2013年6月25日火曜日

沢城(岡山県真庭郡新庄村)

沢城(さわじょう)

●所在地 岡山県真庭郡新庄村 新庄村役場
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 吉田修理
●形態 平城
●高さ 標高480m(比高0m)
●登城日 2013年6月10日

◆解説
 前稿麓城で紹介した新庄村にある平城である。
【写真左】沢城跡・その1
 遺構は消滅し、跡地附近には幼稚園(保育園か)や、役場の付属設備などが建つ。







現地の説明板より

“沢城跡

 戦国時代の頃は、この辺り一帯は沼であり、ここに沢の城がつくられていた。
 戦国時代には、珍しい平城であり、三浦・高田(勝山)の出城であった。

 出雲の尼子の軍勢は四十曲峠を越えてここを襲撃したのである。時に天文17年(1548)のことであり、その時ここは落城したのである。
 最後の城主は吉田修理という。落城後のことは不詳である。”
【写真左】説明板










 所在地である新庄村は、美作国(岡山県)の北西端に位置し、伯耆国および備中国とも接する地域で、戦国史的にいえば、この辺り全体が境目の要衝といえる箇所でもある。

 近年の市町村合併の流れの中、小規模ながら自立自治体としてあえて合併をせず、村民人口わずか1,000余人ながら、独自の自立自治体として改めて歩み始めている。村の面積67K㎡に対し、林野面積が61K㎡であるから、ほとんど山の村である。

 前稿麓城(岡山県真庭市美甘)でも紹介したように、この村の南方を東西に走るのが旧出雲街道である。
【写真左】沢城跡・その2
 周辺部は田圃や建物が建っている。
 役場周辺は現在でも低地にあるため、当時は湿地帯のような箇所に沢城が築かれていたものと思われるが、形態を考えると館(やかた)跡の可能性が高い。そして、天然の水濠を四周に巡らしていたものと思われる。



沢城の落城期

 現地の説明板にもあるように、天文17年に出雲の尼子氏が四十曲峠を越えて襲撃、落城したとある。そして、最後の城主が吉田修理と記されている。

 ただ、前稿麓城でも述べたように、尼子氏がが初めて美作国に攻め入ったのが、永正17年(1520)で、しかも天文元年(1532)には、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1が尼子晴久によって攻められ、高田城主三浦貞国が戦死しているので、沢城が落城した最初の時期はこのころと思われる。
【写真左】歴史民俗資料館
 おそらくこの辺りも沢城があった場所と思われるが、江戸時代中期の建物を復元した入母屋造りの資料館が建っている。
 民具などが約500点収蔵展示されている。




 その後尼子氏の脅威に晒されながらも、三浦貞久の活躍によってしのいでいる(一説には、一時的に尼子氏の麾下にあったというのもある)。

 しかし、その貞久が天文17年(1548)に病死すると、その喪に乗じ尼子の将・宇山飛騨守久信が沢城のある新庄村及び美甘の麓城などを攻め落とし、さらに高田城を攻め、貞久の子・貞勝は岩屋城(岡山県津山市中北上)・その1に逃れた。

 そのあと尼子氏が支配し、永禄2年(1559)ごろ再び三浦貞勝が高田城を家臣らの働きによって奪還し、貞勝が高田城に入るので、現地にある最後の城主吉田修理とは、尼子氏の部将と思われる。
【写真左】五輪塔
 沢城跡から東に約100mほど向かった田圃の脇に墓地があるが、この中に五輪塔が数基建立されている。
 おそらく、沢城に関係した武将のものだろう。
【写真左】墓地側から沢城跡を遠望する
 沢城の西側及び、北側の小丘部には2か所の城砦があったとされている。おそらく当城の支城の役割を持ったものだろう。



愛宕山

 新庄村は「がいせん桜」で有名になったが、この新庄の宿場の街並みから少し南に逸れて、切り立った山に愛宕山という現在では公園化した場所がある。
【写真左】愛宕山遠望
 麓の家並みは新庄の旧宿場街












 由来などは解らないが、この山の展望台に立つと、出雲街道の東西往来を俯瞰することができる。もちろん、沢城のあった役場も眼下に見える。
【写真左】愛宕神社本殿
 現在山の中腹部に建立されているが、往時はもう少し上に登った所に祀られていたのかもしれない。
【写真左】愛宕神社から新庄の街並みを俯瞰する。
 がいせん桜は町の中を走る旧出雲街道沿いの両脇に植わっているが、最近これとは別に新庄川沿いにも新たな桜が植えられ、多くの観光客を招いている。
【写真左】新庄川と土手の桜並木













 このことから、この場所は物見台もしくは、砦的な機能をもった場所ではないかと想像される。それを裏付けるものかどうかわからないが、写真で示したように、麓に五輪塔が一基祀られていた。
【写真左】小さな五輪塔
 愛宕山の北側斜面は急傾斜のため、現在は東西に長く崩落防止のための側壁が設置されている。






後鳥羽上皇旧跡
 
 ところで、戦国期の話から大分遡る話になるが、承久の乱において隠岐へ配流となった後鳥羽上皇が、この地(新庄村)を通ったとする史跡がある。
【写真左】現地の案内板










 現地の説明板より

“後鳥羽上皇旧跡
 承久の乱によって後鳥羽上皇は隠岐の島へ配流となり、承久3年(1221)7月13日に、都を出発されここを通られました。

 美作と伯耆の境であるこの地で休息され、遥か向うの山に細い道を見られました。お側の者が、あれは都へ通った古い道で、今はだれも通りませんと申し上げると、都の熱い想いを、歌によまれたというところです。
 付近には上皇ゆかりの伝説をもつしだれ栗、硯岩があります。”
【写真左】御水池
 後鳥羽上皇が立ち寄って飲んだといわれる箇所。










 この位置は、現在の181号線から北に少し逸れ、四十曲峠の北側の谷間になる。当時はこのコースが出雲街道として使用されていたのかもしれない。
【写真左】周辺部
 少しさみしいような箇所だが、秋になると紅葉が楽しめる(2007年11月探訪)。

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