2013年4月21日日曜日

砥石城・その1(岡山県瀬戸内市邑久町豊原)

砥石城(といしじょう)その1

●所在地 岡山県瀬戸内市邑久町豊原
●築城期 大永年間(1521~28)
●築城者 宇喜多和泉守能家
●高さ 100m(比高95m)
●指定 瀬戸内市指定史跡
●城主 宇喜多能家・浮田大和守・島村氏・浮田春家
●遺構 5連郭式・曲輪等
●登城日 2013年2月23日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『宇喜多秀家 備前物語・津本陽著』等)
 砥石城は岡山県の三大河川の一つ吉井川河口東部に位置する山城で、直家をはじめとする宇喜多氏ゆかりの城館である。
【写真左】砥石城本丸
 砥石城付近には、東隣の尾根には出丸が配置され、更に東の谷を挟んで後述する高取山城が連座している。

 



現地の説明板より

“邑久町指定重要文化財
  砥石城跡
     昭和61年12月24日指定

 砥石城は、戦国時代の宇喜多氏ゆかりの山城です。
 城の経緯や築城期は定かでありませんが、江戸時代の記録『備前軍記』には、大永年間(1521~28)、浦上村宗の家臣宇喜多和泉守能家が築城したと書かれています。宇喜多久家の子能家は、邑久郡に住み、備前守護代浦上村宗に、のちに二男浦上宗景につかえました。

 天文3年(1534)6月、高取山城主島村豊後守の夜討ちによって城主能家は自害し落城しました。主君浦上宗景はこの城を島村氏には与えず、浮田大和守に与えました。
【写真左】登城口付近
 登城口は、本丸に直接向かう北口側と、東側の谷を少し上ったところから向かう箇所及び、その奥のキャンプ場側の3か所がある。
 今回はそのうち東側の最初の登城口から向かった。
 この箇所にはご覧のような「宇喜多直家生誕之地」と刻銘された石碑が建立されている。


 天文16年(1547)乙子城主となった能家の孫宇喜多直家は、主君宗景の軍勢と合して、備中三村氏に内通した砥石城主浮田大和守を攻め落とし、城主に舎弟の浮田春家を任じました。その後、直家は主君浦上氏を倒し戦国大名として岡山城主になります。春家は、直家の居城であった亀山城(沼城)の城主となり、部将に砥石城を守らせました。

 平成9年3月
    砥石城環境整備実行委員会”
【写真左】尾根の分岐点
 尾根斜面を九十九登りすると、ピークに達するが、ここで分岐する。

 右側(北)に向かうと、砥石城の本丸に向かい、左側に向かうと、笠松明現宮という社があるが、このルートの途中に出丸方面の入口があり、さらに奥に進んで西に旋回して向かうと高取山城方面まで繋がる。

 先ずは、右側の尾根を北に進み、本丸に向かう。


宇喜多能家(よしいえ)

 宇喜多氏については以前にも述べたように、南北朝期活躍した児島高徳と同じく、児島三宅氏の系譜に連なる。宇喜多氏の名が初見されるのは、文明元年(1469)5月16日付『備前西大寺文書』である。これによると、宇喜多五郎左衛門入道・沙弥宝昌なる人物が、金岡東庄の成光寺に名主職を寄進したとある。つまり、当地を治めていた土豪であったことが推測される。
【写真左】砥石城本丸が見えてくる。
 先ほどの分岐点から尾根筋を暫く北に進んで行くと、やがて本丸の南側の姿が見えてくる。
 なお、この尾根はほとんど直線に近く、アップダウンの少ない平坦道である。



 また沙弥宝昌から少し下った文明2年5月22日付の同文書には宇喜多修理進宗家が署名した下知状があり、この宗家の子が久家とされ、同じく明応4年(1495)7月25日付の『西大寺文書』に寄進状が残されている。

 宇喜多氏が守護代浦上氏に仕え始めた時期ははっきりしないが、おそらく久家の代からだろう。そして久家は、子の能家に幼い頃から文武を厳しく授け、能家は後に浦上氏家臣の中でも武名はつとに高まった。
【写真左】砥石城出丸を遠望する。
 本丸に向かう途中で、左側の南西部に出丸の頂部が確認できる。

 写真の右側の高くなったところで、本丸側頂部より少し高いようだ。
 出丸については次稿で紹介したい。



 成人した能家が最初に仕えたのは、三石城主浦上宗助(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その2及び三石城(岡山県備前市三石)参照)である。

