を構え、そこから北麓への道をたどると、二段からなる屋敷跡があったといわれている。

 数年前まで当城の配置図などが掲示してあったようだが、相当劣化したため現在ではなくなっている。
【写真左】二の丸・その1
 上図の道を登っていくと、最初に二の丸が現れる。
 長さ約40m、幅5~10m前後のもので、南側には屋根付きの展望台が設置されている。
【写真左】二の丸・その2 石碑
 この石碑には、

 “建武中興六百年記念
村上義弘公青影城址登山路改修碑
 田熊 村上氏一族”

と刻銘されている。
【写真左】二の丸から南方を俯瞰する。
 二の丸からは南方がよく見える。
 この写真では、左から弓削島・生名島・鶴島などが見える。なお、麓の町は田熊町の町並み。


【写真左】二の丸から本丸へ
 二の丸から西に向かうと本丸に繋がるが、この連絡路は少し幅が狭くなり、途中の北側には深さ50cm程度の四角形に抉られた箇所が残る。何の目的かわからないが、人為的な遺構と考えられる。

 なお、この連絡路は登り坂で約50m程度の長さがある。
【写真左】本丸・その1
 二の丸とほぼ同じ程度の規模を持つもので、若干幅が広い。
【写真左】本丸・その2 石碑
 本丸は西側が少し高くなっているが、その場所にこの石碑が祀られている。
【写真左】三の丸
 本丸の西端部から2m程度の段差を持ち、幅3m程度の郭が本丸西端外周にとりついている。
【写真左】本丸南側
 青陰山城は東西に伸びる尾根筋を利用して築城された城砦であるため、南北は天険の要害である。

また、三の丸の西端部も山伏山との間が険しい谷を構成しているため、尾根筋以外の箇所で加工された郭などの遺構は少ない。
【写真左】本丸から北方を俯瞰する。
 本丸からほぼ真北には尾道市因島史料館や模擬天守の因島水軍城などが見える。

 その先には、因島大橋の橋脚や向島、さらに左側には本土側の三原市が確認できる。

2013年2月21日木曜日

安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その2

安芸・高山城(あき・たかやまじょう)・その2

●所在地 広島県三原市高坂城
●別名 妻高山城
●指定 国指定史跡
●登城日 2013年1月13日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 今稿は前稿に引き続き南尾根の郭群、並びに安芸小早川氏について紹介したいと思う。
【写真上】鳥瞰図
 今稿はこの図でいえば、上段のの尾根伝いの郭群になる。
 南北尾根の間にある馬場をはじめとし、右から西の丸・太鼓丸・高野丸・イワオ丸・西丸など。


竹原小早川家

 小早川氏についてはこれまでも概略紹介しているが、毛利元就の三男隆景が同氏の養子となっていった経緯を述べたいと思う。

 隆景が最初に養子として入ったのは、庶流の竹原小早川氏である。木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)でも述べたように、竹原小早川氏は、沼田小早川茂平の子・政景を始祖とし、正喜2年(1258)竹原地頭職として木村城を築城した。以後約300年間竹原小早川氏は当地を支配することになる。
【写真左】馬場跡東端部
 扇の丸と本丸の間の道を下り、竹林のトンネルのようなところを進むとご覧の場所に出る。
 前稿で紹介した北の丸と、南側の郭群(イワオ丸など)との分岐点で、正面の藪(谷間)が馬場跡となる。

 残念ながら馬場跡については、まったく整備されておらず、踏査はできない。
 ここから左に向かう。


 天文10年(1541)、13代当主興景は跡継ぎのないまま亡くなった。興景の妻は毛利興元の娘である。つまり興元の弟・元就の姪に当たる。

 継嗣が途絶えることは竹原小早川家にとって当然避けなければならない。重臣たちによる協議によって、白羽の矢が立ったのは、元就の三男で当時9歳の徳寿丸(後の隆景)だった。当初元就はこの縁談に消極的だったといわれる。おそらく元就としては、徳寿丸の元服を待ってからという気持ちもあったのだろう。
【写真左】石積み
 馬場跡と南郭群北麓部との境を西に向かう道の場所で、ところどころこうした石積みが見える。





