2013年10月25日金曜日

勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)

勝瑞館(しょうずいやかた)

●所在地 徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地
●築城期 室町期(1550年代)
●築城者 三好氏
●遺構 会所・庭園等
●指定 国指定史跡
●備考 勝瑞城址公園
●登城日 2013年6月4日

解説(参考文献「サイト『勝瑞遺跡デジタル博物館』」等)
 勝瑞館は、前稿の「勝瑞城」に隣接した場所にあって、これらをまとめて「勝瑞城館」とし、国の指定史跡にされた場所である。

 なお、この場所から北西約700m程むかったところには、阿波守護職であった細川氏の守護館が想定されている。
【写真左】勝瑞館跡
 現在も発掘調査されているようで、隅の方に事務所らしき建物が建っていた。
 現在更地となっているが、以前は工場のようなものがあったようだ。




三好之長没後

 之長が亡くなった後継いだのは、孫の元長である。管領細川家(晴元)を支えつつも、自らの支配力を高め、幕府内でも発言力を高めた。しかし、このころ本願寺との争いが生じ、本願寺一揆勢との戦いで敗れ、堺顕本寺にて自刃した。享年32歳。

 元長が亡くなった跡を継いだのが、子の三好長慶である。元長の子には、長子・長慶をはじめ、二男・義賢、そしてのちに淡路島の水軍領主・安宅(あだぎ)氏へ養子となった三男の冬康、さらにこれも後に讃岐十河城の十河氏へ養子となった四男の十河一存(かずまさ)、そして五男・野口冬長がいる。
【写真左】勝瑞城及び館跡配置図
 右上の箇所が前稿でとりあげた勝瑞城跡で、左下が今稿の館跡である。

 この図でも分かるように、発掘調査された箇所は二か所であるが、当時は点線で囲んだ範囲にも遺構があったものと思われる。
 残念ながら他の箇所は既に改変され住宅などが建っている。



三好長慶

 このうちもっとも有名なのが長男の三好長慶である。大永2年(1522)2月に現在の三好市三野町芝生(しぼう)にあった芝生城で生まれている。

 越前の「智謀無双」といわれた朝倉教景(宗滴)(1477~1555)(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)が残した「朝倉宗滴話記」に、「日本に国持、人使いの上手、よき手本と申すべき人物」として、武田信玄や上杉謙信など7人の武将を挙げているが、この中に三好修理大夫殿(長慶)を入れている。

 宗滴が直接長慶に遭ったかどうかわからないが、一時的にせよ衰退していた室町幕府にとって代わり、畿内を勢力下に置いた武将である。
【写真左】復元された枯山水の庭園
 発掘調査では、庭に使用されたと思われる景石が12個見つかった。









 長慶が中央において頭角を現し、山城・摂津・丹波を軸に、和泉から本拠地側である淡路・阿波・讃岐を支配下に置いたのは、天文22年(1553)の5月ごろである。その3か月後長慶は幕府の将軍を担がず、また幕府内の事実上の権力役職であった管領にもならず、まったく自立した権力者としての支配を目指していた。

 彼がそうした選択をとったのは、すでに室町幕府の組織・機能が有名無実のものであったことも一つの理由と思われる。
 
 しかし、長慶が畿内において裁判権や検断権を掌握した形の政権を得たものの、他国の実力者から見れば、まったく認知されたものではなく、極めて不安定なものであった。このころ、信濃川中島では、武田信玄と上杉謙信が第1回目の戦いを行い、弘治元年(1555)には、織田信長が織田信広を破って尾張清州城に移り、また西国では毛利元就が厳島において陶晴賢を破るなどきわめて混沌とした情勢であった。
【写真左】現地の説明板













 長慶が畿内を制圧したその5年後の永禄元年(1558)、13代将軍となった足利義輝は六角義賢(よしかた)の軍勢をもって京都に侵入した。

 これに対し、長慶側の三好長逸(ながゆき)・松永久秀らが迎え撃ったが、衆寡敵せず長慶側は義輝と和議を結び、同年11月27日、義輝の入京を許した。事実上の室町幕府復活である。
 この後長慶は、将軍の重臣相伴衆となり、幕府のもとで働くことになる。しかし、その後の長慶には不運が続き、兄弟を戦で失い、さらには嫡子義興にも先立たれ、失意のうちに河内飯盛山城にて永禄7年(1564)7月4日、42歳の生涯を終えた。
【写真左】区画溝・その1










【写真左】区画溝・その2









 現地の説明板より・その1

“館内の区画溝(やかたないのくかくみぞ)
 枯山水庭園と礎石建物跡の東側に、この建物跡と軸を同じくした溝が検出されました。この溝から東側は生活面が一段低くなっており、また出土する遺物も鍋・釜などの煮炊具や壺・甕などの貯蔵具が多くなるなど、様相が異なります。
 庭園のある空間がハレの空間であるのに対して、この溝から東側は恐らく日常生活の空間、つまりケの空間であったのであろうと考えています。”


【写真左】復元された建物












 現地の説明板より・その2


“礎石建物跡(そせきたてものあと)

 この建物は、最大で南北七間×東西四間半で、約120㎡の広さがあります。(一間=約197cm)
礎石には30~50cmの砂岩が使われています。
 建物の構造として、礎石の大きさから五間半×四間半の身屋(もや)と庭園に面したおよそ一間半×四間半の付属部に大別されます。付属部の端から検出された庭の景石までの距離は約3mで、庭園を眺めるには格好の位置です。そうした建てられた位置や周辺から出土する遺物の性格などから、この建物は勝瑞城館内でサロン的な役割を果たす「会所」の跡であることが推定されています。
身屋の礎石は焼けた壁土と大量の炭化物を含んだ層に覆われており、この建物は焼失したことがうかがわれます。
 廃絶年代は出土遺物から16世紀末頃であることが推定されます。”

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