 明応6年(1497)3月、宗助は土豪松田元勝が支配していた西備前の伊福郷の富山城を攻めた。しかし、この戦いで、宗助らの浦上勢は挟み撃ちにあい、龍の口山へ逃れたが、ここも追ってきた松田勢に包囲され、逃げ場を失った。このとき、当時三石城にあった能家は、宗助を救出するため松田勢に夜討ちをしかけ、包囲を破り龍の口山の宗助を救出し、三石城に帰還した。このときの働きが播磨・備前国に知れ渡り、名を挙げた。
【写真左】出曲輪
 本丸の南側にあるもので、この辺りには岩塊が多い。

 鞍部となったところで、大分緩やかな勾配となっている。
【写真左】本丸直下
 本丸が近くなると、次第に上り勾配となって、ご覧の階段が出てくる。








 その後、宗助が没すると、子であった村宗が跡を継ぐことになったが、以前にも述べたように、浦上氏のその後は一族内において内訌が起こり、分裂の危機を迎えることになる。能家は終始村宗に従い、一族の危機を救った。

 能家はそれ以来大永3年(1523)まで26年にわたって浦上氏の重鎮として活躍していく。特に、守護職であった赤松氏を備前・美作・西播磨から一掃した働きは大きい。
【写真左】砥石城本丸と出丸の縄張図
 上段が出丸で、下段が本丸を示す。
南北に延びる尾根を利用して構築されたもので、東西両側の斜面は天険の要害だが、南北にはさほどの要害性は認められない。



 さて、その能家が砥石城に入り隠居した理由は、この大永3年の春、守護職赤松氏が浦上の同族浦上村国と連合して三石城を攻めた時、当城に拠っていた能家の次男・四郎が討死したことからである。
【写真左】三石城
 所在地 岡山県備前市三石









 能家の長男すなわち後の直家の父となる興家は、生まれながらに憶病・軟弱であったことから能家は興家よりも、豪胆で武将として優れていた次男・四郎に跡を継がせる予定だった。しかし、その最も期待をかけていた四郎が、三石城で討死したことが能家にとっては余りにも大きな痛手となり、このため出家(入道)し砥石城に引きこもり、余生を過ごすことになった。
【写真左】本丸・その1
 長さ40m×最大幅14mで、現在はほぼフラットな面を保っている。








 砥石城において隠居してから約11年後、当城から西南に約1キロ余りへだったところにある高取城の城主・島村豊後守盛実は、同じ浦上氏に属していたが、先代から宇喜多氏への嫉妬があり、このころ家督を継いで間もない若い主君浦上宗景に謀議を持ちかけた。

 懐柔にも近い同意を取り付けた豊後守は、手兵を引連れ夜陰に乗じて砥石城に侵入した。当時手薄だった砥石城は抗する術もなく、能家は自刃した。天文3年(1534)6月晦日の夜の事である。
【写真左】本丸・その2
 この箇所は西側の中央部で、野図積み石垣が残る。








 この夜、当城に居合わせたのは、長男興家とその子・八郎(のちの直家)らであった。

 豊後守は謀殺する相手は能家ただ一人と決めていたこともあり、興家父子は辛うじて地元の漁師の漕ぐ船で脱出、縁者を頼って鞆の浦に向かった。
【写真左】本丸・その2
 西側には祠が祀られている。なお、この箇所には礎石跡らしきものが残るが、当時の宇喜多氏館跡なのか、近世のものかわからない。
【写真左】無数に残る瓦片
 本丸の西側に見えたもので、当時の館建物のものか、あるいは近世のものかわからないが、かなりの量にのぼる。
【写真左】北麓部からの登城道
 冒頭で紹介したもう一つの登城道から本丸に向かう箇所で、左側には本丸下にある3段の郭があるが、ご覧の通り整備されていない。
【写真左】本丸から西南方向に高取山城を遠望する。
 能家を討った島村豊後守の拠る高取山城だが、この位置からははっきりとは見えないようだ。
【写真左】本丸から西麓の千町川を見る。
 旧豊原荘の穀倉地帯千町平野で、戦国期はこの辺りも遠浅の海だったものと思われる。
 なお、この川を下っていくと、吉井川と合流する地点に、直家10代の頃居城とした乙子城がある。
 乙子城については近日投稿する予定である。
【写真左】本丸から谷を隔てて南東に大雄山を見る。
 大雄山には大賀島寺という天台宗の古刹がある。
 宇喜多能家の庇護を受け、同氏の菩提寺となった。
 この日は参拝していないが、機会があれあ訪れたい。

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