 
 もっとも、当時この縁談は毛利家・小早川家の両家のみで決まる問題ではなかった。このころ元就は安芸国も支配していた大内家(義隆)に属していたため、最終的には大内氏の了解が必要だった。幸いなことにこの縁談は義隆も支持し、興景の三回忌が終わった天文13年(1544)、徳寿丸は竹原に入った。

 竹原小早川氏第14代となった徳寿丸は、さっそくその年、尼子方であった備後の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)の山名正興(ただおき)攻めに参陣、戦功を挙げた。
 そのあと、元服し名を「隆景」と改めた。隆景の隆は大内義隆の偏諱「隆」であり、景は興景の「景」である。
【写真左】西の丸と太鼓丸の分岐点
 馬場跡の南から西に向かってしばらく歩くと、次第に上り坂となってこの地点に出る。

 写真の先に西の丸が控えているが、あとで踏査しようと思い、そのまま太鼓丸の方へ向かった。しかし、途中ですっかり西の丸のことを忘れたまま下山してしまい、結局この郭は見ていない。
 

沼田小早川氏の継嗣問題

 ところで、このころ惣領家であった沼田小早川氏も同じく継嗣問題が生じていた。2009年3月に投稿した小早川正平の墓(島根県出雲市美談町)でも紹介したように、天文12年(1543)5月、出雲の尼子氏居城月山富田城攻めにおいて、大内・毛利両軍は失態を重ね大敗した。このとき、敗走の殿軍(しんがり)を務めたのが、沼田小早川氏第14代正平である。
【写真左】太鼓丸へ向かう
 南尾根の郭群は前稿で紹介した北尾根郭群と違い、各段の高低差はこのあたりで平均して4,5m程度と結構な高さを持つ。



 沼田小早川氏は、当初大内方に属していたが、天文8年(1539)正平は密かに尼子方に寝返ろうとした。しかし、このことを察知した義隆はすぐさま高山城を包囲し、正平を監視下に置いた。

 こうしたいきさつから、天文11年から12年にかけての出雲月山富田城攻めの失敗によって、殿軍を命じられ、敗走の末、出雲国美談(出雲市)の地において尼子方の追手により21歳の若さで討死してしまった。

 正平が大内方から尼子方に寝返った背景には、やはり竹原小早川家との確執があったからなのだろう。
【写真左】太鼓丸
 鳥瞰図では太鼓丸の範囲が示してなかったが、おそらく複数段ある郭をまとめたものだろう。
 各郭の施工度も高く、切崖も明確に残る。



 正平討死のあと、沼田小早川家は正平の子で幼少の又鶴丸が家督を継ぎ、名を繁平と名乗った。しかし、彼は3歳のとき眼病を患い失明していた。

 盲目の当主では沼田小早川家をまとめることに不安を感じた家臣や、大内義隆は結局彼を高山城から下城させ隔離する措置をとった。こうなると、沼田小早川家も継嗣の目途が立たなくなる。
【写真左】太鼓丸側から西に新高山城を遠望する。
 南尾根側から最も接近しているのは、先ほどの西の丸になるが、標高が低いため、むしろ高くなった太鼓丸側からのほうが全貌を楽しめる。
 手前が新高山城で、その向背には沼田小早川氏庶流の梨羽氏の梨羽城や丸子山城が控える。


竹原・沼田小早川両家の合一

 そこで、竹原小早川家の養子となって家督を継いだばかりの隆景を繁平の妹(後の問田大方(といたのおおかた))と結婚させ、併せて沼田小早川家と竹原小早川家の両家を合一させることにした。

 この計画は当然ながら当初家臣の間で争論が起こった。特に繁平を擁する家臣たちは小早川惣家としての威信があり、敵対していた竹原小早川家との確執もあって拒んだ。しかし、こうした動きを一掃させ、合一を積極的に進めたのが、乃美隆興である。
【写真左】高野丸附近
 別名権現丸といわれる郭群で、全体に幅は狭いが、東西に長く伸びて複数の郭で構成されている。





 乃美隆興は、竹原小早川家第12代弘平の子で、娘は毛利元就の後妻となっていた。

 なお、以前賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)で紹介した乃美宗勝(浦宗勝)も、乃美隆興と同じく小早川庶流(乃美氏)の流れである。
【写真左】高野丸から北方に北尾根の北の丸を見る。
 後ほど紹介するイワオ丸と同じく南尾根郭群で最も高い位置にあたるが、ここから北に目を転ずると、馬場跡のある谷を隔てて、最初に踏査した北尾根の北の丸が見える。


