2013年8月9日金曜日

伊賀道城(山口県柳井市日積)

伊賀道城(いかじじょう)

●所在地 山口県柳井市日積
●別名 琴石山城・事能要害
●高さ 545m
●築城期 不明(戦国時代)
●築城者 毛利氏か
●城主 高井土佐守・堅田氏、吉村備後守
●遺構 郭・堀切・柱穴等
●登城日 2013年5月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 前稿冷泉氏館(山口県岩国市周東町祖生)のある周東町からさらに437号線を南下し、柳井市に入り、JR山陽本線沿いに進むと、やがて右手に形の良い山が見えてくる。現在琴石グリーンパークという森林公園に整備されている琴石山である。

 琴石山は標高545mで、そこから北西にのびる尾根・琴石山縦走路を進み、三ヶ嶽峠を越え1.5キロほどさらに向かうと三ヶ岳(487m)がある。地元では多くの人に親しまれている登山コースでもある。
【写真左】伊賀道城遠望
 南西麓から見たもの。
 中央部の最高所が本丸で、その右には二の丸、左側のピークは三の丸。





現地の説明板より

“史跡 琴石山城跡
 琴石山は、標高545.5mの山で山頂には、弥山様や妙見様が祀られていて、ここからは四方の眺望が絶景です。
 また、昭和50年には「山口の自然100選」の第1位に選ばれています。
【写真左】配置図
 登城ルートとしては南西麓から伸びる林道と、東麓から向かう二つのコースがあるようだ。
 この日は南西麓である「林道白潟線」という道を使って北側の駐車場に停め、そこから向かった。


 琴石城跡は、約450年前の戦国時代、毛利氏が、防長制圧にあたって、豊後の大友氏の妨害侵攻に備えた山城です。

 城主は高井氏あるいは堅田氏といわれています。頂上部が本丸跡です。頂上から東へ下りた狭い尾根が二の丸と呼ばれ、ここの岩盤には、柵列や小屋組みをしたと考えられる直径25cm、深さ20cm前後の柱穴を数個確認することができます。
【写真左】登山道始点
 駐車場から少し下った所に登城始点がある。地元では大分親しまれている山(城)のせいか、道も整備され歩きやすい。
 ここから本丸まで700mとある。


 また、本丸へ上がる尾根のくびれた部分には、東の堀切跡が残っています。頂上から西へ急な尾根道を下ったくびれた部分にも、西の堀切跡が残っています。さらに西へ尾根筋を下ったところ
に南に張り出した平坦な尾根があり、西の丸とよばれています。
【写真左】眼下に柳井市を見る。
 変化にとんだ道を進むと途中から左手に安芸灘や周防大島、伊予灘が見えてくる。


 本丸・二の丸・西の丸とよばれている郭のほかに、数か所の郭が尾根筋に残っています。
 琴石山には、グリーンパークや学習の森として植林された樹木のほかに、昔の植林や自生のヤブツバキの林が広く分布しています。また、南面の八合目には、ヤマサクラの巨樹が2本あるほか、琴の石・弁慶岩・鉄砲台とよばれる巨大な奇岩がそそり立つ景観が見られます。
   平成15年12月     日積ふるさと勉強会”
【写真左】二の丸付近
 琴石山全体が岩塊の地質を持ち、高度が上がるにつれ険しい箇所が増える。

 このあたりも細尾根が多く、削平された平坦地は少ないが、変化にとんだ景観が楽しめる。
【写真左】二の丸付近から周防大島などを見る。
 視界がいいときには四国の松山方面も見えるという。






大内・毛利氏と大友氏の争い

 説明板にもあるように、戦国期に毛利氏が九州豊後の大友氏との抗戦に供え築城したとある。詳細は不明ながら、城主として、高井、堅田という二人の名が残っている。このうち、高井氏については、弘治・永禄年間に、高井彦次郎元任という武将が当城の城番として毛利方として功労があったと伝えられている。
【写真左】本丸・その1
 現地には琴石山に関する伝説が次のように掲示されている。







“(伝説)琴石山(海抜545.5m)

 この山の由来には、次のような説がある。
 山の頂上に琴石という岩があり、天女が舞い降りて、この岩の上で琴を奏でたので、琴石山と名づけたという。

 この山を南の伊保庄海岸から眺めると、琴柱に糸をかけた形に見えるので、琴石山というようになったという。

 室町時代の終わりごろから、この上に「事能要害(ことよしようがい)という砦があって、ある時兵糧攻めにあった。そこで谷間に板をかけたり、木の枝に着物をかけて、多くの兵がいるように見せかけたりして勝つことができたという。
 そこで、この山を事嘉山(ことよしやま)と名づけたのが、後になまって琴石山といわれるようになった。
 琴石山は古くから名山といわれ「岩国十景」や「柳井八景」にも数えられているし、柳井市民歌や、市内の小・中・高等学校の校歌にもうたわれている。”
【写真左】本丸・その2
 写真の奥(南側)が最高所で、露出した岩塊があり、その手前は東西約10m×南北4~5mほどの削平地が残る。

 また西端部には祠が祀られている。


 なお、高井氏・堅田氏とは別に、地元日積の豪族であった吉村備後守も毛利氏に従って活躍し、一時当城の城番の一人であったという。その末裔が当地にある好村家といわれている。

 また、伊賀道城から西方約3キロほどにある柳井川沿いには、杉氏の館跡が記録されていることから、大内氏時代に当地を同氏が治め、その配下に件の一族がいたものと考えられる。
【写真左】本丸より柳井市街を俯瞰・その1
 写真左の山(半島)を南下すると上関町に繋がる。


【写真左】本丸より柳井市街を俯瞰・その2
 フェリーが見えるが、おそらく松山(愛媛県)に向かう船だろう。
【写真左】周辺の主だった山々の方向
 このうち、最下段の「石城山」は、以前紹介した古代山城の石城山神籠石(山口県光市大字塩田)である。
【写真左】伊賀道城遠望
 大畠瀬戸の対岸、周防大島側から見たもの。
 この方向から見ると流麗な山容である。

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