2013年2月21日木曜日

安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その2

安芸・高山城(あき・たかやまじょう)・その2

●所在地 広島県三原市高坂城
●別名 妻高山城
●指定 国指定史跡
●登城日 2013年1月13日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 今稿は前稿に引き続き南尾根の郭群、並びに安芸小早川氏について紹介したいと思う。
【写真左】高山城遠望
 西側を流れる沼田川を挟んだ対岸から見たもの。

 高山城及び、新高山城の下を山陽新幹線が走る。


 撮影:2019年1月30日。
【写真上】鳥瞰図
 今稿はこの図でいえば、上段の尾根伝いの郭群になる。

 南北尾根の間にある馬場をはじめとし、右から西の丸・太鼓丸・高野丸・イワオ丸・西丸など。


竹原小早川家

 小早川氏についてはこれまでも概略紹介しているが、毛利元就の三男隆景が同氏の養子となっていった経緯を述べたいと思う。

 隆景が最初に養子として入ったのは、庶流の竹原小早川氏である。木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)でも述べたように、竹原小早川氏は、沼田小早川茂平の子・政景を始祖とし、正喜2年(1258)竹原地頭職として木村城を築城した。以後約300年間竹原小早川氏は当地を支配することになる。
【写真左】馬場跡東端部
 扇の丸と本丸の間の道を下り、竹林のトンネルのようなところを進むとご覧の場所に出る。
 前稿で紹介した北の丸と、南側の郭群(イワオ丸など)との分岐点で、正面の藪(谷間)が馬場跡となる。

 残念ながら馬場跡については、まったく整備されておらず、踏査はできない。
 ここから左に向かう。


 天文10年(1541)、13代当主興景は跡継ぎのないまま亡くなった。興景の妻は毛利興元の娘である。つまり興元の弟・元就の姪に当たる。

 継嗣が途絶えることは竹原小早川家にとって当然避けなければならない。重臣たちによる協議によって、白羽の矢が立ったのは、元就の三男で当時9歳の徳寿丸(後の隆景)だった。当初元就はこの縁談に消極的だったといわれる。おそらく元就としては、徳寿丸の元服を待ってからという気持ちもあったのだろう。
【写真左】石積み
 馬場跡と南郭群北麓部との境を西に向かう道の場所で、ところどころこうした石積みが見える。





 
 もっとも、当時この縁談は毛利家・小早川家の両家のみで決まる問題ではなかった。このころ元就は安芸国も支配していた大内家(義隆)に属していたため、最終的には大内氏の了解が必要だった。幸いなことにこの縁談は義隆も支持し、興景の三回忌が終わった天文13年(1544)、徳寿丸は竹原に入った。

 竹原小早川氏第14代となった徳寿丸は、さっそくその年、尼子方であった備後の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)の山名正興(ただおき)攻めに参陣、戦功を挙げた。
 そのあと、元服し名を「隆景」と改めた。隆景の隆は大内義隆の偏諱「隆」であり、景は興景の「景」である。
【写真左】西の丸と太鼓丸の分岐点
 馬場跡の南から西に向かってしばらく歩くと、次第に上り坂となってこの地点に出る。

 写真の先に西の丸が控えているが、あとで踏査しようと思い、そのまま太鼓丸の方へ向かった。しかし、途中ですっかり西の丸のことを忘れたまま下山してしまい、結局この郭は見ていない。
 

沼田小早川氏の継嗣問題

 ところで、このころ惣領家であった沼田小早川氏も同じく継嗣問題が生じていた。小早川正平の墓(島根県出雲市美談町) の稿でも紹介したように、天文12年(1543)5月、出雲の尼子氏居城月山富田城攻めにおいて、大内・毛利両軍は失態を重ね大敗した。このとき、敗走の殿軍(しんがり)を務めたのが、沼田小早川氏第14代正平である。
【写真左】太鼓丸へ向かう
 南尾根の郭群は前稿で紹介した北尾根郭群と違い、各段の高低差はこのあたりで平均して4,5m程度と結構な高さを持つ。



 沼田小早川氏は、当初大内方に属していたが、天文8年(1539)正平は密かに尼子方に寝返ろうとした。しかし、このことを察知した義隆はすぐさま高山城を包囲し、正平を監視下に置いた。

 こうしたいきさつから、天文11年から12年にかけての出雲月山富田城攻めの失敗によって、殿軍を命じられ、敗走の末、出雲国美談(出雲市)の地において尼子方の追手により21歳の若さで討死してしまった。

 正平が大内方から尼子方に寝返った背景には、やはり竹原小早川家との確執があったからなのだろう。
【写真左】太鼓丸
 鳥瞰図では太鼓丸の範囲が示してなかったが、おそらく複数段ある郭をまとめたものだろう。
 各郭の施工度も高く、切崖も明確に残る。