【写真左】高野丸
 元々の尾根幅だったものか、それとも人為的に加工されたものか分からないが、幅の変化が激しい。


【写真左】土橋か
 高野丸と東方のイワオ丸を連絡するもので、ここではさらに道幅が狭く、南側は天険の切崖である。

 左側の窪みも何らかの用途として使用されたのだろう。
【写真左】土橋付近から南西麓を見下ろす。
 本郷の町並みと沼田川が眼下に見えるが、この付近の崖も険しい。
【写真左】イワオ丸・その1
 南尾根郭群の中で最も大きいもので、戦略上重要な場所であったものと思われる。
【写真左】イワオ丸・その2
 イワオ丸には岩塊が1か所あるが、その脇にはこのような水貯めが残る。
 高山城の中にはこのほかにも数か所の井戸跡があったものと思われるが、水場としての遺構は管理人の知る限りこの箇所のみだった。

 応仁の乱の際、6年もの間持ちこたえたという記録を見ると、こうした水や兵量の確保のために様々な施設を具備していったものと思われる。
【写真左】イワオ丸・その3
 手前の岩が先ほど述べた岩塊で、このイワオ丸という名称もおそらくこの岩塊から名づけられたものだろう。

 この郭は中央部の谷(馬場)に向かって三角状に約50m程度伸びている。
 このあと、写真右側に進むと下り坂になり、次の西丸(東丸)・出丸に繋がる。
【写真左】西丸(※ 東丸か)
 現地の鳥瞰図には「西丸」と記されているが、これとは別に前段で紹介した西方の「西の丸」という郭が西方にあり、東方にあるこの郭は西丸ではなく、位置から考えても「東丸」の間違いと思われる。

 幅10~15m×奥行60m前後
【写真左】東丸と出丸
 東丸をそのまま進んで行くと、次の郭が見えるが、その間には空堀が介在している(下段写真参照)
【写真左】空堀
 尾根を遮断しているので、堀切といった方がいいかもしれないが、当時はもっと深かったものと思われる。
 この堀はそのまま南斜面を下って竪堀の形式をとっている。
写真左】出丸
 南尾根郭群の東端部に当たるが、南東部を扼する位置であったことから施工精度も高いようだ。

 このあと、近道をして先ほど通過した馬場跡に向かう。
【写真左】馬場跡
 ご覧の通り単なる荒れ原野になっているが、北尾根と南尾根の間にある谷間にあり、かなり広いようだ。

 おそらく西側からの侵入も険しい天険の要害であったことから多くの馬がこの場所で安心して鋭気を養っていたのだろう。また重要な水もこの場所なら南北の尾根から湧き出す水があったものと思われる。
【写真左】高山城と新高山城を遠望する。
 下山し南麓の沼田川沿いの道路から見たもので、この日は靄がかかっていたが、視界のいい日にはさらに両城の雄大な姿が見えるだろう。



感想

 さすがに国指定史跡を受けるだけの堂々たるみごとな山城である。

 鎌倉期に築城され、以後戦国期の天文年間まで300年以上小早川氏の本拠城であったわけだが、北尾根郭群と南尾根郭群がそれぞれ独自の遺構形態を残している。

 戦国末期にいたると、西隣の新高山城に移ることになるが、管理人の趣味から言えば、新高山城も見ごたえがあるが、高山城の方により魅力を感じる。

2013年2月20日水曜日

安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1

安芸・高山城(あき・たかやまじょう)・その1

●所在地 広島県三原市高坂町
●別名 妻高山城
●築城期 建永元年(1206)頃
●築城者 小早川茂平
●城主 小早川氏
●高さ 291m(197m)・比高184m
●遺構 本丸・二の丸・北の丸・西の丸・イワオ丸・馬場等多数
●指定 国指定史跡
●登城日 2013年1月13日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 安芸・高山城については、以前新高山城(広島県三原市本郷町本郷)でも紹介している。本来ならば、新高山城の投稿に併せて当城も紹介すべきところだったが、この城の登城口がなかなか分からず、また南麓部にあったことは分かったものの、険しいコースだっため、二の足を踏んでいた。
【写真左】高山城遠望・その1
 南東部にある米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)側の峠から見たもの。
2014年5月8日撮影
【写真左】高山城遠望・その2
 東麓を流れる仏通寺川沿いにある河崎付近(南側)から見たもので、本丸は右側にある。






