2013年11月24日日曜日

伝・土御門の墓(島根県松江市宍道町東来待浜西)

伝・土御門の墓(でん・つちみかどのはか)

●所在地 島根県松江市宍道町東来海浜西
●探訪日 2008年1月21日
●備考 俗称「王さんの墓」


◆解説(参考文献 サイト「島根県遺跡データベース」等)
  前稿に続いて土御門の墓をとりあげるが、今稿は出雲国に建立されているもので、通称「王さんの墓」と呼ばれているものを紹介したい。
【写真左】伝・土御門の墓 遠望
 場所は、JR山陰線来待駅から約500m程度南西に向かった位置で、宍道湖に注ぐ来待川(きまちがわ)の東の広い田圃の一角にある。

 現地にはなにも標記されたものはないが、現在のようにブロックで囲んだ形にしたのは昭和40年代という。



土御門の墓

 ところで、土御門の陵墓といわれているのは、京都府長岡京市金ケ原にある金原陵(みささぎ)とされている。

 なぜ、御門の墓が出雲の地に残っているという伝承が生まれたのだろうか。承久の乱において倒幕に失敗した後鳥羽上皇は、出雲国から北の日本海に浮かぶ隠岐島に、順徳上皇は佐渡にそれぞれ配流された。承久3年(1221)8月5日のことである(『吾妻鏡』)。
【写真左】五輪塔と宝篋印塔・その1
 複数の墓石がこの中にあり、このうち宝篋印塔の形をしたものが親王のものと思われるが、どれもかなり劣化していて、刻銘された文字もはっきりしない。



 土御門の配流については実は御門自身が希望したものとされている。実際、この乱に具体的な関与は全くしていなかったため、幕府も当初何の処罰も考えていなかった。しかし、御門は父や弟が配流され、自分だけが都にいることを潔しとせず、自ら配流を申し出た。

 最初の配流先が土佐国で、その後土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市大麻町池谷)で紹介したように阿波鳴門に移っている。
【写真左】五輪塔と宝篋印塔・その2
 中小の五輪塔などはおそらく随従してきた者たちで、生前は親王の身の回りの世話などをしていたものだろう。

 そして、親王が崩御の際、全員が殉死したと考えられる。




 では、出雲に残る「土御門の墓」は誰のものだろうか。サイト・島根県遺跡データベースでは、「伝土御門親王墓」と登録されている。

 伝承ながら「土御門」という名が残っていることを考慮すれば、やはり御門の血を引く者しか考えられない。となれば、御門の子息、すなわち親王となるだろう。

 御門の子女のうち、親王(男子)は記録されているところでは、後の第88代天皇となる後嵯峨天皇をはじめ、12人いたとされる。おそらくこれらの中から誰かが、御門の命を受け、出雲に向かったのではないかと思われる。そして、隠岐に流された祖父の還幸を願いつつ、日本海を隔てた出雲の地において、ひたすら待ち続けたのではないだろうか。
【写真左】同上
 現在この周辺部は土地改良によって整地されているが、中世にはこの辺りも宍道湖の畔だったと思われる。
 来待川がもたらした堆積によって、おそらく度々墓石が埋まり、その都度整備してきたものと思われる。
 
 宍道湖南岸部からは、祖父・後鳥羽上皇の配流先である隠岐の島は全く見えない。夕日に染まる美しい宍道湖は、親王にとってどのように見えたのだろうか。


 しかし、その願いは叶わず、父・土御門は阿波に消え、祖父・後鳥羽上皇(法皇)は、配流されてから18年後の延応元年(1239)2月22日、当地隠岐刈田郷の行在所にて崩御。待ち続けた親王もそれからほどなくして、この打ち寄せる宍道湖畔に骨を埋めたのではないだろうか。


弘長寺との関係

 ところで、伝・土御門の墓のある場所から、歩いて1キロほど東方(玉造温泉側)向かったところに、以前紹介した弘長寺(こうちょうじ)がある。
【写真左】弘長寺・その1
 












 改めて当院の縁起を示す。

“金寶山弘長禅寺総廟戒名由来碑

●開基 弘長寺院院殿満資道圓大居士

 鎌倉時代・承久の乱(1221)後、関東武蔵の国から来海(来待)荘へ入部し当寺を建立した地頭「藤原満資公」の戒名。
【写真左】北条氏の紋






 主君である北条重時・時頼の菩提を弔う為、弘長3年(1263)に当寺を建立。従って寺紋の「丸に三鱗」は北条氏の紋である。

●開闢開山 實庵見貞大和尚
  弘長3年 創建時の御開山

●開山  天麟星壺大和尚
  尼子氏菩提寺「曹洞宗洞光寺」二世様
  17世紀末「松江洞光寺」の末寺となった際、当山の御開山として勧請した。

         由来碑喜捨   弘長寺護持会”
【写真左】弘長寺・その2













 上掲した当院由来にもあるように、藤原(成田)満資が当地(来待荘)へ入部したのは承久の乱後である。繰り返しになるが、吾妻鏡にもあるように、後鳥羽上皇が隠岐に配流されたのはこの年の8月5日とされ、土御門はその年の閏10月10日とされている。

 一方藤原満資の主君であった北条重時は、承久元年(1219)に小侍所別当に就任し、その後元仁元年(1224)6月には、重時の異母兄に当たる北条泰時が、義時の跡をうけて第3代執権となっている。

 こうした経緯を考慮すると、おそらく土御門の親王(俗称:王さん)は、地頭・藤原(成田)満資の監視をうけつつも、同じ場所若しくは、近接の場所で暮らしていたのではないだろうか。そして親王が没した際は、さすがに六波羅からの目もあって、弘長寺から少し距離を置いた、1キロ西方の来待川河畔に埋葬されたのではないだろうか。

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