2013年2月8日金曜日

小田城(広島県東広島市河内町小田)

小田城(おだじょう)

●所在地 広島県東広島市河内町小田
●築城期 文永年間(1264~74)
●築城者 新庄(小田)三郎左衛門信平
●城主 小田氏
●高さ 380m(比高80m)
●規模 28m×40m
●遺構 郭・堀切・土塁・井戸・石垣
●登城日 2012年12月14日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 小田城の所在地は、現在市町村合併によって東広島市となっているが、旧賀茂郡河内町といわれた場所で、東隣の三原市と境を接する位置にある。
【写真左】小田城遠望
【写真左】小田ふるさと案内板
 南麓を走るR348号線沿いにある「寄りん菜屋」というドライブインに設置されている案内板で、小田城及び真光寺跡(景範の墓)が図示されている。




 小田城の東北東約4キロには、椋梨氏の居城・椋梨城(広島県三原市大和町椋梨)が位置し、さらに小田城の北方1キロには平賀氏の支城といわれる薬師寺城や、龍王山城という砦形式の城砦も記録されている。まさに境目の城ともいえる場所でもある。
【写真左】登城口
 狭い農道脇にある集会所付近が登城口で、集会所の空き地に駐車1台分のスペースがあり、そこから歩いて向かう。
 なお、この場所とは別に西側に直接西麓からアクセスできる林道があるが、案内板などないためわかりずらい。


 現地の説明板より

“小田城の由来

 今から730年余り前、沼田高山城(本郷町)の小早川家4代城主茂平の弟新庄左衛門季平(椋梨氏の祖)の次男三郎左衛門信平が、文永年間(1264~74)に築城と伝えられ、代々330数年を経て最後の小田城主と思われるのは、小田甚兵衛であると芸藩通誌に記されています。

 関ヶ原の合戦で西軍(豊臣方)に味方して敗れた毛利氏の移封に従って、慶長5年(1601)に椋梨氏一族は、長州(今の山口県)萩に移りましたが、小田甚兵衛はその後、下河内大和原に隠遁していたと考えられ、下河内に小田甚兵衛何某…の墓があることで実証されています。
【写真左】五輪塔・その1
【写真左】五輪塔・その2
 登城口から城域に向かうまでの道標がないため、道に迷ったが、そのとき東麓側の棚田の脇に、2基の五輪塔が祀られていた。

 いずれも高さ50cm程度の小規模なものであるが、下段に示す真光寺跡とは別に、このあたりにも小田氏を祀った墓地があったものと思われる。

 城址は、小田地区の中央に位置し、背後の竜王山(619.8m)の尾根を切り取って盛り土し、標高380m、東西28m、南北40mの城郭で、頂上に土塁の跡がある「本丸」、「二の丸」、西側に井戸跡がある「三の丸」を作ったと考えられます。南側の麓には通用門としての石門があります。

 2001(平成13)年2月
   小田郷土会”
【写真左】登城道
 以前は整備されていたと思われるが、西側の方にご覧の道がある。
 もっとも地肌が露出し、道としては大分傷んでいる。
 前方に小田城の看板が見える。


小田氏
 
 小田城の築城者である小田氏については、説明板にもあるように沼田の高山城安芸・高山城(広島県三原市高坂町)参照)の小早川家の庶流といわれている。

 沼田新庄を完全に支配したのは、築城者信平の父季平である。当時新庄地区は、椋梨・和木・大草・小田・上山で構成され、現在の東広島市と三原市に跨る。このうち椋梨氏については椋梨城(広島県三原市大和町椋梨)で紹介しているのでご覧いただきたい。

 季平の次男・信平が、父から譲り受けたのがこの小田の地である。時期は鎌倉末期と推測される。
【写真左】三の丸先端部
 直近部で土木用のコンクリートブロックや、鉄パイプなどを利用して造られた階段を上がると、二の丸南端部にたどり着く。




 その後、沼田小早川氏に従って実力を蓄え、延徳4年(1492)ごろには椋梨氏と肩を並べる有力家臣となる。

 当時の小田氏は元範で、西方の御薗宇城(広島県東広島市高屋町高屋堀)を本拠とする平賀弘頼との領地争いが起こり、惣領家沼田小早川氏(敬平)に田万里(竹原市)の領地の半分を譲与して援助を請い、本領地を安堵されて惣領家(沼田小早川氏)の家臣となった。
【写真左】展望台
 三の丸付近に設置されたもので、ここから眼下に小田の田園風景が俯瞰できる。









 元範のあとは、管領兵部大夫真光・侍郎景範と続き、景範は元亀3年(1572)に没している。ちなみに、最後の城主とされる小田甚兵衛は、景範の後裔とされている。

 景範の墓は真光寺境内に、甚兵衛の墓は河内町下河内の大和原谷にあるといわれるが、管理人は訪れていない。
【写真左】井戸跡
 三の丸の西端部で二の丸との境になる個所に残る。

 井戸跡の西側は直ぐに斜面になって、駐車場のような削平地ができている。この形状のままで井戸があったとは思われない。おそらく当時三の丸は二の丸の西側まで回り込んでいたものだろう。
【写真左】二の丸
 三の丸から約1m程度高くして北に延びる郭で、幅25m×奥行15m程度の規模。
【写真左】二の丸と本丸
 下段が二の丸、上段が本丸
【写真左】本丸
 小田城北端部で、幅23m×奥行8mの規模。

北側周囲には高さ1m弱の土塁が取り巻く。またさらに土塁の北側は、角度のある切崖を介して堀切が尾根を切断している。(下段の写真参照)
【写真左】堀切
 深さ約8m前後と規模が大きい。
写真右側が本丸側で、左が竜王山側の尾根。
【写真左】西側から見る。
 手前の削平地は上述したように近年施工されたものと思われる。
 左側が本丸で、右側が南になる。

 おそらく駐車場として造成したものだろう。
 遺構がこの箇所にもあったと考えられるが、いささか史跡保存としては荒っぽい処置と思える。
【写真左】三の丸から南方を見る。
 手前にも小丘が見えるが、おそらくこの場所も出城のような役目を負っていたものと思われる。

 麓の小田の田園は東西に長く伸び、南側の山の中腹部まで整然と土地改良が施されている。

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