 そうしたところ、度々管理人が参考にさせていただいているサイト「城郭放浪記」氏が、最近みごとな当城の写真をアップされ、しかも険しくないもう一つの登城口(北側からのアクセス)を紹介しておられたので、これを頼りに登城することにした。改めて「城郭放浪記」氏にお礼を申上げたい。
【写真上】高山城鳥瞰図
 この図は北側から見たもので、高山城の真下を山陽新幹線が走っている。また、以前紹介した新高山城はこの絵には描かれていないが、右側にあり、沼田川を挟んで西に配置する。

 高山城の主だった遺構を示すと、北側の峰に本丸を置き、東西には扇の丸・二の丸・北の丸があり、南側の尾根との間に、馬場を置き、南側には、西の丸・太鼓丸・高野丸・イワオ丸・西丸などがある。



現地の説明板より

“高山城と小早川隆景公の歴史

○鎌倉時代の初期、小早川4代小早川茂平築城。
○1400年頃大火に遭う。
○毛利元就の三男が竹原小早川の養子となり、小早川隆景を名乗る。
○1551年、本家沼田の小早川をも継ぎ、高山城へ入る。時に20歳。
○1552年、17代小早川隆景本城を新高山へ移す。
○築城してからこの間、沼田小早川惣家の本城として約350年。
○1567年、三原城を築き始め、1582年、隆景三原に移る。
○9曲輪と多くの出丸を持ち、中央の低地を挟んで二つの連郭式縄張の山城である。
○高さ291m、広さ41万㎡、全国でも五指に入る規模。”
【写真左】登城口付近
 東麓を走る50号線(県道か)から枝分かれする高坂町真良という地区に当たるが、かなり急坂道となっており、しかも道が狭い。ただ、登城口付近には墓地があるため、駐車スペースは2台程度確保できる。
 なお、このコースはいわゆる搦手道となる。


土肥実平

 沼田小早川氏については、新高山城(広島県三原市本郷町本郷)で既に紹介しているので、ご覧いただきたいが、始祖は土肥実平である。

 実平の根拠地は相模国土肥郷で、現在の神奈川県足柄下郡湯河原町~真鶴町に当たる。現在でも地元には実平の銅像や、居城といわれた土肥城(H562m)などが残る。

 実平が西国に赴くきっかけとなったのは、源平合戦における頼朝側近として活躍したことからだが、元暦元年(1184)、備前・備中・備後の惣追捕使となって、備後国の有福荘を拠点としたことから始まる。

 有福荘というのは、現在の広島県府中市上下町有福で、当地には実平などが拠った有福城(H531m)も残る。この城についても、既に『城郭放浪記』氏が紹介されているのでご覧いただきたい。
【写真左】登城道
 搦手側となるこのコースは、道幅約1m前後が確保され、九十九折状に登りやすくしてある。ただ、この時期(1月13日)落ち葉が厚く堆積しており、結構足元が滑る。



小早川茂平

 ところで当地沼田荘は、鎌倉期以前は当然ながら平氏の支配地であり、京都三十三間堂で有名な蓮華王院の領地(荘園)でもあった。そして平氏の家人である沼田氏がこの荘園の本下司を務めていたという。

 小早川を名乗りだしたのは、実平の子・遠平であるが、これは土居郷の地名である小早川からきたものである。平氏滅亡後、いわゆる没官領(もっかんりょう)となって、北の有福荘にあった小早川氏が地頭として南下し、入ることになる。
【写真左】「北の丸」と「二の丸」分岐点
 登城道を登りきった最初の地点で、「北の丸」と「二の丸」の分岐点になる。
 先ず、正面(西側)の北の丸に向かう。



 そして、沼田荘の本格的な経営基盤を構築したのは、遠平の孫・茂平のころからである。『日本城郭体系第13巻』によれば、茂平の代になってから、東国から一族を率いてこの地に移ったとあり、初期の地頭職であったころは、相模国と安芸沼田荘にそれぞれ在住していた。