 正平討死のあと、沼田小早川家は正平の子で幼少の又鶴丸が家督を継ぎ、名を繁平と名乗った。しかし、彼は3歳のとき眼病を患い失明していた。

 盲目の当主では沼田小早川家をまとめることに不安を感じた家臣や、大内義隆は結局彼を高山城から下城させ隔離する措置をとった。こうなると、沼田小早川家も継嗣の目途が立たなくなる。
【写真左】太鼓丸側から西に新高山城を遠望する。
 南尾根側から最も接近しているのは、先ほどの西の丸になるが、標高が低いため、むしろ高くなった太鼓丸側からのほうが全貌を楽しめる。
 手前が新高山城で、その向背には沼田小早川氏庶流の梨羽氏の梨羽城や丸子山城が控える。


竹原・沼田小早川両家の合一

 そこで、竹原小早川家の養子となって家督を継いだばかりの隆景を繁平の妹(後の問田大方(といたのおおかた))と結婚させ、併せて沼田小早川家と竹原小早川家の両家を合一させることにした。

 この計画は当然ながら当初家臣の間で争論が起こった。特に繁平を擁する家臣たちは小早川惣家としての威信があり、敵対していた竹原小早川家との確執もあって拒んだ。しかし、こうした動きを一掃させ、合一を積極的に進めたのが、乃美隆興である。
【写真左】高野丸附近
 別名権現丸といわれる郭群で、全体に幅は狭いが、東西に長く伸びて複数の郭で構成されている。





 乃美隆興は、竹原小早川家第12代弘平の子で、娘は毛利元就の後妻となっていた。

 なお、以前賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)で紹介した乃美宗勝(浦宗勝)も、乃美隆興と同じく小早川庶流(乃美氏)の流れである。
【写真左】高野丸から北方に北尾根の北の丸を見る。
 後ほど紹介するイワオ丸と同じく南尾根郭群で最も高い位置にあたるが、ここから北に目を転ずると、馬場跡のある谷を隔てて、最初に踏査した北尾根の北の丸が見える。


【写真左】高野丸
 元々の尾根幅だったものか、それとも人為的に加工されたものか分からないが、幅の変化が激しい。


【写真左】土橋か
 高野丸と東方のイワオ丸を連絡するもので、ここではさらに道幅が狭く、南側は天険の切崖である。

 左側の窪みも何らかの用途として使用されたのだろう。
【写真左】土橋付近から南西麓を見下ろす。
 本郷の町並みと沼田川が眼下に見えるが、この付近の崖も険しい。
【写真左】イワオ丸・その1
 南尾根郭群の中で最も大きいもので、戦略上重要な場所であったものと思われる。
【写真左】イワオ丸・その2
 イワオ丸には岩塊が1か所あるが、その脇にはこのような水貯めが残る。
 高山城の中にはこのほかにも数か所の井戸跡があったものと思われるが、水場としての遺構は管理人の知る限りこの箇所のみだった。

 応仁の乱の際、6年もの間持ちこたえたという記録を見ると、こうした水や兵量の確保のために様々な施設を具備していったものと思われる。
【写真左】イワオ丸・その3
 手前の岩が先ほど述べた岩塊で、このイワオ丸という名称もおそらくこの岩塊から名づけられたものだろう。

 この郭は中央部の谷(馬場)に向かって三角状に約50m程度伸びている。
 このあと、写真右側に進むと下り坂になり、次の西丸(東丸)・出丸に繋がる。
【写真左】西丸(※ 東丸か)
 現地の鳥瞰図には「西丸」と記されているが、これとは別に前段で紹介した西方の「西の丸」という郭が西方にあり、東方にあるこの郭は西丸ではなく、位置から考えても「東丸」の間違いと思われる。

 幅10~15m×奥行60m前後
【写真左】東丸と出丸
 東丸をそのまま進んで行くと、次の郭が見えるが、その間には空堀が介在している(下段写真参照)
【写真左】空堀
 尾根を遮断しているので、堀切といった方がいいかもしれないが、当時はもっと深かったものと思われる。
 この堀はそのまま南斜面を下って竪堀の形式をとっている。
写真左】出丸
 南尾根郭群の東端部に当たるが、南東部を扼する位置であったことから施工精度も高いようだ。

 このあと、近道をして先ほど通過した馬場跡に向かう。
【写真左】馬場跡
 ご覧の通り単なる荒れ原野になっているが、北尾根と南尾根の間にある谷間にあり、かなり広いようだ。

 おそらく西側からの侵入も険しい天険の要害であったことから多くの馬がこの場所で安心して鋭気を養っていたのだろう。また重要な水もこの場所なら南北の尾根から湧き出す水があったものと思われる。
【写真左】高山城と新高山城を遠望する。
 下山し南麓の沼田川沿いの道路から見たもので、この日は靄がかかっていたが、視界のいい日にはさらに両城の雄大な姿が見えるだろう。



感想

 さすがに国指定史跡を受けるだけの堂々たるみごとな山城である。

 鎌倉期に築城され、以後戦国期の天文年間まで300年以上小早川氏の本拠城であったわけだが、北尾根郭群と南尾根郭群がそれぞれ独自の遺構形態を残している。

 戦国末期にいたると、西隣の新高山城に移ることになるが、管理人の趣味から言えば、新高山城も見ごたえがあるが、高山城の方により魅力を感じる。

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