 この理由は、入部してきた地頭職が必ずしも赴いた土地を完全に支配する保障がなかったからであろう。この傾向は鎌倉期に西国に入部してきた他の一族と同じような流れである。
【写真左】北の丸・その1
 高山城の北側尾根筋に構築された郭群は全体に規模が大きく、しかも平滑に造成されている。
 この付近は、およそ、幅15m×奥行30mで、この先にはさらに3段の小郭が沼田川に向かって階段状に設置してある。
【写真左】北の丸・その2
 北の丸の西端部で、下段には北西方向に伸びる小郭があり、眼下には沼田川が見える。

 沼田川沿いに山陽本線が走り、さかのぼっていくと、今月紹介した松嶽城(広島県東広島市河内町入野)がある。


室町・戦国期

 室町期における当城がもっとも戦火にあったのは応仁の乱のときといわれている。このころ安芸国は、大内氏がその力を誇示していたものの、武田氏との対立が顕在化していた。この武田氏を支援したのが東軍方の細川氏である。
【写真左】北の丸側から新高山城を見る
 この位置から沼田川を挟んで西方には小早川氏が後に移った新高山城が見える。
 余談ながら、両城ともこの真下を新幹線が走っているので、トンネルを抜けるたびに轟音が下から聞こえてくる。
 このあと、戻って二の丸へ向かう。



 そして、安芸小早川氏一族は、すでに惣領家沼田小早川氏と、庶流家竹原小早川氏(木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)参照)との不和が生じていた。このころの高山城主即ち、惣領家小早川は、敬平(たかひら)である。敬平は父・煕平(ひろひら)が、東軍方細川勝元に属して京に上ったあと、地元の守備を務めていた。その父が京で討死すると、敬平は家督を継ぐや、すぐに父に代わって京に上り東軍方として戦った。敬平が京に上った間隙をついて高山城を攻めたてたのが、竹原小早川氏の弘景らである。
【写真左】二の丸・その1
 二の丸も規模が大きく、南に向かって3段の郭で構成されている。







 この報を聞いた敬平は文明6年(1474)、京から沼田高山城に戻り、西軍方の攻めを防いでいる。落城寸前までいったとされる高山城攻めは、敬平の奮闘で6年もの間持ちこたえた。

 その後、惣領沼田小早川家と竹原小早川家は、永正14年(1517)両家の宿老らによって解かれ、天文19年(1550)の竹原小早川隆景が、沼田惣領家に養子として入ると、両家は合体されることになる。
【写真左】二の丸・その2
 最下段の郭から見たもので、左側の熊笹を越えた位置に北の丸がある。
【写真左】二の丸と本丸を繋ぐ連絡路
 二の丸から本丸へ繋ぐ道で、二の丸から一旦1,2m程度下がり、幅約2m程度の連絡路が設置されている。左側は切崖だが、右側の熊笹などが繁茂しているところは、削平地にも見える。何らかの用途として使用された箇所と思われるが、分からない。
【写真左】本丸・その1
 先ほどの連絡路を進むと、本丸手前に控えの郭があり、そこから約1.5m程度高くなったところに本丸となる郭が配置されている。
 目測で20m×30m程度の大きさと思われるが、東・北・西側の周囲には帯郭が取り巻いている。
【写真左】本丸側から振り返って二の丸方面を見る。
 振り返ってみると、かなりの規模であることが分かる。
【写真左】本丸から「扇の丸」へ向かう途中の小郭
 本丸の南東部には1段下がった三角形の小郭がある。この郭は下段に示す「扇の丸」へ向かう途中にあるもので、さらにこの位置から一旦南に降りて馬場に向かう箇所でもある。
【写真左】扇の丸・その1
 中規模な郭だが、北尾根側の東端部の郭として、重要な場所だったものと思われる。
なお、この郭のさらに東側下段には、「ハチツコ」という変わった名称の独立した小郭があるようだが、道標をみつけられず踏査していない。
【写真左】扇の丸・その2
 井戸跡らしき窪みが中央部にある。また、この箇所だけ少し高くなっているところもあり、あるいは櫓台のようなものの痕跡かもしれない。
【写真左】扇の丸・その3 帯郭
 扇の丸の周囲にはこうした小郭が取り巻いている。




【写真左】扇の丸から本郷の町並みを俯瞰する。
 JR山陽本線本郷駅などが見える。








 今稿はここまでとし、次稿では、馬場跡をはじめ、イワオ丸を中心とした南尾根の郭群を紹介したい。